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不毛さをこえていくために blogging(5)
JUGEMテーマ:学問・学校


*この稿の部分転用・転載および無断使用は著作権の侵害となり、しかるべき手段によって訴求されます。

「客:どうやらブログもやっと落ち着きをとりもどしたようだね。えらい剣幕で攻撃がきたものだが、何を彼らは求めたのか、君のブログ管理者として可能なかぎりチェックはしてみたが、どうも一人ないし数人が演じているという気配もあるが、ヒット数が異様に膨れ上がったのは事実だ。君の言動がなにか影響力をもっていると勘違いしたのか、君の言っていることをはきちがえて、誹謗中傷としかいえない形容で否定しながら、自分から拒絶なのに切断せずにかかわってくるというのは、君をどうさせようとしたのか、なんなのか真意がよくみえない。しかし、社会規範の先験性の助けを借りて力ずくで服従ないし和解させようとするというか対立を一般形態のもとに平準化しようというか、そういうベクトルが無意識だろうが働いている、ベイスターズないしTBSの関係者かファンかであろうと思われるが、異様な反応がおきたのをいまどう考えているのか聞きたいものだね。
主人:僕の論述の仕方や思考形式に、他にみられないものがある、その新しさが奇怪である異様であるとむしろ感じられたと言った方が正確ではないのか。真面目に対応した方がいいのか、茶化した方がいいのか、反撃した方がいいのか、相手がみえないからどうしていいか定まらないということもはじめて体験したことだ。彼らはおそらく社会で組織従属している極めて真面目な種族だとおもえるが、僕の身の回りにはいない類で、いったい何がおきたのかというより、正直過去の亡霊たちをみたというのが実感だ。しかも学生がそのまま大人になったという思考しかできていない、社会機構もどういう力関係でうごいているのか分かっていない、思い込みがイコール真実だと、主観を一般的な社会規準にかさねている、それを代行しているだけなのに自分の意見だとおもいこんでいるから、少数ではないある多数の、一般社会意識の現れとも言ってよいと思う。
しかし、意見はそうでも、その下世話な下品な表現スタイルは多数が社会ですることではない、それなりに良識で抑制しているものだがそれがない。むしろなしえないからインターネットで匿名で感情をストレートに表現しているという形式であるのだろう。陰湿だが、ひとつの裏の社会でもある。インターネット形式が普及している、それももう社会であるのだから、考えざるをえなかった。彼らが利害関係をなんらかの形でもっているベイスターズ関係者かたんなる真面目な野球ファンか、だれであるかはどうでもいい。問題なのは、そうさせえている社会の方だ。
意見内容とその規準はまじめ、表現スタイルは下品、この表と裏とがかさなった異様さなのだが、いくつも複雑な権力関係を無意識ではたらかせており、はっきりとした知の一般形式の意思が内容の画一性としてとられていることは読み取れる。それが、定まり得ていない学生とはちがった確固と定まった性質を表現しているのだが、これまで、認識や知の在り方として世界線では克服されてきたはずのことが、まったくそうではないどころか、おどろくほど後退して学生以下の知力レベルでうごめいているのには正直びっくりしたね。学生的な思考とは、知の体系総体を断片的にしか解し得ない、対象との距離がとれない、表現行為が未熟、概念形成ができていない、諸対象・諸主題の多様性に選択的に対応できない、知の形式の所有と非所有の間で自己確定ができていないなどのことをいう。要するに言説体系の多様な規則性を対象化し領有できていないことだが、学生はまだ揺れ動いているが、大人としてはその未熟さのまま画定してしまって意識の流れに乗っているだけだから貧困な知性になる。
この知性の貧困さは、相手の意見の違いがどうしてそうなのか考えようとしない、自分をかたくなに守るだけ、明証さを画定できるデータのみが事実であり、社会規準が正しいことの真実であり、規則と実際行為との間に不確定なものごとが規制的に動いていることをみずに、先験性の支配のもとで、語る主体が語った事の統一性と一義性が真理であるとする傾向をもつ。
それが固定していると、近代思考体系をこえる僕の知のスタイルにことごとく反感を感じるのも、自分とは違う考えや意見の提示は、自分が依拠する認識の存立根拠を否定されたとしか解せないからだ。しかも、互いに否定しあっているという相互関係がうみだした出来事なのに、自分の形式の肯定性を求めての否定だからおかしい。かかる貧困知性に対しては、主体と知形式の所有との間の問題になるだけで、知の形式間の象徴的闘争にならない。
なにしろ、こちらには相手が見えない、相手があってこその対応になるのであって、相手がいるのにいないという不在の存在にはどうしていいものか考えたね。そのくせインターネットという相互性が技術的に設定されていて、拒絶したならインターネットを使う資格なぞないとまでいう、インターネットを神格化までしている妙な現実感覚になっていることを気づかされたよ。インタラクティブなんていうのは偽制だ、インターネットの非対称性がある。それは、不確かで、不安定で、不明瞭という、まさに権力形式が作用しうる場になっている。
すべてがずれているが、現実の政治的な力関係のエージェントが突然目の前に現れたのには、根拠があるはずだ。了解の場所がまったくちがう、対話なんぞなりたちえない、しかも、拒絶や否定は自分がいないことなのに自分があると前提してくる知性には理性がはたらくすべもない、感情というか激情というか、そういう情念の位置に僕も引きずり込まれてみたが、どうにも意味がない、意味があることがうみだされない関係性が勝手に動いていく。これはいままでにない体験である、なんであるのか自分なりにはっきりはさせようとして、いくつかはここで考え書き続けてきたとおりだ。
客:君はまだインターネットの経験が浅いから、初めてのことなんだろうが、いま、裏サイトといって高校レベルから陰口をたたき合っていたり私的なものを露呈しあっている、社会的にはなしえないことを日常的にしあっている、ある仲間集団的なネットコミュニティづくりをしているということは、同時に排除や攻撃を日常社会化していることにもなっている。学校やスポーツ・チームや組織機関などに一般化している裏世界だ。今回の場合、君をベイスターズの裏サイトで誹謗し、そこの暗黙の仲間コミュニティに攻撃者たちは依拠している、主要にはそこからのアクセスだが、他からのサイトは汚染される危険があるとおもったのだろう消去・浄化したようだがそれがまっとうな対応だと思う。攻撃に都合いいところだけを切り離して、前者を使っての執拗な中傷があった。話しを整理しておこう。ネット上の表現スタイルと形式そのものの問題がある、それとスポーツをどうみなすかというスポーツ次元の問題がある、この二つが重なって出現しているが、後者の主体がもっている前者の形式の現出であるが、その主体をこえる形式があるということ、さらに、これはスポーツだけのことではない、会社や役所や教育機関など社会という場における現在人を規制する根源的な問題がうみだされている、と君はいっているんだね。
主人:ああ、そうだ、主体なんてどうでもいい、主体をそうさせているものの一般形式だ、その場所と閾と対象構成および概念構成が、言表行為を規制しているものがある、これは大きな問題があると感じた。はじめは主観的に異様さを覚えたが、レスペクトのしようがないほど知性の貧困な低次元のものごとが何重にもなっている、知らないということを知らないのが物事を知っていない人の特徴だが、何をしているのか当事者自覚がないものがのっかっている閾と次元を考えた、つまりネット形式が「語る主体」に何を可能とさせているのかだ、それはわかったね。
客:いや、そういうふうに、「わかっている」というのが、彼らには勘にさわるのだよ、わかっているというのは、理解のおしつけだからね、「理解なんぞできねえ」、という理解の象徴暴力への拒絶は健全ではないのかね? ともかく、匿名だというが実際はそうなりえない、IPコードと時間とで、どこから誰なのかは画定できるし、隠しきれない、それはぼくら関係者の方でいつでも技術的かつ法的に処置できるように手をうってある。主権法と権力関係の相克の位置になるが、ここはシビアにいった方がいい。君のいうレギュレーションが揺れている場だ。いずれにせよ、これが放置されている状態は、明らかに異様だ。あちこちで、そういう話を聞くが、僕の知り合いも個人ブログで被害にあっているのはかなりいる。日常だと言ってもいい。研究者や知識人を誹謗する知的ゴロは昔からいるが、匿名で抑制がきいていないし質も相当劣化している。漫画や映画のテーマにさえなっているが、プロ選手や芸能人などへの非難中傷にもなっている、韓国ではある女優が死にまで追い込まれた、そういう連結が起きうるものが放置されている、そこにかいまみられるものは何であるかだと君はいうんだね。
主人:インターネットの場所なき場という課題はあとにして、ともかくも理解が象徴暴力になるということとこの彼らの表現行動との間に関わりはない、彼らは健全ではない、自由でもない、現代の錯綜した病理だよ。チンピラまがいの主体だが、語る主体に還元しえないものが作用している。かなり強固にだ。罵倒でもって表現していながら、悪行を働いているのではない自分はいい事をしているのだという、何重もの転倒が重なっているから当事者には自覚の余地はないといえるのではないか。まず、社会そのものが病理であること、そしてその代行表象者であるものが動いている、そこで社会規準から他者裁定をしているだけで、自分ではない、自分がいない、それがわからないという自覚喪失の病理の次元が複層的にある。ここだけですくなくとも主体と社会と表象の三重の次元における物象化が構成されている。さらに、主観次元では、判断と裁定と断罪がいっしょくたになった、表現というより行動そのものがある、しかも主観と主体の思い込みでしかない判断であり、こちらを主体感情でしか裁断しえない、知の病理であること、学生の無知さがそのままステップアップして、社会の正しさを背景に、多分、社会でまじめにやっているから、自分はまちがっていないと信じ込んで、ドーピングや八百長などの当然の禁止を一般断罪している。それを否定ないし拒否されたから、僕以上に不快になったのだろうと推測するが、自分のことではないだろう、なのに認識、意識、意見、判断、裁定、さらに処罰的断罪と、それぞれに絡んでくる諸関係や連環がなにひとつ識別されずに、いっしょくたになって主観実行されている。健全なるスポーツを主張する自分になっているのだが、それが他者へ押し付けられるという形式だ。ここには、4重か5重のわけをわからなくさせる主観の拡張があり、しかもそこに知の一般形式をはたらかせていると思っているからこんがらがりは相当なものだ、というか主観は強固だと言っていい。善を立てれば何でもなしうるのだという態度であり、その主観から立てられた認識図式は浅薄きわまりないが、確定的だと思い込んでいるのも、先験的な一般認識と社会意識を結合させているからだ。その彼らの社会規準依存の仕方を否定したのに、その僕をドーピング禁止を否定したドーピング支持者と理解する、禁止と処罰の隔たりもないその同一化思考は、僕の学者言動まで断罪するというようになる撞着だ。学生なら勉強して出直してこいとなるが、もう社会人だろう、これは相当にひどいというか、そら恐ろしいというのがこちらの感情だ、始末つかないぜこれは、という強固なものだよ。形式と主体とのへだたりにおいて現出する、多様な実際行為の行使が禁じられているんだよ。しかも、それは自分へ向けて禁止されているから、他者へ禁止して当然だとなっているのだが、その他者攻撃は自己防御でしかないという、実は自分自身が日々願望を満たされていない、誰も理解してくれない、なにも自己実現できないというところからきていることの、その反転であるのだが、そんな自覚なされるすべもなく、表社会で我慢し、裏社会ではきだす、というようになっている。
そのうえ「社会そのもの」を批判分析する言説は、彼らから見れば、こちらが逸脱であり病理になるからね、認識の精緻さと限界の追及なんてすっとんでいくものが、まったく反対方向からはいってくる。ぐちゃぐちゃだよ、これは。
ただ、ぼくはそれをせいいっぱい客観化してしまう、主体にものごとを還元しない、そういう批判基準をもってしまっている、それが感情的に許容できないものが、社会的にあるということの意味でもある。
客:現実と個人の関係が複雑になっているのに、個人の主観表現はあまりに単純化されている。そこに個人の意見ではない、個人の激情はあるがそれが意見なり見解であると思い込まれている、しかも社会の意見そのものが表明されているだけだ、と君が言うのはよくわかるが、語る当事者はいる、それがそういう自覚をとれないのはどうしてなんだろうか。個人の意見なんてどうでもいいのだということが在ると同時に、それが分からない世界の存在もあるということだとおもうがね。たしかに、感覚と意識と認識の区別もない。さらに相手を否定したなら、それより優位の自分があるという思い込み、そこには自分がいないということ、これは君がいうように否定表現の本質なんだが、肯定すれば従属にしかならないという現実の病理の裏返しである。しかも、現実はかならず操作されている、誰かがなにかを仕掛けている、それが現実というものなのだ、というあらゆるものごとに働きかけている他律社会を観ているようでいて、実はなにごとも客観化されていないで転倒した勘ぐりの主体判断表現を行使している、さらに主観が羅列されればエビデンスだから客観だ、真実だとまでいう、これは深刻な問題だと思うがね。近代が分離、識別、区分してきたことがまったく消されて、べちょっといっしょくたに短い文の表現で行動される、これは識字化された高度学歴制度化社会の知的中産階層現象として大問題であるとおもう。大衆存在から完全に離脱しているが、知識層にはいたりえていない、しかし、たぶんこれが誰しもがもっている本音ではないかとおもうが。だから確信をもって攻撃してくるわけだろう。単純な本音だがね。
主人:そこで、「奴らは」というマルクス主義的な言い方で同じ質を投げかえしたなら、本気で怒ってきたろう、これは皮肉やアイロニーがわかっていない、つまり自覚への連鎖系がまったくないということだよ。自覚は実存的な感情へ還元されてしまって、実存だからまぎれもない俺だみたいになっている。自覚なき感情の実存は、本音であり本当であり真実であり事実であり、真理である、それは社会では許されない表現になっている、したがって社会は嘘、偽りに満ちている、作られたものだ、客観は実存の激情のみだという、転倒の転倒、反転の反転。
ところで、「奴らは」といういい方は、マルクス主義が敵の攻撃において完成させた論法だが、主観をのべているだけなのに客観を偽装できる手法だ。喧嘩の時に「第三者」を設定して、使える手法だ、低劣な仕方だが常套手段でもある、矮小化してレーニン的なこけおどしにも使える、だが同じ事をしかえされると感じはするのだろうが、本質はわからないんだろうね。真面目な「わたし」なのに「奴ら」と言い放たれて、しかも主体にかかわりなく権力作用が不可避にあるのに、それを表現すると脅しだと感じる軟弱さが、防御スタイルの攻撃に反転される。そこで、僕も急にまじめにならざるをえなくなってしまった。これはとんでもないしろものだぞ、と感じてしまった。AといえばAだと無反省に返ってくる、それはそれで関係の絶対性の本性だが、自覚されていないのには驚いた。つまり、「〜である」と断定批判したときには、それは自分自身にも言えることであって、その自覚と自戒のもとでそうしているのだ、ということがわかっていないのだ。ただ、それを「「〜ではない」ことである」と送り返すというこれは、世の中がわかっていないということだよ。
客:だから、社会にたいしては騙されるな、という論法になり、個人には無責任だと断定になるんだろうね。外在をともに否定すれば自己は正しいというすごい撞着だね。これ、社会人かと疑いたくなる。社会人とはいい意味でも悪い意味でも、抑制を働かせる存在だし、ある程度の対他性への自覚はあるものだが。いま、コンサルティングでも、あなたを批判しているのではない、ただ状態を分析しているんだということをいくらいっても分からん人がごろごろいるらしいよ、自分が否定されていると感じて、いっさい聞こうとしないらしい。表も裏も同質なんだよ、社会人自体として成立しえていないよ、これでは。 
主人:いや、わかっているんだよ、だから社会では黙って耐えていて、ブログでしかぶつけられないんだろう。ブログでは本音がいえると思い込んでいる。言い方はひどい、下賤であるが、ほんとの気持ちを言っている、ほんとだから真実だとますます始末におえなくなっていく、それが自分に返されているという自覚がない。外へ外へと放出されていくだけだ。僕が他者にポストモダン・ファシストだと言ったときは、自分がポストモダン・ファシストになりうるということがある、だからポストモダン・ファシズムとはどういうものであるのか自分がいったことの客観化を可能な限り追求し、自分がそうならないにはどうするか、それが考えることであり表現することだ、そういう相互変容関係への自覚がまったくない裁定を平然と行使していることを解き放っているものは何かだよ。どういおうとも、言われた事を否定する、拒否するということでしか動いていない形式を基本にしているんだから、どこにもいきつかない。彼らと同じ裁断を言えば、それが彼らの真実だから、あるところへはいきつくんだろうが、あまりに知の次元が低すぎてそれは無理だ。良識人は火に油をそそぐだけだと賢く取り合わないんだろうが、返し玉がとんできたので、向こうも驚いたようだ。僕は不良青年だったし、奴らがいうようにヤクザ教師だからね、自分が傷つこうと恐れないで殴り込みにいくガキだからね・・・というアイロニーがわからない、まじめさにある。
ところがだ、この恣意性に解き放って否定していくということは、大学教師が正当化のためによくやることなんだよ。とくに人事で、自分がとおしたい推薦者がいて他の有力候補があったとすると、その有力な人材の研究がなっていないと、一文一文否定していく、何をはじめたのか最初わからなかったが、論文が間違っている不十分だと否定していくんだ、これにはぶったまげたが、当人は真面目だよ。しょうがないから、その教官が書いたものにたいして、その教官がしたのと同じ事をしてみましょうとやったなら、ぶすっとするだけで、自分が何をしたのか気付けない。否定は真実となるんだ、この人には。自分がまちがったという対自化にはならないんだよ。そういう知の働かせかたはありうるし、犬儒派はそれを知っていて知的ゲームにしたわけだが、まいるよこういうのは。僕は不良教官になるだけだよ、ほんとのこと言ってしまうから。他の教官たちは、賢いから知っていてじっと黙っている。
客:きっかけは、スポーツをめぐっての君の見解が、スポーツファンの琴線にふれた。はっきりいって、「清く美しく、ルールを守って」の、アマチュアスポーツ主義の怒りをかったようだが、プロとはなんであるのかがわかっていないというか、プロと対等であり等価であるとファンが錯覚している、これは情報社会が商品経済市場を場にしてうみだした、一種の倒錯だ。ファンがいなければプロの世界はなりたたんだろうと、平然と言う見事な転倒だ。観客ゼロでもプロのゲームはなされるが、プロ選手ゼロでゲームは成立しない、こんなことも分からなくなっている転倒を正当化しているのは市場社会でしかない。身体感覚がないという意味でもね。君が言うバッティングセンターの140キロの球と、プロが実際に投げる140キロの球がまったく違うということが感覚的にも分からなくなっている。情報データを知っていれば、プロと自分は同じだと思わせる、君の言い方でいえば情報の物象化の意識がある種の認知形式をつくりだしている。
主人:いや、ファンはファンとしてのプロになっている、これは長い野球の歴史の蓄積で、監督以上に自分のチームの選手を知っているし、試合運びをわかっている、これは評価すべきだ。プロ側はファンを侮ってはいけない。しかもこの了解水準は、データ化されない、データを超えたところにあるんだよ。ところが、それが高じて、プロより自分がすぐれているかのような転倒がファンにおきている、それはいったいどういう形式がはたらいているかということだよ、問題は。身体の場所がまったく違うのに自覚がなくなってしまう。物象化と社会形式とが合致して、それが判断基準になって物事が認識されている、こういう転倒が倒錯した意識を資本主義的意識の倒錯とは別の場所で構成して働かせている。プロの仕事が、数字化され測定できる、データとして知ることができる、TVゲームではプロを使って試合までできる、このデータの物象化が、数字化しえないもののプロ的存在をかき消してしまっている。それで評定されるのだから、これはプロ選手にとってはたまったものではない、近頃ファンと現場選手や監督が喧嘩したりしているが、ファンのレベルがあがっての反転した質がひどいんだよ、それはこういうところからきている。データをこえた次元を知っているのに、データ次元の一般基準でしかプロを測定しないという転倒がおきている。競技場という同じ場にいるから、身体がいる場所も同じだと錯覚している。場と場所の混同だ。おまけにスポーツだとデータを知っていれば何でも語れるんだ、というのもある。多様で個別のプロ選手の存在が数字規準から一般化されてしまっているだけなのに。「プロボクサーのパンチなんてたいしたことない」と言表すればすごくないんだとなりうる、という倒錯がなされえている。語る主体が言ったことが、語る主体に一致するんだ、それが真実だという撞着の転倒だ。客観は完全に抽象化され、平準化されている。個別ごとの客観性の多様化、差異化が消されている。
たとえば、もっと卑小な例だとこうだ。森監督や大矢監督の批判をしているのに、山下大輔監督のことはなぜ批判しないのだというより無責任だとまで言う、そういう言い方に潜んでいる社会形式がある。つまり、彼らは成績を一般基準にしてみている。これは、僕にはありえない、最初に個々のプロ選手ありきだからね。大輔がとんでもない悪い成績になった、これは残念ながら監督能力がない、ヘッドコーチにはむいていたが監督ではなかった、一般成績基準ではそうなる、しかし、僕にとっては大輔は貴重なプロ選手だった、ホエールズのね。それを真正面から批判はできないし、絶対にしないというファン気質をぼくはもっている。しかも、ぼくは知り合いでもある、直接性の関係にある、頼むから大ちゃん、はやく自分から辞任してくれよと心の中で頼むしかない。成績よりこちらの気持ちだし、それにプロ選手としての大輔をぼくは非常にかっていた、偉大なるショートだった。打者にまったく関心がなかった、守ることのプロを追求した、そういうのが僕は好きだ、成績なんてあとからくることだからね。だが森や大矢は、優れた選手であったろうが僕にはよそ者でしかない、間接的な関係しかない。しかも、ベイスターズの個々の選手を尊重し活かせない、使えない、大事ないい選手を放出しかしない、というよりその役をやらされているといった方が多分正しいだろうが、ホエールズ遺伝子の否定が働いている。大輔には、ただ試合がうまくできないということしかなかった。根本的にちがう、人によって評価基準が違うということなんだよ。人の生の姿を消して、成績が悪いから辞めろとはならない、そういうことが分からなくなっているようだ。
客:それが、彼らはゆるせないんだよ。個人を特別扱いする、例外的にあつかうというようにみなすからね。それは、ルールや正義に反するとまで言うよ。成績がプロとして第一だ、とね。
主人:ああ、ぼくが無責任だとまでね。何に責任持てというのかね、山下批判をしなかったことの責任かい、言論の一般形式かい、冗談じゃない。そんなものと闘ってきたのが、ぼくの言論だ。個人の固有の独創性をみないことの、社会形式をね。僕はホエールズ、ベイスターズの選手たちをファンとして心から尊重している。絶対的に敬愛している。絶対に批判なんかしない。多様な葛藤があるし、異なった対立の形式がある、だが矛盾やいたらなさが一般基準で処理されるなんぞ冗談ではない。僕は、プロの、プロしかできない技に、感動してきた、それを楽しんできた、数々のエピソードがあるし、神話化さえされて、嘘かほんとかわからにものまである、それがおもしろいし、興味ある。西鉄ライオンズの数々の武勇伝のエピソードがだいすきだし、豊田さんから直接にびっくりするような面白い話もたくさんきいてきたし、それが凄いとおもう、そういう個性が、ルールや規範をこえて動いた出来事や歴史が好きなんだよ。いかに脚色されていようと脚色されるに足るものがあるからそうなる、それを僕は面白がっている。豊田さんが語り続けているもの、それは個人の個人でしかない偉大さだ、それがいま野球で見失われている、ルール、規則規範主義になっている野球のつまらなさを、野武士西鉄の偉大さから語りつづけている。勝ち負けなんて、どうでもいいといったなら語弊になるが、あとから来るものだ。第一、勝てなかったのがホエールズだったのだから。
客:それは、彼らにはわからんよ、ルールにまた組織統括に従属してこそ、プロ生活がなりたつ、それを守れ、そうでないならでていけ、というのが主張だからね。しかも、形式の客観化がないから、類似性の形式で文脈を抜いて、同じものは同じだとしか観ない。
主人:僕とやくさんの連載を中止させた大矢監督と同じ論法だね。球団雑誌で球団批判するものは許すべきではない、他でやれと。一見良識のように見えるが、社会形式を使っての自己防御しているだけであり、かつもっとメタレベルでの言論の自由という社会形式は破る仕方だ。所属したなら批判するな服従せよ、それがなせないならでていけ、なんだいこれ、日本的ムラ社会の一般的特徴ともいえるが、批判とは否定だけではない、作るために、創造や発展のために不可避なことだ、チームや組織を愛するがための所作だ、それを封じるのは根源的に誤りだ。ファン感覚と大矢感覚は社会一般感覚と一致している、だから続投できるんだが。こういう考え方は、まったくいやだね。そこでまじめに言論の自由の弾圧だというのもなじめない、ぼくはもっとはげしくポストモダン・ファシストだというが、それは現在の隠れた形式をいっているのであって、見える形式をいっているのでもなければ、犯人捜しでも処罰でもない、事実の指摘だよ。かつての西鉄選手はほとんどみな首だとなるよ、彼らにとっては。プロ世界はルールを超えていくところにある、その噴出に僕は拍手をおくる。それに、類似性と一義性が重なる停滞した論法とその原理下での細分化は、緻密さではない恣意性の正当化をしているだけだ、近代でも働いている表象形式だ、なくなっていないし作用しえている、僕の思考の敵だ。
客:すると、ルールにしたがってこそ、ゲームは成立し、そこで生きていられる、プレーできる、それを踏みにじるのかと彼らはいうよ。
主人:それが、<社会>イズムという、個人自身をみない仕方だ。ルールや規範はやぶられてこそ意味があり、かつその余剰が世界をつくっていくんだということ、バタイユだが、それが僕の生き方でもあるから、それをルール下でなしているんだからプロ選手はすごい、それはどんなに僕が頑張ったってできることじゃない。僕は現役選手を絶対的に批判はできない。そして、ルールは規制条件でしかない、使うものであって従うものではない、従属したならプロのプレーは成立しない、いやすくなくとも面白くない、ただ勝つだけが目的化されるものになる。ノーアウトで塁にでたならバントなんて面白くもない、権藤監督が優勝したときに、バントはアウトを相手に与えるだけだと極力回避した、そのうえでバントがなされたときがおもしろい、ヤンキースの監督がお決まり通りのバントをして優勝していった、つまらない野球だ。
客:それが、完全なルール破り礼賛だとしか、彼らは理解できないんだよ。論点の対象が違えば物事は違ってくる、そういう理解しかしないから、君みたいに、異なる現象をつらぬく同一の形式を見ていこうとするのは、いんちきとしか解せない、共通性を一義性でなく多様な差異化の方へ逆に働かせる君の仕方がわけがわからなくなる、そういう低い知の次元があるというのはわかるが。現に君は論点をすぐずらすだろう、それが思考の自由形式だといったって、彼らのように真理は一つだという純粋意識しかもっていない、それが普遍だという哲学の世俗化がおきていても、仕方ないだろう。
主人:現実や事実は多様であって、一義的なものなどはないというのが、現実そのものであることが見えていない。言い方がわるいんだろうが、言いたいことは、プロというのは、ゲームが進行している、その最中に、次はこうなる、それに相手はこう反応する、その対抗作用を見込んでそうではないことを個人が出し抜く、つまり、プロのプレーは、ことごとくルールがあってそのルールや規則性をこえてしまうところ、はたらかないところを見抜いて直観身体的にプレーしている、そこが凄いんだよ。野村のデータ野球でさえ、最初はデータ/ルールに選手を従わせる傾向が強かったが最近では、データを使えというように変わってきているだろ、それがまっとうな仕方だ。NHKで、青木が、投手の球を観ないで反応している、その脳の反射時間よりも先で動いているのを計測までして立証していたが、青木自身、僕球を観ていませんからといっていた、そういう次元で繰り広げられる世界のすごさだよ。嘘かほんとかなんていう次元じゃない。
客:それは、プレー自体であって、プレーの外在性のことではないじゃないか。
主人:いや、同じ事だよ。ある一般形式が、経験則や規則化からなっている、それを身体性の内部だけでない外部においても出し抜くんだよプロは。それは、ルールという規制性やデータ化された規則性があるからであり、それがこえられてこそなりたつプレーだ。それをルール従属せよ、というのは社会のおもうつぼじゃないか。羽生名人が面白いこと言っていた、将棋で今日こうすれば確実に勝つ手があることにであう、そのとき、それを打って勝っても何の発展もない、それは過去のゲームをしているだけだからとね、そこで新たななされていない手をうっていく、それがプロのすごさだよ。
客:そこはわかるが、しかし、社会あってこその暮らしだろと、彼らはいうぜ。
主人:君は、彼らの擁護者かい。社会遵守かい。彼らの言動は、プロの位置をみていない、たんなる社会規範の代行人間だよ、自分がいない、社会基準に従属し、社会規範を守り、社会人としてまっとうにいきている、それが、アマチュアリズム、つまり、社会の権力形式が依拠している存在だ、これは、悲劇だよ。プロの試合、愉しめない、いつもかりかり、いらいらするだけにしかならない、高校野球は美しくすばらしい、プロ野球は穢れている、大リーグはドーピングだらけだ、断罪せよ、となる。プロ固有の存在を否定しての社会依存消費型プロの称揚だよ、それは。社会善の代行者であって、プロ観戦を愉しめるものにはならないよ。優勝しか頭にない、勝てない選手たちを罵倒する。僕にはできないね。
つまり、彼らは、プロより物事を知っているという局面がある、それは認める、データ知識なんぞははるかに僕をこえている、しかし、成績とかスポーツ・ルールとかスポーツ精神とか、知識や一般形式からプロ一般をみている、媒介的にしかみていない、そこがなじめないんだよ僕は。
僕は、自分のファンチームの選手を絶対に非難したりしない、打てなくても打たれても、かつての田代の三振にあーあとがっかりしながら、次ホームラン頼むぜって、勝敗に関係ない場面でスカッと弧を描く美しいホームランを楽しむ、そういうアマチュア的ファンであったし、ありたいよ。僕のアマチュア性は、プロ個人の異質さに感動・落胆するものであって、ミーハーではないし、スポーツ精神とかスポーツ・ルール維持の社会人でもない。だから、38年ぶりの、ありえない優勝にほんとに涙した。もう優勝なんてだいそれたことはいい、面白い野球みせてくれ、負けたっていいとね。日本シリーズなんて醒めてみていた、リーグ優勝それだけで十分だと。2年目、もう優勝できないとすぐ感じられた。権藤監督みてすぐわかった、あの優勝を確信させた謙虚なひとすじの熱く冷静な権藤さんはいなかった、顎があがっちゃって勘違いにはいっていたからね。一般ではものごとみないよ、ぼくは。森監督がはいってきて、これでは常勝チームにはなれない、常勝チームにするんだといっていたが、もっと勘違いだ。選手たちが、既存の規則性からとびだしちゃた、そういう能力を権藤采配はひきだしてしまった、あり得ないことが起きてしまった優勝だからね、めちゃくちゃおもしろかった。それだけでいい、というのが僕にはあるから。マシンガン打線なんて、規則性どこにもないよ、近鉄のいてまえ打線もそういう類だ。
客:負けつづけた大矢を批判したじゃないか。
主人:そこがちがう。負けたから批判したんじゃない。いまプロ野球選手の実力にチーム差はほとんどない、相当なハイレベルになっている、勝ち負けは監督采配およびコーチサポート次第できまる。競り合って負けているならともかく桁違いに負けているのは自分の指揮官としての采配がなっていない、それを棚にあげて、野球自体をつまらなくさせているのに強いチームにしますと、しゃあしゃあしている、その地位にすがりついて皆のためだというスターリ二ストぶりが鼻についた。負けたっていい、潔く辞めるなら。森と大矢とでは違う、そこはみている。だから僕の批判言動スタイルも違う、書いたものみればわかる。大矢には、いまの企業や組織の一般形式を観たからだ。無能者が開き直って指揮をとる、それによって私的益をだしている輩が守られ、犠牲を被っている独創的な人材が殺されていかされていないことにね。森は無能ではないが、大矢は無能だ、まったくちがう。森は確固とした勝つ采配規範があり、それに選手を従属させる、その個別選手無視の仕方を僕は批判した、大矢はただプロとして無能だからコーチ登用がまちがっているとはっきり僕は言った。全然、批判基準がちがう。さらに無能監督を解任できない、そのリスクをとらないマネジメントの典型に、僕は自分の名をはっきりだしてファンとしてノーだといった。いまの大企業のほとんどがそうなっている、その典型が現れていたからだ。社会形式マネジメントの誤りだ、優秀な人たちが犠牲者に必ずなっていく。球団の方の対応だって、まったくちがう。森批判のとき、僕は中部オーナーによばれて丁重な事情説明を受けた、大矢の時は、編集部に迷惑がかかるから連載休止したが、クライマックスシリーズ出場になったなら再開の予定であった、球団サイドは何の対応もない、編集部が対応しただけだ。そのくせ、大矢続投条件にコーチ一掃をだしていたろう、僕がいったとおりではないか。だが、責任はコーチ登用した大矢自身だ、そこがなされていないのは誰が見たってあやまりだろう。牛島監督自身には何もいっていない、ただ、野球自体の強化でなく野球外をアレンジしている球団経営の仕方は批判した。言論でオーナー会社を批判できる者がどこにいるかというんだい。
客:スポーツのことじゃないのかい。
主人:そうだ、スポーツをぼくはただ楽しむだけだからね。楽しめなければ、観ない、それだけだ。しかし、スポーツには、社会の実際が象徴的に出現する、それは読み解いていく、それが僕のスポーツ論だ、スポーツ社会学でありスポーツ環境学だ。僕のスポーツ批判の対象は、そこに現出してしまう「社会」の負的形式にある。監督とコーチは「指導の指導」の在り方、つまり社会形式を超えて個々人を生かすか否かとして、個のプロ性を生かせないあり方や、それを支えている野球機構、球団経営に容赦ない批判をするし、監督批判は意味あることだが、選手は絶対に批判しない、そういう批判対象を明確にした基本軸を僕はいっさいぶらしていない。なぜなら、野球組織や野球運営がかわれば、社会はかわる、そういう位置に、日本のプロ野球はある。僕は賛同していないが、広岡管理野球や野村データ管理野球が、企業管理にもつかえたように、監督の「指導の指導」の位置は、社会的な意味が必ず表出するからだ。サッカーもそうなりつつあるが、まだそこまで構造化されきれてはいない、動いている途上だからね。ヨーロッパ社会やラテンアメリカ社会はフットボールからみていくことができる。だが、日本はまだ野球だ、プロ野球は止まっちゃっている、それは社会がとまっているからだよ。
客:だから、君の書くものはつまらないといわれる。
主人:そうおもうよ、ぼくも。プロの試合がおもしろくないんだから言うことなんてなにもなくなってしまった、そういうものを作っている球団経営批判しかなかったからね。しかし、口に出して言える者がいない、自分の利害に直結するからスポーツ関係者はほんとのことをいえない、そういう仕組みになっている、何人かのスポーツ評論家たちがほんとのことを言い始めているが、それは応援したい。なんといわれようが、僕はそこを言い続けるがね。
客:しかし、ファンをやめたそうだね。
主人:やめた。ずるずると、やめられずに、どうにかなるのではないかとひきずっていたが、ファンの劣悪さの共同性にいやけがさした。それが、優柔不断さを断ち切ってくれた。それに、ベイスターズに受け継がれていたある種のホエールズ野球はもうない、僕が熱情したものは微塵もなくなってしまった。旧ホエールズファンとして生き残るだけだ。湘南シーレックスに僕が敬愛した選手たちが監督やコーチでいるかぎり、そこはかすかながら応援し続けたいが、本体がもうだめだから、彼らもたいへんだとおもう。
客:それが、このたびの君への攻撃の件なのかい。
主人:それだけではないが、決心させてはくれたね。森監督の解任劇、それを僕だけが仕掛けたという非難にはあきれたよ。首にしたのは球団社長だろ、僕じゃないよ、僕にもファンにも決定権なんぞないよ、しかし、皆の総意がそうさせたのだよ。僕ひとりでなにもできるわけないじゃないか、たくさんのファンが怒りかつ実際に動いたのだよ、あのときは。7月ごろ続投が決まったと公表された、それからして異常だ、いろいろなファンや関係者の憤りの連鎖がおきた。僕は、それを象徴的な出来事へけん引して、動かざるを得ない状況へとひとおししただけだ。主体が動かすんじゃないんだよ、あるパワー関係が作用しうるようにしなければ物事は動かない。「8時半に横浜の電気が消えている」と、何人かでファックスをマスコミに数通ながしただけだ。僕の実際行動はそれだけ、30分ほどしただけだ。あとは、ファンがウェッブをつくったり抗議電話をしたり、いろいろしていた。ぼくは、それがある象徴性へ統御されないと無駄になるとおもった、そこでいろいろ考えてみたが、動くかどうかはわからなかったが、「噂の政治」を使ってみた。パワー関係の結節点が移動できる、その象徴統御の可能条件への移動だ。その瞬間に、他の諸関係が急速に動き出した。攻撃しては効果はでない、いろいろな人がそれぞれちがう利害関係にあるんだから、それらが動けるようにしてあげないといけない、その象徴政治はどこにあるかだ、あのときは「8時半」だった、8時じゃだめだ。電気が消えていようが消えていまいが物事にまったく関係ないし誰にも被害はない、ただ意志が作用しているということは伝わる。そういうことが分からないことにたいして嫌気がさしたね、これはもうだめだと判断した。権力とは、統一したものがあると思い込んでいる、そうではない、パワー関係というのは不安定、不均衡なところにある、いろいろなところでいろいろな力作用が働いている、それをしかるべき方向へむけて、誰にもわかる象徴をたてて見えるようにし、「動けるように」してあげることなんだ、攻撃したって相手は閉じて動けなくなるだけだよ。傷つけてはいけない、辞めてもらえばいい、それが目的だろう。
客:君は、しかし、大矢を攻撃したろう。
主人:そうみえるんだろうね。無能だという事実を指摘し、無能さから救ってあげようと提示しただけだけどね。無能者がリーダーになっている現在の社会一般状態を指摘した。個別で動かす気にならなかったのも、ファンの体質がそうなっていないと感知したからだ。これは動かんぞとわかってしまった。ちらっとかいまみられたファンの見解をみていると、社会形式の権力関係しか考慮していないからだ。大きく二つある。まず、組織的に上位にある者が物事を決定している、それが現実を動かす力であり、それを受容しなければならないというものがひとつ、もうひとつは、物事には社会形式がある、その一般媒介基準によって物事は判断されるべきだというものだ。このふたつは、自分ではなにもできない、しない、ということを行動にするだけだ。他律依存でしかものごとを考えていないし、またその先験性の基準に依拠してしかものごとを見ない。社会従属の、真面目だし、清潔主義だ、ファシズムの基盤になるものだよ。それは、異物の排除を行使するだけだし、矛盾を一義性に和解させるだけだからね。大矢は球団が容認した存在、山本は球団誌から追い出された存在とみなし、後者に意味なしという、組織上位概念に決定と力をみる仕方だよ。こういう小さな多数の点を網状にすくいあげている形式と結節点が動かないものとしてみえる。それは、いくら言ったってだめだ。逸脱の方に、パワー関係をうごかすものがあるんだということを絶対的に理解しない仕方だよ。つきあいたくないね。以前のファンとは付き合いたかったが、もう変わってしまっている、そういう社会になっているのが垣間見られた。
連載休止をファンが容認・受容しているその体質が、大矢と同じだ、これは動かない。連載休止に抗議して、そのうえで、内容はつまらないからやめろとか変えろというのは、納得できるが、つまらないから辞めさせられるのは当たりまえでしょとか、左翼でしょとか、これではなに言ったって、曲解しかしようとしない、おまけに原稿料がはいらなくなったからくさっているとか、それは貧困感覚だよ、僕はあの100回も続いた連載で一銭ももらっちゃいない、ファン雑誌に書いて楽しんでいた、それが球団経営者が変わったなら楽しめなくなったから批判を徹底した、それは僕だけの意見ではない、僕にそうしてほしかったものも働いていたから、そうしえていた。球団内部関係者の人たちからも好意をもたれた。内部的な対立する権力関係があったとおもう。それに、僕がどこに責任とるというのかい、ファンを扇動したとでもいうのかい、依存意識だよそういう見解は、人は人を操作なんかできない、自分がするんだというところがどこにもみえない。球団抗議の仕方も一辺倒、効果ある仕方を考えていないし、相手を動けなくしている、オーナー会社を別会社に変えようとかいうのも依存志向でしかない。そういうことではないんだよ。ほんとに変えたいなら自分たちが出資しなければだめだ、皆で集めて数千万円でもいい、自分がするということでないかぎり絶対にものごとは動かない、決定はできないが動かすことはできる、この違いさえわかられていない。しかも大矢監督を処罰することではないんだよ、辞められるようにしてあげることだ。
客:なるほど、ファンが大矢を引き回しにしろとか北朝鮮に売り渡せとか、そういうするかどうかではない、処罰的な人種主義感覚で表現しているようではだめだということだね、それは、完全に感覚としてまちがっていると君は言うんだ。そこには、かなり社会本質的なことがあらわれているようにぼくには見えるが、そこへ、対自的に対応しうるものを君はみないのかい?
主人:僕のことではないよ、対他的なものだよ。しいていえば、批判思考に不可避の、対他的、対自的な相互関係がなりたっていないという、知の形式が世俗化されてうごいている、これはいくら言っても無駄だよ。相手の否定でしか、自分を観れないんだから。社会の不安の現れだよ。だから、森監督の解任劇でおきた、さまざまな関係性の複雑さがまったくみえてないんだよ。ひとつのリーダーの存在が、解除されるというのは簡単なことではないが、起こるべくして起こるようになるには、権力関係の網の目がずれないかぎりありえない、社会が動くかどうかということは予想はできないし、しかも、動きがなければ動くこともありえない、社会の仕組みを僕はなめていない、自分が捨て身で自分の存在も失われるんだという覚悟をきめて対峙していかねば動かない、大矢批判を公にしはじめたときその覚悟を僕はしている、主体ではないのだが主体が他人まかせでは社会形式は絶対に動かない。この複雑さの諸関係、諸条件を対象化し、瞬間にしかるべきものがはまりこまなければならない。一般形式なんてものはないんだよ。だが、ここはもう語る水準にはない、言いたくないね、実際の「する」戦略の水準にある。
客:どういうことかね?
主人:あまり言いたくないが、規制している諸条件だけ少ししめしておこうか。球団売買の次元に動いた権力関係がまずある。僕は、ベイスターズの優勝後の球団売却のあの時が、日本プロ野球大転換の機だったと考えている。これは、社会的に複雑だが、メディア企業の諸企業への関わりに構成されているものがあり、あの時はフジ産経グループとTBSの権力分割が、流通産業の西武グループともうひとつのメディア産業である読売グループとのプロ野球1リーグ制化という問題にリンクしていた。いわばサービス産業の経済パワー再編ということがある基盤的なものとして背景にある。それは、鉄道会社からサービス産業、そして、近鉄をめぐっての情報産業の登場、楽天(とライブドア)、そしてソフトバンクへといく流れがおきる亀裂だ。流通が、二つ滅びていった、堤と中内という経営リーダーに象徴された経済権力だ、それはオリンピックまでからむスポーツ世界の政治経済だが、そこまで移動する経済パワーの変動だよ。それが、プロ野球組織機構の存続と再編問題にまでいたる、それが潜在しているということだ。スポーツ経営の大きな転換であるが、既存形式の再生産維持が強固に反動的に作用していたろう。漁業産業という一種の第一次産業の低下というものが、不可避にからんでいる。捕鯨というグローバルな問題まで含んでね。森のときはまだ、大洋漁業のヘゲモニー下にあったが、大矢問題をとりまく環境はもうそこにはない。製造業で残っているのは、ヤクルトと日ハムだけ、ロッテはもうサービス業へ移行している。広島も製造業だが、まったく別だ。セリーグに情報産業が介入できない、メディアが掌握している。そして別次元で、チーム組織には、権力の組織結節点というものがある、ヘゲモニーの場所だが、監督人事はもうそこと切り離せない規制をうけている。さらに球場という場所とメディアとの関係に作用してくる規制諸関係は単純ではない。これらは、一見ファンと関わりないように見えるが決定権がないだけのこと、しかし、ファンのパワー関係の作用は基盤的に動きうる不安定なところにあるんだよ。サッカーは住民パワーのところまで設計されているが、プロ野球はまだそうなっていない。2軍が少し場所住民に関わってきているが。監督が誰かというより、監督という位置はこうした権力関係に配置されてしまっている、だから直観的にファンはどうしようもできないと感知しているのだろうが、ヘゲモニーの結節点の移動は不可能ではないという溝、切断点は見出しうる。ここから先は、言いたくないね。それは、ファンの気分や雰囲気に関わるものであるが、機運にはなりうる、その気運が見えないからね。ファンとしてオーナーを首にする可能性の追求だと、バフチン的に冗談めいて哄笑的に僕は言っていたが、その移動は不可避に起きうることだという教示だがね。しかも、組織スターリニズムとの対峙は決定所有権力とヘゲモニーとのズレにおいて不可避になる、そんな次元これっぽちも感じられてもいないんだから無理だよ。経営する側だって、こういうことは考えざるをえないところまできているのに経験則でしかできていないから、球団経営の独立ビジネスの可能化の次元が開かれない。純粋な野球の場がなくなっている、だから球団経営は独立固有にしていかねばならない、それがなされていない日本プロ野球だ。大矢問題は、そこまで絡んでいる、それが見えていないんだから、どうにもならないよ。ホエールズ色を一掃して2軍におしこんで、1軍は名の知れたメディア宣伝選手にしようとしている中途半端な操作が見える。しかも高額選手放逐というけちくさいひっくり返った経費節約経営がらみで。こうしたことの先に、ファンの動きまで含んだ多様な戦術が開かれうるのにね。だがあくまで、野球を面白く楽しくするという利害と目的だけだよ、そこに作用させるべきものは。そのための可能条件をつくっていくことだ。スポーツ選手たちへの断罪なんぞではないよ。
客:それが、匿名形式に表出している、それではだめだというんだね。
主人:そのとおり。先端的なものは末端的なところにでる。情報システムが、それを媒介し、保証、補完している。匿名だと批判したなら、名前を書いて攻撃してきたひと(同じ人たち?)がいたが、同じだということがわからなくなっている。名前まで記号化されているのに気づいていない、まじめに名前かけば良心を行使しているという錯覚だ。情報形式の上で匿名だと語れるが、社会という現場では語れないんだよ、社会で語れない自分のほんとの気持ちや感情を匿名でぶつけあっている、自分を隠して自分を表明する、とんでもない転倒が、インターネットで許容されている。社会が許容しないことを解き放っている、それはそれで技術の可能性であるが、朝から晩まで匿名で自分の実感を、短い文で、表現し続けているから、それが現実だと思い込まれてしまっている。2チャンネルでの記載をならべれば、論証したという思い込みになっている。学生がレポートだと言って、インターネットからプリントアウトしているのと同じだ。ぼくも、どういうことかわからなかったのでこちらの関係者たちといっしょにちょっと彼らレベルまで降りてプラスとマイナス表現の両方やってみたが、ばかばかしくてすぐやめた、自分ではない自分が表出される、これは自由でも解放でもない、たんなる苦衷や不満の表出だよ。いい表現でも悪い表現でもそうなっている。社会形式が社会の場で判断されているだけだ、権力関係への従属でしかない。ヘゲモニーは動かないよ。
わかりやすく企業主体として示したが、実は企業主体の問題でもない経済形式そのものが問われないとだめだ。しかも、マルクス主義的な対決じゃ話にならない。官僚組織なんぞはマルクス主義統治の応用適用だよ、会社組織はマルクス主義のさらなる劣悪形態のスターリニズムになっている、ビジネス実行よりも組織維持優先だ、それでもそういうことはなされていたのに、いまなにもないんだから、二律背反のUSAマネジメント戦略で世界は制覇されている、その破たんなのに。
しかも、スポーツはダニングが言っていたような国家間戦争からぼくのいう場所間競争になってきている、クラブチーム同士の闘いがワールドカップより大きな意味になっているのに、まだナショナル戦争代行優位にとまっている日本だ。問題は山のように歴史段階にあるのに、スポーツ精神やルールが大事だなんぞの当たり前の幼児性にはもうあきれるしかない。野球道といわれたりするが、その「道」と「ルール」「精神」とは雲泥の差があるんだよ、つまり語られえないものを「道」はもっているが身体表現では可能なものだ。道の裏には敵を確実に殺すというのが設定されている、そのうえでそうさせないものを構成しえている。人間の類的存在の生死の際でプロ選手は個人身体で闘っている、その身体の場所を尊重しえないものに僕は関わりたくないね。
客:社会でいろいろな不安や不満がある。それを変えることができないということも知っている、しかし、ものごとは自分なりにみている、それを匿名でしか表現しえないというんじゃ、それは病理以外のなにものでもないじゃないかというんだ。
主人:変えることができないという思い込みが誤りであり、また、観ているその基準が誤りであることに、それは気づかないよう保障されている、見事な権力装置になっているね。だから病理だという批判や自覚は絶対的にわからないよ、彼らには。権力装置に従わないものが病理だからね。それは、一般形式からする排除と処罰システムを支持する。変える動きに実際になるとやりすぎだと非難する。規準からズラスなりはずさないと変わる動きはなしえない、それがわかっていない。変化は逸脱になるんだよ、小泉改革に対する非難がそうなっているだろう、反動論理の一般形式だ。竹中平蔵がいっていることなぞ、基礎の基礎だよ世界水準では、それが許されないなんていう次元だからね、遅れは相当なものだ。
客:そういう対象のズラシを彼らは類似性の指摘だとしか解しないよ、差異化だとは理解できない。しかも、インターネットの双方向性だという擬制にまでなっているものがある。また、自作自演だとかんぐって、裏を知ったかのように言っている転倒も奇妙だね。他人のコメントまで自作自演だという、笑ってしまうが、肯定されたものはいんちきだと疑うことしか彼らはできないようだね。
主人:スイスの研究所の片隅で仕事がなかった若者が発明した、天才的なソフト情報技術だが、陰の世界からの表明だということが装置化されているのが面白い。ビル・ゲイツだって、ホテルで彼女と愛を交わしたエクスタシーのそのまったく同じ照明度や温度・湿度を再現したいという発想からだからね、病的だよ。技術開発には心意技術が働いている。
知れば知るほど面倒が増えるし、コンピュータに向かっているが社会や人と直面していないし、便利なようでものすごい不便だ、これは既存の機械技術と社会技術が投影されているだけの、分離システム以上のものではない、しかし、その物質性はまったくちがう次元を開いた、その成熟にまでは、病理的出現はしかたないともいえるが、使えるようになってぼくはまだわずか3年、とてもアナログ人間の僕の手におえるしろものでもない。
客:その負の世界をみたってわけかい。いいことじゃないか。
主人:個人的には不快だね。不快という効果しかもたらしていない。近代の究極的な歪みだよ、ぼく自身をふくめてまきこんでくる。注意しなくちゃいけない、まきこまれないようにね。システムとして、社会の表側と裏側とが同時的に構成されつつある、裏が表のはけ口になっていて、それで表の病理はそのまま放置される、この兆候は危険だ。権力支配側がこれを放置しているのも、社会をかえていかねばならないんだという意識はなくなるからだ、と今回わかった。事件になれば逸脱だととりあげていけば基本規準は検証されずに存続される。
たとえば、多くてわずか、500人なんだよ、このブログ。それは、1000万人社会じゃないんだ、それがわからない人たちからのアクセスに汚染されるのだから。一過性ではあるが、確実にある兆候はでているね。

客:君は、何を見たというのかね。攻撃が低次元で悪質で、低俗な知によってなされているならほっておけばいいのに、なにかほっておけないものを感じ見たんだろう。野球やスポーツで意見が分かれたそれをもって、哲学書を読んでもいなければまして君の本なんぞ読むこともしない、読めもしない、読んで理解するなんて能力は微塵もない、そんな連中が君を哲学者として失格だとか物書きとしてなっていないとか、そんな中傷をほっておけばいいだろう。
主人:いや相手にはしていないよ、「しない」からできていることでしかない連中だからだ。だが、そこに誰であるかではない、社会形式の一般化が見えた、それは三つある、ひとつは隠れている本音だろうということ、もうひとつはその本音は吟味されていない危険感情の前兆だということだ。第三に、社会形式に領有されているのではなく、それを所有して身体化して他者裁定をしている、しかも正しいということの基準をもって、曖昧な正しさだ、ただ「正しい」というだけで、人間を断罪さえする、それは政治家たちの発言やマスコミがいま平然となしていることと同じ形式である、これは「社会」秩序が危うくなっている時それを守るべく排除構造をつくりだす危険になっていくということだよ。社会慣れした人は、言わないだけで本音は同質だ、それが見えたということから、なんであるのかはっきりとさせようとした。ネット上の言表形式はある自由度を解放している、それは社会形式の一義的な統合性と語る主体にたいしてそれを多義化し拡散・分散できるパワーなのに、逆に社会形式の代行者として主体的に一義性支配を働かせるんだから、転倒なんてものじゃない。
客:君のいうポストモダン・ファシズムというやつだね。イデオロギーも統一権力もない、各人が社会を代行して、人に正しさや規則を押し付けて裁いてくるという、近代主体もない状態のことだね。
主人:そのくせ、すべてが、主体論でもって語られ、理解されているんだよ。この転倒は異常だよ。隠れた形式を読めない、それを深く読み込めないで、表層状態にたいして騙しているとか演出だとか、そういう主体で解する仕方だ。主体理解なんぞなく、他律代行しているだけなのに主体裁定するという転倒だ、主体の本質が出現しているともいえるが。認識と社会意識がくっついている近代の病理が見える。主体認識ではどうしてもとらえきれない不可能なもの不確かなものが多分にある、そこへの自覚がまったくない、データを並べているだけなのに、なんでも認識しうるんだという意識がある、これはファシストの感覚だよ。組織リーダーたちにはスターリニズムが亡霊のようにくっついており、末端では普通人にファシズムが忍び込んで徘徊している、それが、社会批判する者を排除する手続きを働かせている、そういうコミュニティがリアルにうごいているということだ、これは、戦中の状態とまったく一致している、戦争が直接おきているわけではないが、平和の下での戦争状態が再現しているということだ。しかもこういう認知を被害妄想だと一蹴する浅はかな知性だよ、完全に学校化された知が社会常識をたてにして、自分の不安をそっちのけにして、他人に関与するという状態だ、これは危ないよ。理念や概念や言語表現や理論行為を無意味だとみなすだけでない、言説生産をさせないということに連鎖する、日本的ネオ・ファシストだね。
客:子どもたちの間にある、携帯やネットを使ったいじめだが、それまで同質とみなすのはわかるが、それをファシズムとみるのは、大仰すぎないかい。ヒトラーがいるわけでもスターリンがいるわけでもない、独裁者なんてどこにもいないんだよ。
主人:そこが、本質なんだよ。現象にたいして本質だと言っているんだがね。本質的な一般形式があるということだ。個人の意見ではない、そんなことはどうでもいい、けだし、いろいろな多様な個人がいるはずなのに、感覚も理性もない感情だけの個人にされて、それを貫くある一様な形式の意識と認識にとらわれている、それが問題だということだ。これは、「する」ということで自分を表現できない、「しない」と言うことで差別化を図っていけるという錯覚をうみだす、個々人が小さい隠れた独裁代行者になっている、それが社会一般の形式になっている、内容ではない。大量虐殺になっていないだけで、個人虐殺の作用はもう働かせているよ。学生たちはもうそうなっている。社会がおかしくなっていることへの一種の自己防衛が転倒しているのだが、これは社会病だよ。
客:君につられて僕も、病理だ病気だというが、それはどういうことかね。
主人:可能性が開かれているということだよ。ファシズムになる可能性にね。できないということではない、できているんだよ。病という意味さえ僕は転倒させているからね。病は欠損ではない、誰でもがファシストになりうる、それが開かれているということだ。
客:ファシズムそしてファシストを肯定しているということかい。
主人:肯定も否定もない、ただ起きている事実が現象しているというだけのことだ。それが僕は嫌だと言っているだけだ。
客:それは相対主義になるだけだろう。
主人:いや、主体の意識の流れは問題ではない、主体を貫く形式があるということ、その形式からなるある構制をはっきりさせるということだ。相対主義と絶対主義の対立の先にあるものだ。
客:なるほど、近代思考形式ではとらえられないものを見ていくということだね。
主人:その方法を、構造主義以降の思考は開いている。大学では、まだこれを教えられていないし、自分でする以外に学ぶ機会さえ与えられていない、1960年代の思考形式がまったく咀嚼されていない。アカデミズムの社交共同体は、自分たちの既得言説体系を守ることが最優先で、現在を解き明かそうとはせず、自分たちの言説を現在に押し付けようとしている、その世俗化が大卒人間の一般思考様態におきているということだ。だが、それは、カントも読んでいなければ、ヘーゲルも実際に読んでいない知性だからそうなっている。ルソーのちっぽけな書さえ読んではいない。まして、西田幾多郎なんてまったく読まれていない。ひどい知性だと思う。単位をとるために、糞にもならない教科書をいやいや読まされて育った知性だ。「嫌だ、つまらない」という感覚は正常に働いていたが、じゃあ自分で挑戦して学んでいこうとはなっていなかった知性だ。本1冊、読み得ない知性だ。本というのは拘束性を強いるんだよ、その拘束性によって知を自由に働かせることができるようになる、その我慢をしないんだから。これが、何十万人と毎年輩出されて、会社や役所にはいって仕事して、いま幹部クラスになっている。自分ができないことなのに、知は無価値だと社会判断へ疎外する。そして現実を対象化できないことをもって、現実は、自分に満足をあたえない、自分が手をうてない、それほど複雑な変え難いものなのだと固定して、知と言説の生産を無価値・無意味にする。こういう学ばない無知な学生を基盤にして大学教師たちの給与をまもるだけの仕事がなされている。そこから社会人となっていく。大学がこれではだめになると大学人の多くが知っているのに、じっと黙って規則従属しているからね。これは、全体主義を容認していくよ。
客:かつては、本が読めないという自覚をもてたが、いまは、読めないかわりにネットで調べてデータだけで依存判断していくとなっているから、知っていると思い込んでいる、相当に始末が悪くなっている。自然科学の分野で言うと、実験さえできない学生たちの乱造だよ。ファシズムの地盤がととのってきているということだね。しかも、高校生、さらに中学生にまで携帯ウェッブで解き放たれて身体化されていく、一種のウェッブコミュニティにおけるナレイティブが構成されており、それが認識をもった大人になりえない、まして認識をこえる知の形式の考察にはいたりえない、言説生産の意味と価値がみいだせない、これはほっとけない状態にあるということかい。
主人:大学はもうその温床になっている。講義さえもう成り立っていないのは、社会の反映であろうとおもうが、文化生産をなりたたせない社会と闘うことを回避し、社会規則的な管理で対処しようとしている。教官たちはそれではだめだと知っていて黙って見過ごしている、自分の生活をまもるためにね。それはそれでいい、しかし、起きていることに目をつぶっていちゃだめだ。そうでないと、学生たちは、自覚と反省へ向かうのではなく、他者裁定へと向かうのが正常な判断の仕方だと習慣化していく、悪質な知性だ。自己技術がない。給与という経済利害が守られるところと、研究という文化生産が守られるということは別なんだよ、後者で闘ったって、前者は守られる、それが近代主権法の基本だろ、なのに危なくなると感じているのは、主権法とは異質の権力関係が確実に作用しているということだ。これをいいことに、インターネットでのデータが、真実だ、事実だとなっているのは完全な誤りだ。あちこちで、データが真実だとつかわれはじめている。たとえば、防衛庁の幕僚が国会答弁で、自分の意見が正しいかまちがっているかとyahooできいたなら、50%以上が賛成してくれた、だから真実だというような仕方でだよ。あきれてものを言えないが、これは深刻な問題だよ。
客:そういう現実が、ある力を行使して、スポーツを対象にして君にかかわってきたということだね。論戦もしていないのに論戦に負けて、ブログ記事を削除したという言い方にそれが現れている。論戦とは、中傷合戦だとおもいこんでいるものね彼らは。
主人:言表の自在さならまだ可能条件にあるが、主体へ還元し、相手を主観的に否定しあう、そこに「〜である」という定立をもってくれば、真実だという思い込みは強烈だが、まったく意味無いことだとも感じてはいるから、「正しい」社会尺度を引っ張り出してそうする。否定すれば真実があらわになるという悪質な形式だが、しかもそれを主体化するという裁定へ転倒させている。相手の見えない喧嘩にしかならない。賢い人間は、黙る。僕はとりあえず回避する手段を選んだが、回避は敗北ではない、無意味な闘うことの回避だ。軟弱な社会代行主体と闘ってもなんの意味もないが、考えなければならないことは感知した。言説生産は放棄していないし、そことの闘いにはない。
客:論戦が可能となることは考えないのかい?
主人:最低条件がいる。第一に、自分を客観視すること、そして、自分が使う尺度を客観化しうること。つまり、自分の主観と客観化を客観化する「客観者の客観化」と、客観化されたもの(主観化されたものを含む)を客観化する「客観化の客観化」、これが最低条件だよ、論戦がなりたつためには。主観判断と規準裁定は、「支配しよう」とする征服か排除にしかなるまい、こういうことが分からない「制度化された人間」がごろごろいる。これでは、ビジネスもなりたたない。
客:論争は、相手を容疑者にして、その嫌疑をさぐるだけだというフーコーの指摘はよくわかるね。
主人:アーギュメントというのは、非常に複雑だ。知人のフィリップ・ブレトンがコミュニケーションのさらなる深みへの考察として論争・喧嘩・言い争いの様態を丁寧に分析しているが、僕は、論争には意味をみいださない。だから、いままで批判されても、いっさい真正面から対応していない、ズラして回避するだけだ。まして、低俗な悪質なもの、ほっとくしかない。
客:悪質さは蔓延するぜ。
主人:社会の場においてはだろう。そんなのほっとけばいい、目の前の実際の具体姿で現れたならやっつけるが、そういうのは自分を守ることしかしていないからすぐ委縮する。あるいは陰険に誰かまわずにナイフで切りかかってくる。身体性がないからそうなる。プロの身体性が感知されていない、データ化の事実でしかみられていないということは、そこへリンクしている。宮崎駿のアニメを子どものころ見て培われるようなよい感覚は、同時にテレビゲームやインターネットでずたずたにされていく、社会だ。
ただ僕は、社会の場に意味あることをしようとはしていないが、場所において探っていく。場所は直接性だから、相互の解決の道を互いに探り当てるものだよ。そこは信用しているね。社会内部での対決ではない、場所と社会の対決の場にしていかねばならない、それはやるよ。いま、こうしているのも、場所で考えるということの場がいままでないから、どうしていくか示唆するためだ。
客:彼らに向かっているのではないんだね。
主人:「彼ら」という第三人称を立てていること自体が、もう相手にはしていないということだ。彼らは「お前だ」とかかわろうとしているかもしれないが、それは「不和」に付き合えと言っている、いやだね。僕の敵は、彼らを正当化している社会善を使っての社会形式の隠れた権力関係だ。この権力関係はある真理を必ず創造してくる、そこへの対決だよ。不和の和解という戦争関係のものごとではない。闘争ではない、別の場所を開くということだ。闘争しなければならないものは、その先にでてくる。闘争は語るものではない、「する」ことだからね。
客:第三人称は、対立の場にあるということ、別の第三者に問いかけていること、そして彼らではない我々を想定していることだと、ランシエールが指摘しているが、ほんとにそのとおりだ。「彼ら」は、「彼ら」なのだよ。匿名だからというだけではない、こちらからは疎外されるわけだから。
主人:普通なら、見解がちがえばあえて相手にしないだろう、なのに関わってくるというのはどういうことなんだろうね。
客:相手にしてほしいんだよ、だからコメントしてくる、しかし、真の交通は避けたい、回避したい、それは社会規制が入ってくるから面倒なんだ。
主人:社会を拒否していて社会の場である、公開しろとか、逃げるなとかわけのわからんことを言ってくるのはなぜかい?
客:だから認めてほしいんだよ。社会の偽りを知って、かつその場で耐えている自分を。
主人:冗談じゃない、関係ないぜ。
客:いや、関係したんだよ君が。
主人:そうだね、わっかってくれるかと思った、そこが甘かった。イロニーをこめた示唆を脅しと解するんだから。
客:述語的場所の提供を恐喝だとまで言うね、笑ってしまったが、知の形式がちがう、むしろ君がいままでいやだと切ってきたものが、そこに現れた、すると君は、わかっているか、わからんだろうときた、それで怒ったのだよ。
主人:わかる努力すればいいじゃないか。
客:そうはならない、できないんだから。フーコーか吉本の本質論をじっくり自分のものにしなければ、それは無理だよ。自分を防御するのがせいいっぱいなんだから。
主人:いや、日本はすぐ、低きへこいと命令してくる、これは反対だ、高みへいく努力はしなくちゃいけない。自分の殻をやぶっていく努力だ。
客;だからきみはつっこまれると、どんどん高みへといくだろう。
主人:ああ、ついてこれるならついてこいとね。
客:それが、切られていると感じられるんだよ。
主人:学生の甘えとおなじじゃないか。
客:そういう訓練うけていないんだから、どうしていいかわからなくなって、頭ごなしに君を否定すれば、君を罵倒すれば、君より上位にたったとおもえるのさ。幼児性そのものだ。
主人:否定することに自分がないと僕が気づいたのも、ほんの数か月前だ。否定には確実に自分がいない。自分を消す技術なのに、自分を表現する技術だとおもいこまれている。これはとんでもない錯覚だ。
客:それは、おそらく永久に彼らにはわからないね。肯定できるのは、自分が否定していることにしかないんだから。批判的肯定や肯定的批判なんてわかるすべもないだろうよ。
主人:つまらんね、こんな対話、過去の遺物を再解釈していることにしかならない。
客:ああ、対象自体がつまらない、停滞しているんだからそうなる。
主人:ところで日本シリーズはどうなったのかい?
客:僕も知らん。もう野球は、僕も見ないよ。
主人:ああ、つまらない世の中になったね。スポーツもエンターテイメントも、個々人のプロ性はあがったがその場が規則化されてしまって、味わいがなくなってきている。いろいろなことがもう、ある到達点にきてしまっているようだ。映画もいまの高度な技術のものより、古い映画の方がおもしろい、西部劇はほんとにおもしろいぜ。1960年以前のフィルム・ノワールもね。創造過程にあったものがやはりおもしろい。60年代の高倉健のヤクザ映画もみなおしている、ぴったしだね感覚が、とくにマキノ映画はいい。<社会>と対決しているんだ、これらの映画は。
客:「こんなに我慢してやったのにふざけるなこの野郎!」とばっさりだね、手錠かけられて「まじめにやれよ!」って子どもに言う、あれだね。風呂でもはいって、寝ようじゃないか。彼らがぶつくさいうのもわかるというものじゃないか。
主人:理性を高度にしっかりもったなら、おもしろいのにね、残念だがそれは望むべくもないか。
客:ポストモダン・ファシズム状態だよ、きみがいうように。いくとこまでいくよ、これは。大学院生も、あるいは若い大学教官たちさえも、彼らと同じ事をしはじめているだろうね。
主人:USAでオバマが、チェンジだチェンジだとスローガンかかげているが、反動もすごくなるだろう。危ない世の中に、世界中がなってきている。スペイン系TVのtve局で、ラテンアメリカの首脳たちが議論しあっていた、愕然とした、マルクス主義とポピュリズムそのものを教条的に語っている、40代、50代の大統領や首相たちだ、学生認識次元のすさまじい停滞だね。先へいかなくちゃいけないのに、カストロやペロン以前だよあれでは。チアパスの農民たちの方がはるかに先へいっている、国家統治の限界だ。
客:君もずいぶんとおとなしくなったね、以前なら、いまごろ凄いことになっちゃってるだろう。
主人:ハービー・ハンコックのライブみたが、彼もいっていた、時代がチェンジしたとね。あの反戦、反人種主義の戦士であった彼も温和になっていた。
客:もう年なんだよ、君も、いい加減、現実肯定したほうが楽だよ。
主人:ああ、そうしたいが、悪くなっていく世の中がみえてしかたない、性分かねこれは。しかし、たしかにエネルギーは低下してしまっている。本気で闘争する気にならない、むしろ回避するからね。言論の限界なんぞは、彼らなんかよりはるか昔の学生運動でもうとっくに知ってしまっているから、闘争の次元がどうにも低すぎてその気にならない。しかし、ほんとの敵がみえたならやるよ。党派性や組織性への抵抗の仕方はもう分かっている。大事なのは、言説のリアリティと現実のリアリティとの相克において創出されていくものだどうなるかにある。
客:敵として出現する以前に、それ自体が崩壊していくだろう、その方がリアルな気がするがね。
主人:ああ、ほっといても、崩れさっていく、それは確かだ、ファシズム以外に存続の方法がないという危険をあいたずさえているが。だから、むしろつくることだね、いまは。いままでにないものをね、どんなに少数で小さくとも、ディレクションになるものをだ。社会の現実と場所の現実の間に亀裂がはいいはじめている、そこにリアルなものを作り出していくことだ。
客:寝ていればいいのに。
主人:そういう誘惑はある。吉本さんが情況への発言で、なんで対話形式をとったのがよくわかる、ばかばかしいことの了解水準へのひきあげには、両立相反性が不可避におきるからだとね。
客:それで、この形式を真似してみたのか。
主人:ああ、そうだ、真似ることは学ぶことだから、まだまだ僕は学んでいくだけだよ、学び続ける、読み続け書き続ける、それしかない。
最後に、なんでこんなに長々と書いてきたのかというと、くりかえしになるが、インターネット上のものごとは、データであって、事実でも真実でもまして真理なんぞではないということだ。事実や真実を判断するデータ、材料であり、素材のひとつではある、データとしてもすべてになりえていない、それを使うのは自分の自己技術だ、ここは絶対的に見誤ってはならないのに、社会形式がからんで、主体に真理を作りだす装置になっている。情報生成は、自分がやることだ、他人がすることではない。ポストモダン・ファシズムは社会再生産秩序を変えないように、ここをもう権力装置として完全に使っている。主体ではない形式として確立している、そこに僕はまきこまれたくない通道を探している。
曖昧なデータを真実として固定し、そこに先験的な社会規準を加えて、人を裁いたり断罪まですることは、自由な行為でもなければ知的な行動でもない、悪質な非人間的な行動であることを、社会に暮らす人間として自覚すべきであるし、それが子供たちのいじめや排除、殺戮にまでいたるものに関与していくことを自戒すべきだ。社会的にも人間的にも、この匿名による負的な社会表現形式が放任されていることは、自分へ向けて厳しく、dignityをもって考えなおすべきであると僕は思う。匿名のポジティブな自在さは、統一的形式を分散させることであって、それを逆に使うことではない。
僕にとってブログはあくまで、自分の原稿書きの試行でしかない、本・書籍として物質化するための手段であると自覚している。しかも、まったく自由なんぞではない、自由の場所はプラチックそのものにあるのであって、ブログ書きはブログ書き自体であって、自由行為なんぞではないということだ。野球やエンターテイメントを生で観て楽しむということ、それ自体が自由なプラチックだということだ。
批判は自由ではない、拘束性の言表限でしかないという自覚をもっていることだ。ここは、僕はぶれていないよ。」

©TetsujiYamamoto: 本稿の部分転用・転載および無断使用は著作権の侵害であり、しかるべき訴追をまぬかれない。
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山本理論思考の基礎全貌は、この書にある。2段組1500頁の大著。 http://ehescbook.jugem.jp

TETSUJI YAMAMOTO

山本哲士【やまもと・てつじ】
東京藝術大学客員教授。
政治社会学。ホスピタリティ環境学、企業環境学を新たな専門とする。
ホスピタリティビジネス設計、場所環境設計。
スイス国際学術財団F・EHESC ジェネラル・ディレクター。


Shinshu University, Professor of political sociology / environmental cultural sciences/hospitality environment Pedagogy Ph.D
1980 Tokyo Metropolitan University、post-graduate of human sciences / doctoral course
1975 Studies abroad to Mexico CIDOC(Centro Intercultural de Documentacion)
1986 Director of "IICHIKO"quarterly magazine
1990 General Director of EHESC
2000 General Director of F・EHESC(Geneve)

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