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2005年06月10日号

特集インタビュー 「福沢諭吉の真実」の著者 平山洋氏に聞く

平山洋氏「アジア蔑視・侵略の肯定」福沢の真意にあらず
福沢全集 弟子が時局に合わせ編纂

 晩年の福沢諭吉(一八三五~一九〇一年)に付けられた“アジア蔑視”や“侵略家”というイメージは、実は、ある一人の人物の作為により捏造されたものだった――。静岡県立大学で助手を務める平山洋氏は、その著書「福沢諭吉の真実」(文春新書)の中でこの事実を論じ、現在、福沢研究において反響を呼んでいる。なぜ福沢に、アジア侵略家のような悪いイメージが植え付けられてしまったのか。今回、平山氏に直接会い、話を聞いた。


福沢研究に重大な見落とし

――著書「福沢諭吉の真実」によると、福沢のアジア蔑視というイメージは、一人の人物によって捏造されたものだということですが?
 私の考えでは、従来の福沢研究には、重大な見落としがあります。それは、現行版「福沢諭吉全集」(全二十一巻、一九五八~六四年刊行)のうち第七巻までの著作と、第八巻から第十六巻の「時事新報論集」とは、そこに収められた経緯がまったく異なっているということです。第七巻までは福沢の署名入り著作であるのに対して、「時事新報論集」はその大部分が無署名です。この「時事新報論集」は大正版「福沢全集」(全十巻、一九二五~二六年)と昭和版「続福沢全集」(全七巻、一九三三~三四年)からそのまま引き継がれ収録されているものですが、有名な「脱亜論」や、「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」(いずれも一八八五年)といった福沢のアジア蔑視と読み取れる社説が初めて採録されたのは、昭和版「続全集」です。一八八五年に「時事新報」の紙面に掲載されてから四十八年もの間、誰にも読まれることなく古新聞の山の中に埋もれていた社説が、突如、一九三三年刊行の「続全集」で姿を現した訳です。福沢の死後、この大正版と昭和版の全集の編纂を手がけたのが誰かというと、福沢の弟子の石河幹明(一八五九~一九四三年)という人物です。実はここに大きな問題がありました。

 石河は、一八八五年から一九二二年まで「時事新報」編集部に所属していた新報社の生き字引のような人物でした。福沢からは実務者としての評価は得ても、「時事新報」の主筆を任せられるような期待はされていませんでした。ところが、福沢が一八九八年に脳卒中で倒れてからは、石河が一手に論説を引き受けたと予想されるのです。

 石河は大正版と昭和版の全集の編纂をしたのですが、それは公正にされたものではなかったのです。一八九八年に、慶應義塾の在学生向けの教科書として編まれた福沢の論説・講演集「修業立志編」が刊行されたのですが、石河は、その福沢真筆の論説までも省いて、大正版「全集」に無署名の「時事論集」を編んでいるのです。昭和版の際には、さらに自分の都合のいいように編纂されていることは想像に難くありません。つまり、石河の立場から編纂されたのが全集の「時事新報論集」だといえます。

 文体判定から言うと、日清戦争(一八九五年)以降の部分はほとんど石河の書いたものが取られているように思えます。そこには、日清戦争後に日本領となった台湾で武装蜂起した現地人など皆殺しにしてしまえ、といった内容の「台湾の騒動」(一八九六年)のような酷いものがあります。

 「脱亜論」は私も福沢の真筆だと見ていますが、なぜそんなに批判したのかというと、これは当時の韓国の情勢において、甲申政変で民主化運動が弾圧され民主派が処刑されている状況を指して、朝鮮政府はひどいし、背後から煽っている中国はひどいということを書いているのです。そのような歴史的文脈を抜きにすると、ただ単に批判、蔑視があったというふうに見えてしまうのです。

全集出版時の時局を反映

――なぜ石河はそのような偏った編纂をしたのでしょうか。
 石河は、天皇研究の盛んだった水戸藩出身で天皇への崇敬心が甚だ深く、また、中国人や朝鮮人に対する民族的偏見が非常に強くありました。そんな石河にとって福沢は、国権拡大を訴える先見性のある戦略家でなくてはならなかったのです。

 また、「続全集」が出された時期が昭和八年(一九三三)だということが、大きな意味を持っています。一九三三年というのは、ナチスが成立する時期で、世界的にファシズムが台頭してくる時期です。ですから、日清戦争でどんどん海外を侵略せよ、といような意見を石河が書いていたようですが、それを「続全集」に入れるというのは、当時の時局にかなっていました。「続全集」が出ることによって、一九三〇年代の時局にとっては、福沢というのは先見の明がある、非常に都合のいい思想家となるのです。ですから、時局にかなわない福沢の論説はすべて全集からは省かれたはずです。ところが、一九四五年に敗戦を迎えた後には、「続全集」が残っている訳ですから、福沢はひどい奴だという話になります。それで戦後は、福沢が叩かれることになりました。

戦後、左翼が糾弾の材料に
――石河の過った編纂により、福沢は侵略家、アジア蔑視というレッテルが貼られてしまった。
 二〇〇一年に、福沢批判で知られる安川寿之輔氏が、朝日新聞に福沢批判の投稿を載せました。私がそれに反論して、意見のやりとりをしました。そこでわかったのは、福沢批判側の決定的な根拠は石河の全集しかないということです。石河よりも遡る根拠は何もありません。石河が言っているから正しい、としています。

 安川氏の著「福沢諭吉のアジア認識」の巻末には、安川氏が問題ありとした現行版「全集」の記述三百九十七例がリストアップされていて、そのうち安川氏がアジア蔑視と判定したのは七十九例、内六十六例が「時事新報論集」からでした。この一つ一つに対して、誰が執筆したのかを調べました。すると、福沢の真筆と確認できたのはわずか四編だけでした。先にあげた「台湾の騒動」のようなひどいものは石河起筆と推定できました。

 また逆に、「支那人親しむ可し」(一八九八年)という非常にアジアに友好的なものがあるのですが、安川氏はそれに「嘘」の判定を下しています。これは、掲載十日前の講演の様子が書かれているもので、間違いなく福沢執筆のものです。石河には、アジア蔑視のようなものを書くよう依頼して、自分が書くときはそんなことしてはいけないと言う。これは完全に矛盾しています。

 戦後、左翼陣営がこのようなことを根拠に福沢を悪者に仕立てているのですが、これは、福沢を否定することによって、日本の近代化を否定したいのです。明治維新以降、日本は一部の金持ちだけがアジアから略奪して豊かになっただけで、日本はまったくよくなっていないと。それを推奨したのが福沢だと言いたいのです。しかし、福沢が悪者にされるのは、筋違いです。大正版「全集」が出るまでは、時事新報論説抜きの福沢、つまり、最初に「学問のすすめ」があって、最後に「女性解放論」がある思想家と見なされていました。署名論説にしても、私が福沢真筆だと認定している無署名論説にしても、海外に膨張するという論説は一つもありません。しかし、石河執筆のものにはそれが出てきます。

――福沢はなぜ、石河を罷免にしなかったのでしょうか。
 石河は、早い時期から時事新報の編集部に入っていて、世俗に迎合的で、石河故に発行部数が増えたともいえます。石河を論説委員長にすることは非常にメリットがありました。ただし、石河は、その頃になるともう四十歳くらいで、六十歳の福澤のいうことは聞かなくなっていた、と私は見ています。そして、福沢はクビにしたくてもできなかったのです。新報社のオーナーは福沢で、社長は次男の捨次郎でした。その下に論説主幹の石河がいました。石河は、捨次郎を社長にするにあたり、それに賛成しました。福澤にしてみると、石河のおかげで、自分の息子を社長にしてもらったということになり、恩に感じていたのです。

 全集の信憑性を判断するには、そのときに時事新報編集部にいた何十人かの記者たちが証言すればわかるのでしょうが、石河は非常な長寿で、先に死んだ人間たちをどう言おうが誰も反論できないのです。ですから、自分は論説を、全幅の信頼をもって福沢先生の言うとおりに書いてきたと言えば、それはウソだと言える人は誰もいません。

現行版全集に「別巻」を
福沢の真筆と石河の主張 明確な区別が必要

――打開策として、何が必要だとお考えですか。
 今後やらないといけないのは、第一段階として、客観的な資料に基づいて、文体的に一〇〇%福沢真筆のものを選ぶことです。次に、書簡とかで証拠のある、福沢の意向を反映していることがわかるもののみを選び、カテゴリ分けをするのです。

 そして、現行版「全集」に別巻をつけるべきだと思います。このタイトルのものは、推定でカテゴリⅠだとかⅡだとか判断できるようにします。Ⅰであれば福沢真筆のものだから福沢思想の研究ができ、また、別のカテゴリを見れば、時事新報の全体の風潮をみることができます。時事新報の社説記事を読むと、福沢の思想とは切り離して、明治の世相が理解できるのです。その点では、「時事新報論集」として価値があると思います。ですから、そのための確定委員会を作って、一つ一つを確定しカテゴリで分け、福沢の思想を研究したいなら、署名入り論説とカテゴリⅠだけを、もし明治の時局をみたいなら八~十六巻までを通して見てくださいとすればいいのです。

 難と言えば、捨てられたものの方が、質が低いというのではないことです。後半部はほとんど石河が書いたもので、もっと優秀な論説委員がいたのですが、ライバルのものは落としてあるのです。石河は自分の文章を残したかった。そして、自分の政治主張に乗っ取るような福沢像を造ってしまったことに問題があったのです。

 アジア蔑視や侵略主義の部分は、福沢のオリジナルからみたらまったく関係ないものです。そして、このことを理由に、慶應義塾が引け目を感じる必要など、無論ないのです。


 【ひらやま・よう】一九六一年神奈川県生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業、東北大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。倫理学・日本思想史専攻。現在、静岡県立大学国際関係学部助手。著書に「福沢諭吉の真実」(文春新書)、「大西祝とその時代」(日本図書センター)、「西田哲学の再構築」(ミネルヴァ書房)がある。

◆参考資料(福沢・石河と各種全集について)

○福沢諭吉(1835~1901年)思想家、慶應義塾創設者、新聞「時事新報」総裁
○石河幹明(1859~1943年)「時事新報」主筆、「福沢諭吉伝」「福沢全集」「続福沢全集」編纂
○過去4回にわたって刊行された福沢全集
▽明治版「福沢全集」(全5巻、1898年刊行、時事新報社、福沢著作のみ収録)
▽大正版「福沢全集」(全10巻、1925~26年刊行、国民図書、石河幹明編纂)明治版に未載単行本ほか、新たに「時事論集」(大部分が無署名論説)が編まれる
▽昭和版「続福沢全集」(全7巻、1933~34年刊行、岩波書店、石河幹明編纂)大正版の遺漏が収められる。「時事論集」(第1~5巻、大部分が無署名)、「書翰修」(第6巻)、「詩文集」(第7巻)で構成
▽現行版「福沢諭吉全集」(全21巻、1958~64年刊行、岩波書店、富田正文(石河幹明の弟子)・土橋俊一編)大正版と昭和版を併せ、さらに遺漏を増補。第7巻まで署名著作、8~16巻を大部分が無署名著作の「時事新報論集」が占める

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