深める ローカル経済・学術・文化の底流を探る
ミナミが変わる(1)「五座文化」再生探る2008/11/10配信
心斎橋筋にある商店街の主催で11月1日、長堀通と心斎橋筋の交差点で、石橋の心斎橋が架けられて100年の記念式典が行われた。あいさつに立った平松邦夫・大阪市長は、「大阪人にとって、心斎橋はおしゃれをしてという町だった。その後、道頓堀に芝居でも見に行こうという時代もあった」と語った。 道頓堀はかつて「道頓堀五座」と称された5つの劇場があり、「芝居の町」とうたわれた。だが、2002年の「浪花座」閉館で、「五座」は事実上、姿を消した。道頓堀の大劇場は現在、歌舞伎公演などが行われる大阪松竹座(1997年開場)があるのみだ。 ミナミ全域で見ても、劇場は失われつつある。今年開場50年を迎えた大阪・難波の新歌舞伎座は来年6月末をもって、現在の場所での公演をやめ、上本町へ移転する。同じく難波の精華小劇場も、土地と建物の所有者の大阪市が16年までに売却も含めた「処分」の方針を打ち出したことで、存続が危ぶまれている。 ●収益性の難問 新歌舞伎座は主に、人気歌手や俳優を主演に据えた一座による芝居とショーの公演を行ってきた。客席数は約1600で、年間70万―75万人の入場者を集めている。移転の理由は、建物の老朽化。跡地の利用策は、まだ決まっていない。 一方、精華小劇場は04年、小学校の体育館だった建物を活用して開設された。客席数は約150。小劇場系の劇団を招いて、約2カ月間の演劇祭を年に3回開催しており、今年の夏の演劇祭は約4000人の入場者があった。 同劇場はそもそも、劇場が民業ベースでは成り立ちにくくなった状況を踏まえ、演劇界と地元、行政が連携して、大阪の劇団の育成などを目指してのことだった。当初から、「暫定的」な活用をうたっていたものの、「処分」方針の背景には大阪市の厳しい財政事情があるのは間違いない。 どちらも、一等地にある。地価に見合った収益を追求しようとすれば、劇場は厳しい。関係者の手元に残る昭和4年のミナミの古地図と現在の地図を見比べると、劇場や演芸場に代わって遊技場が増えているが、経済原理が働いてということなのだろう。 千日前で「トリイホール」を運営する鳥居学社長は、「私みたいなところでも続けていかないと、本当に無くなってしまう」と危機感をあらわにする。 同ホールは飲食店ビル「上方ビル」の4階にあり、客席数約100席。1カ月に20日ほど、落語や浪曲など上方の芸能の会を催している。鳥居社長はここで、両親から引き継いだ旅館を経営していたが、バブル経済の終わりごろに旅館業に見切りをつけ、1991年から上方ビル経営に乗り出した。 同ホールを設けた理由を、鳥居社長は「落語家の桂米朝さんに、若手育成の場がないから一肌脱いでくれへんか、と頼まれて」と振り返る。 旅館は歌舞伎俳優や落語家が常連客で、芸能人とのつながりが深かった。飲食店ビル経営に転身するに当たり、米朝、古今亭志ん朝、吉村雄輝の3氏に相談に乗ってもらったという経緯もあった。 ホールの運営は、「ずっと持ち出し続き。しかも、まだ開設当初の方が良かった」(鳥居社長)という。テナント料が現在よりも高かったからだ。経済状況に従ってテナント料を下げた結果、「ホール部分を、興行的に成り立つように考えていかねばならなくなった」と鳥居社長は話す。
その上方ビルの前には、“芸能の神様”として「南乃福寿弁才天」がまつられている。建立は06年。米朝さんが道頓堀かいわいの現状を「ホンマ情けないで。こんな姿になったんは、芸に感謝する気持ちを表すものがまつられてないからや」と嘆いたのをきっかけに、商店街関係者や芸能人らが建立に動いたという。 それから2年。地元では、「五座文化」の再生を目指す取り組みも始まっている。早稲田大学と連携して、上方芸能に関するフォーラムを開催するなどだ。ささやかな試みではあるが、「手をこまねいていては、芸能関連は無くなる」という危機感が、関係者を突き動かしているのだろう。 (編集委員 小橋弘之) ●江戸期、石材屋も集積 「ミナミ」は、狭義には北が長堀川(埋め立てられて現在の長堀通)、南は道頓堀川、東は東横堀川、西は西横堀川(現在は埋め立てられている)に囲まれた地域、昔の「島之内」を指す。広義には、難波周辺や道頓堀、心斎橋周辺一帯の総称。 江戸時代の「島之内」は、「粋どころ」としての側面が広く伝わっている。だが、川を利用した水運が盛んだっただけに、意外な施設も集積していた。 その1つが石材屋。長堀川の川岸(現在の長堀通と御堂筋の交差点辺り)は「石屋の浜」と呼ばれたそうで、各地から運ばれてきた石材が積まれていた。こうした光景は、安政年間(1854―60年)の木版画「浪花百景」の「長堀石浜」などで、いまに伝えられている。
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