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興宣大院君をめぐる誤解と真実(上)

ヨン・ガプス博士、『高宗代の政治変動研究』出版

 朝鮮末期の権力者、興宣大院君・李ハ応(イ・ハウン、ハは日の下に正)=1820‐98=は、二面的な評価を受けている人物だ。書院の撤廃や税制改革といった彼の革新的な一面は、「鎖国によって朝鮮の近代化を遅らせた人物」という守旧的なイメージに圧倒されてきた。近代史の研究者であるヨン・ガプス博士(ソウル歴史博物館学芸部長)が最近出版した研究書『高宗代の政治変動研究』(一志社)は、大院君と彼の側近について大胆な再評価を試みており、注目されている。大院君政権は時計の針を後ろに戻したのではなく、変化する世界秩序に対しそれなりに対応しようとした、というわけだ。

◆若いころはならず者ではなかった

 息子の高宗が即位する前、若かりし頃の大院君はかなり放蕩な生活を送っていた、というのがこれまでの通念だった。妓生(朝鮮時代の芸妓)の置き屋に出入りしてののしられたり、「宿なしの犬め」と嘲笑われたこともあった、という話が野史の中に登場するが、こうした話は権力を手にした後の姿と劇的に対比される。しかしヨン博士は、「当時の資料を詳細に見てみると、その姿はならず者とは隔たりがある」と語った。

 興宣君は1847年(憲宗13年)、27歳のときに宗親府を実質的に運営する有司堂上に任命され、ソン派人(国王の一族である全州李氏の中で、王室から分かれた分派に属する人々)に対する身役の免除を行うなど、宗親府の権限拡大を推進した。この過程で、当時権勢を誇った安東金氏の勢力との政治的取り引きを試みた痕跡がみられる。当時、既にかなり注目される政治的役割を担っていたことになる。

兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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