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【土曜訪問】

死刑制度の裏を見据える 森 達也さん (映画監督・作家)

2008年3月8日

東京拘置所を背景に

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 冷たい風の吹くなか、森達也さん(51)と待ち合わせしたのは東京・小菅にある東京拘置所の近くだ。一九九五年、地下鉄サリン事件などで世を震撼(しんかん)させたオウム真理教、その教団の内側から信者たちの姿を撮ったドキュメント映画『A』以降、森さんは拘置された元オウム幹部らに面会するために何度もこの場所に足を運んできた。

 三年間の取材の末に書き下ろした近著『死刑』(朝日出版社)にも、坂本弁護士一家殺害事件などの実行役とされる岡崎一明・確定死刑囚とのやり取りが記述される。死刑制度をテーマにしたこのノンフィクションに取り組んだ契機もそこにあると言う。当日は、つい先ごろ最高裁で上告が棄却され死刑が確定した地下鉄サリン事件実行役の林泰男被告との面会に来た。

 子どもじみたジョークではきっと何度か口にしたこともある「死刑」という言葉のイメージも内実も、私たちは実はほとんど何も知らない。死刑は日常の視界の外に隠されており、目をそらすことで日々の安寧を保っているのかもしれない。

 『死刑』には、死刑制度の概要や社会状況とともに、今の死刑制度をめぐって意見を発し、死刑や裁判の現場を知り、死刑囚と関係する多くの人たちが登場する。現場に立ち会った高検の公安部長や元刑務官、死刑事件を担当した弁護士、死刑判決を受けながら冤罪(えんざい)が判明した元死刑囚、廃止運動をおこなう市民グループや国会議員、身内を殺された被害者遺族や存置論を展開するノンフィクション作家らに会い、話を交わす。そうして日常の外側にある死刑の実体と、関係者の心理を読者の目の前に再現してゆく。

 「最初は廃止か存置かという論理を確かめたいと思って人と会いましたが、取材を重ねるにつれ、死刑にかかわる人の思いは社会的な理屈で割り切れるものではなく、徹底してパーソナルで、揺れや軋(きし)みのままに強い意思や感情が付随します。するとこちらも同じ振幅で揺れ始め、廃止・存置の論理よりも、死刑制度の裏に潜む死に向きあった人間の姿を記述しようと思い直した。僕のノンフィクションはいつもそんな首尾一貫しない直接話法になってしまう。でも物事を整合して結論まで示すジャーナリズムを体現するより、そうなることで消えてしまう人の微妙な心理や表情を伝えたかったのです」

 森さんは映画監督だ。編集された活字からでは分からない人のためらいの仕草や喜怒哀楽の表情を写し撮ることを、ものを書く方法とすることに何の不思議もない。「死刑を直視し、触れ、さらに揺り動かしたい。余計なお世話かもしれないけれど」と書かれている。実感を決して手放さずに対象や人間と向き合う方法と、現場に自然に溶け込むことができる個性が端的に現れている。

 「先進国の趨勢(すうせい)に反して、今の日本の市民は大半が死刑容認です。オウム真理教事件や後に続いた少年犯罪、9・11などで体感治安が悪化し、それに行政も司法も引きずられて危機管理を強め、厳罰主義が加速した。でも何が、誰が自分に不安や恐怖を与えているのか、本当に治安が悪くなっているのか、死刑制度がその回復に役立つのかは、メディアが流す情報や分析だけに頼らず、曇りない目で見て感じて考えてほしい。日本人は戦時中も戦後も群れを作って同じ方向を目指して進んできた。だからその群れからはぐれることに不安を抱き、群れの均質を乱す者を排除したがる。でもそんなことが続けば、ますます息苦しい社会になってしまう。死刑を考えることは日本人を考えることでもありました」

 社会や人間をまっとうにとらえる目に裏打ちされた鋭い批評も展開する。放置すれば暴走する多数派の言動に警戒しながら、世間やメディアが排除したり、隠したりしているものを正面から見据えようとする。

 「そもそもKYですから、必ずワンテンポ遅れるんです」と言う。遅れても社会との接点を持ちつづけ、情報や理屈に頼らずに具体的な人間関係を築くことの方が大切で有効な時代になってきたようだ。『死刑』と並行して書いた『ぼくの歌・みんなの歌』(講談社)は、一人称で時代や社会と斜めに向き合った天の邪鬼(じゃく)のミュージシャンたちのポップスを、自分の体験と絡めて読み解いたエッセー集だ。

 『死刑』の最後の記述は、「どんな人間でも出会った者を、僕は死なせたくない」というものだ。どこか飛び越えた結語だが、孤立し矛盾する人間存在への理解とこだわりが、しっかりと感じ取れる。 (大日方公男)

 

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