裁判員制度の施行(二〇〇九年五月二十一日)まで半年。「刑事裁判に一般国民の感覚を」という理念に異論はない。しかし―。
刑事裁判で冤罪(えんざい)や誤判は絶対にあってはならない。慎重の上にも慎重な審理が求められる。なのに制度の仕組みを見ると、それがおろそかにされているのではないかと危惧(きぐ)される。裁判員の負担感を軽減しようとの配慮ばかりが優先されている。
例えば公判前整理手続き。非公開のため何が行われているのか一般には分からない。初公判前に争点や証拠を絞り込むから、公判の審理は迅速化される。しかし捜査の可視化が進む一方で、裁判は目に触れる部分が少なくなる。九月に開かれたマスコミ倫理懇談会全国協議会でも、報道機関から「真相解明が妨げられる」などと問題視する意見が相次いだ。報道を制約する側面も見過ごせない。
捜査段階では犯行の動機や経緯、背景などが十分明らかにされない。そのため事件の被害者家族らは「一体何があったのか、裁判で真実を知りたい」と願う。裁判は真実、真相を解明する場と、多くの人が認識しているに違いない。
だが、こうした市民の期待は、法曹界の認識と必ずしも一致しないようだ。司法制度改革に携わったある法律専門家は「裁判がどこまで真実に迫れるか。あくまで証拠に基づいた判断でしかない」という。
これは、国民の認識とかけ離れているのではないか。ほかに、裁判員制度には憲法上の疑義もいくつか指摘される。このまま施行に突き進む今の状況は、どうも納得し難い。
(社会部・河田一朗)