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「于山島はやはり独島だった」(下)

 「大体、2島(鬱陵島と于山島)はさほど離れておらず、1度大きな風が吹けばぶつかってしまうほどだ。于山島は低く、天気が大変良いときでないと、最も高い頂きに上らない限り(鬱陵島から)見ることはできない」(不因海気極晴朗、不登最高頂、則不可見)

 この記録は、(1)「于山島」は明らかに鬱陵島とは別の島だという事実、そして(2)竹島や観音島のように鬱陵島と隣接した島でもないという事実を立証している。竹島や観音島は、鬱陵島で高地に登らなくても見られるし、曇天でも肉眼で見ることができる島だからだ。そうなると、「于山島」となり得る島は独島の他にない。

 これは、朴世堂と同時代の人物で三陟営将の張漢相(チャン・ハンサン)=1656‐1724=が書いた『蔚陵島事蹟』の中の、「(鬱陵島の聖人峰から)東の海を眺めてみると、東南の方角に島が一つぼんやりとしているが、大きさは鬱陵島の3分の1もなく、距離は300里に過ぎない」という記録にも通ずるものだ、と柳博士は説明する。朴世堂と張漢相はいずれも、独島は朝鮮の領土だという確認を日本側から受けた粛宗代の人物で、漁夫・安龍福(アン・ヨンボク:朝鮮時代、鬱陵島・独島の番人兼民間外交官として活躍した)とも同時代の人物。この点から、彼らの認識はさらに重要な意味を持つというわけだ。これについて、梨花女子大のシン・ヨンハ碩座教授は「初めて発掘されたもので、独島がわが領土だったということを明らかにする大変素晴らしい資料だ」と語った。

西溪・朴世堂の『鬱陵島』原本

兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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