2008年11月17日 (月)

コミティアに行ってきた

本日、いやもう昨日になりますが、有明ビッグサイトで開かれた「コミティア86」に行ってきました。来年2月に開かれる「コミティア87」にも「マヴォ」を出品する予定で、売り子要員である町田の凸凹コンビを従えて、視察を兼ねて行ったのです。

コミティアは創作中心の即売会ということもあり、俺が大昔に参加した80年代初頭のコミケくらいの規模で、懐かしい感じがします。とにかく4時間くらいあれば一通りのブースを回ることができるので、ふらふら歩きながら同人誌を吟味しつつ購入することができます。「コミケよりコミティアが好き」という人も多いと聞きますが、なんとなく頷けますね。コミケは、人が多すぎますもん。

会場では、丸山薫さんのブースと、創刊35年目という老舗同人誌「楽書館」のブースにいって主催の水野流転さんとお話したり、コミティア主催者の中村公彦さんとお話したりしました。

今年で同人誌歴35年という水野さんは、コミケが生まれる以前から同人誌を作っていることになります。70年代の「楽書館」にはアマチュア時代の高野文子さんや高橋葉介さんが寄稿していたなど、実はもの凄い歴史と実績がある本なのですが、温厚な水野さんは一貫してアマチュアの姿勢を崩さず、ニコニコと売っていらっしゃいます。頭が下がる思いがします。

http://rakugakikan.main.jp/
↑楽書館公式サイト

コミティア主催者の中村公彦さんとは、以前も書きましたが、81~2年頃の「ぱふ」の編集部でお会いしたのが最初なんですよね。その時から全然雰囲気の変わらない人です。

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2008年11月14日 (金)

ジンバブエにあの人を連れて行きたい

有史以来未曾有のハイパーインフレに見舞われているジンバブエですが、何度デノミを実行しても時々刻々と進行していくインフレの前になすすべもなく、山のような札束で買えるのが卵三ケだけとか、とんでもないことになっているようですね。

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20081111_zimbabwe/
↑兆を超えて「京」へ。1ドルが2京ジンバブエドルを突破

http://digimaga.net/2008/10/zimbabwean-bill-real-crisis.html
↑世界最悪水準、ジンバブエの超高額紙幣を写真で紹介

http://zimbanet.jocv.net/05_what_zimbabwe/inflation.html
↑青年海外協力隊体験記 ジンバブエ インフレーション

こういう非現実的な数値を目にすると、俺が小学生のとき、学研の「五年の学習」に載っていた「数の単位」のことを思い出します。俺、必死になって暗記したので今でもソラで言えるんですよ。

一、十、百、千、万、億、兆、京(けい)、垓(がい)、禾予(じょ)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祗(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)

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2008年11月11日 (火)

伊勢田監督、コミケに落ちる

昨日、映像温泉芸社のはなぴくさんからのメールで知ったのですが、この冬コミに自作DVDを出品する予定だった伊勢田勝行監督が落選していたそうです。

伊勢田監督は冬コミに会わせて上京する予定で、日頃から伊勢田監督の上映会を行うなどの支援をしている映像温泉芸社の皆さんが、その前日に新宿ロフトプラスワンで「大伊勢田博」を開催するつもりで日程(12月29日 夜の部)も組んでいました。今さら中止にもできないし、どうするのか? と思っていたら、伊勢田監督はロフトイベントだけのために神戸から上京してくるとのこと。

俺も12月29日のロフトにはゲスト参加するのですが、俺は翌日のコミケに出品するので、29日は早めに帰って30日早朝に自宅(神奈川県)を出る必要があり、慌ただしいことになりそうです。

もし、よろしければ伊勢田監督作品のDVDの委託販売を受けてもいいのですが、映像温泉芸社の皆さん、監督にご伝言願えないでしょうか。(※伊勢田監督はパソコンも携帯電話も所有されてないので、当然このブログを読めません)

30日のコミケには、売り子を手伝ってくれる町田の凸凹コンビの車で会場入りする予定です。そのため本日、コミケット準備会に駐車場料金2500円を郵便局から振り込んで来ました。「マヴォ」は、一応宅配便で搬入してもらおうと思っているんですが、売れ残りがたぶん出ると思うので、凸凹コンビの車でウチまで運ぼうと思っているのです。

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2008年11月 8日 (土)

第二世代から見た「オタク問題史」

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恒星社厚生閣という出版社から『どこか〈問題化〉される若者たち』という本が出ました。10人の若手社会学者・研究者による論文集なんですが、この中に友人である松谷創一郎さんの「〈オタク問題〉の四半世紀」が収録されています。本そのものは昨日入手したばかりで、まだ松谷論文しか読んでいないのですが、松谷さんのブログ「TRiCKFiSH」でも関連エントリが立てられていましたので、あわせて紹介したいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20081104
↑TRiCKFiSH「〈オタク〉の階級闘争:『どこか〈問題化〉される若者たち』より」

この中でも俺の著作やブログエントリにも触れられていて面はゆいのですが、俺がかねがねオタクについて主張していたことに対する「反応」が、ようやく出たという思いもあって、紹介します。

詳しい内容については上の松谷ブログをお読みください。松谷さんの意図は本人が以下のように書いています。

《 僕が分析したのは、簡潔に言えば、問題視されてきた〈オタク〉の25年史です。83年に中森明夫さんが『漫画ブリッコ』誌上で〈オタク〉という語を使ってから、今年はちょうど25年目、四半世紀のスパンを検証しています。

 具体的にいえば、中森命名を起点に黎明期だった80年代、宮崎勤事件と宅八郎の登場によって一気に一般化した90年代前半、『エヴァ』人気・岡田斗司夫によってポジティブイメージに変わっていった90年代中期から後半、そして、「ひきこもり」や「非モテ」などに分化・多様化していった2000年代という流れを描いています。 》
↑TRiCKFiSH 2008/11/04

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2008年11月 5日 (水)

冬コミ当選しました。

冬コミに当選しました。

12月30日(火曜日・3日目)の「東4 ユ-07a」。
サークル名は「時間藝術研究所」、雑誌名は「MAVO(マヴォ)」になります。

ジャンルは「創作少年」になります。今回表紙を描いてくださった丸山薫さん、作品で参加していただいたふかさくえみさんと同じジャンルで応募しました。

12月に入った時点で、コミケ直前まで何回かに分けて「たけくまメモ」で告知を打つ予定です。俺個人としては27年ぶりのコミケ参加になります。取り急ぎご連絡まで。よろしくお願いします。

◎関連エントリ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_fdaf.html
↑27年ぶりにコミケに参加(希望)
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-8867.html
↑同人誌のタイトル決めました

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2008年11月 4日 (火)

専門家の未来予測について

今から25年ほど前の話です。俺が23歳かそのくらいだったはずだから、1983年だったと思う。俺は大学にも行かないでブラブラしていて、そろそろフリーライターの真似事みたいな仕事を始めておりました。

高校時代の友人でY君というのがいたんです。彼は当時、どこかの大学院に行っていて、バリバリの理系でした。その頃彼の大学では、通産省(今の経産省)の肝いりで「第五世代コンピュータ」の研究をしていて、彼はその方面で有名な先生の研究室で手伝いとかやっていたはずです。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AC%AC%E4%BA%94%E4%B8%96%E4%BB%A3%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF&oldid=22393814
↑第五世代コンピュータ

第五世代コンピュータとはなんなのか、今もってよくわからないんですけど。上のウィキペディア見ると、どうも人工知能みたいなものらしい。とにかくその頃一般庶民の世界では、NECのPC-98(通称キューハチ)が出るか出ないかの頃で、まだPC-88(ハチハチ)が全盛でした。俺が出入りしていた編集プロダクションの社長が、事務所にハチハチ入れて自慢していたことを思い出します。

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2008年11月 1日 (土)

マンガとアニメーションの間に(4-2)

第四回「マンガ版『ナウシカ』はなぜ読みづらいのか?」(2)

【F】マンガ版『風の谷のナウシカ』の“読みづらさ”

●現在マンガ版『風の谷のナウシカ』は、ストーリーマンガ史上の傑作として評価が定着している。テーマと設定は、アメリカの作家フランク・ハーバートによるエコロジカルSFの傑作『デューン』に強く影響されている。『デューン』は遠い異星の文化・歴史から地理・生態系に至るまで、架空の世界構造が緻密に設定されていて読者を驚かせたが、宮崎の『ナウシカ』もまた、ハーバートに負けない高度な世界構築を「マンガ」として徹底したビジュアルで展開してみせた。

  →物語が進むにつれて宮崎の思想や政治意識、さらには人類への絶望と人間性への肯定=希望という相反する思弁的テーマに正面から取り組み、宮崎の作家としての「核」が描かれた力作となっていった。当初のエコロジー思想に基づく原始共産主義的・理想主義的テーマは、12年の連載の中で、人類文明に対して絶望しつつこれを肯定するという、思想のアクロバットというべき結末に至った。ストーリーマンガとしては手塚の『火の鳥』に劣らぬ雄大な構想を持った作品である。

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2008年10月31日 (金)

マンガとアニメーションの間に(4-1)

■京都精華大学連続講義レジュメ

第四回「マンガ版『ナウシカ』はなぜ読みづらいのか?」(1)

講師 竹熊健太郎

【A】手塚治虫と宮崎駿の複雑な関係

●手塚の死去(1989年)に際して、様々な雑誌で追悼特集が組まれ、多くの識者が追悼文を寄せていたが、ひとり宮崎駿は、手塚のマンガ家としての功績を十分に認めながらもアニメ分野における手塚の活動を痛烈に批判して世間を唖然とさせた。

  →「だけどアニメーションに関しては───これだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うのでいいますが───これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張してきたことというのは、みんな間違いです」(手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した」宮崎駿 comicbox 1989.5月号)

  →宮崎は、手塚がアニメ作家としては「素人芸」であり「下手の横好き」であって、にもかかわらずマンガ家としての名声をバックにアニメ会社を作ってテレビアニメを始めたこと、それによって日本のアニメ制作環境が大きくねじ曲げられたことを辛辣に批判したのだ。

  →しかし一方で宮崎は、自分もかつては手塚に憧れてマンガ家を目指したことを告白している。宮崎の手塚に対する「愛憎」には根深いものがある。

  →一方の手塚は、あれほど他作家にライバル心をむき出しにする性格であったにもかかわらず、宮崎について公には不思議と何も語っていない。 

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2008年10月28日 (火)

マンガとアニメーションの間に(3-2)

■第三回「手塚治虫の引き裂かれた夢(2)」

【C】手塚マンガと「ディズニー以前」

●手塚のアニメーションからの影響となると、ディズニーについての話が(本人のコメントも含めて)ほとんどを占める。しかしディズニー以前(1910年代)からアニメで活躍していたフライシャー兄弟の影響も見逃すことはできない。

→たとえば手塚マンガに特徴的に見られる表現に、間白(コマとコマの間)にキャラクターがしがみついたり、間白をキャラが突き破るような「メタ表現」が」しばしば出てくる。こうした「作品構造を逆手にとったメタ表現」は、フライシャー作品に非常に多く見られる表現だ。

Mahaku02_3←夏目房之介が手塚の「冒険狂時代』を例に挙げ、コマのメタ形式ギャグを解説した「間白という主張する無」より(「マンガの読み方」所収)。

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マンガとアニメーションの間に(3-1)

※10月29日と30日に京都精華大学で「マンガとアニメーションの間に」と題した講義レジュメである。29日に手塚治虫を、30日に宮崎駿を講義するが、まずは手塚治虫のレジュメをアップする。

■京都精華大学連続講義レジュメ

第三回「手塚治虫の引き裂かれた夢」(1)

講師 竹熊健太郎

【A】手塚の「映画的手法」について

●初期手塚マンガを「映画のようなマンガだ」とする発言は、藤子不二雄Aをはじめ、『新宝島』(1947)などの初期作品をリアルタイムで読んだ世代によってしばしば語られている。

  →初期手塚作品がどのように「映画的」なのかについては、諸説があり、多くの論者によってさまざまな角度から語られている。

  →手塚作品が戦後の読者から「映画のようなマンガ」として受け止められたこと自体はおそらく間違いないが、フィルムによって構成される映画と紙の上に描かれるマンガとの間には、時間の扱い方において決定的な違いがあり、単純に映画と対比して語ってよいかは注意深い検討が必要。

  →直接的に時間を扱う映画と、紙のうえで擬似的に時間を扱うマンガの表現としての違いについて。

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