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【コラム】「親日派」洪蘭坡の断罪は正しいのか(下)

 民族問題研究所は今年4月、『親日人名事典』に収録する4776人のリストを公開した。その中には洪蘭坡の名前も含まれていた。日本統治時代の末期に親日派の団体に加入し、日本をたたえる歌を作曲したというのがその理由だ。晩年のたった3、4年の間の経歴のために、洪蘭坡は「親日派」と決め付けられ非難を浴びることになった。京畿道で1969年から開かれている「蘭坡音楽祭」のウェブサイトには、「親日派の名前を冠した音楽祭を開くなんて、一体何を考えているのか」という抗議が殺到した。

 しかし、35年にわたる日本統治時代は、洪蘭坡のような人物を「親日」「反日」の二分法で断罪するにはあまりにも難しい時代だった。何よりも洪蘭坡を抜きにして、韓国の歌曲を語ることはできないほど、音楽史に残した足跡は大きい。『成仏寺の夜』『あの丘に登って』『春の乙女』『船頭の歌』『長安寺』…日本統治時代から現在に至るまで、韓国人が心のよりどころにしてきた数々の名曲は、洪蘭坡の手によるものだ。「国民の童謡」として親しまれている『故郷の春』や『昼に出た半月』『どぶんどぶん』などもそうだ。

 洪蘭坡が音楽史に残した功績が大きいからといっても、その親日派としての前歴を帳消しにすることはできない。洪蘭坡を「朝鮮歌曲の先駆者」「近代音楽の先駆者」としてたたえるために残されたその旧宅にも、親日派としての経歴を示す資料は展示されている。1937年、独立運動団体「修養同友会」のメンバーとして日本の警察に連行された後、親日派に転向する論文を発表し、日本の軍歌を数曲作ったというものだ。だが問題は、こうしたわずかな過ちのために、「親日派」と決め付け、その人生や業績をすべて否定し、歴史から消し去ろうという極端な論理がはびこっていることだ。今や、困難な時代を生きた洪蘭坡の生きざまを、バランスの取れた視点で見詰め直す寛容性を、韓国社会も持つべき時ではないだろうか。

 「後世に生まれた者の特権として、先の時代を批判してはならない」という、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの警告は今も生きている。「自分が同じ立場にあったとしたら、どんな行動を取っただろうか」と省みる視点が抜け落ちた「親日」論争は道徳的な偽善でしかないというのが、過去数年間に「高い授業料」を払って得た教訓であるといえる。

キム・ギチョル記者(文化部次長待遇)

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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