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企画特集1

【お茶と戦争】

国家革新 (5)

2008年08月19日

写真

松殿山荘。門の向こうに木立に包まれた建物群が広がる=宇治市

   理想への一大道場

 伏見区との境に近い宇治市北部の丘、20万平方メートルに及ぶという敷地に十数棟の和風建築や日本庭園が広がる。「松殿(しょうでん)山荘」という。

 昭和の初め、茶道で国家や社会を変えようと夢見た高谷宗範(たかやそうはん)が、私財を投じて「茶道経国(けいこく)(茶道で国を支え発展させること)のための一大道場」として開いた。1851年、中津藩(大分県)生まれの高谷は明治維新で高杉晋作の奇兵隊に参加しようとするなど激動の青年期を送り、大阪で弁護士に。関西経済界に知り合いが多かった。

 明治半ばに茶道を始め、独自の考えに至る。1935年に弟子らが編んだ伝記にこうある。「趣味的に堕し(た茶道を)(略)礼の本道にこれを引き戻すと共に(略)この道によって経国の一策を樹立高唱された」

 高谷は当時、茶道は趣味の世界にとどまるべきだとする一派と激論。茶道で教養や精神を高め、国家の進歩につなげなければ意味がないと考えた。武士道による明治維新になぞらえ、「茶道による昭和維新」をめざし、実践の場として、茶と縁の深い宇治に十数年かけてこの山荘を造営。28年に財団法人松殿山荘茶道会を設立した。

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 高谷は「心は円なるを要す、行いは正なるを要す」と唱えた。茶の精神で人と人が交わることで心が丸くなり、無駄な争いごとは収まる。それが多くの人に広まることが
「維新」だったと、高谷のひ孫で山荘を管理する平岡己津雄さん(60)は話す。

 高谷は山荘の完成後まもなく、33年に死去。会は活動を続けたが、時代は戦争へ。近くに火薬庫を持つ陸軍に敷地の半分を接収されるなど、環境は悪くなる一方だった。平岡さんは「理想的なことを考えられる最後の時期だった。もはや『お茶で国を立て直そう』では太刀打ちできなかった」と話す。

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 戦時下、茶道は高谷が夢見たものとは逆になっていく。

 40年に裏千家、42年に表千家が相次いで全国組織を結成。傷痍(しょうい)軍人への慰問茶席、航空機の献納、各神社で「英霊」に献茶――。多くの文化団体と同様に、茶道界も国家や軍部への貢献を競った。

 「流派を組織化したい茶道界の意向と総動員体制とが、同時期に結びついた」と指摘するのは北区の茶道家、木村宗慎さん(32)だ。高谷や茶を愛する多くの「個」が時代にのみ込まれていった一方で、「組織」としての茶道界は戦時下に成長した。戦後もその組織は大きくは変わらなかった。

 「戦時中の出来事は『個』を鍛える茶道においてさえ、組織の前に個人が自立することがいかに難しかったか教えてくれる。戦後、組織化はさらに進んだ。茶道も日本社会も、この問題にまだ答えを出していない」。木村さんはこう考えている。
=おわり

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