そこに光は
毎年夏休み恒例の宿題・エッセイコンクールに提出したやつです。
そこに光は
ギュスターヴ
最近になって、「あの頃より汚れてしまった」と感じることが多くなった。
しかしそれを後悔している訳ではない。むしろ昔のほうが愚かであったと認識している。
汚れを知らぬのは愚かで恥、汚れを知ってこそ賢くなるものだ。
それは即ち、成長するごとに汚れを知っていく、つまり汚れていくことこそ大人に近付いていくことを意味している。
しかし人は、汚れを悪と同等に見ている。特に思春期の少年少女、私達にその傾向が強い。
しかしその解釈は良くない。汚れていくことは悪ではなく、大人になるための通過儀礼なのだ。
ここで私は、あることに気付く。私自身も成長することを「汚れていく」と非常に強い負のイメージを持たせ、尚且つ曖昧で抽象的表現を用いている。
それは、私の脳内のどこかでまだ、成長に対する反発が残っているからなのだろう。
それは誰もが通る道であり、避けることの叶わない門なのだ。そして、人は曲がりくねった道を直進することなどできない。
幾度も曲がり角の壁にぶつかりながら、各々の答えーーー進み方を学習してゆく。そのことこそ私の表現でいう「汚れていく」ということなのだ。
その過程には汚いことばかりで、希望を見失うほどの濁流が待っている。
しかしその中で溺れてしまってはいけない。濁流の中には一筋の光がさしているのだから。
成長とは、「汚れを知る」という名目で「汚れの中の光を求め、見つける」ことなのだろう。人はそのことに気づかなければならない。目を背けてもいずれ訪れるのだ。
そこで逃げた者は淘汰され、ただただ堕ちてゆく。しかし、逃げた先にも試練は待っている。
また人は一生逃げ続けることは叶わず、どこかでそれに気付いているのだ。光に気付けば、あとはそれを辿るだけだ。
それでもなお逃げ続けた者には、死あるのみだ。死者に試練はない。幸も不幸も訪れず、虚実を悟ることも叶わない。
私も例外ではない。まさに今、私は逃げようとしている。しかし私は他の者とは違う。もう光に気付いているのだ。
この三年間、求め続けた光が私を強く照らす。答は既に用意されている。手を伸ばせば届くものをみすみす逃してはならない。
私は歩く、確かな光とともに、私の信じた道を。
そして過ぎてしまえば、鈍い心の痛みとともに、光を求めた日々が蘇るだろう。
「今」も過ぎれば「あの頃」になるのだから。
そのとき私は、こう言うだろう。
「あの頃より汚れてしまった」と。