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企画特集1

【お茶と戦争】

陣中茶箱 (4)

2008年08月18日

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陣中茶箱を取り出す松久保さん=奈良市の薬師寺

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父が戦争に持参した竹根茶碗を持つ松居良子さん

   戦火の合間の一服

 太平洋戦争開戦から間もない1942年3月、奈良市の薬師寺で盛大な茶会があった。兵士たちが戦場で一服の茶を楽しめるようにと、当時の橋本凝胤(ぎょういん)管主が考え出した携帯式茶道具「陣中茶箱」のお披露目だ。小僧だった松久保秀胤(しゅういん)長老(80)はその場にいた。「撃ちてしやまん」と決戦を呼びかけるのぼりが翻り、茶道家元や海軍幹部などが居並んでいた。

 橋本管主は茶道団体の幹部を務める茶人でもあった。兵士たち、特に狭い空間の中で緊張と戦う潜水艦乗組員のために考案したのが、陣中茶箱だった。

 箱は縦横20センチ、高さ10センチほど。中に茶碗(ちゃわん)2個と茶杓(しゃく)、抹茶つぼ、茶巾(きん)など一式が収まる。ふたを簡易の台にして屋外でも点前ができる。100セットを海軍に納めた。大半は潜水艦と共に海に沈んだが、松久保さんの手元に一つ残る。ふたに橋本管主の手で「祈大東亜戦完遂」と記されている。

    ■   ■    

 宇治市の松居良子さん(65)宅には、竹の根でできた茶碗が残る。父の善太良(ぜんたろう)さんが37年、出征する際にあつらえて持って行った。陶器は重く、割れるから、茶杓などでかかわりの深い竹にしたと、松居さんはみる。

 母によると、慰問袋で父に抹茶を送り、お礼のはがきも届いた。実際にたてていたようだ。松居さんの竹根茶碗は一つの裂け目もなく、今も現役だ。戦火の合間に一服する姿が浮かぶ。

 善太良さんは日中戦争から生還、結婚して松居さんが生まれ、44年に今度は南方へ出征。別の竹の茶碗を持って行ったが、父も茶碗も二度と帰らなかった。「結婚後は母の点前でいただくのが好きだったそうです。竹根茶碗で日本の暮らしを懐かしんだのでしょうか」

    ■   ■    

 薬師寺に44年の暮れ、憲兵隊が押しかけ、橋本管主を連行した。容疑は「厭戦(えんせん)思想」だったという。茶道で戦争に協力した橋本管主は、宗教家としては複雑な心境だった。松久保さんとのこんなやりとりが、容疑をかけられる原因につながった。

 軍に志願したいとせがむ松久保さんはある日、一喝される。

 「お前は人殺しに行くのか。徴兵で行くなら仕方ないが、志願は坊主のすることじゃない」

 「和尚だって大政翼賛会の役員をしているじゃありませんか」

 松久保さんが食ってかかると、橋本管主はすぐに役員を辞職。それを見とがめられて、年の瀬の3日間拘束された。

 陣中茶箱の考案も「戦争や国家のためよりも、一人ひとりの兵士への共感、いたわりだった」と、松久保さんは思う。茶箱の作法は戦後、「和敬点(わけいだ)て」と名を変えて残る。互いを敬う茶道の心を表した言葉だ。

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