■追加経済対策が発表された。これについてはウェブで速報しているので、よくごらんください。正直、私はこの対策が吉とでるのか凶とでるのかわからないよ、まだ政治部一年生の修行中の身だから論評は差し控えさせていただく。ただ、個人的には赤字国債はやらない、ということと、消費税アップを言明されたことはよかったのではないか、と思う。
■ところで、なんか前エントリーのコメント欄がすごいことになっている。けっして、コメントに腹をたててエントリー更新をボイコットしていたのではなくて、本当にやることがたくさんで、忙しかったのだが、これをどうしよう、と思案して、いちおう読者のお声だから、できるだけお答えすべきかな、と。
■で、コメントにひとつひとつお答えすることが時間的に難しいので、ここで私のスタンス、考えを披瀝ておく。ちなみにコメントは2回までというルールは生きている。自分の意見を整理し、妙な応酬の泥沼になることを避けるため。イザのコメント欄はコメントが増えすぎると、システム上の問題として読めなくなるし。というわけで、議論したい方は自分のブログで自説を展開してくださいませ。
■このブログを長らく読み続けている読者は、私の言論の自由、報道の自由、新聞というものの役目についての考え方はうすうす分かっておいでだと思うが、新しくいらした読者も結構いらっしゃったので、過去エントリーの繰り返しになる部分もあるがお許しを。
■コメントの中で、私を女の敵とおっしゃった方へ。
■まず、批判を承知で私のスタンス、気持ちを正直にいおう。自分の所属新聞社の論調にそった質問をしただけで、ネット上で実名をさらされ、写真も添付され、匿名の大勢から罵倒され人格に対する誹謗中傷を行われたのをみて、かばいたくなったというのが正直なところ。もちろん男だって擁護したくなるだろうけど、私は、特に女性には優しい。私の回りの女性たちはみんな、そういう。私の近くにいると、男友達いらない、と。そりゃそうだ、並の男より、親切だし、頼りになるし、金払いもいいし、女の子を甘やかすのがうまい。
■もちろん、子供にもお年寄りにも優しいよ。女だから甘えるな、あるいはそんな女を甘やかすやつがいるから、女性の地位が向上しない、といろいろ意見はあるかと思うし、私は自分がフェミニストだとも思わない。けれども、女性に優しくする、それは私が40年、生きた中で培った美学だから仕方ない。女性が美しく笑っていられる社会、それが社会の成熟度のバロメーターだと思っている。私は、女性が背伸びして男社会にむりやり自分をあわせて、がんばっている姿をみると、自然と味方になるし、励ましてしまう。
■一方、女性に優しくできない、女性を甘やかせない男をみると、なんだ、こいつと思ってしまう。仕事の場で女も男も関係ない、という人もいるけれど、仕事中だって女性は女性だ。毎月生理は来るし、年をとれば更年期だの不定愁訴もある。それは間違っているといわれても、申し訳ない、今更かえられない。甘えているといわれるかもしれないが、仕事だからといって女を捨てなければならないとしたら、悲しすぎる。正直、これが少子化の原因のひとつかもよ。実際、私はあらゆる場面で女性を捨てることを求められてきたので、自分より若い世代の女性たちには、できるだけ自然体でいられることを願っている。
■というわけで、私はこれからも女性を甘やかす。そして、甘えられることも歓迎する。親しい男性には、女性を甘やかせと、教える。生意気でいけ好かない女がいたら、ちょっと甘やかしてみろ、と。そういう鼻っ柱の強い女ほど、簡単に陥落するから、と。女を甘やかすのがうまい男をみると、お、こいつやるな、と思う。ずっと競争社会の中にいて、うまく女を甘やかせる男にたまに出会うが、そういう男はおおむね余裕があって、能力が高い。産経新聞内でもごくごく少数だが存在する。
■自慢じゃないけれど、もし私が男だった、もう入れ食い状態だ。男は甘やかされると「バカにするな!」と反発するが、女性は甘えるのもうまい。(もちろん、厳しくされる方が快感だという女性もいるが)。だから、男からはライバル心や敵愾心をぶつけられたことはたびたびあるが、女性から女性の敵といわれたことは、今回が初めてだ。しかし、なかなかいい響きだ、女性の敵。なんか、もてもての悪女になったきぶん。
■バカな質問をする記者を擁護したことが腹立たしい、メディアのかばい合いだ、という方へ。
■まず、記者はナイーブ(幼稚)な質問をしてよい、と私は思う。というより世界中どこでも、ナイーブな質問をする記者はいるし、私もしてしまう。わざとする記者もいる。半分わざと。半分いやがらせ。小馬鹿にした口調や慇懃無礼な口調も。欧米の記者などは、相手がいかに権力者であろうと、いや権力の高みにいる相手こそ、公の場では挑発して見せようとする。彼らの姿をみて、記者とはそういう職業なのだと、私は認識していた。
■絶対正義、絶対悪など世の中にほとんどない。私は北海道新聞に多数の読者がいる以上、北海道新聞の社説やスタンスが絶対間違っているとは思っていない。産経新聞とは対極にある、というだけだ。新聞が同じ論調、スタンスでなければいけない、なんて独裁国家じゃあるまいし。それにこの質問しちゃだめ、などと言論の自由を規制するような発言を新聞記者自身がいえるわけがない。それは報道の自由という、私たちにとっての金科玉条を否定することだ。それに、私は職務に忠実な人間は、もともと好きである。以前のエントリーにも書いたが銀河英雄伝説で一番すきな登場人物は、嫌われ者のオーベルシュタインである。
■異論を呈すること、自分が同意できない質問であっても、その質問をすることを妨げない。権力者に対して、記者はあらゆる質問がゆるされる、それが自由社会の誇りだ。ただし、これは建前で、日本の報道の自由が実はそこまでのレベルに達していないこともわきまえている。暗黙のタブーの質問というのはあるのだ。だから、日本の報道の自由度は国際社会の中では、そんなに高くない。しかし、今回の北海道新聞の質問はその暗黙のタブーに類するものではないと思う。また、言葉遣いは丁寧であった。最低限の礼儀は守っていると思う。
■世界中、あらゆる国で権力者は、記者から意地悪な質問を受ける。コメント欄で書き込んでいる方もいたが、実際、その意地悪な質問をいかにスマートにかわすか、あざやかに切り返すか、多くの民主国家では権力者は研修をうけたり、訓練するそうだ。それが、大きな権力を持ち責任をになうリーダーの資質の一つとみなされている。これは大企業、多国籍企業のトップもおなじことで、私の知り合いのリスクマネージメント会社社長は、北京の外資系企業トップに対して、記者会見の記者のあしらい方の研修を行っていた。
■事実がどうかは別にして、建前として記者は権力に対等に向き合うことができる。だから第3の権力と呼ぶ。たしかに、日本のように若い未熟な記者が最高権力者に直接質問する国は少ないかもしれないが、ベテラン記者だって、ナイーブ(幼稚)な質問をする。彼らの目的は権力者を怒らせることで、その本音を引き出すために、わざとナイーブな揚げ足をとるような質問をするのだ。問題の本質とは違う、そういう質問をする、それは新聞記者として正しい姿か?と問われれば、異論はあろう。
■もし、読者が権力者の素顔、虚をつかれたときに思わずでる本音などをみたい、知りたいと願っているとしたら、それはメディアとして記者として真っ当な仕事のしかただと思う。もし読者、そんな意地悪な質問をして、権力者様をこまらせるな、権力者様はわれわれのために働いてくださってお忙しいんだバカヤロー、と思うなら、読者を味方にした権力者の勝ち、新聞は権力者におもねるしかない。
■ちなみに、福島がナイーブな質問、というのですぐ連想するのは、やっぱり江沢民・前国家主席に青筋をたてさせた香港記者の質問だろう。
■2000年10月、当時の中国国家主席の江沢民氏が北京で開いた記者会見で、香港記者から、「北京が支持したから、(来年任期が切れる)香港特別行政区の董建華行政長官の続投は当然ではないか?」との質問を受け、江沢民氏が「ユア トゥー シンプル、サムタイムズ ナイーブ」と青筋たてて怒ったのだ。この質問は、はっきりいって自明の理なので、わざわざ質問するようなことではない。幼稚というなら、そのとおり。もし江沢民氏が「香港の行政長官は選挙によって選ばれている」とふつうに切り返せば、ニュースにもならなかった。しかしキレた江沢民氏は「香港記者が他国の記者より勝てるのはかけっこくらい」とか香港記者のレベルをこきおろす発言を延々つづけた。このニュースが香港でトップニュースになったどころか、世界中のメディアで取りあげられたことはご存じであろう。今も江沢民的ナイーブという言葉が、いろんな場面でメディアで使われるくらいである。
■江沢民様はお忙しいんだ、香港記者のあほな質問に怒って当然だ、という論調は国内でも少なかった。なぜ?つまり江沢民氏が国民の支持を得ていなかったということである。そして、今回、麻生首相の夜会合のニュースを報じたマスコミ、記者にこれほどご批判が集まったのは、支持率が下がっているといわれている麻生首相は実はコアなファンが大勢いて、国民に人気のある宰相でるということに証明にはなろう。
■マスコミをマスゴミと呼ばれる方へ。
■読者が、そのマスコミを否定、批判、論評するのはかまわない。というか当然の権利である。反対であれば、新聞を買わなければいいし、読者には不買運動をネットでよびかける自由もあろう。匿名読者が記者個人の名前や顔をさらして批判するのも、うーん、ありかもしれない。記者とはそういうことを甘んじて受けねばならない職業なのかもしれない。第3の権力だからね。まあ、私は同業者をかばうとかそういう問題ではなくて、誹謗中傷を受けている個人を擁護したいだけだったが。
■では、記者という、権力者に直接相対する権利を与えられた人間は、どのような質問をするのが理想的か。それは読者の聞きたいことを聞くのが理想的だ。私は北海道新聞読者が、夜会合について質問して欲しいと思ったのかもしれない、と理解している。質問が野党に利用されている、政権を悪意をもって傷つける質問だ、と怒るのは、それはイザ読者が麻生内閣支持者の立場から見ているからであって、北海道新聞読者には民主党支持者が多いのかもしれない。その読者にあわせた質問を記者としてすることを、どうして私が個人として批判できよう。産経新聞がそのスタンスの違いから、北海道新聞を批判するのはかまわないとしても。
■産経が劣化している、という方へ。
■何が正しい、正しくないという基準、何が国益に合致しているかしていないか、といった基準の多くはスタンスの問題であり見方の問題であることが多いから、私は自分の原稿が直されてもいいし、産経の主張が自分の意見とずれていても、まあ、こういう見方もあるわな、と社の論調に会わせた記事を書く。おおむね納得しているけれど。ただ、ブログは、記者の個人の意見を書いてよい、と社から許可を得ている。産経新聞社は記者個人の言論の自由を認めるというスタンスなのである。それゆえ、ボツ原稿もこのブログで収容できる。というわけで、私がブログで書いていることは私のスタンスでの意見で感覚であり、産経の許可を得ているが、産経を代表する意見ではない。だから、このブログで書いていることが気に入らないからといって、産経が劣化しているとは思わないでほしい。
■で、思うに、日本の新聞は良くも悪くも完全なる商業ジャーナリズムである。社会の公器、といっても、それは読者が新聞にそうあるべきことを求めるからだ。もし読者が新聞に社会の公器たることをもとめなければ、すぐに堕落する。オピニオン・リーダーといっても、読者の価値観と乖離しているオピニオンは絶対出ない。新聞が世論操作をしている、世論をあおっている、という言い方があるが、視聴率を稼ごうと、読者を増やそうと、世論や匿名読者にメディア、新聞が踊らされる部分もある。
■というわけで、新聞を堕落させるも、正道にもどすも、読者次第だ、と言わせてもらう。もし産経読者が産経はへんになった、堕落した、と考えられるなら、そう主張する場が、イザにはある。コメント欄が手狭なら、ご自身でブログを開設されて、そう主張されるのがいい。それで産経が再びよくなることもある。産経新聞は、かなり気にしながら、イザ内の読者の声をチェックしているはずだから。そういう意味で、産経は、あまたある新聞の中ではかなり真面目に、読者の期待に応えようと努力している新聞だと思う。
■そして、読者のみなさんが、これほど主張しても、それでも産経が〝正道〟にもどりそうになかったとしたら、それは産経の読者層が変わってきている、ということではないだろうか。産経が読者の反応を吸収する場はイザだけではない。販売店の感触とかが結構大きい。その中で、これまでの論調や記事スタイルでは部数が減る、もっとナンパなネタを増やそう、リベラルっぽくなろう、と判断されれば、そうなることもあるだろう。
■とりあえず、もうしばらく静観されてから、産経の方向性を見極めてから、支持するか見捨てるかを判断されてはいかがかと思う。ちなみに、バーのルポは、私もあまりデキは良くないと思いつつ、まあ偉そうに人の原稿にケチをつけることもできる立場ではありませんので。
■新聞社入社がコネばかりだと信じこんでいらっしゃる方へ。
■コネ入社がまったくないとはいえないがコネ入社では有用な人材が集まらないのはどの業界も同じだろう。ちなみは私はコネではない。父はサラリーマン、母は専業主婦。家はずっと読売新聞を購読。もちろん入社面接で、家は読売新聞をとっていますなどと正直にいってはならない。
■新聞記者がブンヤに甘んじていてはいけない、と思われる方へ。
■私が若かったころ、大ベテランの先輩記者に、新聞記者の仕事はゴミみたいなものだ、思え、と教えられた。それについて、記者の仕事に理想をもっていた私は激しく反論した。自分の仕事をゴミだと思ってやってられるか、と。しかし、先輩はいう。「
■今、先輩のことばを思い出すと、なんとなく、彼の言いたかったこともわかり、すなおに自分の仕事はゴミのようなものだ、と思うことができる。時に人も傷つけることがある記者の仕事は必ずしも人に自慢できる仕事ではないし、社会に有用であると信じて発信している情報も1日たてば人が振り返りもしないゴミの山である。権力に近く、あるは第3の権力とよばれるほど影響力があるからこそ、自分たちの仕事は実は大量のゴミを作っているにすぎない、という少々卑屈なまでに謙虚な意識が必要だと思う。
■先輩は、記者が自分がえらい、正しい、りっぱな仕事をしていると、と思ったら終わりである。そう言いたかったのではないか。ペンは剣より強し、新聞が政治をつくる、と教えるベテラン記者もいるなかで、彼の言葉は私にとっては最も重く、いろいろ思い出しては自分を戒めている。ちなみにその先輩が私に言ったもう一つの言葉は、「記者は権力者の近くにいるので、自分を権力者だと錯覚することがあるから気をつけろ」。権力に相対することが出来る権利を有するのと、権力をもつのとは違うのだということは、いつも自分に言い聞かせなくては、と思っている。
■毎日つくる新聞にある無数の記事の中でどれかひとつでも、読者の誰かの心にとまる記事があればいい。ただ、その記事ですら、翌朝になれば役目をおえた石炭がらなのである。私が先輩から教わったの新聞記者の美学とは、華々しく特ダネをとることでも、社会の木鐸たることを誇るでもなく、日々、誰かに読まれて、そして捨てられてゆく運命の新聞を、ときに誰かを傷つけることがあっても、ひょっとしたら別の誰かの役にたっているかもしれない今宵かぎりは、と信じて体を張って作り続ける、ということだった。私がそのような記者である、とは言い難いが、そういう仕事をしてきた先輩を今も一番尊敬している。
■最後に、麻生首相、麻生内閣について。
■私個人は官邸記者クラブにきたばかりで、目下修行中の身。日本の政治や政治家について論評できる見識はまだ、もっていない。漠然と民主主義は社会主義より好ましい、と思っているくらいだ。だから麻生首相についても漠然としたイメージしかもっていない。
■先日、「太郎さんの秘密」という本を読んで、へぇ~、面白い人だと、ごく平凡な感想をもっている。誰かが言っていたが、3メートル以上はなれて麻生首相をみるとバカにみえるが、半径1メートル以内に入り込めば心酔する、そういう人物らしい。半径1メートル以内に入るのは難しいですか?と、周辺の人に聞いたら、難しくはないが、そのエネルギーについていくのが大変、だそうだ。しかし、そういうエネルギッシュな部分はリーダーの必須条件だし、病弱なリーダーは確かに困る。中国の指導者はどんなに歳をとっても髪を真っ黒にそめる。自分を元気に見せる、これは国家指導者の第一条件だ。
■麻生首相の演説は面白いと思う。易しい言葉で自分の考えを伝えようという意気込みが伝わる。時間の許すかぎりぶらさがり取材に応じてくれる姿勢も、記者として歓迎すべき点だ。
■ファッション、見た目はいいほうだと思う。着こなしなどはスタイリッシュで、外交の場では、こういうスタイリッシュさは絶対有利だろう。英語もお上手らしい。そんな外見、関係あるのか、と怒られそうだが、関係ある。そういうもの、パブリックイメージというのは、外交においてものすごく影響力があるのだ。つまり、中国国民がテレビで映った日本首脳をみて「アソウさんかっこいい!」と思えば、外交は半分成功したようなもの。どちらかというと強面の麻生首相は海外ではタカ派ととられていたようだが、先日のASEM外交ではそういうイメージは払拭されたようだ。海外でも若者の間では「ローゼン閣下」の名前で知られており人気がある。外相経験もあるし、英語も得意であれば、外交ではポイントがあげられそうな条件、ムードを持っていると思う。
■というわけで、どちらかというと好ましく感じているからこそ、失言などは心配している。べらんめぇ調は個性だが、記者あしらいは、ファッションと同じくスタイリッシュに決めてほしい、と思うのは、お忙しい首相閣下に過分な願いだろうか。だが、いうだけならタダだから、いってしまうと、皮肉や嫌味もいいがプラス、ウィットは人に大物の印象を与えると、思う。これは愛しの胡錦濤国家主席閣下にも伝えたい。会見場に大紀元記者が紛れこんでいても、ウィットで切り返せるようであれば、欧米社会の中国への評価は変わると思うよ。朱鎔基首相なら、うまくやっていたかな?
■しかし、2回も続けて政権を放棄した自民党に依然、執政党として一番期待せざるを得ない日本の政治
■民主党寄りの友人は「民主党の人材も磨かれる場が必要なのだ」と主張する。つまり与党となって、野党からいちゃもんつけられ、記者からナイーブな質問を浴びせられ、自身にどういう能力が必要か思い知る場にたたされて磨かれなければ、民主党はダメになる、と。そうなれば日本の民主主義の損失、いや崩壊ではないか、だからもう一度くらい、民主党に政権を任せたい、と。
■解散・総選挙がいつになるかは、まだ分からないが、意義のある国民の審判が下されることを願う。
by yinguo
中国が世界同時不況に貢献する…