日本特許第1号を得た堀田瑞松

戦後の日本人が忘れた明治の先覚者


石原藤夫(作家)

芸術家として出発した堀田瑞松

日本の特許第一号を得た堀田瑞松は、明治の先覚者の一人であるが、これまでの日本特許史にほとんど触れられていない。
そこで、北垣實一郎・安田清『堀田瑞松傳』によって、ご紹介してみたい。

堀田瑞松は、天保八年四月十二日(一八三七年五月十六日)に、現兵庫県の豊岡市に生まれた。名を貞、幼名を菊太郎といった。
刀鞘塗師をしていた家の長男で、少年時代から抜群の技をもっており、十六歳で家業を継いだ。
刀鞘塗だけでは満足できず、安政四年(一八五七年)に父が没したのを機会に、翌安政五年二十一歳のとき、京都に出て、家業とともに彫刻や細工物の腕をみがき、また書道や南画を修得した。

そして独自の工夫を重ねて、彫刻刀によって絵画を自在に鏤刻する技術を創始し、堀田寸松と名乗った。
とくに厚漆の板などに一気呵成に絵画を彫刻する「鉄筆」という技は絶妙で、天才の名をほしいままにした。
もともと家業の刀鞘塗は漆をつかうので、漆のあつかいには少年時代から習熟していたのだ。

やがてその名声は孝明天皇の知るところとなり、慶應元年(一八六五年)二十八歳のとき、水晶宝珠の台を彫刻するよう命じられた。
堀田瑞松は命がけでこの大仕事を果たし、そのできばえを愛でた孝明天皇によって、「寸松」を「瑞松」とするようにとのお沙汰を賜った。
このときから堀田瑞松と名乗るようになり、これ以後、皇室に関係の深い仕事を多くするようになった。

このときのエピソードは、大正十五年の文部省国定教科書『高等小學讀本巻二』の「第二課堀田瑞松」として掲載されて、少年たちを奮い立たせた。
この教科書の文章は堀田瑞松の性格をよくあらわしているので、少し長くなるが、引用しておこう。


教科書にある偉人堀田瑞松

堀田瑞松は彫刻・鐵筆をもて聞えたる人なり。久しく京都御所の御用を務めけるが、或時、數多き人々の中より選ばれて、水晶の置物を載する臺を作れとの命をかうむりぬ。

瑞松此の名譽ある御諚を拜して、思案に思案を重ねたる末、其の置物が數個の水晶なれば、臺も水に縁ある波の形こそよけれとて、うづまく波の間より、此處彼處に水晶の浮かび出でたる如くせんと工夫せり。されど波の形たるや、千状萬態、或は集り、或は散じ、或は飛騰し或は落下し、變幻出没極りなきものなれば、居ながらにして其の妙趣を捕らへんことは容易の業にあらず、如かず、實物に接して自然の姿態を寫さんにはと、或は須磨・明石の海岸を傳ひ、或は鳴門の瀬戸に船を浮かべて、ひたすら心にかなふ波の形を見んと力めたり。されども遂に發見すること能はず、煩悶數十日にわたりぬ。

折しも京都大いに雨降り、河水氾濫し、橋落ち家流るゝ惨状を呈せり。瑞松心に思ふ節やありけん、家人のとゞむるをもきかず、盆を覆す猛雨を衝きて、三條の大橋へと急ぎ行けり。
さて瑞松は一もくさんに馳せて橋上に至らんとせしに、此の時橋は既に危く、今にも落ちんばかりなりければ、警戒の者はいつかな其の通行を許さず。

されど技に熱心なる瑞松は、さばかりの事に志をくじくものにあらず、「御所の御用を務むる某といふ者なり。御用のため、命に懸けても、此の橋上より、うづまく波の有様を調ぶる必要あり。此の儀特に許さるべし。」とて、強ひて其の許を得、雄々しくも橋の中央に進み、欄干に倚りて一心不亂に水面を眺めゐたり。 斯かる中にも、風益々加り、雨愈々烈しく、遂には橋げたもゆらゆらと浮動し始めぬ。警戒の者どもは此の有様に、「危し危し。疾く逃げよ。」としきりに注意したれども、瑞松は、たとひ身は水中の藻屑となるとも、我が心にかなふ波状を見極めざる上は一歩も退かじとて、呼べど叫べど少しも動かず。身の危きをも忘れて見つむること一時間ばかり、漸くこれぞと思ふ形を見定むるや、急ぎ我が家へ馳歸り、ぬれたる衣服を脱ぎもやらで直ちに刀を執り、記憶に新なる波濤の状を一氣に刻み上げぬ。

それより瑞松は之を見本として、更に十數日を費し、壮麗なる置物臺を作りて之を御所に納めけるに、叡感殊に斜ならず、從来は自ら謙遜して寸松と號せしを、以後瑞松と稱すべしとの御諚をさへ賜はりたり。

瑞松常に人にいひて曰く、「我はかつて人に師事せしことなし。我が師は即ち自然なり。造物の妙趣、之を採りて以て我が有となすべきのみ。」と。         (和田垣謙三「兎糞録」ニ據ル)
さいごにある「兎糞録」の著者は、じっさいに堀田瑞松を訪問して話を聞いて、この元になるエッセイを書いている。


発明家に転身して特許第一号を取得!

このエピソードの直後に明治維新となり、堀田瑞松の身辺も大きく変化したが、芸術家としての瑞松の名声はますます上がり、明治十年(一八七七年)には京都府博覧会に彫刻を出品して銀牌を得、さらに同年東京上野で開催された第一回内国勧業博覧会にも彫刻を出品して賞牌を得た。

しばらくは京都にいたが、明治十一年(一八七八年)四十一歳のときに、新政府の要人たちの招きで東京に出て、宮内省御用を拝命した。
そして、博覧会の審査官、博物館の委員、大蔵省の書画委員などをつとめる一方、その妙技を明治天皇・皇后両陛下の天覧に供したり、アメリカ前大統領グラントなど外国からの賓客に披露したりして、その名声をさらに高めた。孝明天皇、明治天皇がふだんお使いになる御道具類にも瑞松の作品が多くあったといわれる。

またこのころ、「漆器蝋塗蒔絵」という独特の漆蒔絵を発明して輸出に貢献した。やがて、滔々たる欧米技術の流入を見た瑞松は、近代的な鉄船の塗料が劣化しやすい悩みをかかえていることを知り、幼児から慣れ親しんだ漆を船底船側の塗装に応用することを思いつき、さまざまな化学物質の混合を試み、苦心惨憺して、鉄船用の「防錆漆塗料」を完成させた。

明治十八年に、高橋是清の尽力によって特許制度が施行されると、いち早く『堀田錆止塗料及ビ其塗法』としてこれを出願し、明治十八年八月十四日付で、日本特許第一号を得た。
 堀田瑞松四十八歳の快挙であった。

この第一号特許は防錆が第一目的であったが、よく知られるように船舶の外壁には介虫や海藻が付着して悪さをするので、これの予防も重要であることに着目して、錆とともにこれらの付着を防ぐ漆塗料を開発し、防介藻の効果を加えた『介藻防止漆』を出願して明治二十三年七月二十二日付で特許第九一八号を得た。


軍艦に塗装して外国の海軍にも注目される

この新しい塗料は、日本海軍の横須賀造船所での試験に好成績をおさめ、明治十九年から二十三年にかけて、約二十隻の軍艦に塗装して評判になった。
とくに明治二十年十一月には、塗装が劣化して困っていた来航中のロシア海軍旗艦ドミトリイドンスコイに依頼されて、その塗装をほどこした。
この軍艦はのちに日本海海戦で沈没した六二〇〇トンの巡洋艦で、日露戦時には旧式になっていたが、明治二十年においては最新型であったと考えられる。

ドミトリイドンスコイは翌年再び来航したが、一年間の航海での劣化がほとんど無かったことに驚いた艦長から、感謝状を贈られた。
このような実績によって、明治二十三年には、日本海軍での正式採用が海軍大臣の指令によって決定した。

ロシア軍艦での好成績は欧米に聞こえ、明治二十三年十一月発行の米国海軍記事(雑誌)に、マードリック中尉による二十頁以上もの詳細な調査報告が掲載された。
さらにドイツやオーストリアの海軍報告書にも掲載になり、日本が誇る堀田瑞松の漆塗料の名声は世界的なものとなった。
これに刺激されて外国からの照会が相次ぎ、明治二十四年にはアメリカ特許局長のシラージュリー氏から日本特許局長あてに、特許権譲渡に関する打診が数回にわたってなされた。
ただしこの年はまだ特許の国際条約である《パリ条約》に未加入であり、話はなかなか進展しなかったと考えられる。

このような世界的な評価は、日本政府の要人にも知られ、ついには、明治天皇に試料を携えてご説明するという光栄に浴すことになった。明治二十四年(一八九一年)九月四日のことであった。
こうして堀田瑞松は、彫刻を孝明天皇や明治天皇の天覧に供しただけでなく、発明特許についてもまた、明治天皇の御前で実演することになったのである。これは大変な栄誉であった。

こうして瑞松の漆塗料は内外に認められるようになったが、日本の海軍はまだ弱体であって、艦数も少なく需要もわずかで、企業的にはまったく成り立たなかった。
そこで瑞松は、外国からの照会が多いことを考え、海外への進出をはかろうと一念発起した。
そして明治三十年にアメリカとイギリスを視察した。その結果、日本の漆の生産量ではとても間に合わないことを痛感し、帰国後、国産漆を増産するための「堀田式漆樹栽培法」を開発し、以後七年間にわたって、東北地方にこの栽培法を広める努力をした。


ついにアメリカに渡航して企業化を推進

この苦心の増産計画によって、漆の生産量が増大したので、明治三十八年(一九〇五年)一月、六十八歳の堀田瑞松は老躯にむち打って渡米し、明治四十四年(一九一一年)七十四歳まで、純日本技術である漆塗料の外国での普及につとめた。
これは、あの伊能忠敬が、引退後に天文学や測量学を学び、五十五歳から七十三歳までをかけて、世界を驚かせた精密日本全図を完成させた偉業にも匹敵する壮挙であった。

在米中、チャールスタウンの港で船底塗料長期試験に成功して評価を高めたり、ボストン駅やガス会社のタンクに塗装して成果を収めたり、またスタンダード石油の耐酸試験に合格したりし、それらの実績によってアメリカの特許も取得した
またこの在米中、とくいの鉄筆を米国要人に披露して感嘆させ新聞に大きく紹介されたりもした。
このような六年間の苦心の結果、日本の漆技術を認めさせ、新しい販路を開拓し、新会社設立を企画したりしたが、残念なことにおりからの不況で企業化が困難となってしまった。
企業化困難の理由には、不況のほか、漆はどうしても高額になるし、アメリカの塗装工の腕では塗装しにくいという問題などもあったらしい。
結局、明治四十四年(一九一一年)八月には帰国することになった。


帰国後の顕彰と活躍

堀田瑞松翁のアメリカでの活躍ぶりは、日本国内でも評判になっており、帰国の年の十一月には、多くの有志が集まって「特許第一号記念会」を開催し、翁の偉業を讃えた。
この顕彰の会には、時の特許局長中松盛雄、発明協会会長の清浦奎吾(法務大臣・内務大臣などをつとめた政治家)が出席し、特許局の宿利英治事務官が司会を担当した。
主催者がわの筆頭は、真珠王の御木本幸吉であり、多くの有名人が集まった。
記念会の様子を下の写真に示す。

このあとも堀田瑞松翁の闘志は衰えず、「日本漆業研究所」を設立して漆塗料の研究に励み、大正二年(一九一三年)には、それまでの研究を元にした特許『堀田式防錆塗料(第二五二三三号)』を取得した。このとき瑞松は七十六歳になっていた。
大正五年(一九一六年)九月八日、七十九歳の天寿をまっとうして、この日本特許第一号の偉人は生涯を閉じた。
葬儀は盛大で、友人代表は大隈重信であった。
また生前交流のあった著名人として、元総理大臣の伊藤博文や松方正義、財界の澁澤榮一や大倉喜八郎、政治家の井上馨、啓蒙家福澤諭吉、幕末の佐賀藩主鍋島直彬などがいて、書簡が残されている。
 有名な勝海舟の日記にも、瑞松の名が記されている。


堀田瑞松が遺したもの

瑞松翁の遺志は、子息の堀田賢三がついで、日本海軍用の塗料を目的とした企業ができた。
瑞松が開発した漆塗料はきわめて優れた性能をもっていたが、高価で大量生産も困難であるため、やがて石油系など欧米的な塗料に押されて消えてゆくが、明治の日本技術が世界に気を吐いた貴重な事例であった。

この事例は、高峰讓吉による日本式醸造法の世界への普及にも似た面がある。

さらにこの漆塗料は、ごく最近になって、復活の兆しがあるとされる。
漆の固化は酵素と酸素の作用によっており、他の西欧的な塗料とは原理が異なる。平成十年代になって、日本の研究者によってこの原理を利用した人工漆ができるようになった。
これはシックハウス症候群の原因となる有害気体が出ず製造に要するエネルギーも少ないので、人間の居住環境に優しい塗料として注目されているそうである。
これがさらに進展すれば、明治の先覚者・堀田瑞松の夢が百二十年後の平成になって叶えられることになるだろう。

日本の特許第一号を得た堀田瑞松の芸術と発明は、以上のように、明治史に特筆すべき偉大なものであるが、ふしぎなことに、特許庁の七十年史や百年史の類にはまった出ていない。
また初期の日本特許を解説した『ぐうたらテクノロジー(河出書房新社)』には、「信用できない誇大広告」だとしてからかうような記述がなされている。

孝明・明治両天皇にお仕えし、文部省の教科書に記され、外国から感謝状をもらい、特許局長が記念会を開催したほどの堀田瑞松に対する戦後のこのような低い評価に、著者はつよい不満を感じており、すこしくわしくこの先覚者の伝記を記してみた。

(堀田瑞松の伝記は、現在では古書店でも入手が困難で、数少ない資料を元に記しました。もしお気づきの点があればご教示くだされば幸いです)

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