Print this Post Article Lists Back

「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張

 日本の大阪市内の百済駅。貨物を専門に扱うこの駅の漢字名は百済駅だ。辺りには百済高校まである。日本列島に現在まで残る百済の痕跡だ。日本王室の宝を収蔵している奈良市にある東大寺の正倉院。朝鮮半島から渡来した先進文物が相当数保存されているこの場所は、まず建物の姿形からして高句麗民家に良く見られる桴京(プギョン)とまったく同じだ。

 日本列島のあちこちに残っている朝鮮半島の文明の跡を見付ける度に歴史学者らは興奮する。朝鮮半島からの移住民たちが日本に渡り先進文明を伝えたことのみならず、日本王室の根を形成したという主張は、実は韓国内ではこれまで少なからず出されてきた。歴史学者らが韓-日古代関係史を疎かにしている間、これらの主張は古代史の世界を興味津々に伝逹し、相当の大衆的な認識を構築してきた。

 明仁日王は8世紀後半桓武日王(在位781~806年)の母が百済系という程度のみを認めたが、これらの主眼は400年以上さかのぼる。 15代応神日王が百済系という主張がそれだ。

 82年に『沸流百済説』を提起した金聖昊(キム・ソンホ)韓国農村経済研究院顧問は、広開土大王碑から出てきたように396年、沸流百済最後の応神が日本に渡り15代日王となったという。金顧問は沸流百済は本来中国にいた呉族が朝鮮半島に渡り発展した倭族が作った国であり、したがって応神日王は朝鮮半島南部に居住した倭族だったと主張する。

 『日本古代史研究批判』、『日本古代史の真実』などを発行した崔在錫(チェ・ジェソク)高麗大名誉教授(社会学)は『日本書紀』に根拠、 7世紀中盤の舒明日王が百済系だと注目している。崔教授は「639年舒明日王11年に百済川周辺に宮廷を作り、百済大賓という名前だったという記録が出てきた」とし、「舒明日王は641年百済宮で死去し、賓所を百済大賓とした点から見て百済系なのが明らかだ」と言う。教授はここでもう一歩踏み込む。日本の母体となった大和倭が400年頃百済系移住民によって作られたため日本の王室は百済系だという主張だ。

 『今昔碑文を通じて見た百済武寧王の世界』を発行した蘇鎭轍(ソ・ジンチョル)円光(ウォングヮン)大政治外交学科教授は漆器を根拠に「日本の倭国は4世紀後半から百済の侯国であり、日王はこれら侯国の君主のうちの一人だった」と主張する。これだけではなく「7世紀飛鳥地方にいる80~90%が渡来人だったという文献もある」と話した。一昨年「日本の天皇は韓国人だ」という本を発行した洪潤基(ホン・ユンギ)韓国外大教授は「日本の古代王室系図の『新撰姓氏録』を含めた主要文献と百済と新羅の神を祀った日本王室の祭祀慣習として行う点から見て、日本王室は韓国人に間違いない」と主張する。

 しかし最近『作られた古代』を出版した李成市(イ・ソンシ)早稲田大教授は「(韓国の研究者たちが)近代韓国の民族意識を古代に投影している」と指摘する。「解放後、韓国人による韓日関係史研究は日本民族に対する韓民族の優越性を古代史の中から追い求めることが疑問の余地もなく試図されてきた」という彼の批判は“日本コンプレックス”に対するもう一つの直撃弾であるかも知れない。

金基哲(キム・ギチョル)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

このページのトップに戻る