西洋に伝わった製紙法は高句麗の技術?
又石大・趙法鍾教授が主張
「タラス河畔の戦いで捕まった製紙工は高句麗遺民とみるべき」
「状況証拠のほかに物証がないため、さらなる研究が必要」との見方も
又石大社会教育科の趙法鍾(チョ・ボプチョン)教授(韓国古代史専攻)=写真=は1日、慶尚北道慶州のドリームセンターで開かれた慶州市第2回新羅学国際学術大会「シルクロードと新羅文化」で、「高仙芝と高句麗の紙“蛮紙”に対する検討」と題する発表を行い、「このとき伝播した製紙術は“高句麗の技術”で、紙も高句麗の“蛮紙”だった可能性がある」と主張した。
趙教授は、この戦いでイスラム帝国側の捕虜となった杜環の記録『経行記』に注目した。杜環は捕虜となった中国側のさまざまな職人について記しているが、製紙工については全く記録していない。「唐の捕虜による製紙術伝来」は、アラブ側の文献だけに登場する。そのため製紙工は杜環と言葉が通じなかった人々、すなわち漢人ではなく捕虜だった可能性が高い、というわけだ。
高仙芝が活動した舞台は、現在の新疆ウイグル自治区から甘粛省にかけての地域に当たる安西都護府と隴右だが、ここは唐代に紙を生産していた地域ではない。高句麗滅亡から13年後の西暦681年、高句麗遺民のうち相当数が隴右地域に移住し、彼らの子孫の一部はその後、高仙芝の部隊に配属され活動した。従って、タラス河畔の戦いで捕虜となった唐の兵士2万人のうち、相当数は高句麗遺民とみるべきだ、と趙教授は語る。
高句麗の製紙術は大変優れていた。唐代初期の中国人は高句麗の紙を「蛮紙」と呼び、それが唐へ大量に輸入されたという事実は、『負喧雑録』『説郛』などの文献でも確認できる。高句麗の紙は麻を原料とする麻紙だったが、タラス河畔の戦いの後、サマルカンドで生産された紙もまた麻紙だった。つまり、高仙芝の部隊に編入された高句麗遺民らの中にいた製紙工が捕虜となり、その捕虜によって「高句麗の製紙術」がアラブに伝わった可能性がある、というわけだ。
これに対し、学術大会の討論者だった慶北大の朱甫暾(チュ・ボドン)教授は、「十分に問題提起をすることができる内容だが、まだ状況証拠だけで当時の資料など物証がないため、さらなる研究が必要だ」と語った。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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