2008年 11月 17日
東京裁判再読-阿川弘之、半藤利一に謝意を表す |
東京裁判から60年を迎えた本年、文化勲章作家は、今月号文芸春秋巻頭言で半藤一利に謝意を表している
「私が東京裁判について感じるのは『負けたらこうした仕打ちを受けるのだ』ということです。あたり前のことですが、やはり負けてはいけないし、負けるような戦争を始めてはならない。」(防衛大学校戸部教授:文言春秋10月号P263)
この発言に対して、志賀直哉の弟子にして文化勲章作家、小生の愛読作家の一人である阿川弘之は、「まさに仰せのとおり、当たり前のことで、格別目新しい見解ではないけれど、私どもにとってはやはり、心に染み入る言葉である。」と今月号の文芸春秋(P77)に書いている。 (まず、応援クリックしていただければ感謝します。)

では、なぜ日本は「負けるような戦争を始め」る方向に足を踏み込んでいったのか?
阿川弘之は言う。
「振り返ってみれば結局、満州事変がそもそもの発端ということになろう。」と書いている。
続けて引用すれば、「満州事変における鉄路爆破こそ現場の暴走、下克上の最たるものと半藤一利(昭和史研究家・作家)が史実に基づいて指弾するのに対し、戸部教授は謀略に関与した主要人物の実名を挙げる。関東軍参謀石原莞爾中佐と石原の上司板垣征四郎大佐、彼らの企図をあらかじめ察知し得たはずなのに敢えて制止しようとしなかった関東軍司令官本庄繁中将、その要請に応じて、天皇のご裁可を得ないまま兵を満州領内へ進め、「越境将軍」ともてはやされた朝鮮軍司令官林銑十郎大将、以上四名。これは、大元帥である天皇に対する命令違反にほかありません。林も石原も、本来なら陸軍刑法で処罰されてしかるべきでした。これが何の処分もされないどころか、喝采と栄誉をもって迎え入れられた。」
この戸部教授の発言を読んで、阿川弘之 文化勲章作家は、20年前に聞かされた談話を次のように書いている。以下、文芸春秋からの引用である。
「陸軍の派閥と言うと、皇道派統制派の対立が有名だけどね、それとは別に、満州屋と支那屋ソ聯屋といふ一種の閥があったんだよ。満州事変の論功行賞では、信賞必罰とおよそ逆のことが行われて、三者のうち満州屋が独りいい目を見るんです。現地の最高責任者本庄司令官は、事変の後、侍従武官長、大将と栄進して、功一級の金鵄勲章を貰った上、男爵を授けられる。部下の参謀たちも当然これに準じた処遇を受ける。それを横目で眺めていて、支那屋とソ聯屋が心穏やかでなくなるんですよ。あの連中があれで男爵金鵄勲章なら、我々も支那の本土で、或いはソ聯との国境地帯で一と騒動起こしてみようじゃないかという気運が醸成されてくる。昭和12年の盧溝橋事件、翌年の張鼓峰事件、翌々年のノモンハン事件が起こる。謀略で始まったいくさの後始末が不適切で、罰すべき人物をきちんと処罰しなかった結果は、国家のことなど二の次、各派の功名争いと責任回避とが主になって、支那事変の泥沼化から対米開戦、ミッドウエー以降の敗北に次ぐ敗北、都市の壊滅、ソ聯の裏切りによる満州の惨状に至るまで、十三、四年間、国民に災厄を与え続けるのです。海軍も例外ではありません。昭和初期の海軍大臣がすでに悪例を残しています。」
という元大佐の証言を載せている。続けて、「昭和7年の五・一五事件の時の海軍大臣大角大将が、犬養首相を射殺した過激派青年士官たちの非行に重い責任を負うべき立場でありながら、処罰もされず、予備役編入も願い出ず、三年後に本庄繁大将と並んで男爵を授けられる。尾張の国の農家の倅(大角)や丹波の国の農家の長男(本庄)が華族に成り上がるなんて、当時大変なことで、分に過ぎたこの栄典はのちのち、軍の形態に大きなひずみをもたらした。」
A級戦犯が処刑されてから、この12月23日で丁度60年になるので、阿川弘之は文芸春秋10月号の「新・東京裁判」の読み直しをしたという。この記事は、昭和史作家、半藤一利が座長となって、保阪正康、戸部良一、御厨貴、福田和也、日暮吉延が参加した座談会形式での発言が内容になっており、構成は、
① 東京裁判は政治劇だ - マッカーサー
② 陸軍を蝕む官僚支配 - 東条英機と梅津美治郎
③ 海軍善玉論は本当か - 伏見宮と米内光政
④ 逃げる政治家たち - 近衛文麿、広田弘毅
⑤ メディアの大罪 - 朝日新聞とNHK
⑥ 天皇側近の不作為 - 西園寺公望、牧野伸顕、木戸幸一
⑦ 昭和天皇 苦悩の果てに - 開戦と聖断
となっている。非常に読み応えのある内容である。次の記事「零戦型ものづくりが日本を滅ぼす」堺屋太一もよかったが、それは別の機会に論じる。
小生も、阿川弘之と同様、半藤一利の東京裁判は「復讐の儀式」とする見解に大賛成である。また、阿川弘之と同様に、「しかし、昭和の軍閥の中に、あるいはA級戦犯の中に日本の内側から、国をつぶしてしまってアメリカに渡してしまった人間が多く居たのは否定できない。単なる復讐のみの犠牲者とは言うのにはためらいを覚える。」という言葉に全く同感である。
最後に、阿川弘之は、勝海舟の言葉、「ナニ、忠義の士というものがあって、国をつぶすのだ」 「国というものは、決して人が取りはしない。内からつぶして、西洋人に遣るのだ。」を掲げている。

時代遅れの暴支膺懲,外国人排斥,国連脱退のスローガンを叫んで、中国、韓国など近隣諸国を敵視するネットウヨの形態を見ると、国益など関係ない自分の欲求を求める戦前の軍閥に重なって見えるのである。ネットウヨが蔓延ると、国を滅ぼすと、そのような小生の想いには、この勝海舟の言葉が素直に実感できる。
注記:満州事変における張作霖爆殺事件の実行犯は、河本 大作(こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1955年8月25日)、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人であり、本人も事件関与を認めている。事件処理で厳罰方針を撤回した田中義一総理は昭和天皇から厳しく叱責されて総辞職し直後に急死した。が、ネットウヨはコミンテルンによる謀略説を最近流している。しかし、学会では全く相手にされておらず、保守派の論客の間でも否定されているトンデモ異説である。
注記2:ここで言うネットウヨとは、グローバル化し,複雑化していくポスト近代に乗り遅れ、付いて行けない人々が,そのフラストレーションを陳腐で幼稚な嫌中,嫌韓のトンデモ本などに不満解消を求め、ネット社会において夥しい繁殖をしており、欧米アジアからの日本人はプレ近代で偏狭な歴史修正主義であるという反日の契機を与え、日本国の国益を害する人たちのことを言う。
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「私が東京裁判について感じるのは『負けたらこうした仕打ちを受けるのだ』ということです。あたり前のことですが、やはり負けてはいけないし、負けるような戦争を始めてはならない。」(防衛大学校戸部教授:文言春秋10月号P263)
この発言に対して、志賀直哉の弟子にして文化勲章作家、小生の愛読作家の一人である阿川弘之は、「まさに仰せのとおり、当たり前のことで、格別目新しい見解ではないけれど、私どもにとってはやはり、心に染み入る言葉である。」と今月号の文芸春秋(P77)に書いている。 (まず、応援クリックしていただければ感謝します。)
では、なぜ日本は「負けるような戦争を始め」る方向に足を踏み込んでいったのか?
阿川弘之は言う。
「振り返ってみれば結局、満州事変がそもそもの発端ということになろう。」と書いている。
続けて引用すれば、「満州事変における鉄路爆破こそ現場の暴走、下克上の最たるものと半藤一利(昭和史研究家・作家)が史実に基づいて指弾するのに対し、戸部教授は謀略に関与した主要人物の実名を挙げる。関東軍参謀石原莞爾中佐と石原の上司板垣征四郎大佐、彼らの企図をあらかじめ察知し得たはずなのに敢えて制止しようとしなかった関東軍司令官本庄繁中将、その要請に応じて、天皇のご裁可を得ないまま兵を満州領内へ進め、「越境将軍」ともてはやされた朝鮮軍司令官林銑十郎大将、以上四名。これは、大元帥である天皇に対する命令違反にほかありません。林も石原も、本来なら陸軍刑法で処罰されてしかるべきでした。これが何の処分もされないどころか、喝采と栄誉をもって迎え入れられた。」
この戸部教授の発言を読んで、阿川弘之 文化勲章作家は、20年前に聞かされた談話を次のように書いている。以下、文芸春秋からの引用である。
「陸軍の派閥と言うと、皇道派統制派の対立が有名だけどね、それとは別に、満州屋と支那屋ソ聯屋といふ一種の閥があったんだよ。満州事変の論功行賞では、信賞必罰とおよそ逆のことが行われて、三者のうち満州屋が独りいい目を見るんです。現地の最高責任者本庄司令官は、事変の後、侍従武官長、大将と栄進して、功一級の金鵄勲章を貰った上、男爵を授けられる。部下の参謀たちも当然これに準じた処遇を受ける。それを横目で眺めていて、支那屋とソ聯屋が心穏やかでなくなるんですよ。あの連中があれで男爵金鵄勲章なら、我々も支那の本土で、或いはソ聯との国境地帯で一と騒動起こしてみようじゃないかという気運が醸成されてくる。昭和12年の盧溝橋事件、翌年の張鼓峰事件、翌々年のノモンハン事件が起こる。謀略で始まったいくさの後始末が不適切で、罰すべき人物をきちんと処罰しなかった結果は、国家のことなど二の次、各派の功名争いと責任回避とが主になって、支那事変の泥沼化から対米開戦、ミッドウエー以降の敗北に次ぐ敗北、都市の壊滅、ソ聯の裏切りによる満州の惨状に至るまで、十三、四年間、国民に災厄を与え続けるのです。海軍も例外ではありません。昭和初期の海軍大臣がすでに悪例を残しています。」
という元大佐の証言を載せている。続けて、「昭和7年の五・一五事件の時の海軍大臣大角大将が、犬養首相を射殺した過激派青年士官たちの非行に重い責任を負うべき立場でありながら、処罰もされず、予備役編入も願い出ず、三年後に本庄繁大将と並んで男爵を授けられる。尾張の国の農家の倅(大角)や丹波の国の農家の長男(本庄)が華族に成り上がるなんて、当時大変なことで、分に過ぎたこの栄典はのちのち、軍の形態に大きなひずみをもたらした。」
A級戦犯が処刑されてから、この12月23日で丁度60年になるので、阿川弘之は文芸春秋10月号の「新・東京裁判」の読み直しをしたという。この記事は、昭和史作家、半藤一利が座長となって、保阪正康、戸部良一、御厨貴、福田和也、日暮吉延が参加した座談会形式での発言が内容になっており、構成は、
① 東京裁判は政治劇だ - マッカーサー
② 陸軍を蝕む官僚支配 - 東条英機と梅津美治郎
③ 海軍善玉論は本当か - 伏見宮と米内光政
④ 逃げる政治家たち - 近衛文麿、広田弘毅
⑤ メディアの大罪 - 朝日新聞とNHK
⑥ 天皇側近の不作為 - 西園寺公望、牧野伸顕、木戸幸一
⑦ 昭和天皇 苦悩の果てに - 開戦と聖断
となっている。非常に読み応えのある内容である。次の記事「零戦型ものづくりが日本を滅ぼす」堺屋太一もよかったが、それは別の機会に論じる。
小生も、阿川弘之と同様、半藤一利の東京裁判は「復讐の儀式」とする見解に大賛成である。また、阿川弘之と同様に、「しかし、昭和の軍閥の中に、あるいはA級戦犯の中に日本の内側から、国をつぶしてしまってアメリカに渡してしまった人間が多く居たのは否定できない。単なる復讐のみの犠牲者とは言うのにはためらいを覚える。」という言葉に全く同感である。
最後に、阿川弘之は、勝海舟の言葉、「ナニ、忠義の士というものがあって、国をつぶすのだ」 「国というものは、決して人が取りはしない。内からつぶして、西洋人に遣るのだ。」を掲げている。
時代遅れの暴支膺懲,外国人排斥,国連脱退のスローガンを叫んで、中国、韓国など近隣諸国を敵視するネットウヨの形態を見ると、国益など関係ない自分の欲求を求める戦前の軍閥に重なって見えるのである。ネットウヨが蔓延ると、国を滅ぼすと、そのような小生の想いには、この勝海舟の言葉が素直に実感できる。
注記:満州事変における張作霖爆殺事件の実行犯は、河本 大作(こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1955年8月25日)、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人であり、本人も事件関与を認めている。事件処理で厳罰方針を撤回した田中義一総理は昭和天皇から厳しく叱責されて総辞職し直後に急死した。が、ネットウヨはコミンテルンによる謀略説を最近流している。しかし、学会では全く相手にされておらず、保守派の論客の間でも否定されているトンデモ異説である。
注記2:ここで言うネットウヨとは、グローバル化し,複雑化していくポスト近代に乗り遅れ、付いて行けない人々が,そのフラストレーションを陳腐で幼稚な嫌中,嫌韓のトンデモ本などに不満解消を求め、ネット社会において夥しい繁殖をしており、欧米アジアからの日本人はプレ近代で偏狭な歴史修正主義であるという反日の契機を与え、日本国の国益を害する人たちのことを言う。
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