2008年 11月 19日
政治テロの系譜-恐慌の時代 |
厚生労働省の元次官が二人が襲われた。基礎年金制度を導入した際の局長及び担当課長である。本年のノーベル経済学賞受賞者アメリカのプリンストン大学のポール・クルーグマン教授が「深刻な世界不況が始まっている。」と語っているとおり、1929年(昭和4年)からの世界恐慌を思わせるような先行き見えない不況の時代には日本の国運を変えるような不吉なテロが起こっている。(まず、応援クリックしていただければ感謝します。)

1 五・一五事件
海軍中尉三上卓の証言→その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て。』と叫んだ。黒岩が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかめに小さな穴があき血が流れるのを目撃した。
この事件の背景には、軍部の独走と新聞の無責任儲け主義が相俟って、それ行けやれ行けと世論を煽りたて、満州事変の後、満州を攻略していた頃だった。上に古い当時の新聞を掲げたのは、戦争が起こると一番儲けたのが新聞だったからだ。新聞社の社員が「毎日新聞後援、関東軍主催、満州戦争」と自嘲していたと言う。朝日も毎日も取材の飛行機を何十機も飛ばし、号外を売りまくり、映画を作って戦争が拡大する都度、莫大な儲けを手にしたのだ。この頃、朝日、毎日の幹部は毎晩のように軍部の機密費により、星ヶ岡茶寮や日比谷の鰻屋などの料亭で軍部から接待を受け、徹底的に「さあ戦争!さあ戦争!」と北満や山海関方面へ軍を進める侵略戦争を煽りたてる記事を書いて国民を駆り立てたのである。
関東軍が昭和六年末に錦州を攻撃し、昭和天皇が鈴木勘太郎侍従長に「自分の代に大戦争が起こるのだろうか」と嘆いたというのにそれに目もくれず、チチハルを占領し満州の主要都市を次々と占領していった頃である。錦州の占領と山海関の占領に至って、当初日本に理解を示していたアメリカのスチムソン大統領は、「これは侵略だ」と厳重抗議してきた。世界の世論に孤立することになったので、満州事変の首謀者である板垣征四郎と石原莞爾は上海にいた仲間の田中隆吉に次のように頼んだのである。「世界の目をそらすために、上海で事件を起こしてくれ」軍機密費の2万円を貰った田中は愛人の東洋のマタハリ川島芳子を使って、アメリカやイギリスの租界のある上海で事件を起こした(上海事変)。田中隆吉中佐は戦後いかに日本陸軍が謀略に満ちていたかの本を出版して、唯一元軍人の中で総すかんを食らった人間だ。国際社会の四面楚歌を恐れた天皇が上海派遣軍の白川大将に「決して中国軍を深追いしてはならない。計三個師団という大軍を動かすのは戦争のためではなく治安のためだ。とくに陸軍の一部には、これを好機に南京まで攻めようとする気運があると聞く」と申し伝えたため、陸軍中央の主戦派に抗して休戦協定を結んだ。これに不満でしょうがないなぜ南京まで攻めないのかと不満な、今で言えばネットウヨのような輩が次々と要人を襲ったのが、五・一五事件である。
2 二・二六事件
「今後、陸軍の中央の方針に従わなければ、われわれは諸君らを断固として取り締まる。いいか、政治活動をやるなら軍服を脱いでやれ。」と言いながら陸軍統制派は、昭和9年に統制経済、国家改造をもくろむ陸軍パンフレットを作った。
そのパンフレットの冒頭は「たたかひは創造の父、文化の母である。」というものである。
軍部によるテロ思想の温床はここにある。組織的に国家改造をもくろむ統制派と「不況による農家の疲弊は毎日農村出身の兵隊と接している隊付きの青年将校にしかわからない。陸軍大学出のエリートにどうして地方の窮状がわかるのか。ヒトラーだって陸軍伍長から政治活動をやって国家改造したではないか」と主張する皇道派との争いである。
昭和10年になって、統制派に反発する皇道派の青年将校の間に不穏な動きが広がっていった。皇道派の真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監が更迭されたことに怒った皇道派の相沢三郎中佐が、統制派のポープの永田鉄山(てつざん)軍務局長を刺殺するという事件が発生した。青年将校たちは相沢裁判をテコに「昭和維新」決行を心に誓い、荒木貞夫大将や真崎ら皇道派将官は、青年将校の運動を陰にバックアップし、自派の影響力拡大をもくろんだのであった。青年将校が横断的に結合して国家革新をはかろうとする皇道派と、総力戦体制の国家をめざす幕僚を中心とした統制派の陸軍内部の主導権をめぐる確執であった。
1936年(昭和11年)2月26日午前5時過ぎ、栗原安秀中尉、林八郎少尉、池田俊彦少尉、対島勝雄中尉率いる300人は、雪が降りしきる中、首相官邸を襲撃。警察官4人を射殺し、岡田啓介首相と間違えて秘書官の松尾伝蔵大佐を射殺してしまった。岡田首相は女中部屋の押し入れにもぐり込んで難をまぬがれた。坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉率いる150人は、四谷仲町の斎藤実(まこと)内大臣私邸を急襲。機関銃から弾丸40発を発射して殺した。このあと、高橋、安田両少尉は、30人を連れて、上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へ行き、ピストルで応戦した同総監を射殺した。中橋基明中尉、中島莞爾少尉率いる100人は赤坂の高橋是清(これきよ)大蔵大臣私邸を襲い、「天誅!」と叫んで同蔵相を射殺した。安藤輝三大尉率いる150人は、麹町三番町の鈴木貫太郎侍従長官邸に乱入。侍従長をピストルで撃ち、軍刀でとどめを刺そうとしたが、夫人に懇願されて思いとどまり、侍従長は一命をとりとめた。また、他の兵400人は警視庁を占拠し、朝日新聞も襲撃した。

同日午前8時半ごろ、占拠した陸相官邸に真崎が勲1等の勲章を佩(は)き、意気揚々とやって来た。磯部浅一元1等主計が「閣下、統帥権干犯(かんぱん)の賊類を討つために蹶起しました」と語ると、真崎は得意げに「とうとうやったか、お前たちの心はよお、わかっとる、よおー、わかっとる」と言った。
実際、皇道派軍人は蹶起部隊を擁護し、「穏便な解決」に奔走した。「諸子が蹶起の趣旨は天聴に達したり」とする説明文を作成、占拠を解けば不問に付すという妥協案が作られ、また、「勅語」を与えて帰順させるなども検討された。
しかし、事態は真崎や荒木の思惑通りには運ばなかった。何よりも天皇自身が激怒し、「暴徒、叛乱軍」と明確に規定したからである。天皇は事件を報告する川島義之陸相に対し、「叛乱軍を速やかに鎮圧するのが先決」と叱責のコをあびせた。こうした中で、流れは「叛乱軍鎮圧」に傾いていくのであった。最初は蹶起部隊に同情的だった杉山元(はじめ)参謀次長も、第1師団の甲府および佐倉部隊の首都投入を指示した。自軍出身の岡田首相、鈴木侍従長、斎藤内大臣を襲撃された海軍の行動も早かった。横須賀の第1水雷戦隊を芝浦に上陸させ、土佐沖の連合艦隊のうち第1艦隊を東京に、第2艦隊を大阪に向けた。
2月27日になると、さらに、蹶起部隊の旗色は悪くなった。天皇は「朕(ちん)が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と述べ、事態の収拾に手間取る陸軍首脳に対ししびれを切らし、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言い切ったのである。午後4時、第1艦隊は東京湾で艦を横1列に並べ、すべての砲門を市街に向けた。2月28日午前5時8分、ついに「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で青年将校たちの「昭和維新」の夢は完全に破れたのだった。2月29日朝から、「兵に告ぐ」の放送を始め、飛行機、戦車、アドバルーンを繰り出して「今からでも遅くない」という帰順勧告が開始された。投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉のピストル自決(未遂)を最後に、全員投降した。この事件後、参加部隊は満州に送られ、多くの戦死者を出した。
3月4日から緊急勅令による特設軍法会議が開かれ、すぐに結審した。7月5日、安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら17人に死刑判決が言い渡された。7月12日、村中、磯部を除く15人の死刑が執行された。翌1937年(昭和12年)8月15日、黒幕とされる思想的指導者の北一輝(本名・輝次郎/1883年4月3日生まれ。事件のとき「数え」年齢で54歳)、西田税(みつぎ)に死刑判決が言い渡された。8月19日、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の4人の死刑が執行された。9月25日、真崎大将に無罪の判決が下り、事件の全てが終わった。彼らの運動に理解を示し、利用もした皇道派の将官たちは不問とされた。特に、事件の黒幕の真崎の無罪は “昭和史の謎” とされる。
事件後、行方の知れなかった「二・ニ六事件裁判記録」を発掘・閲覧した弁護士の原秀男(元陸軍法務官)は、公判記録を次のように読み解いた。真崎は天皇の怒りを知って震え上がりさっさと手の平を返して保身をはかったのではないか。また、統制派は、この粛軍裁判を利用して皇道派を完全におさえ、軍の主導権を握っていったのではないかと。
そして東条英機に代表される統制派の手によって、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになるのである。
約2か月後の4月18日には国号を「大日本帝国」と統一する。翌1937年(昭和12年)7月7日には蘆溝橋事件が勃発し、日中戦争が開始された。
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1 五・一五事件
海軍中尉三上卓の証言→その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て。』と叫んだ。黒岩が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかめに小さな穴があき血が流れるのを目撃した。
この事件の背景には、軍部の独走と新聞の無責任儲け主義が相俟って、それ行けやれ行けと世論を煽りたて、満州事変の後、満州を攻略していた頃だった。上に古い当時の新聞を掲げたのは、戦争が起こると一番儲けたのが新聞だったからだ。新聞社の社員が「毎日新聞後援、関東軍主催、満州戦争」と自嘲していたと言う。朝日も毎日も取材の飛行機を何十機も飛ばし、号外を売りまくり、映画を作って戦争が拡大する都度、莫大な儲けを手にしたのだ。この頃、朝日、毎日の幹部は毎晩のように軍部の機密費により、星ヶ岡茶寮や日比谷の鰻屋などの料亭で軍部から接待を受け、徹底的に「さあ戦争!さあ戦争!」と北満や山海関方面へ軍を進める侵略戦争を煽りたてる記事を書いて国民を駆り立てたのである。
関東軍が昭和六年末に錦州を攻撃し、昭和天皇が鈴木勘太郎侍従長に「自分の代に大戦争が起こるのだろうか」と嘆いたというのにそれに目もくれず、チチハルを占領し満州の主要都市を次々と占領していった頃である。錦州の占領と山海関の占領に至って、当初日本に理解を示していたアメリカのスチムソン大統領は、「これは侵略だ」と厳重抗議してきた。世界の世論に孤立することになったので、満州事変の首謀者である板垣征四郎と石原莞爾は上海にいた仲間の田中隆吉に次のように頼んだのである。「世界の目をそらすために、上海で事件を起こしてくれ」軍機密費の2万円を貰った田中は愛人の東洋のマタハリ川島芳子を使って、アメリカやイギリスの租界のある上海で事件を起こした(上海事変)。田中隆吉中佐は戦後いかに日本陸軍が謀略に満ちていたかの本を出版して、唯一元軍人の中で総すかんを食らった人間だ。国際社会の四面楚歌を恐れた天皇が上海派遣軍の白川大将に「決して中国軍を深追いしてはならない。計三個師団という大軍を動かすのは戦争のためではなく治安のためだ。とくに陸軍の一部には、これを好機に南京まで攻めようとする気運があると聞く」と申し伝えたため、陸軍中央の主戦派に抗して休戦協定を結んだ。これに不満でしょうがないなぜ南京まで攻めないのかと不満な、今で言えばネットウヨのような輩が次々と要人を襲ったのが、五・一五事件である。
2 二・二六事件
「今後、陸軍の中央の方針に従わなければ、われわれは諸君らを断固として取り締まる。いいか、政治活動をやるなら軍服を脱いでやれ。」と言いながら陸軍統制派は、昭和9年に統制経済、国家改造をもくろむ陸軍パンフレットを作った。
そのパンフレットの冒頭は「たたかひは創造の父、文化の母である。」というものである。
軍部によるテロ思想の温床はここにある。組織的に国家改造をもくろむ統制派と「不況による農家の疲弊は毎日農村出身の兵隊と接している隊付きの青年将校にしかわからない。陸軍大学出のエリートにどうして地方の窮状がわかるのか。ヒトラーだって陸軍伍長から政治活動をやって国家改造したではないか」と主張する皇道派との争いである。
昭和10年になって、統制派に反発する皇道派の青年将校の間に不穏な動きが広がっていった。皇道派の真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監が更迭されたことに怒った皇道派の相沢三郎中佐が、統制派のポープの永田鉄山(てつざん)軍務局長を刺殺するという事件が発生した。青年将校たちは相沢裁判をテコに「昭和維新」決行を心に誓い、荒木貞夫大将や真崎ら皇道派将官は、青年将校の運動を陰にバックアップし、自派の影響力拡大をもくろんだのであった。青年将校が横断的に結合して国家革新をはかろうとする皇道派と、総力戦体制の国家をめざす幕僚を中心とした統制派の陸軍内部の主導権をめぐる確執であった。
1936年(昭和11年)2月26日午前5時過ぎ、栗原安秀中尉、林八郎少尉、池田俊彦少尉、対島勝雄中尉率いる300人は、雪が降りしきる中、首相官邸を襲撃。警察官4人を射殺し、岡田啓介首相と間違えて秘書官の松尾伝蔵大佐を射殺してしまった。岡田首相は女中部屋の押し入れにもぐり込んで難をまぬがれた。坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉率いる150人は、四谷仲町の斎藤実(まこと)内大臣私邸を急襲。機関銃から弾丸40発を発射して殺した。このあと、高橋、安田両少尉は、30人を連れて、上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へ行き、ピストルで応戦した同総監を射殺した。中橋基明中尉、中島莞爾少尉率いる100人は赤坂の高橋是清(これきよ)大蔵大臣私邸を襲い、「天誅!」と叫んで同蔵相を射殺した。安藤輝三大尉率いる150人は、麹町三番町の鈴木貫太郎侍従長官邸に乱入。侍従長をピストルで撃ち、軍刀でとどめを刺そうとしたが、夫人に懇願されて思いとどまり、侍従長は一命をとりとめた。また、他の兵400人は警視庁を占拠し、朝日新聞も襲撃した。
同日午前8時半ごろ、占拠した陸相官邸に真崎が勲1等の勲章を佩(は)き、意気揚々とやって来た。磯部浅一元1等主計が「閣下、統帥権干犯(かんぱん)の賊類を討つために蹶起しました」と語ると、真崎は得意げに「とうとうやったか、お前たちの心はよお、わかっとる、よおー、わかっとる」と言った。
実際、皇道派軍人は蹶起部隊を擁護し、「穏便な解決」に奔走した。「諸子が蹶起の趣旨は天聴に達したり」とする説明文を作成、占拠を解けば不問に付すという妥協案が作られ、また、「勅語」を与えて帰順させるなども検討された。
しかし、事態は真崎や荒木の思惑通りには運ばなかった。何よりも天皇自身が激怒し、「暴徒、叛乱軍」と明確に規定したからである。天皇は事件を報告する川島義之陸相に対し、「叛乱軍を速やかに鎮圧するのが先決」と叱責のコをあびせた。こうした中で、流れは「叛乱軍鎮圧」に傾いていくのであった。最初は蹶起部隊に同情的だった杉山元(はじめ)参謀次長も、第1師団の甲府および佐倉部隊の首都投入を指示した。自軍出身の岡田首相、鈴木侍従長、斎藤内大臣を襲撃された海軍の行動も早かった。横須賀の第1水雷戦隊を芝浦に上陸させ、土佐沖の連合艦隊のうち第1艦隊を東京に、第2艦隊を大阪に向けた。
2月27日になると、さらに、蹶起部隊の旗色は悪くなった。天皇は「朕(ちん)が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と述べ、事態の収拾に手間取る陸軍首脳に対ししびれを切らし、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言い切ったのである。午後4時、第1艦隊は東京湾で艦を横1列に並べ、すべての砲門を市街に向けた。2月28日午前5時8分、ついに「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で青年将校たちの「昭和維新」の夢は完全に破れたのだった。2月29日朝から、「兵に告ぐ」の放送を始め、飛行機、戦車、アドバルーンを繰り出して「今からでも遅くない」という帰順勧告が開始された。投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉のピストル自決(未遂)を最後に、全員投降した。この事件後、参加部隊は満州に送られ、多くの戦死者を出した。
3月4日から緊急勅令による特設軍法会議が開かれ、すぐに結審した。7月5日、安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら17人に死刑判決が言い渡された。7月12日、村中、磯部を除く15人の死刑が執行された。翌1937年(昭和12年)8月15日、黒幕とされる思想的指導者の北一輝(本名・輝次郎/1883年4月3日生まれ。事件のとき「数え」年齢で54歳)、西田税(みつぎ)に死刑判決が言い渡された。8月19日、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の4人の死刑が執行された。9月25日、真崎大将に無罪の判決が下り、事件の全てが終わった。彼らの運動に理解を示し、利用もした皇道派の将官たちは不問とされた。特に、事件の黒幕の真崎の無罪は “昭和史の謎” とされる。
事件後、行方の知れなかった「二・ニ六事件裁判記録」を発掘・閲覧した弁護士の原秀男(元陸軍法務官)は、公判記録を次のように読み解いた。真崎は天皇の怒りを知って震え上がりさっさと手の平を返して保身をはかったのではないか。また、統制派は、この粛軍裁判を利用して皇道派を完全におさえ、軍の主導権を握っていったのではないかと。
そして東条英機に代表される統制派の手によって、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになるのである。
約2か月後の4月18日には国号を「大日本帝国」と統一する。翌1937年(昭和12年)7月7日には蘆溝橋事件が勃発し、日中戦争が開始された。
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