2008年 11月 14日
村山談話と盧溝橋 |
核心部分は、
「いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」
というものである。外務省の英訳ではStatement by Prime Minister Tomiichi Murayama"On the occasion of the 50th anniversary of the war's end"(15 August 1995)となっており、ステートメントだから談話と言うより声明である。
この談話に先立って、同年6月9日に衆議院本会議で可決された国会決議「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が行われている。終戦五十年決議、不戦決議とも呼ばれる。当時の村山内閣(自・社・さ連立政権)の与党である院内会派3派により共同提出されたが、日本社会党と土井たか子衆議院議長の主導で行われた。衆議院議員502人のうち251人が出席し、230人の賛成(起立採決)により可決された。
その決議の全文である。
「本院は、戦後五十年にあたり、全世界の戦没者及び戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。 また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。 我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社会を築いていかなければならない。 本院は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を携えて、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。 右決議する。」
両方とも同じような趣旨である。小生もこのようなステートメントを政府が行わなければならなかったのかどうか非常に疑問を感ずる。戦後50年の節目の時期に、村山内閣という社会党主導の政府を持っていたというのは、盧溝橋事件の際に、現地軍の連隊長が運悪く牟田口廉也だったのと同様に日本にとっては不運だった。
このことによって、中国や韓国の執拗なナショナリズムに塩を送る結果になったからであり、盧溝橋にある抗日戦争記念館には、小生の記憶では村山富市の写真が大きく飾られていたからである。
日本は、このような談話や決議は,あえて行う必要性がなかったかもしれない。
なぜなら、日本政府は既に、1945年8月15日時点において
朝鮮 702億5600万円
台湾 425億4200万円
中国 東北 1465億3200万円
華北 554億3700万円
華中・華南 367億1800万円
その他の地域(樺太、南洋、その他南方地域、欧米諸国等) 280億1400万円
合計 3794億9900万円(当時の円換算)
の対外資産を賠償として差し出している。
これに加えてサンフランシスコ条約1955年に基づき、東南アジアに対して、合計で3643億4880万円(賠償協定締結時の円換算)を支払った。中華民国(現台湾)は、別途で日華平和条約(1952年)を日本と結び、その議定書において賠償請求権を放棄している。韓国に対しては敵国でなかったので1965年に1080億円の経済援助を行っている。
いずれも、当時の日本の国民総生産額と比較したら莫大な賠償額である。
その上、何故、村山談話が必要であったのだろうか?内容そのものではなく、談話を出すこと自体がおかしいという主張には一理ある。
しかしながら、村山談話の核心部分を否定する立場の人や、田母神空幕長が言うように、日本は悪くなく、蒋介石やルーズベルトの罠に嵌められた被害者にすぎないと主張するのならば、まず、村山談話の内容を否定する前にこれらの戦後賠償については、早急に返還請求の運動など起こしてから、村山談話及びこれを踏襲する政府の歴史観を否定するべきではないのか。
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今日は、盧溝橋に行く予定の日、いつものように早起きして,北京の宣武区広安門内街にあるホテルの近くを散策しに出かける。前の日の朝はホテルの南の方に行ってみたので,今度は広安門大街を向こうに渡って北の方に行ってみることにした。大通りを突っ切って家並みの中に入ると朝から開いている市場があった。肉類や野菜類を売っている。ここでも薔薇の花茶や小菊の花茶などのお茶を買った。小菊の花茶はビタミン類が多いせいが体によいらしく,漢方薬局の窓口でも売っていた。市場に隣接して胡同の街が続いている。入口の伝統的な張り紙,町内のお知らせのような掲示板などがあり,漢字で何となく意味が読み取れて面白い。屋台で塩味の効いたお好み焼きのようなものを買って皆で分けて食べてみる。胡同の街めぐりをし,広安門大街に向かって南下すると寺の境内で骨董の市が立っていた。古銭を収集するのが趣味の人や陶器が好きな小生には嬉しい偶然である。珍しい銀貨を数枚手に入れてこれは本物に違いないと言っているひともいた。小生は明らかに偽者であったが安い陶器に気に入ったものがあって値切って買った。
バスに乗って北京の西の郊外に向かう。途中新しく完成した豪壮な北京西駅が見えた。盧溝橋は,日中戦争勃発の引き金になった盧溝橋事件の起きた場所であるから,どうして北京の西の方角に行くのかわからなかった。当時日本は満州を支配していたから,日本軍が進出していたとしても東の方からなら理解できるが,盧溝橋は北京のかなり西のはずれ約20km南西の方にある。後日,調べてみると日本軍が北京の西郊の盧溝橋に駐屯したのは,1899年の義和団の事件の際に無政府状態になった北京の中にいた自国の外交官や居留民保護のために各国の義勇兵が出動した時からであった。時の支配者西太后は,暴徒を取り締まるどころか反対に扇動し自分は西安に逃げた。その事件が終結した1901年の北京議定書によって駐留が認められていたものだった。盧溝橋事件が起こったのは1937年であるから,40年近く平和的に駐留していたことになる。1発の銃声によりその平和が破られたのであるが,その銃声はどちらが先に撃ったかはっきりしていない。共産党の謀略説も依然根強い。盧溝橋事件の後,太平洋戦争の終結まで,7年間は,北京を中心とした華北地方は,満州と同様日本の植民地と同様になってしまった。北京には日本の中学校や女学校もできた。満鉄の子会社の華北交通などの国策会社が鉄道を中心とした主要産業を支配した。反面,農業指導のような近代化にも努めた面はあるようだ。しかし,満州のみならず中国本土の中心部である華北を植民地化し、欧米の租界を強制閉鎖したり、アメリカの艦船を攻撃したりした結果,アメリカ,イギリスと決定的な対立へと向かうことになり,帝国の崩壊の主たる原因となった。
盧溝橋に近づくと橋の両側には集落が続いている。その中に古い城壁と楼閣が見えた。これが日本軍が事件当時,最初に占領した宛平県城址であろうか。バスを降りて橋の東詰めに行くと橋のたもとに乾隆帝の「盧溝暁月」の石碑が建っている。橋の入場料一人8元。
盧溝橋は,北京八景の一つで月見の名所であったらしい。橋がかかる永定河には冬場のためだろうかほとんど水が流れていない。川幅は橋の長さの260.mとほぼ同じである,橋桁は11のアーチからなっており,欄干の柱の上にはそれぞれ異なる容姿をした獅子が485匹いる。1192年の金の時代に架けられた橋で,当時は江南地方に向かうときには必ず通る橋だったという。元代に此処を通って北京城に入ったマルコポーロは「世界中でこれほど美しい橋は見たことがない。」と「東方見聞録」に書いているというが,実際の橋は歳月を経て何かくすんでおり,石ころだらけの水の無い河原とともに風情がない寒々とした荒涼の世界である。しかし、貴重な文化遺産であるためか欄干の手前には鉄柵でガードしてある。東の入り口から西側に渡り,河原に下りて下からアーチを眺めて記念撮影を行った。
その後,橋の両側にあるたくさんのお土産やを冷やかして宛平城県城内にある「中国人民抗日戦争記念館」を訪れた。入場料は一人15元。小泉首相が平成13年10月に訪れた所だ。日本軍の侵略の全容を立体映像や写真資料で展示してある巨大な施設である。入口ロビーには日本軍による死者3,000万人と赤い立体的な活字により大書してある。東京裁判の当時は,300万人と主張していたそうだがどうして10倍に増えるのか。国共内戦や文化大革命での犠牲者などを入れるとちょうど3,000万人ぐらいになるだろうと一部の中国人も言っているそうだが,中国共産党の公式見解は,この国営の施設に書かれているとおり日中戦争の被害者3,000万人だ。そのうち3億人と言い出すかもしれない。写真の展示も怪しいものが多い。どう見ても日本軍の正装とは言えない軍人が出てきたりする。売店には日本軍の蛮行を暴露した日本人の書いた本が並べられている。本の表紙にはうなだれて反省している著者の写真が大きく載っている。日本では全く無名の著者だがここでは写真入で大先生の著書ということで宣伝されている。これらの人はたいてい日本で元上官らに名誉毀損で訴えられて敗訴している手合いだ。終戦後,共産党による教育を受けて洗脳され日本に送り返された人も多いという。
記念館の近くには,抗日記念彫塑公園があるのでガイドに見に行きませんかと言われたが,北京市内をもっと見物したいし,買い物もしたいので断った。彫塑公園の方には原爆を落とされても壊されない高さ4m以上,幅2mのブロンズの像によりこれでもかこれでもかというほど日本軍の残虐行為を主題にした彫刻を38基造って昨年オープンしたという。彫刻の基底部にあるプレートの英文の説明にはJAPが,JAPが,と旧敵国でも他の国では絶対に使用しない蔑称が何回も出てくるという。これも国立の公園であるから,いくら日本が謝って巨額のODAを捧げても中国の対日認識は,周恩来や郭末若など日本留学経験のある指導者がいなくなるに従って,どんどん悪い方へエスカレートしたのかもしれない。
(日本のODAが世界一になったのは1989年のことで、ネットウヨの言うよな村山談話1995年のせいではなく、外務官僚とJICA及びヒモ付きゼネコン等の利権拡大によるものと思う。:後に追記)
しかし,日曜日にもかかわらず,抗日記念館は閑散としており,我々以外の見物人は全くと言っていいほど見かけない。一般の市民は共産党のプロパガンダに関してある種の胡散臭さを感じ,白けているのかもしれない。どっちにしろ中国の人もこんな所には,学校から強制的にでも連れて来られない限り行く気持ちも起こらないような代物なのだ。侵略戦争については反省する必要があるし,戦争は人間を狂気にすることもわかる。しかし,こんな施設に巨額の費用をかけてどうするのか?対外宣伝,国内教育のためとはいえ滑稽な感じがするし,未来志向の日中関係を築くためにはどうもそぐわない感じがした。
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