『幻の三中井百貨店』が韓国人に問いかけるものとは
地上6階、地下1階、延建坪2504坪、白亜の威風堂々たるルネサンス様式の建物。1・2階の売り場には化粧品と婦人服、4階は紳士服、5階は家具と電化製品、6階は貴金属とレストラン。最新の商品で満たされた華麗なショーウインドーの前には常に客が押し寄せ、大規模な企画セールの際は、足の踏み場もないほどだった。また、商品券や限定販売、景品に休日営業、夜間延長営業などの様々なマーケティング戦略が次々に打ち出された。
これは一時期、ソウルのある百貨店で見られた光景だ。その百貨店とは、1933年から45年まで現在の明洞ミリオレの位置に存在していた三中井百貨店だ。
当時三中井は、現在の新世界本店に位置していた三越、旧美都波の位置にあった丁子屋、大然閣センタービルの位置にあった平田、鍾路タワーの位置にあった和信とともに「京城(ソウル)五大百貨店」の一角を占めていた。このうち、朝鮮全域をカバーし、抜きん出て最大規模の流通網を掌握していたのが三中井だった。朝鮮に12の店舗を置き、旧満州や中国にも6店舗を構えていた三中井は、全盛期には従業員4000人、年間売上高1億円(現在の価値で5000億円)の規模を誇るまさに「百貨店王国」だった。
しかし、1945年の終戦とともに、三中井は痕跡すら残さず消滅してしまった。
日本のマーケティング専門家である著者は、現存する資料や証言などを通じ、その「消えた企業」の歴史復元作業に取り組んだ。中江勝治郎(1872-1944年)をはじめとする創業者4兄弟は、1905年に大邱に小さな呉服店を開いた後、破竹の勢いで企業を拡張していった。その背景には、日本の滋賀県で活動していた近江商人の特徴である広域化と現実性、倫理性、同族意識、強固な上昇志向と国家志向性があったと著者は説明する。しかし、後継者養成の失敗や拡大一辺倒の戦略が、急速な没落につながる要因となった。
ところで、韓国の読者がこの本を一読すると、非常に不愉快な気分にさせられるはずだ。まず著者は、三中井が朝鮮の市場と商業構造に及ぼした悪影響について、まったく関心がない。さらに、御用商人として帝国主義戦争の軍需物資供給を担当したことを「成功したマーケティング」と評価し、「日本の先進文物を朝鮮に伝える懸け橋としての役割」を果たしたのはもちろん、こうした日本式百貨店経営のノウハウが、現在の新世界・ロッテ・現代をはじめとする韓国有数の百貨店にまで受け継がれたと述べている。
しかし、「日本の統治に抵抗した朝鮮人らのうち、多くの人々が日常生活では日本のライフスタイルに適応し、自ら収奪の手先と非難していた三中井や三越でショッピングを楽しんでいた」という下りは、そのまま見過ごすことのできない問題を抱えている。そうした「日常」の微妙さについて、これまできちんと検証することのできなかった韓国近現代歴史学のすき間にこの本は位置しているのだ。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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