使い込まれた診療かばんを手に「最後の医介輔」体験を語った宮里善昌さん=18日、うるま市勝連平敷屋の宮里さん宅
【うるま】戦後沖縄で、へき地・離島の住民の命を支え続けてきた医介輔制度。宮里善昌さん(87)=うるま市勝連平敷屋=は県内唯一の医介輔として平敷屋診療所で診察を続けてきたが、10月6日に同診療所を閉めた。最後の医介輔だった宮里さんの引退で、戦後・復帰後の地域医療を支えた約60年の医介輔の歴史が幕を閉じ、戦後沖縄の時代を語る象徴がまた一つ消えた。
医介輔は、沖縄・奄美だけに認められた特別医療制度。激しい沖縄戦で60数人まで激減した県内の医師不足を補うため、1951年に米国民政府が医師助手などを対象に試験を実施し、県内では宮里さんを含む96人が合格。復帰時も、へき地医療は改善されていないとして「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」で制度は存続した。
宮里さんは「産婦人科など何でも診ないといけなかったが、勉強になった。患者に対する優しさが医の原点」と語る。ソロモン諸島で補助衛生兵として終戦を迎えた体験がある宮里さんは「餓死する仲間が最期に口をもぐもぐさせていた」様子を目にし、勝連地域から12、3人はブーゲンビル島に行ったが、生き残ったのは宮里さん一人。「人を救うために生かされた」と感じたという。
医療保険制度も確立していない時代、貧しい家からは診療代を取らなかった。台風時の往診や波が荒れる中を「行かなければならない」とくり船を出し、長女の富山光枝さん(67)=同=も「命がけだった」と当時を振り返るほど。時には医師からばかにされる苦い経験もあった。
「90歳までやる」と周囲に話していた宮里さんに「もっと続けてほしい」との声もある。しかし、聴診器を使う耳が聞こえづらくなり「誤診しては大変」と引退を決意した。「沖縄での医介輔の目的は果たした。後世につないだという安心感があった」と悔いはない。「今後は無理しない程度に、のんびり暮らしたい」と今は畑仕事に熱中する日々だ。(比嘉基)
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