(終了済)天理教を語る!!4
- [0]異端ってまだいたんですか? 06/11/18 23:11 DO2GqAOc
- とりあえず信者もそうじゃない人も
天理教について色々語ってみようっちゅースレです。
それでは、どうぞ。
参考までにこれまでの経緯はこちら。
初代「天理教をかたるスレ」のログ↓
http://religion.dot.thebbs.jp/1042794059.html
2代目「天理教をかたる2」のログ↓
http://religion.dot.thebbs.jp/1078811040.html
3代目「天理教をかたる!」のログ↓
http://religion.log.thebbs.jp/1079512941.html
4代目「天理教を語る!!」のログ↓
http://religion.log.thebbs.jp/1104162575.html
5代目「天理教を語る!!2」のログ↓
http://religion.log.thebbs.jp/1132923011.html
6代目「天理教を語る!!3」のログ↓
http://religion.log.thebbs.jp/1153831058.html
初代「天理教をかたるスレ」のログ↓
http://religion.dot.thebbs.jp/1042794059.html
2代目「天理教をかたる2」のログ↓
http://religion.dot.thebbs.jp/1078811040.html
3代目「天理教をかたる!」のログ↓
http://religion.log.thebbs.jp/1079512941.html
4代目「天理教を語る!!」のログ↓
http://religion.log.thebbs.jp/1104162575.html
5代目「天理教を語る!!2」のログ↓
http://religion.log.thebbs.jp/1132923011.html
6代目「天理教を語る!!3」のログ↓
http://religion.log.thebbs.jp/1153831058.html
- [300]基本。 07/01/05 14:52 9tvL9vD.a7
- >>299
原理主義という事 B
人はなんの為に生まれたのか。
この問いに対して、教会本部の天理教権威主義者はこう答えるであろう。
「陽気暮らしをするためにこの世に生まれました。」と。
人はなんの為に生まれたのか。
この問いに対して、教団批判をする思想家たちはこうこたえるであろう。
「人間は陽気に暮らすのが天理の教えである」
ある時、ある人がおやさまに、質問したと言う。(高野友治・神と人間の間p60参照)
『神様よ、人はなんの為に生まれたのでしょうか』
と、おやさまのお答えには、
『人は働きに生まれてきたのやで。遊びの手はいらん。』
なぜ、この原理を教典に書かなかったのか。
それは、理由は簡単である。
『人は働きに生まれてきた』では、・・・宗教家や思想家は、存在理由がなくなってしまうからである。
原理とは、シンプルであるが、厳しい。 - [301]天理教被害者 07/01/05 19:15 fRuYqtkHpM
- >「聖職者」意識で、高いところから、手を差し伸べているつもりの、
> 某社社長・兼教会長です。
有限会社液ク□○○○○○の◇川社長はまさにそんな感じの人間でした。
自己陶酔に陥っているという感じでした。
でも、彼が、教会長という教団の中でも高い地位にいる人間であるとは
知りませんでした。(伏せているので)
天理教信者を間違った方向に導いているのではないかと思うと、心配です。
> 労働問題の専門家に相談する事が、ベストと思います。
行政では対応できませんでしたから、やはり法律の専門家のお世話になるしかない
ですね。これ以上被害を増やさないためにも。
> 信者獲得こそ、神様が喜ぶのだという事を「徳積み」だと説いている。
> お金を神様に上げる事も、徳積みと説かれています。
まさに社長のやっていた行為はこのことです。
私が入社する前から、天理教に入信させることを決めていたようです。
そして、その費用も給与から天引きするというあり得ない行為でした。
これは、会社として流行ってはいけない犯罪行為です。
これを立証して、検札や警察に告発できないかと思っているのですが、
先に、労働基準監督署及び奈良労働局に働きかけて解決を図ろうとしたため、
既に会社側は事実を隠蔽しているものと思われます。 - [302]天理教被害者 07/01/05 19:15 fRuYqtkHpM
- 弁護士によれば、会社が天理教修養科に行くように命令しただけでは、
宗教を強要したことにはならないそうです。
会社側が身体的に拘束して、詰所に連れて行ったのではない限り
宗教を強要したことにはならないそうです。
しかし、それはおかしな話です。
本来私たちを守るためにある労働基準法や憲法が全く機能していないのです。
会社は証拠がないことをいいことにやりたい放題です。
本来私たち働く人を守るはずの憲法や法律が全く機能していないのです。
私たちはただ泣き寝入りするしかないのです。
でも、もう本当に法的に相手を告発することはできないのでしょうか?
このままでは、私と同じ目に遭う人が出てしまいます。 - [303]基本。 07/01/06 02:20 phSDzCsQ9v
- >>301
さて、天理教被害者さん。先ず闘い抜くと言う精神をきちんとお持ちでいること、安心しました。
ただ、どうして「大教会に対して質問」をなさらなかったのでしょうか。
それをしない限り、訴訟しても、因果関係がどのようなものか、第三者には説明の仕様が無いのです。
つまり、裁判官らは理解されないということです。
> 弁護士によれば、会社が天理教修養科に行くように命令しただけでは、宗教を強要したことにはならないそうです。
> 会社側が身体的に拘束して、詰所に連れて行ったのではない限り
宗教を強要したことにはならないそうです。
法的に問題なのは、「修養科に行かないことが解雇の理由になったかどうか」です。
強要と言うのは、無理やり押し付けた状態を言いますから、軽く誘った程度では、強要にはならないわけです。
会社の上司とか、経営者の立場を利用したかどうかが、問題と言うことです。
すると、天理教被害者さんの被害が、被害としてある時に、初めて強要と言うことにみなされるもので、被害が無い場合には、強要でもなんでもない。被害者でもなんでもないと、みなされてしまうわけです。
職を辞したことについて、天理教被害者さんは、予告手当てを受け取っていないと言う被害を、以前は書かれていました。
先ず、その一点の事実関係を、被害の事実として確定させるべきです。
請求をしてありますか。
してなければ、内容証明で請求を起こすべきです。
次に退職の事実について、天理教被害者さんは、その退職が自分の意思でないと主張しないと、その関係では被害者ではないということになりますから、自分の意思ではないと言う主張とは、「その職場でもっと仕事したかった」との意思を表明しなければなりません。
その点で、会社辞めたくてやめたのは、天理教被害者さんだとしますと、その退職の事情については、加害被害の関係では、主張する権利は無いと言うことになります。
証拠と言うのは、あなたが現実になした行動が最初の、第一の証拠です。
会社に対しては、解雇予告手当ての請求を。
又、仕事をしたかったのなら、再雇用の請求を。
大教会に対しては、信仰上の指導の問題についての講義を。
これらをなして、相手の反応を確認していなければ、それは、あなたが被害を訴えていないということで終わります。
どんな有能な弁護士でも、被害者自身が自分の被害をきちんと主張していなければ、何も出来ないということです。
> 本来私たちを守るためにある労働基準法や憲法が全く機能していないのです。
> 会社は証拠がないことをいいことにやりたい放題です。
私は、何人も、被害者が証拠を固めたことで、きちんと解雇予告手当てを出させたりした場に立ち会っています。
例えば、
『弁護士によれば、会社が天理教修養科に行くように命令しただけでは、宗教を強要したことにはならないそうです。
会社側が身体的に拘束して、詰所に連れて行ったのではない限り
宗教を強要したことにはならないそうです。』
との事について、
『しかし、それはおかしな話です。』と、天理教被害者さんは言われていますが、弁護士さんの言うことが社会常識なのであり、それをおかしいと言ってしまうと、天理教被害者さんも非常識と言う事にみなされます。
世の中のルールは法律であり、法律は証拠に基づいて提訴しないと機能しないのが、万国共通のルールです。
そして、なによりも自分が被害者だときちんと抗議したと言う事実がないと、誰も被害とは認めないのは常識です。
一定の期間、請求をしていないでいたら、例えば飲食代金は払ってもらえなくなるのが、法律です。貸付金にも時効があります。
被害を、自分が証明する。被害者だと証明するには、修養科を薦められたと言うだけでは被害とは認めてくれない世の中なのですから、最初に語られていた事実というものを、きちんと書面で相手方に示して、交渉すべきです。
がんばって下さい。
被害者として、証拠を残すように書面で交渉する。
それが出来るのは、天理教被害者さん。あなた自身だけです。 - [304]はじめ 07/01/08 11:25 jDcyu569Y1
- 基本さん。
おそくなりましたが、あけましておめでとうございます。
原理主義・権威主義など読ませて頂きましたが、お互いが「かしもの・かりもの」「八つのほこり」を心に治めて、相手を思いやる優しい心でつながり合おうとする心があれば、大切な一つの構造のように思いました。
ところが、そうはいかない深い悪いんねんが・・・・と思ってしまいました。(これは自分自身を思ってですから・・・)
いんねんならば通らねばなりませんし、通って果たさねばなりませんから・・・
白いんねんにはほど遠い自分であります。ではまた。 - [305]基本。 07/01/08 22:06 269CdruQKL
- >>304
はじめさん。
あけましておめでとうございます。
たすかってほしい。と、教祖の思いはそれに満ちていて、教えは、全てたすかってほしいという親の心でいっぱいです。
例えば、天理教被害者さんに修養科を勧めたというのは、「権威主義」でした。
修養科に入学させればたすけることになるというのは、「権威主義」で、相手の人の気持ちも何も、ただ、親神天理王命の権威によってたすかるのだという、とんでもない間違いです。
人間は陽気暮らしが出来る存在だと言うのも「権威主義」です。
藁にでもすがりたい人は、「権威」で救われようとしますが、月日は、たすけたいという理によって、「人をたすけてわが身たすかる」を教えてくださいました。
互いに助け合うのなら、その心を受け取って、どんなたすけもするという月日。
その場合の、月日とは、「権威」ではなく「理」なのです。
私たちの内側にあるむごい心が打ち忘れられたときには、その心を受け取ってくださる。
天理教とは、人をたすける心を教えるだけのもので、他のものではない。
人様さえ助かってくださるのなら、それでよろしいわけです。
『たすけ一条の道は、やむにやめられん』と、おやさまは言われたと聞きます。
それは、権力や権威によらず、ただ、「言葉一つの用木の力」によるものだと、教えられています。
本年もよろしくお願いします。 - [306]はじめ 07/01/09 01:59 VUjqtaVYOH
- 基本さん。こちらこそ今年もよろしくお願い致します。
>>305
>例えば、天理教被害者さんに修養科を勧めたというのは、「権威主義」でした。・・・・・・人間は陽気暮らしが出来る存在だと言うのも「権威主義」です。
読んでいて、
山村御殿へ教祖が呼び出されたのも「権威主義」だろうなぁ。と思いました。
そして「権威主義」というと、すごく悪い事のように思えますけれども、「自分では助かってもらうだけのものはないから、あの人に助けてもらったら良いよ」などということは、においがけと同じ事のように思えるのです。
においがけならば、行くも行かないのも本人次第ですから、ごり押しではない訳で、別段問題も起こらないと思うのです。
ましてや本人が行かないというのは、藁をもすがるという心ではない。とも思えますので、そこまでのものと考える事も出来ると思うのです。
ところが、自分の権威を傘に物事を進めた時、相手の心がどう動くかはこれまた別の問題と思います。「権威を傘に・・・」という言葉を使う時は、その人に信頼がない場合が主だと思いますので、言われた方は良い気持ちにはならず、反対する心になるのは当然かとも思います。
慣れというのは恐ろしい物で、初めての時などはすごく心も気も使って物事を運ぶのに、何度かすると当然のようになって心も気も使わずに物事を運んでしまって問題が起きる事は多々ある事と思います。
こうした事も部下の物から見たら「権威主義」と見えて、心添わない原因になる場合もあるかとも思います。
おたすけって難しいですよね。
助けてほしいと思って来られる人なら良いですけど、助けてほしいと思っていない人には、言葉も出なくて・・・・何とか切っ掛けがお与え頂ければなぁ。たすけをさせて頂ける自分に成れるようにと願うばかりで・・・
失礼しました。 - [307]紬 07/01/09 10:26 rHDQf8dOaR
- はじめさんの書き込みを読んでいて思ったのですが、『おたすけ』という行為に熱心になればなるほど、天理から外れていってしまうようにも感じ取りました。上手く伝えられませんが、おたすけが職業になってしまう落とし穴のような感じを受けました。私達は、究極、用木という立場でしかないし、相手さんの迷惑になる『おたすけ』行為は、慎まないといけないと思います。今のままで(たとえ身上であっても)その人は、充分に助かっている、その現実の姿を、澄んだ心で理解しないといけない様な気も致します。究極、自分に助けを願わない人に、たとえ自分の眼からみて助けてあげたい相手であても、願わない相手を助ける理が、自分にも相手にもないのだと、私自身は思うのですが、如何でしょうか?
人助けという行為そのものに、過ち(間違い)があるという事を、しっかり認識していかないといけない、そう思いました。
(これは、私自身の反省の為に書き込みしました。)
はじめさん、生意気に聞こえましたら失礼致します。 - [308]紬 07/01/09 10:38 rHDQf8dOaR
- 基本さん、本年も、書き込み読ませて頂きます。
信仰初代を、必要以上に美化する傾向、教会を権威化していく作為に断固反対致します。
自分に課せられた役目を自覚して、心得違いのないように日々通りたいと思っております。 - [309]はじめ 07/01/09 20:38 kq5lceZvoT
- 紬さん。はじめまして、よろしくお願いいたします。
>>307
難しい問題ですね。私にもよく分かりませんが、
>相手さんの迷惑になる『おたすけ』行為は、慎まないといけないと思います。
相手の迷惑ばかり考えていたら、おたすけ、世直りは出来ないようにも思います。
おたすけの基準って言うのは迷惑ではない気もしています。
>おたすけが職業になってしまう落とし穴のような感じを受けました。
職業を「身上が救かったからその代金をよこせ」と言うようなら考え方ならば、金儲け主義で倫理も何も無くなった医者と同じような感じを受けますね。
もし救けて欲しいという人が次々と現れて、そればかりに関わらなければならなくなったら周囲から見て「職業」に見えますよね。また、救けても何も受け取らないのが当然と考えたならば、その人は生きていく事は出来ませんよね。逸話編で「真実の御供」では教祖は親神様への御供として物を受け取っておられますし・・・・
職業という考え方も難しい感じがします。
また、おたすけをどうみるかが、これまた問題のように感じています。その場の身上だけが直ればよいという場合もあるでしょうが、その身上を通して周囲の心遣いを反省させたい、この旬に教えたい事があるという場合もあるかと思います。
ただ、身上や事情が起こっても親神様に願い出てこないと、こうした話し合い、ねりあいの状況にはなりにくいですので、そうした相談を掛けてもらえる人間になると言うことが大切なような気もしています。 - [310]紬 07/01/10 11:52 rHDQf8dOaR
- はじめさんへ
こちらこそ、宜しく。。と書きたいところなのですが、(笑)不思議なもので、基本さんの書き込み以上に、はじめさんの書き込みに、レスをつけるのが困難な状況です。頭が疲れてしまうので、はじめさんとは、談じ合いが出来かねます。失礼致します。
きっと、書き込みに悩んでしまい難しいのだと思います。
私自身、簡単に言うと、熱心や一生懸命でおたすけを受けると、重たく感じてしまい、その相手に絡めとられていく気持ちの悪さを感じる時があります。相手がいい人なら尚更、やめて!とは言いにくく、自分からすっ〜と引いてしまいますね。
最近あった事ですが、天理教のお助けに絡み(サイト上での関係で)最悪な状況に陥ってしまった件がありました。
結局、その一番最悪な部分を私が担ってしまって、と。その事を通じてお助け(と、思ってやっている行為が)天の理に叶わなければ、何も実はなく、かえって相手に迷惑が掛かるのだと、これは私自身の悟りとして、そう思わせて頂き、親神様にお詫びした次第です。
そしてそれは、すべて、私が親神様(おやさま)から、お仕込みを受けたのだと思わせて頂いております。
私は、間違いをいっぱいしたから、『違うよ!』という仕込みをたくさん頂いている者なのだと思います。
私は、相談を掛けてもらえる人間になるよりも、親神様(おやさま)が使いやすい道具になりたいと思っています。その為に、自分の強情さ、猜疑心の深さ、神に背く心など、取らせてもらえたらなぁ。。と思っています。(おやさま、立教の年齢になった、この年から)
では。 - [311]紬 07/01/10 11:57 rHDQf8dOaR
- それと、私自身の勉強の為、参考に、この事(おたすけ)に関する皆さんの意見もお聞きしたいです。別スレ立てる程でもないと思うので、良かったら忌憚のないご意見お願い致します!
- [312]はじめ 07/01/10 13:19 kq5lceZvoT
- 紬さんへ
>>310
>はじめさんとは、談じ合いが出来かねます。失礼致します。
ご迷惑をおかけしてすみません。
>その事を通じてお助け(と、思ってやっている行為が)天の理に叶わなければ、何も実はなく、かえって相手に迷惑が掛かるのだと、これは私自身の悟りとして、そう思わせて頂き、親神様にお詫びした次第です。
「その事」をやったから真に悟ることが出来て、天の理に叶う自分になろうと決意なされたのですね。人のためを思い我が身を捨てて、「その事」をなさった誠の心を親神様が受け取っての悟りのように私には思えました。
そうした上での「人に対する迷惑という思案」これはとても重要な事だと思います。私も多くの方にご迷惑をおかけした人間です。今でも迷惑を掛けているかも知れません。
経験を重ねて、悟りを重ねて大きな器になっていくものだと思います。
心通りに色々な事をお見せ下さる親神様に感謝ですね。
皆さん方のご意見が集まればよいですね。(⌒∇⌒)
ではまた。 - [313]はじめ 07/01/10 13:28 kq5lceZvoT
- 連続ですみません。
投稿してから読み返して思ったのですが、紬さんはおたすけをする方ではなく、される方として、自分の性分をお詫びをされたと言うことなのですか?
>熱心や一生懸命でおたすけを受けると、重たく感じてしまい、その相手に絡めとられていく気持ちの悪さを感じる時があります。相手がいい人なら尚更、やめて!とは言いにくく、自分からすっ〜と引いてしまいますね。
どうして重たく感じたり、相手に絡めとられるというような気持ちになるか教えて頂けないでしょうか? - [314]紬 07/01/10 22:00 rHDQf8dOaR
- はじめさんへ
ご理解頂き、ありがとうございました。
私の文章では伝わりにくいと思いますので、ご質問の『相手に絡めとられる気持ち』に関する答えの部分が分かると思いますので、以前、私が本気でお助けに関係して勉強した本を紹介させて頂きたいと思います。はじめさんには是非読んで頂きたいと思っています。
以前はじめさんが、医者を志したとの事をお聞きしましたが、精神科医になったつもりで、読んでみてください。
『家族依存症』斉藤学著、新潮文庫
『「家族」はこわい』精神科医:斉藤学著、新潮文庫
私は個人的に、この本を読まずして現代の天理教のお助けは出来ないとさえ思っている一人です。家族関係の病理性、摂食障害(食べ吐き)リストカット、壮年期鬱、自殺、殺人など、分かりやすく書かれています。それを、天理教の理の親子関係に置き換えたら・・と考えると、そら恐ろしささえ感じてしまいます。
出来ました、本を読んだ感想も書き込みしてください。
では。 - [315]はじめ 07/01/11 09:50 kq5lceZvoT
- 紬さんへ。
本のご紹介ありがとうございました。
「家族依存症」で検索をしてみましたら、本の紹介がありました。何となくいわれていることは分かるような気がします。
親に原因があり、その結果が子どもに現れてくる。子どもには考える事が出来ないから親がしっかりと改める必要がある。ということをいわれているのかなぁと想像しました。
世の中には親で苦労する子どももおります。親に苦労させられたお陰でこのようになれた。と思われる方もあります。そう思わずにずっと親を恨み続ける方もあります。ここら辺の心の切り替え、心の気づきが大切なんだと私は思っています。
>天理教の理の親子関係に置き換えたら・・と考えると、そら恐ろしささえ感じてしまいます。
理の親子関係というよりも、人間の意識、物の見方が、物質にしか行っていない結果だと思います。「かしもの・かりもの」「八つのほこり」「いんねん」「おふでさき」「おさしづ」等々の教えで、自分の心の大切さを十二分に説かれているにも関わらず、自分を棚に上げて他人を変えようとしたり、自分は何もせずに利を得ようとする考えに押し流されて来た、その結果が今見えているだけだとも思っています。
このようになって来たのも、親神様・教祖の言葉を素直に聞き入れられない、他人の言葉を素直に聞き入れられない、人間の傲慢な心、我が身勝手な心の賜物と思います。
心の病の方が増えてきて(表に現れてきて)精神についての研究がなされてきて、ようやく心の大切さに、一般の人間が気がつき始めたそんな現在のように思います。
いんねんは物質の因果をいわれているだけではないのです。心の因果をいわれていると思っています。心のことについて目がいくようになれば、これは当然理解出来ると思います。心通りに全ての物を貸し与えていると教えられるのですから。
そして八つのほこりのお話で、ほこりの心遣いで吹いても掃いてもとれなくなった物が「いんねん」と教えられている事からも分かると思います。
自分たちがついついしてしまうこと、考えてしまうことも自分のいんねんの中の事だと思います。そして自分のしたことで回りが思うこと、これも回りの人のいんねんによるもの。そんな風に思っています。
自分の悪いんねんに気がついて、悪い心を変えようと思ってもままならない。だから「あしきをはろうて たすけたまえてんりおうのみこと」と親神様に願うことが大切だとも思っています。
ご紹介頂いた本、購入して読んでみたいと思います。読んだらまた書かせて頂きますね。
ありがとうございました。 - [316]基本。 07/01/13 14:58 rHDQfSV/SJ
- 一昨日から昨日は、奇妙な事がありました。
「ザおやさま」の
おやさま[e100]
投稿をするときに、必ず「検索」をして、投稿していたのですが、「おやさま」で検索しても「ザおやさま」で検索しても、それまでどおりに出てこなくなりました。
「おやさま」を立てたのは、私、基本です。
立ててしばらくは、「おやさま」で検索すると、五、六番の位置で「ザおやさま」と、検索結果が表示されました。
「ザ おやさま」で検索すると、一番目の位置に「ザおやさま」と表示されました。
それが、天理教の教団批判色の濃い内容に触れたときから、利用する検索サイトによれば、まったくヒットしなくなりました。
ヒットしても、三十番前後になりました。表示は「おやさま」か、「ザおやさま」でした。
さらに、投稿の中で、明治維新においての西欧思想の批判から、現代のアメリカのイラクの軍事行動や、現代の労働問題の残業手当の削除という政治色の濃い内容を踏み込みましたら、一昨日、昨日と、それまでの検索の仕方では、まるで探しても出てこない状態に、変化しました。
倫理委員会でもあって、内容をチェックし、正当な天理教に迷惑がかからないように配慮しているのか、とても、奇妙なことです。
ためしに、たった今、検索してみました。
biglobeでは、「おやさま」ではヒットしなくなっています。「ザ おやさま」で検索すると、五番目に「掲示板 宗教論・人生論 」が出てきました。以前には「ザ おやさま」と表示されていました。
Googleで、「ザ おやさま」と検索すると、二番目に「【ザ】みんなで天理をかたりあおう」が出てきます。
「おやさま」で検索しますと250番すぎてから、「【ザ】みんなで天理をかたりあおう」が出てきます。
そのなかに、「おやさま」はおさめられています。
「おやさま」は、「天理を語るスレ」の中の一分野という扱いに、一斉に処理したということでする
一番可能性が高いのは、天理教団からの、あの「ザ おやさま」は、天理教の公式見解としてのものではないから、という、要請がなされたという可能性です。
もうひとつは、倫理委員会的なものが内容として、「反西欧」「反聖書」思想を、「おやさま」が示していたという基本の見解への、チェックを入れて、自主的に、゜おやさま」というタイトルを表に出さなくさせたと言う可能性です。
どちらにしても、おはらいさんは降っている。
ネットのチェックは、こんな基本の「ザ おやさま」までも、警戒をしているという、徹底したものということです。
心の貧しさを感じます。
そんな事してみても、唐人ころりを待つおやさまの思想は、谷底に浸透し、用木を育てて、くにを土台から立て直す。
情報管理は、黄河や揚子江、インダス川を治水するよりも難しいもの。
基本のような石ころひとつにまで神経を配ったところで、おやさまの「天の理」は、世界人類に、おのずと浸透していくものなのです。 - [317]基本。 07/01/13 15:33 rHDQfSV/SJ
- そういえば、2チャンで宗教板が突然に閉鎖になったことがありました。
基本は、そこでは、徹底した教団批判を展開していました。八島系批判もしていました。
ある日突然に、すべて終わりになっていました。
基本はよく、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を利用します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99#.E6.A6.82.E8.A6.81
引用しますと、
『月日・親神・天理王命の守護と恵みにより、人間は生かされおり、陽気ぐらしを享受することができる。そのことに感謝を捧げ、報恩の行いとして人間は、親神の恵みである天然自然を活かし、親神からの借り物であるそれぞれの身体を、陽気ぐらしのために惜しまず使っていくことが大切とされる。また、すべての人間関係は、夫婦関係を基本として培う事が理想であるとされる。』
このように、「報恩」という、天理教祖の説かれなかったことが、公式見解として乗せられていまする
つまり、一度ネットにて「公式見解」になってしまうと、それが間違いであっても、一般の人は「天理教は報恩」と刷り込まれることになるわけです。
『ウィキペディア(Wikipedia)』の怖いところです。
掲載された内容を批判するにも、一定の手順が必要になり、一定の声の量がなければ届かないという民主主義の衆愚が、ルールにあります。
それは、即効性を期待するなら「天理教」の場合には、教会本部なりが「報恩ではない」と示すしかないのであるが、信仰現場では、報恩にお金を供えさせているから、「報恩でない」と、いうのは誰にできることか。
今の天理教は、山名系・八島系が思想の中枢にいて、そういう誤りを直すよりも、逆に自分たちへの批判を消したいのだから、障害となる。
それは、天理教という名称を名乗るすべての組織が、根本から正しいものであろうと努力しなければ、出来るものではない。
今の、一部幹部は、高層階に上って、はしごを外された様な、惨めさであり、とても素直にさんげできない、お気の毒なものとなっている。
そうした宗教高山の類似品として、ネットの掲示板提供者たちが変質しないことは、望んでも意味がない。
自主管理が始まり、やがて、統制下に置かれるようになる。
アダルトの性器もろだしを、泳がせているのは、規制をかける時の脅し用である。
経済に支配されているということは、生き抜く知恵であるから、やがてはネットはがんじがらめの世界になる。
だが、悲しいかなネットには情報があるけれど、管理されたら、それは、死んだ情報の場としかならない。
少なくとも、まだ数年は、ネット管理の強固な網は打てないであろうから、今しばらくのうちに、
ホームページを基本自身が持って、天理教の教理を研究発表の場としようかと、考え始めてしまった。
それは、来たい人だけに来て頂くというものにするしかないが、ネットでする以上丸裸だと思ってかかるしかない。
しばし、考えてみたい。 - [318]紬 07/01/14 11:06 rHDQf8dOaR
- ネット社会は野方図とばかり思っていましたが、情報管理がされているとは。。裏が多い日本社会では、それも致し方ない事なのでしょうかねぇ。
ききたくバ たつねくるなら ゆてきかそ よろづいさいのもとのいんねん おふでさき1号−6
(この姿勢は貫きたい) - [319]基本。 07/01/14 17:14 ccGs9jZlRs
- 今日は、Googleでは、元の表示に戻っていました。
「ザおやさま」。「おやさま」。と表示されています。
そのままに表示することが出来る検索サイトもあると、見せて頂けました。
ここでの投稿を続けます。 - [320]紬 07/01/16 09:22 rHDQf8dOaR
- ふっと、逸話篇を開いたら心に留まる教祖の一文がありましたので書きます。
天理教教祖伝逸話篇【七二 救かる身やもの】
明治十三年四月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、坐骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々治療の限りを尽くしたが、その効果なく、本人はもとより家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。
何んとかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、行ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村めざして帰って来た。
そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、
「救かるで、救かるで。救かる身やもの。」
と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しいお話をお聞かせ下された。
そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持になって帰途についた。
家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心持であった。そして、教祖から頂いたお水を、
なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。
そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治十四年正月には、本復祝いを行った。幸三郎四十二才の春であった。感謝の気持は、自然と足をおぢばへ向かわしめた。
おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。
教祖は、
「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」
と、仰せられた。
幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった。
特に、「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、・・・」と、その箇所に心が留まりました。 - [321]紬 07/01/16 10:00 rHDQf8dOaR
- 思えば、私を信仰の道へと導いた原点が、この天理教教祖伝逸話篇です。そこに書かれている、あるかないかのにほいを頼りに、自ら求めた道でした。教会ではそれらしい話は聞いていないのです。教会ではそこにいる人達の信仰生活の姿と、世話取りを受けて、その中で日々、だんだんと育てて貰ったように今、感じています。長い年限がかかりましたが、あっという間でもありました。そこ(教会)に、いつもあったのは、変らない薄き誠の積み重ねの教会生活でした。暑い日には冷たい麦茶を、寒い晩には、暖かいかけそばを、たった一杯でしたが、そっと出してくれた会長さんに、今感謝しています。
先代会長が出直して十年が経ち、現会長さんも七十六才、私が道に付いた十三才から、私の行く先を案じ心配してくれました。
一時は、教会と家庭との板挟みで、不足に不足を重ねていました。その仕込みには惨いとさえ感じた日々でした。しかし、今振り返って思うと、自らのいんねんとの戦いであったような気もしています。
そして、これからの私は、先代や現会長のように、道を通って行くであろう、そんな青写真が見えます。人に笑われ謗られての道ですね。 - [322]基本。 07/01/16 15:28 rHDQfSV/SJ
- >>321
紬さん。
古き信心の方々は、原典に基づいたちゃんとした教理と言うものは、なかなかに学ぶ機会も無く、ご本部そのものが、「応法の教理」を説いていましたから、大変に難儀されたと思います。
いわゆる、体験中心のおたすけの話と、おやさまの「匂い」だけを頼りにして、おたすけの中に神を見ようと、そういう信心をされていたものと思います。
素朴な、そうした信仰こそ、天理教の土台であり、教祖から、「あんたは阿呆かえ、阿呆は神の望みと仰るで」との、神意を受けて、「いつも笑われそしられる道」を、楽しんだ先輩たちに取れば、自分たちの後に来る人たちの、「おふかん」こそ、唯一の楽しみであり、自分たちの後に続く者の為に、日々を費やされていたものと、思います。
紬さんに道を伝え、託された方々に、おやさまは、深くお礼を申されていることでしょう。
「教理無き信仰は空虚である」と、かっての、教祖七十年祭から八十年祭の頃の流行語でした。
それは、戦後の教理復元の時代に吹き荒れた嵐のような、思想の流行でした。
説いた人は「諸井慶徳先生」。
「天理教神学」を打ち立てたと言われる大先生でした。
体験しかないお年寄りの信仰者を悩ませる思想でした。
そして、「天理教神学から天理教学(深谷忠政先生)」へと、天理教団の宗教思想リーダーたちは、おやさと研究所・天理大学・天理教校で、「教理無き信仰は『空虚』である」と、その説く「一神教的天理教の神学・教学」を学び、おたすけの体験だけの年寄りの信仰を、「空虚だと」馬鹿にして、笑いました。
ほとんどの大教会子弟、有力教会子弟は、「教理なきは空虚」だとみなす、天理大学で宗教を学び、それらの先生の説く理論で「理論武装」しました。
隅に追いやられまいと、口真似のように、「教理は大切だ」と連呼して、中間幹部も、教理の尊さを語り、・・・現場では「おたすけ」用の教理と、「理論」用の教理の二つが使い分けられました。
・・・
「空虚」とは、お筆先で言う「から」。
いったい、どちらが空虚なのか。「から」なのか。
貸物借物の教理は、「俗説」と蔑まれました。
哲学的な神学。天理教学は、「真理」と礼賛された・
でも、「哲学的な神学・天理教学」は、なぜか現場では「報恩信仰」という方便を説き、ちゃんとした「病の諭し」は、どんどん説かれなくなった。
そして何よりも、素朴なおたすけ人の「教理無き信心」を、空虚と言い放ったかれらは、「おやさまを親神様」と認めなかった。
この理不尽。
「空虚なのは誰なのか」
彼らが口にする、天理教の教団の衰退の原因は、現代に対応していない教団組織にあるのではなく、
彼らの「空虚」にある。
「みかぐらうた」しか、なくても、「哲学の教理」など何も知らなくても、おたすけにんは、素朴な「貸物借物の理」で人をたすけて来たではないか。
キリスト教哲学を取り入れた、一見高尚なかれらこそ、「唐人の思想」である。
それを、証して、ふるき素朴な信心の、残念を晴らす事。
紬さん。
良い師に恵まれましたね。
とんでもない、唐人の哲学を頭に刷り込むぐらいなら、「お筆先」を頭に乗っけて、「南無天理王命」と「おやさま」を念じるほうが、どれほど、天理に適っているか。
阿呆は、神の望みと仰るで。の世界にて、おたすけに、ご活躍下さい。 - [323]紬 07/01/17 09:16 3ITuIp6r7E
- 基本さんへ
『唐人の哲学』ですか?随分と唐人の哲学で遊学させて貰いました。
「もう遊びのお時間は終わりですよ〜、早く、お片づけをしなさい〜」そう先生に言われているような心境ですね。心得違いのないように、とそう思います。
『おやさま』を念じながら、『おふでさき』を胸に、『南無天理王命』と唱えながら、歩んで生きたいと思っています。有難うございました。 - [324]紬 07/01/17 09:41 3ITuIp6r7E
- >>322
基本さん、自分が『空虚』だったのですね。『ほんしんじつ』を知らなかったからですね。理に素直になれない自分がいて、理に素直になれる一時の自分もあって。心得違いを恐れずに、おたすけに心を置いて生活してみます。
【邁進】勇み立ってひたすら進むこと。「勇往ー」
【勇往】勇んで進むこと。ためらわず前進すること。
【勇往邁進】目的を貫こうとして、わきめもふらずまっしぐらに進むこと。
>>320
村上幸三郎は、たすけ一条に邁進したのですね。 - [325]基本。 07/01/18 04:05 28t4iRcj27
- 本当のお助け人と言うのは、後悔しない人だと思います。
どんな道の結果を見ようとも、良くても悪くても、後悔しない。
教祖は、どのような事でも先に知らせおくと、後で後悔無きようにせよと言われています。
「懐疑」すると、それは、案じ心となり、「案じ」「暗示」・・
どこまで行っても、後悔することになります。
正味百円のものは、何をしたとしても百円なんです。
そんな事は、先にお知らせ頂いてある。
その、自分の価値を、百円の価値であっても、或いは、落とし紙にするしかないような自分であっても、それを飾るのではなく、その自分の値打ちのままで、喜んで通る。
多分紬さんは、『可能性』を重んじていて、何にでもなれるようにしていて、それで、自分が人の役に立つということを、深く思いすぎていたのではないかと思います。
そんな重大事に思案しなければ、後悔もしないですむ。
教祖は、片手に持ったらいけるけれど両手に持ったら行けないと言われました。
身軽手軽、無理をしない。
そんなことで道になるのか、なんて目くじら立てないで、ほんの少しのお役立ちを楽しむ。
やってる本人が、人から見たらたいしたことなくても、本人が陽気に通れるなら、後悔はない。
そして、それまではつまらないと思えてたことを、詰まらないと思えなくなったら、陽気が生まれると思います。
おたすけと言うのは、教祖は念ずるだけでもたすけやでと、言われています。
そんなの、「においだけで」、姿かたちにならない。
でも、匂いだけは、天理教であるならそんな素晴らしいことはない。
後悔しないこと。
教祖の教えを、先に先に学ぶこと。そして、少しづつ行うこと。
それが、天理教の基本だと思います。 - [326]紬 07/01/18 20:15 3ITuIzjier
- >>325
ほんの少しのお役立ちを楽しむ、ですね。ほのかにほいと、ほんの少しのお役立ち。後悔しない生き方をしたいものです。
胸の痛みがない日は、ホッとします♪にちにち、少しづつ行います。 - [327]紬 07/01/21 11:25 3ITuIzjier
- 基本さんへ
最近、肩の力が抜けて信仰が出来そうです。
『病のさとし』の著者、柳井徳次郎先生の事を詳しく知りたいです。
あれ程まで身上諭しが説ける先生の生涯は、どんな日常であったのか?と想像しています。私の所属教会の初代会長は、『病のさとし』を教理本として信仰をしてきた人です。
「元の理は難しくてわからん」とよく言ってました。 - [328]紬 07/01/22 22:08 3ITuIzjier
- 基本さん、こんばんは。
『病のさとし』の本は、以前、さっと読んだ事があります。(今は手元にありませんが)実は、兄が糖尿病でしてインシュリンの注射を打っています。教会へは参拝に行きません。おぢばへはやっとの思いで1度だけ連れて行きました。2席聞いています。以前、2回程教会参拝した折りに会長さんから兄に『金銭』と言われました。私には、糖尿病のお諭しができません。また兄も会長さんに会おうとしません。病のさとしで言うと『糖尿病』は、どんな理なのでしょうか?
今後の為、詳しく知りたいと思っています。 - [329]基本。 07/01/23 00:34 28t4iRcj27
- >>328
原則として、本人がお尋ねの場合にお答えするものが、「病の諭し」です。つまり、人の話を例えにはしてはならない基本です。
私は、郡山の初代会長の逸話に学びました。
先ず、十柱の神名を覚えたのが、郡山の「恩地楢」でした。
文盲だったのですが、指に十柱の神名を書いてもらって、それを見ながら暗記しました。
紬さんは、天理教教典にある十柱の神様と八つの埃、全部言えますか?
それが暗記できていないと、初試験はまだ不合格と言うことです。
お地場では、別席のときに、初試験と言うものがあります。
そこでは、天理教教典にある十柱の神様と八つの埃を言うという試験があります。神様は「初試験」に合格しないでは、おさづけの理は頂けないというのが、「天の理」です。暗記は、基本です。
それから、これも「理の常識」ですが、「知った事は行う努力をしなければならない」と、いう事です。
つまり、「一つ」しか知らなければ、一つでよいのです。
しかし、たくさん知ったら「たくさん」実行すべきことが増えます。
紬さんが「糖尿病」の理を汁と言うことは、いつ糖尿になっても当然という事になります。
「対策を知る」と言うことは、起きても平気と言うことですからね。
それで、教理を知りすぎると、自分では制御できなくなります。
それが、「理」の怖さですね。
つまり、一人分の食事は、一人分ですが、それを、何万人分もを抱え込んだら、紬さん、腐らせるだけでしょう。
一人分でも、二人で分け合うことは出来ます。
教理と言うのは、知らないほうが良い。知るのなら大勢に分けなければならない。そういう理があります。
多くを知るよりも、「一つ知ったら一つ行う」これが大切で、郡山初代は、「恩地楢」は、「一柱目は、・・・。」と聞くと、取次ぎ人さんが次に移るのをとめて、「そんなに沢山聞いても覚えられない」と言う意味か「実行できない」と言う意味か、それだけを聞いて、それが確かにと納得できてから、次にと、話を聞くこと進めました。
たしか、東本初代の「乞食のよし」さんも、そんな風だったと読んだ記憶があります。
若い頃、基本は、そうでした。恩地楢を手本としました。
その時に「教えの一つ」だけを心に持っていて、誰にあっても、その話しかしませんでした。
「はらだち」なら、腹立ちの話しかしない。諭さない。
そうすると、神様は、こちらが一つしかないと知っていますから、一つだけを諭せば、「有難うございましたる本当にそうでした。」と、礼ばかり言われていました。一つづつ千遍諭すを目標に実行し続けました。
紬さん。人に食べさせもしないものを蓄えるのは、「高山」。
参考にと、人の尋ねてもいないものを、準備する。人に聞いておく。
そんな事は、神様の理に対する大嘘です。今自分にあるものを生かしきるのがおやさまの喜びです。
教理本は、読むなら、自分のさんげの為に読むもので、知識のためではありません。
神様は、いつでも、ただ一つのものを大切にして欲しい。それも、その人だけに固有のものを。です。
信仰の「高山」をめざさないで、教理は、一つづつ。
次のお言葉を、紬さん。自分のことと思って読んでください。
さあさあこれも聞いて置かねばならん。
立毛の育つも、この世始めも同じ事、
無い人間を拵えて、初めより、ものが言えたやない。
一年経てば一つ分かる。
又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、
物言うようになりたも同じ事。
順序事情の道を伝うて、何事も一つ一つ分かる。
十代の中ごろに、このおさしづを知りました。
無知であるということは、素晴らしいことです。
思いました。「色即是空」。「空即是色」。求める心には何も与えられないのだ。と。
座して、神名を唱えるという、唯一つのことが、信心の本質である。
知れたければ、お筆先を音読したらいいのです。
それでも、おたすけをしたいと、どうしても、教理を知りたいと言うのなら、身上さとしをしたいのなら、紬さん。一つ一つを大前提にして、改めて、初試験、合格してください。暗記暗証してくださいね。
全ては、それからです。 - [330]基本。 07/01/23 01:59 acLCN8M2Ml
- さあさあこれも聞いて置かねばならん。
立毛の育つも、この世始めも同じ事、
無い人間を拵えて、初めより、ものが言えたやない。
一年経てば一つ分かる。
又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、
物言うようになりたも同じ事。
順序事情の道を伝うて、何事も一つ一つ分かる。
これは、船場の梅谷四郎兵衛先生へのおさしづの中にあります。
もう、高弟として、取次ぎ人として、天理教教理の第一人者といわれるようになっていた、そんな、梅谷先生に、親神様は、これからが、「ひとつ、ひとつ」なのだと、諭されたのでした。
船場の梅谷文書といえば、教理の資料として、有名です。
が、おやさまから見たら、何もわからぬ赤子と同様だったのでしょう。
おふでさきについて、何一つ、ちゃんとした事を理解していなかった。
伝えたのは、ただ、こんな事だけでした。
【おふでさき御執筆】逸話篇
教祖は、おふでさきについて、
「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで。』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ。』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ。』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである。」
と、仰せられた。
これは、後年、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉である。
・・
肝心のおふでさきの中身をどのように悟られたのか、学ばれたのか、それを残されていない処の、残念は、おやさまの残念です。
紬さん。
大切なのは、知識は埃。心のまこと真実は、知識が邪魔するから、おやさまは、「阿呆は神ののぞみとおっしゃるで」と、言われています。
おたすけは、心のまこと真実に磨きをかけることから始まると思います。 - [331]基本。 07/01/23 02:06 acLCN8M2Ml
- 「あんた、どないに見ている。」
これが、おやさまの一番の問いです。
一円玉と一億円と、おなじお金です。
けれどお筆先と身上諭では、同じ教理というわけにはいきません。
「あんたどないに見てる」
こんな風にかかれた、あんなふうに書かれたと、物見見物の見方しか出来ない「知識人」。
「あんた、どないに見てる」
肺腑をえぐります。 - [332]紬 07/01/23 08:57 3ITuIzjier
- 信心は、人が相手ではないのですね。もう人の事を言うのをやめにします。自分の中に高山があり、自分の中の知識が信仰の邪魔になっている事に気づきました。基本さんからの書き込みを読んでいると、無学であって、薄き誠を積み上げて、年限を重ねてきた会長さんの、尊さに気づかされました。あるか、ないかのにほい。ただ、黙々と通る姿。。。私が高山の知識人と同じなんですね。一番なりたくなかった姿です。高慢とは、知らず知らずに出てしまうものですね、本当に恥ずかしいかぎりです。
- [333]紬 07/01/23 09:19 GoRGEoUS
- 高校生の時に、通学の電車内でよく童話を読んでいました。
その中でも宮沢賢治の『貝の火』と、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』には、それまでの童話にない、人間の心の怖さを感じてとても惹きつけられたのを今も覚えています。
なので、以前基本さんがグリム童話の『赤い靴の踊り子』の譬え話をされた時、本当にドキッとして、怖かったのを覚えています。
それくらい人の心とは、知らぬ間に間違いを犯しやすいものなのだと、怖さをもって感じています。
教会へ運び、会長さんと話をしていて、自分が未だ道を通っていない事に気づかされてしまいました。
十柱の神名、その守護、八つの埃など、肝に銘じたいと思います。
有難うございました。 - [334]基本。 07/01/23 20:28 28t4iRcj27
- >>333
> 以前基本さんがグリム童話の『赤い靴の踊り子』の譬え話をされた時、本当にドキッとして、怖かったのを覚えています。
そうでしたね。
教理を知ろうと言うことは、一つ間違うと「赤い靴の踊り子」になるという喩えをを申しあげた事がありました。
教理とは「理」なのです。「理」とは神様のお働きであり、それは神様そのものでもあります。
それを、知りたい、知識として知りたいという心には、疑いがあります。
「理」に対する疑いが、知識を求めさせていると言うことです。
紬さん、人にお諭しをさせて頂くと言うことは、「当てる」と言うことではありません。
一つだけを信じていれば、「当たる」を神様が寄せてきて下さるのです。
それを、真として、信じ切ること。
そういう、事を、紬さん。心がけて見たら、ああそうなんだと、直ぐに分からせて頂けます。
知っていると言うのは、知識に過ぎないけれど、人に諭してしまうと「理」としての責任が生じます。
おやさまの、おたすけは、最初、ご自分が同じ病気になって、おたすけをされています。
それが、おたすけというものの理です。
同じ苦しみを持たないと、人はたすけさせて頂けない。
この厳しい「理」の責めがあります。
おたすけすると言うことは、「人と我とおんなじ」と言う理に於いてのもの。
それをきちんと踏まえて、紬さん。
先ず自分の信じるものをきちんと見つめて、それだけで人をたすけるという事から始めて下さいね。
それでは。 - [335]紬 07/01/23 21:15 WyrHGqH83K
- はい。
正直、『理の責め』が怖いです。
でも、少しづつ始めていきます。 - [336]紬 07/01/24 18:33 WyrHGqH83K
- >>333
『赤い靴』は、アンデルセンの童話でしたね。
私は、『赤い靴』で踊り続けなければならない譬え話を、『理の親信仰』だと思っていました。一度説き続けたら、止められないという意味で。理の怖さをわかったものしか、天理教はできないのかもしれませんね。 - [337]基本。 07/01/26 19:05 OMOcUqCjFu
- [265]基本的質問 07/01/26 12:27 MRV3/tVxBw
甘露台つとめが直接拝すことができない構造、諸井神学にその立場を与えた責任。
それらは、真柱さまの任命責任に帰すことはできないでしょうか?
基本的質問さん。
ご指摘の問題は、教団組織責任者の責任問題であることは、認識として正しいと思います。
「甘露台つとめが直接拝すことができない構造」というものは、初代真柱の時代に普請された形態です。
これについては、政府の許可が「神事を露出」しては、得られないという制約下であったと、事情は説明されています。
戦前の、規定では、真柱様が全権と全責任を持っていました。
戦後の規定では、表統領・内統領がご指摘の問題を組織として管掌する責任となっています。
初代の表統領は、民主的に選出されて、諸井表統領です。 - [338]基本。 07/01/27 04:43 28t4iRcj27
- 教団組織責任者というのは、いったい誰を指し示すのかと言う問題があります。
一般的に言えば、認可申請書類上に名を上げた人物という事になります。
「責任役員」という立場にある者が、組織責任者という事になります。
その中でも、人事権を有している者、「任命権」と言うものは重大な要素には違いありません。
それが、真柱様にあった時代と言うものは、いつを指し示すか、考えて見ましょう。
真柱の真之亮さんは、言うなら教祖の任命です。
その、教祖が扉開かれる前の、真柱のいた時代には、教団組織は有力な「講社の長」と「高弟=そばな者」とが、組織を動かしていました。
本部には、堂々とした組織は何も無いから、山名とか河原町とか北とかのそれぞれが、それぞれに、別組織で運営をしていた。
講社の長は、それぞれに、教祖から頂いた「赤衣」や「講名」やを根拠として、認可を得て、おのおの別な組織であった。
だから、教団責任者は、真柱だと、簡単にはいえない状態でした。
次の時代は、東京にて公認を受けた後から、一派独立、大正普請までですが、組織としては初代真柱中心の組織でなかった事は明白で、本席様の「お指図」で、動いていた。
一派独立して、管長制度となって、ほんのわずかの期間だけでした。
初代真柱様が組織の中心にいたと言える時代は、わずかでした。
二代真柱様は、未成年の為に、摂行者を置いた時代が十年ありました。
それから、二代真柱様の、管長公時代があるのですが、国家からの干渉の時代に、純粋に天理教を維持保存するという目的と、国家に迎合する目的と、相反する二つの目的は、教会本部への権力の集中という中央集権体制を生んだと見えます。
戦後に、民主的な組織に復元しようとした、それが表統領・内統領制度とみなされます。
「天理教会結集願い」と、言うものが、公認申請で「天理」の呼称が初めて用いられた、最初と、言われています。
教祖が扉を開く、前の事です。
つまり、「天理教会」が幾つもあって、それを、結集するという申請が、なされていた。
それが、3年3月の後には、お筆先六号の予言のままに、数理で天理教会が誕生していますから、それは、教祖が認められたものと、認識できます。
天輪王講社と名乗っていた講社、例えば山名のようにです。
おのおのがその信じる処で、これが教祖の教えだと、各教会ごとに自由に信心する。
或いはそれが、神意なのか。
それとも、教団本部中心に、思想統制すべきなのか、
思案のしどころです。 - [339]基本。 07/01/27 10:18 r/dMkO8ARh
- つまり、組織改革をしなければならないのは、各大教会であり、各分教会であると言う、問題に行き着きます。
真柱様は、思想統制的な強権発動をする役割ではない。これは、教祖の教えとして、そのように理解されます。
穏やかなる心と言う理をおさしづされています。
真柱とは、真を示す。中心を立ち示すと言う役割です。
内を治める真柱と示されていますから、世界に対して何かを起こすと言う役でもない。
つまり、各地域での行動原理は、講元に委ねられている。
元々、講元とは、「効能の元」であるとされていますから、世界に対して、世間に対して、道の理の効能を知らしめていく役割になるわけです。
国の真柱と、いうお言葉もありますから、国々所々において、道の理の真を示すと言う役割もあるのです。
つまり、教会が、組織としてどのようであるのかと言う事に、天理教の組織論の中心は置かれなればならない。
天理教が、組織を語るとき、必ず真柱、表統領、布教部などの本部組織論にばかり話題が行く。それが間違いであり、天理教の組織は実際に教会がそれなのですから、会長夫婦、家族と、住み込み役員、住み込み青年などにおいての、組織の中での待遇の差別や、命令決定の会長独占、会長家族の特権的扱い、こういう、前近代的なものを、きちんとした合理的な仕組みに変えて行こうと言う議論が必要になります。
つまり、教会生活と言うものにおいて、教会活動と言うものにおいて、組織としてのきちんとした役割分担もルールも無い。
チーム的な組織となっていない。
そこを、徹底して改革しなければ、客観化された「教会」ではなく、「教会」と言う名の、「会長家族の為のお屋敷」のままに、進歩は無いという事になります。
会長家族の家庭生活の、教会からの分離は絶対に必要で、教会を「公共の場」とし、会長家族には普通の家庭を保障しないと、いびつな教会制度は、理の親を説かなくなっても、なお続いてしまうと思われます。
会長の所有物のような、各教会のありかたを、先ず規則上からでも、正すべきでしょう。 - [340]基本。 07/01/27 10:28 r/dMkO8ARh
- そこで、再び、各天理教会での信心の仕方の自由と言う問題に、行き着きます。
天理教会の講元一家による私物化を防ぐという事と、つまり、民主的自主的な教会と言うことと、講元の個性によっての天理教会ごとでの信仰形態の自由の保障は、二つながらに絶対に必要です。
それは、原典をそのままに理解すれば、当然の事だと思います。
みなが同じであろうとするから、不自然であると思案されます。
地場でつとめられるおつとめは、「地場」でのつとめ。
それを各教会でも、つとめたいと願い出たことから全ての間違いが生まれたのではないかと。思案されてなりません。
各個人のつとめの形は、ばらばらでも良い。おやさまのひな型の範囲で自由である。
講社のつとめも、自由でよい。
ただし、「地場とおなじ」は、宜しくない。
それが、基本的な、思案の仕方と思います。 - [341]基本的質問 07/01/29 19:39 oLsiXotTW1
- 甘露台づとめの全景が拝せれば、八島教に惑わされる人も減ると思いますが、一部しか拝せない構造は誰に責任があるのでしょう。又どこに直接意見すればいいのでしょうか?
- [342]基本。 07/01/30 06:42 G5i9NzBf68
- >>341
神殿の構造を全て造りかえないと、基本的質問さんの言われる「甘露台づとめの全景が拝せれば」という事は実現できませんよね。
つまり、その決定は、表統領が成すという事になりますが、実際の資金は、現在の教団の力に比較すれば、まるで膨大なものになります。
広い平らな土地があって、その真ん中で、神楽つとめがなされる。
その場合の、管理の問題は、法治が許可するのかと言う問題があります。
盆踊りのように、やぐらを組んで、高い処で踊るということは、どうかという事になりますが、入場券も無いフリーな参拝者が、時には一斉に行動する、そんな場合の、安全管理責任の問題がありますから、お上は、許可しないでしょう。
分かりやすく言えば、テロリスト対策上も、絶対に日本の法律は、そのような、無秩序な祭典参拝方法を許可しないという事になります。
つまり、映像による公開以外には、現実的には、「ただの広場での」、開かれた神楽勤めは無理だという事になります。
それならば、今の神殿でも、「見たい」だけの問題なら、解決します。
つまり、「広い野原で」「雨うたし」の状態で、数万、数十万を超える人間が、「かぐらつとめ」を自由に参拝できる為には、テロリストも犯罪者もいない、世の中でなければ、無理だということです。
もう一つは、神楽勤めの「理ふり」を、各大教会に講習し教えるということがあります。
これならば、可能ですから、「知りたい」と言うことの為だけに絞って、各大教会に担当者を決めて、教える。
それを、各分教会を通して、見たい人には見せたら、と言う方法はありえます。
つまり、「見たい」と言うのなら、そういう方法もあるが、「甘露台つとめ」を見たら、世の中がかわるのではない。
「理」が、伝えられるということは、現場のことですから、「甘露台つとめ」の理よりも、十二下りの理の方が重いと言うことです。
「ここでつとめをしていれど胸の分かりた者はない」。
そんなもの見ても、仕方ないと思います。 - [343]基本的質問 07/01/30 11:48 oLsiX/7EPq
- 現在「映像による公開」物は入手可能ですか?
- [344]普通の天理教徒。 07/01/31 14:29 4e8TnJQTBB
- >>344
基本的質問さん。
「映像による公開」は、なされていないと思います。
旬刻限と魂と土地所の因縁が、三つ整う。
時間と空間と魂と、三要素が整って、初めて甘露台のお勤めは正式なものになるのだと、思います。
今の本部のお勤めは、「土地所の因縁」という、地場の因縁は本物ですが、他は、ちゃんと整っていません。
本物では無い物を見せる事は、しないのが普通だと思います。
基本さんが、
> 「ここでつとめをしていれど胸の分かりた者はない」。
> そんなもの見ても、仕方ないと思います
と、表現していますが、例えば、剣聖宮本武蔵先生の剣の構えはこうだったよとか、こんな風に振り下ろしたとか、そんな風に型だけを、剣道でまねしたのをみても、本物を見たことにはならないと思います。
本物は、本物の価値があって、模造品はまがい物、価値がない。
魂の因縁と旬刻限と整って地場にて勤められる、本物は、映像にする価値がありますが、今の、おつとめを、映像にしたら、「おつとめの理」に失礼だと、普通は考えます。 - [345]基本的質問 07/01/31 16:25 qqWG7dFw9t
- 「まがい物」は見る価値さえないと?
- [346]普通の天理教徒。 07/02/01 01:06 4e8TnJQTBB
- 普通に考えて、そう思いました。
参考になるどころか、誤解しそうですから。 - [347]紬 07/02/01 12:24 6p71GDxGk0
- 掲示板使わせて頂きます。
以前、こちらにいらしていたHN『白い鳥』さん、良かったらお話できますか?
こちらか、【ザ】みんなで天理をかたりあおうの方へ。 - [348]体験入会者 07/02/03 21:06 XqRkZmNeSw
- 私は約20年ぐらい前に天理高校を卒業しました。
私の身内に天理教信者はいません。ただ両親との不仲から親元を離れて寮に入りたくてたまたま紹介されての入学でした。
当時から色々屁理屈こねてばかりの少年で、借り物・貸し物なのにタバコ吸って体汚してるの?周りに絡むまで深酒するの?と寮の幹事さん達を見て疑問に思いました。また上で書かれたような「あなたの為に・・」という一方的思い込みで暴力を振るってきた幹事さんもいました。(後で謝罪してきましたけどね)また天理高校の先生からの体罰も良く見ました。「言うて聞かす」の教えは?。
まぁこの程度の矛盾はどんな宗教信者でもあるのでしょうが、一番疑問に思ったのはやはりお金にまつわることでした。
大教会、分教会、布教所、本部直属教会の大教会長子弟と専従信者で持っている物や身なりすら違っていることに大変疑問を感じました。
金の流れは下から上に最後に本部へと行くのでしょうが、布教所信者の子弟は穴の開いたパンツを穿いて我慢しており月一回の親との面会もままならない、修学旅行も欠席。本部直や大教会長子弟達の裕福なこと面会の際にも大量の差し入れが届けられていた。
本部へのお勤めに黒塗りハイヤーでしょうか?タクシーかで行き帰り、当時はまだめずらしい衛星放送アンテナが家についてたりと同じ宗教者であるのにこの差はなんなんだ?教義の時間に、家財を寄付して入信し網走だったか(北海道)に布教所を立ち上げ、駅前の広場が凍りつく冬場に駅の利用者の為にと氷を割って歩く信者の姿を見せられた。
このギャップに違和感をずっと感じ続け、お授けの理第一回目のとき1千円?2千円?だったか教室に入る際に渡すお金をポケットに入れたまま出すのを忘れ改札口?みたいなところを通り過ぎようとしたそのとき 「オイ お金」と一言。
それで私はお授けの理を受けるのを止めた。
そして私は卒業して大学進学・卒業、入学したときも2.3回の小額のお布施をしただけで今ではお布施は一切していないが養徳報は届けられる。いわば高校時代の3年間の体験入会をしたようなものだ。
もちろんお世話になった先生もたくさんいた。私の屁理屈に「なにか溜まっている物があるのか?」と感じ数十分の私のガス抜きが終わるまでうなづきながら聞いたうえで、「そうか そういうことなんだ、私の誤解だったようだゴメンナサイ」と10歳も年下の私に頭を下げた幹事さんもいた。
宗教を全否定するつもりはないが、人間はたいていの苦難は個人の努力で何とかなるもの、でもなんともならなくなった時、ガソリンがきれちゃったとき周りを見れば手を広げて話を聞いてくれる、宗教とはそんな程度のものでいいのでは?。
人間は生まれて来てすぐ周りのたくさんの人に世話になる・迷惑かける、他の生命を糧に生きている。生きることがそのまま業である部分がある。人が前を向いて歩いていると、知らずに汚れていく自分の後ろの床についた泥をさりげなく、目立たず拭き取って行く。それが宗教者のする「お助け」ではないでしょうか?
屁理屈ばかりこねてた私がそういう考えに至るようになれたのは「上から目線」ではない信者さん達のおかげだったことは事実だと感謝しております。 - [349]天理通話 07/02/03 21:48 BFweUtlef4
- http://verizon-ringtones-eprrnnd.blogspot.com
http://verizon-ringtones-eprrnnd.blogspot.com
http://elysium-ringtone-uskdtdw.blogspot.com
http://elysium-ringtone-uskdtdw.blogspot.com
http://free-ringtone-1493414.blogspot.com - [350]ようき 07/02/03 23:50 E-NhVmr
- 突然お邪魔致します。3625について調べていたら、ここのスレを見つけました。
私は信者です。昨年主人が統合失調症で病院に入りました。自分の体内に月日が入ったと言い張り、おふでさきの月日は自分の事で、自分が真の宗教の創始者だと語っていました。おふでさきを片時も放さず、3625のおふでさきに夢中になりました。体内に月日が入ったのは3月6日です。
ちなみに主人は28才です。
主人も異端・偽教祖と言う事になるのでしょうか?自分は秀治の生まれ変わりだとも言っていました。ただの精神病でしょうか?そうなると、異端や偽教祖は精神病患者と言う事なのでしょうか?
主人以外にも「体内に月日が入った」「自分が真の天理教だ」と言い、「テンリキョウ」と言う宗教を作り、天理教施設出入り禁止になった人がいます。その人は教会長でした。 - [351]基本。 07/02/04 13:40 r/dMkO8ARh
- >>350
ようきさんに若干質問させて頂きますが、
お筆先は、全文通して、音読をされた事がありますか。
十二下り手踊りの歌詞を、暗誦できますか。
別席の初試験にある十全の守護の理と八つの埃は全部いえますか。
中山みき様の伝記は、どんな本で読まれましたか。
教祖伝の逸話編という書物をご存知ですか、読まれていますか?
こんな事を教えてくださると、以後の話が進めやすいのですが。
先ずは、ようきさんの疑問について論じます。
> 自分の体内に月日が入ったと言い張り、おふでさきの月日は自分の事で、自分が真の宗教の創始者だと語っていました。
>
ご主人は、統合失調症で病院に行かれたとの事ですが、その時に、病院の先生に対しても、看護婦さんに対しても、語ったでしょうか。
いわゆる、第三者の方々には、きちんと語っていないとすると、それは、近しい者に対してだけの、デモンストレーションと言う事になります。
例えば、「秀治」の生まれ変わりという事ですが、天理教に無関係な人たちには、まったく関心も無い名にすぎません。
ですから、確認すべきなのは、「誰に対して語っているのか」です。
それから、「月日が体内に入った」という事実は、今のところ、言葉の上だけのものにしか過ぎませんから、それで、宗教を創始したことにもならない。
ご主人が、そのような思考をして、宗教思想家に自分でなり、近親者にそう告げたと言う事にすぎません。
「世界で二番目にうまいラーメン」とか「世界で二番目にまずいラーメン」とか言うのとおんなじで、宣言したことを、周囲がどう評価するかが、真の姿となりますから、自分は日本一だと信じてカラオケ熱唱しているおじさんと、大して差は無い、そんなはた迷惑な出来事です。
本人の「月日入りこみ」宣言を、嘘にさせない事。口と行いを一致させてあげてください。
出来ないのなら、言わない、言わせないことです。
第三者にも、「うちの主人、宗教家としてバリバリ世のためになるそうなんですよ」と、公然と、紹介して、逃げ道をふさいで挙げることです。
本人に、宣言した以上、がんばって、理想的な宗教家をしてね。と、励ましてあげてください。正味が出てきますから。出鼻の濁りを見ないことです。
しかときけ 3625のくれやいに むねの掃除を神がするぞや 三号64
「3625の暮れ」に、神様は、「胸の掃除をする」と、言われています。
それが、書かれてある基本的な意味です。
お筆先の三号64にての理で入ったという事は、「胸の掃除」をする為に入った。と、言う事になります。
「胸の掃除」「胸の掃除」と、「神がするぞや」と、ようきさんが、ご主人に、きちんと、八つの埃を掃除するように励ましてあげてください。
> 主人も異端・偽教祖と言う事になるのでしょうか?
なりません。
単なる、おふでさきの読み間違えです。
あのお筆先は、教祖になった宣言の歌ではなく、「胸の掃除」を意味する歌です。
> ただの精神病でしょうか?
相手かまわずに、自分が教祖だと語るようなら、心配ですが、相手をかまっているうちは、自分の言葉の何が問題か分かっているという事で、深刻なものとは思えません。言行不一致になると精神病の危惧ありでしょう。
> 主人以外にも「体内に月日が入った」「自分が真の天理教だ」と言い、「テンリキョウ」と言う宗教を作り、天理教施設出入り禁止になった人がいます。 その人は教会長でした。
その人も、精神病ではないです。
天理教組織の中でしかものをいえないという、その為に、「テンリキョウ」と名乗ったりして、教団組織に反骨しているだけのことです。
例えば、中山秀治は、教会本部では二代真柱に生まれ変わったと、理解されています。でも現実には、遺伝で後継者を決めています。
仮にご主人が、秀治の生まれ変わりだとしても、それでは、後継とは主張できない。つまり、ご主人の言いたいことは、自分が正統の天理教だという事のデモンストレーションな、わけですが、科学的に、無意味です。
遺伝情報にて中山家の後継を決めている方は合理的です。
遺伝情報が決めると言うと、今度は、実は隠し子だとか出て来そうですが鑑定で否認されてしまうでしょうし。非科学は通じない時代に、そんな前世論の宗教による救済という幻想を抱いていることだけは、確かなようですが、
それは、ようきさんが、やめさせて上げた方がよいと思います。
もう、時代は、変わっているのです。 - [352]普通の天理教徒。 07/02/04 13:57 r/dMkO8ARh
- >>348
体験入会者さん。
おやさまを大好きな人は、
> 布教所信者の子弟は穴の開いたパンツを穿いて我慢しており
我慢してではなく、当たり前のように、そうするのです。
可哀想なのは、一見贅沢をしている子弟のみなさんです。
感性が鈍ります。
それは、一番に気の毒なことです。
体験入会者さんは、人はなぜ修行するのかという事を、本当には、ご存じないと思います。
普通の天理教ならば、おやさまの感性に近づくことだけが、唯一の楽しみなのです。
五感が研ぎ澄まされて、人の心の澄むという事を求めるから信心しているのが、天理教信心の本音です。
> でもなんともならなくなった時、ガソリンがきれちゃったとき周りを見れば手を広げて話を聞いてくれる、宗教とはそんな程度のものでいいのでは?。
人間の感性そのものを研磨しようというものが、おやさまの示された天理教だと思います。
「道」と言う思想は、「武士道」であれ、それを極めることを目的としているものです。
何か困ったときに、利用するというのも、一つの利用の仕方でしょう。
しかし、道を極めようとするものには、ある瞬間に贅沢は、邪魔なのです。
「贅沢していては道つけられん」と、おやさまは言われていました。
可哀想なのは、そんな差別されて上に居る子供たちです。
その結果として、何よりも肝心な精神の感性が、鈍くなってしまうからです。 - [353]ようき 07/02/04 16:14 E-NhVmr
- 基本。さん、ご丁寧にありがとうございます。
まず、ご質問に対して答えます。おふでさきの全文音読は何度もしています。十二下りの手踊りの暗誦できます。十全の守護の理、八つの埃言えます。天理教教祖伝、逸話編読みました。
3月6日、出勤中の主人から電話があり、「雲の様子がおかしい!!」の言葉を最後に行方不明になり、みつかった時には「体内に月日が入ったから、水だけで生きていける」と言い、おふでさきをずっと説いていました。寝食をしなくなり、翌日精神科へ連れて行かれました。医師には「体内に月日が入った」と話していました。
おふでさき第3号63「これからはもうせへつうがきたるから ゆへばそのままみえてくるぞや」を「月日が入った証拠に精通(射精)がきた。これを皆に話したから世界が見えてくる」と言っていました。
3ヵ月入院し、初め2ヵ月は「自分は病気ではない。皆はまだ神の心を知らないから、これから話せば皆わかる」などと言っていました。1週間ほど前に生まれた我が子の事を「子供は真柱だ」と言い、「かんろだいは皇居に据える」との発言あり。
医師におふでさきの話をすれば病気と思われ、退院できなくなると考え、そのうち医師にはおふでさきの話をしなくなりました。面会に許されたのは3人のみで、そのうち友人(ようぼく)にだけ、自分の考えを話すようになりました。私は遠距離で出産したため、面会には行っていません。
「体内に月日が入らない時は食事ができる。月日が入れば水のみで生きていける」「自分の気持ちで天気が変えられる」「自分の瞳にその人の真実が映る」「医師は高山で入院患者は谷底。今は高山の言う事を聞かなければならない」「教会や天理教本部は高山だ」「(出直した)自分の母親は教祖の生まれ変わりだった」などなどの発言がありました。
日付を区切って、「○○日に世界が変わる」と言い、その日に世界が変わらなければ、日付の延期をしていました。
やはり統合失調症(精神分裂病)でしょうか?義母も統合失調症でした。 - [354]基本。 07/02/04 20:35 G5i9NzBf68
- 詳細にご事情を説明頂きまして、有難うございます。
正真正銘の精神病であるという方とは、何名かですがともに生活したり、或いはご相談を受けたり、そのような経験がありまして、私には縁がありますので、医師の言うような精神病と言う病理からではなく、飽くまでも、基本的な教理と言う上で、申し上げてみたいと思います。
先ず、ようきさんは、
> おふでさきの全文音読は何度もしています。十二下りの手踊りの暗誦できます。十全の守護の理、八つの埃言えます。天理教教祖伝、逸話編読みました。
と、このようにお答え頂きまして、それは、普通に言えば天理教をよく知っておられるお方と、いう事になります。
そこで、「理」と言うものについて、熟知しておかなければならないのは、理は知ってしまうと発現するという基本原則です。
お筆先には、
「何ににても知らぬ間はそのままや」と、あります。
「理」は、知らない人には現れないけれど、知った人には現れるということ、そういうものとして、思案をしなければならないことになります。
次に、「総合失調症」と言う病名からの思案をきちんとすることにします。
お筆先には、みんな何でも口で言わせるとあります。
病名と言うものは、その人の状態を端的に表現していると、そういう理として、先ず病名の意味をそのままに、受け止めてみることです。
「総合失調症」・・意味は、あらゆることに調子を失ってしまった。
このように、受け止めることが、そのまま、本人の状態として、病名にて語られていると、受け止めてみます。
病気については、ようきさんは既にご存知でしょう。
http://www.oct.zaq.ne.jp/afalx209/hataclinic/mind/sogo-shityosho.html
心の診療所の説明はこうなっています。
■総合失調症について [症状やお薬での治療について]
統合失調症はおよそ100人に1人の割合でかかると言われている病気で、決して珍しい病気ではありません。この病気は、脳の機能障害によるもので、現実を正しく判断する能力が妨げられたり、感情のコントロール がうまく出来なくなったり、適切な対人関係を持つ事が困難になる病気です。
思春期〜青年期に発症するケースがほとんどで、複雑な要因が絡み合って発症します。
かつては「特別な病気」と思われがちでしたが、今日では治療が出来る「脳の病気」であるとされています。 近年、さまざまな治療薬の開発により、この病気の治療は飛躍的に進歩しています。
<発症までの経緯>
日常生活で受けるありふれたストレス
↓
生まれながらの素因(ストレスに対する抵抗力や繊細さなど)+身の回りの環境
↓ (現在、統合失調症の原因となる遺伝子は7つ発見されています)
脳内の神経伝達物質(ドーパミン等)の異常
↓
発症
個人差がありますが、大きく分けて3つの症状があります。
[陽性症状] (発病してまもない時期(急性期)に多く見られる症状です)
幻聴。 思考の混乱。 被害妄想に陥る。 感情が不安定。 奇妙な行動をとる。
[作業能力の低下] 記憶力の減退。 融通性の低下。 作業スピードの遅さ。 了解の悪さ。 心身の極端な疲れやすさ。
[陰性症状](通常は陽性症状の後に出現し、その後長期間みられる症状です) 感情表現が乏しくなる。 喜怒哀楽などのの感情反応の低下。 思考能力や注意力、集中力、意欲の低下。 無関心。 言語の貧困化。
簡単に言えば、「 脳内の神経伝達物質(ドーパミン等)の異常」
と、言うものが原因と言うことです。
情報伝達と言うのは、「五柱目の神様の守護の理」です。
これを、制御するご守護を頂けば、直るという、そのように簡単に理解できます。
整理しましょう。
「総合失調症」・・意味は、あらゆることに調子を失ってしまった。
それは、「情報の伝達」において、脳からの情報伝達物質に異常を持ってしまった。
それは、五柱目の神様の理という事になります。
(続きます) - [355]基本。 07/02/04 21:07 G5i9NzBf68
- そこで、ようきさんのご主人の言葉を、確かめますと、
> 「雲の様子がおかしい!!」・・・雲を呼ぶ、雲を読むのは五柱の神様。
> 「自分の気持ちで天気が変えられる」・・天気を変えるのは五柱の神様。
> 我が子の事を「子供は真柱だ」と言い・・わが身わが内が可愛いという埃は五柱の神様への埃の心。
> 「医師は高山で入院患者は谷底。」・・・高山・谷底と言う隔てや差別は五柱の神様への埃の心。
つまり、本人の中の、わが身可愛いと、わが内可愛い、我が子可愛いが、精神のバランスを欠いている一番の原因であるということは、本人の口からの自白に現れています。
そこでももう一つの問題は、「秀治」の生まれ変わりと言う言葉と、「せへつう」が来た証拠に「射精」下と言う言葉の意味です。
秀治さんについては、ザおやさま、にも触れてありますが、天理教一般には、色情因縁の持ち主として理解されていて、教えに背いた人と言う理解がされています。
つまり、ご主人は誰に対して射精したという事を意味して語っているかと言うと、お子さんの問題では、当然奥さんに対してのことなのですが、奥さんが妊娠出産で長期間夫婦関係が持てなかったとしますと、その場合、或いは不倫、或いは性欲のみのための射精と言う事に理解されまする
つまり、ご主人は、自分は秀治のように女に狂うようなことがあったが・・・と、胸に思っている可能性があり、その場合、あなたとの結婚について、ご主人には、それを正当化したいという願望が強くあるという事になります。
本当は、自分は奥さんから「かわいい」と思われていないのではないかと言う不安、母親には愛されていたけれど、と言う、そういう内部の葛藤があるということになります。
整理しましょう。
ご主人には、奥さんに対して愛情の問題で不安を抱いていて、場合によれば、自分との間に子供が出来たことについて、奥さんが嬉しく思っていないのではないかと言う不安が生じていた。
それは、ご主人の中にある母親から可愛がられてきた体験があって、それが原因で、生まれる子供について父親としてどうしていったらよいか、心に判断がつかない。
つまり、普通の父親として責任ある行動を取ろうとしても、奥さんの気持ちが理解できない、どうしたら夫婦の情愛で子供を育てていったらよいのか、判断がつかないで、そのもう一方の、自分に対して母親がそうしてくれた、「特別な子ども扱い」と言う溺愛を、自分にはする自信も無い。
つまり、雲が呼べないと、慈雨は降らない。
そこに、無理やりでも自分を権威付けなければ事情が生じたということです。
(続きます) - [356]基本。 07/02/04 21:35 G5i9NzBf68
- http://www9.plala.or.jp/rescue/seishin.html ここに、症状について記されています。
■総合失調症・精神分裂病の客観症状■
『思考の障害』
「連合弛緩」:考えている1つのテーマから、何の脈絡もない他のテーマに飛躍するが本人は無自覚であり、重度の場合「支離滅裂」になる。
「支離滅裂」:話していることに論理性が欠如しており、話題自体が飛躍し統一性がない。重度の場合、単語の羅列が繰り返される為に全く理解不能になる。
「的はずれ応答」:質問を誤解している訳ではないが、全く見当違いの返答をする。
「概念移動」:自分の主感だけで考える為、社会的共通言語に独自の意味を持たせる。
「語唱」:単語や単文を何の意味もなく反復する。
「言語新作」:自分にしか通じない特殊な記号や漢字を使う。
「思考の途絶」:考えていることが他人に奪われたと感じ、突然会話が止まる。
『感情性の障害』 様々な気分の不安定や変容などがある。
「高揚気分」:傍若無人・抑制がない・軽はずみ・大声で話すなど、躁病に近い状態が見られる。
「抑うつ気分」:総合失調症・精神分裂病の前兆である抑うつ状態になり、周りに影響されやすくなる。
「不安」:初期段階では自分で人格変化に対する不安を感じる。次の段階では様々な種類の妄想によって不安を感じる。不安定な感情や気分により他人との交流を避ける。
「感情鈍麻」:感情の起伏がなくなり対人関係に無関心になるが、実際には感情を隠している場合が多い。
「意欲減退」:目的や目標があっても行動に移すことができない。
『両価性』
同一の対象(親や恋人など)への愛情と憎悪が混同している。
総合失調症・精神分裂病の場合、その2つの感情が同時に存在する。泣き始めたと思ったら急に笑ったり、大切に思っている対象へ急激な憎しみを持ったりする。
神経症などの場合では、同時に存在することはほとんど見られない。
『自閉』
現実に対する関心を失って空想的な世界に没頭し、自分だけの世界に閉じこもる。
様々な物事に対して自分への関連付けや意味付けをする。
『緊張症候群』
「拒絶」:様々な物事に対して沈黙を続けることで反抗する。
「昏迷」:他人の話を理解していても全く返事もしなければ動こうともしない。
「緊張病勢興奮」:絶え間なく動き続けたり、頭を振り続けたり、物を破壊したりする。重度の場合、暴力行為や自傷行為が見られる。
「常同」:同様の単純な身体的動作や言動を繰り返す。
「衒奇(げんき)」:わざとらしい表情・話し方・態度などが見られる。
「反響動作・反響言語」:他人の行動を真似したり、他人の言葉を反復する行為が見られる。
「途絶」:行動しようとすると同時にその反対の意志が働く。思考・行動の途絶が見られる。
「運動や活動性の障害は薬物治療によって、最近ではほとんど見られなくなっている」
◇統合失調症・精神分裂病・分裂病の主観症状◇ 総合失調症・精神分裂病・分裂病の中核に位置する様々な症状について。
■統合失調症・精神分裂病・分裂病の主観症状■
『自我障害』
「離人症」:初期症状では、自分で体験していることが他人によって経験させられているという感覚に支配される。
「影響体験」:電波・催眠術などによって自分の感情・考え・行動などが支配されている為、自分のものではないと感じる。一種の妄想的な性質も持っており、思考干渉・思考奪取・思考吹入・思考伝播などがある。
「統合性障害」:自分の人格に対する統一性の欠如が見られる。
『妄想』 ・・・
注察妄想:人が集まっている場所では、その全ての人が自分を観察していると思い込んでいる。
迫害妄想:自分が他人や組織によって、調査・追跡・攻撃・迫害されていると思い込んでいる。
被毒妄想:毒物が自分の食物に入っているとか、他人が毒を混入したと思い込んでいる。
影響妄想:自分が他人の催眠術によって操られていると思い込んでいる。
嫉妬妄想:恋愛関係上の被害妄想で、根拠もなく相手が不倫をしていると思い込んでいる。
好訴妄想:他人が自分の法的権利を侵害したと思い込んで法的に訴える。
心気妄想:自分が訴えている内容の中に、とても奇妙なことが多く含まれている。
宗教妄想:自分が神や預言者の生まれ変わりだと思い込んでいる。
憑依妄想:神や悪魔が自分の全てを支配していると思い込んでいる。
血統妄想:自分が天皇や王様の子孫だと思い込んでいる。
変身妄想:自分が動物や植物に変身したと思い込んでいる。
発明妄想:自分が非常に素晴らしいものを発見したと思い込んでいる。
恋愛妄想:自分が誰かに愛されていると思い込んでいる。
こうした症状があるとされています。
ようきさん、この内の五柱目の神様のお嫌いな埃に関係あるものが症状の実相という事になります。 - [357]基本。 07/02/04 21:54 G5i9NzBf68
- >>356
> 宗教妄想:自分が神や預言者の生まれ変わりだと思い込んでいる。
> 憑依妄想:神や悪魔が自分の全てを支配していると思い込んでいる。
> 血統妄想:自分が天皇や王様の子孫だと思い込んでいる。
ご主人の状態の、異端とか偽教祖とか言うような状態を見つめますと、こんな風な症状に理解されてしまうかもしれませんが、それは、自分を守るものとしての、「月日」による権威化に過ぎません。
だから、相手の出方次第では、語らなくなったり出来るわけです。
本当の原因は、
> 『両価性』
> 同一の対象(親や恋人など)への愛情と憎悪が混同している。
> 総合失調症・精神分裂病の場合、その2つの感情が同時に存在する。> 泣き始めたと思ったら急に笑ったり、大切に思っている対象へ急激な憎しみを持ったりする。
こちらのほうにあるとみなされます。
そこで、ようきさんは、どうなのでしょうか。
愛情をもって、ご主人に接することは出来るのでしょうか。
夫婦の間での愛情についての信頼回復をする道筋を考えておられるでしょうか。
ご主人の場合には、自分が父親として普通に責任を持とうとすることを、「宗教を理由に回避しようとする」行動に出たわけです。
つまり、神の家族と言う仮想の家族にあなたとお子さんを位置づけて見せて、普通ではない自分を他者に主張した。
その場合に、なりきるための努力を本人はするわけです。
問題は、なりきろうとしているうちに、それが、後戻りできなくなることで、もともとの愛情の問題が「好き・嫌い」の問題がありますから、そこは、先ずようきさんが気持ちの整理をつけなければ、ならないことです。 - [358]ようき 07/02/04 22:13 E-NhVmr
- 基本。さん、ご丁寧にありがとうございます。読んでいて身震いがしました。私は天理で看護の勉強をしたので、医学・看護知識は持ち合わせております。身震いがしたのは、秀治さんの色情因縁についてです。旦那の発病後、家族に聞いて知ったのですが、結婚前に旦那は女遊びに狂っていた時期があるそうなのです。給料全額を1週間で女遊びに使い果たし、家族に借金をしてまで遊んだらしいのです。本人も事実だと言っています。
子供の誕生の2ヵ月前から旦那の様子がおかしくなりました。旦那のアルコール依存症が周囲に知れたのがきっかけです。ちなみに主人と私は遠距離恋愛の末の結婚で、結婚後に旦那がアルコール依存症だとわかりました。旦那の母親もアルコール依存症でした。
酒を断とうとした旦那は極度の鬱状態に陥り、酒に走った原因を語り始めました。私は出産のため里帰り中だったので、電話で話を聞いていました。母親が精神病で酒を飲んでは暴れ、父親が手をあげていた。両親から愛情をもらっていない。両親から常識や礼儀を教わっていない。両親の常識のなさを、親戚や教会は、子供である旦那に言っていた。教会と父親との板挟みにあっていた。教会、父親は旦那を介して会話をしていた。その板挟みが苦しくて酒に走った。
アルコール依存症について父親は「アルコール依存は自分自身の問題だから、自分で解決するように」と旦那に言った。その後旦那は「親父に突き放された」と悲しそうに何度も私に電話をしてきた。旦那はそれまで、物事の決定を全て父親にしてもらっていた。自分では何も決定できず、行動もとれなかった。私との結婚も、プロポーズの言葉を考えるのに5年かかったそうだ。
子供の誕生前1ヵ月、「親に愛情もらってないから、生まれたらどうしていいかわからない」と毎日のように言っていた。父親や教会に依存するのをやめて、今後は物事を自分で決めるようにする、とも言っていた。
結婚前に義母は精神病で出直している。母親の出直し後、自分の妹を母親代わりにして甘えていた。その妹が、子供の誕生前に交際2ヵ月で結婚した。妹の結婚は認めない!と怒りの言葉を連発していた。
子供の出産後、報告の電話をしたが、旦那は無言。「何て言っていいかわからない」と言う。誕生後数日して、教会長夫妻に対する被害妄想がひどくなる。(続きます) - [359]基本。 07/02/04 22:14 G5i9NzBf68
- 脳に機能障害があって、ドパーミンがおかしくなったのか、
本人が、伝えたいことがうまく伝えられないので、自分を自分以上の者に見せようとして、実は意識して、そのように振舞ったのか、
この点についての、私の個人的な感想は、
意識しての、偽神がかりであると思います。
さて、話を元に戻しますと、ようきさんは、知っている教理を使って、ご主人をたすけてあげるお気持ちをおもちなら、先ず、温かい美味しい食べ物を、食べさせてあげ、一緒に食べるという、普通からはじめる事が大切と思います。
その、温かみを前提にして、きちんと愛情を伝えて、その上で、教えてあげてほしいのは、
「特別な立場の人」や「特別な立場の子」だから可愛いのではなく、二人に、普通に授かった子宝なのだという、当たり前の話です。
たまたま、普通の天理教徒さんが語っていますが、破れた下着の子の方が幸せなのだという事。
真柱だとか本部員だとかの子供で、それで贅沢に暮らせるそういう人の子が幸せなのではなく、「月日」から見たなら、全く逆なのだということ、教えてあげてください。
平凡であること、普通であることが何よりもの幸せなのです。
人よりもたくさん、天理を知っている人は、人をたすけないと、いけません。
辻忠作先生の妹さんの「脳病」・・・つまり、おんなじ症状ですよね。
おつとめで、たすけていただいています。
そして、再発の時の事情が、おふでさきの二号、三号の執筆の時の中にも書かれています。
それは、病んでいる人ではなく、ようきさんが、「よう(用)」「き(木)」さんである事の自覚と、そのためには、おつとめにておたすけを願い、一方「理」を用いてのおたすけをなさる事。
ひながたならば、それしかない結論と言うことです。 - [360]基本。 07/02/04 22:23 G5i9NzBf68
- 本人の口から出ているのは、みんな神様がそれを言わせて、心を表に出しているのです。
追い詰めていたのは、ようきさんであり、そのご主人の中の心の確執は、もっと早くに分かってあげなければいけなかった。
天理とは、生き物です。
おやさまが、きちんと理を知らせて、たすけるためにあるのが「理」です。
どうか、生まれてきたお子さんに真実なご両親であるための、二人の心の治め合いを、お願い申し上げます。
おやさまは、たすけ一条です。
疑う前に自らをさんげして、優しい心になって、ご主人の悩みをおんなじ様にお子さんが、成人してから見ることの無いように、謙虚にご思案下さい。
理は、必ずたすけてくださいます。 - [361]ようき 07/02/04 22:41 E-NhVmr
- そして教会批判がひどくなる。「最近世界が違って見える」「何か大変な事が起こりそうだ」などと言い始める。
「いつもニコニコ笑顔でいたい」「子供には怖い顔を見せない」を繰り返し、妙な明るい笑顔を作るようになる。それまで旦那は無表情な人だった。
ある日突然会社を飛び出して行方不明になり、着ている服や持ち物全て(財布、携帯、メガネ)を捨て、電車に無賃乗車で実家に現れる。その時から「体内に月日が入った」と言い始める。翌日精神科に入院。父親は「病気ではないから、すぐに退院させるように」と毎日私に連絡をしてきた。
入院中旦那は父親に極度の甘えを出す。が、面会の友人に対しては父親と教会長夫妻への恨みつらみを話し続ける。「教会と父親への依存はやめる」と言うが、父親には甘えている。日に何度も父親に電話しては、お小遣いやお菓子をせがむ。
天理教や天理教の組織に対しての批判がひどくなる。教会は2度と行かないし、おぢばに帰る必要はない、と言う。
入院2ヵ月目頃には自分の病識が出て来る。退院した今は、父親と2人で暮らし、父親に甘えて家事もせず、1日中家に閉じこもっている。会話は「うん…」などの簡単な返事しかしない。子供への関心はない。意欲は乏しい。
妄想については、消えた部分と残っている部分がある。
発病前の1ヵ月、寝食もせず1日中インターネットをしていた。今もインターネットをしているようだ。父親は相変わらず病気ではない、仕事したら治るなどと言う。本人は「自分は病気だ」と言っている。
医師からは「妻子に危害を与える可能性は否定できない」と言われた。主人も私も互いの実家で暮らしています。
将来に希望を持てぬまま、ただ時間だけが過ぎています。 - [362]基本。 07/02/05 01:04 4e8TnJQTBB
- 同じ時間に、投稿をしていまして、最後まで読ませて頂かないで失礼をしました。
ご事情をきちんとお示し頂いたので、もう少しわかり易く、一つ一つ、整理させて頂きます。
「違っているのに違っていないと言い張る」→「気の間違い」と言うことになります。
今回の事を通して、ご主人のお父さんは、「違っているのに違っていない」と、言っているのもおんなじ事を、語られている事、お分かりになりますよね。
お父さんの場合には意思が強いと言うか、押しが強いと言うか、違っている事でも通す強引さで、自分は崩壊しないで済んでいますが、その相手方は、そういう強引さをもてなくて、ご主人のお母さんもご主人本人も、自分を権威付けし正当化するために、お母さんは「妄想癖」となり、ご主人は、お母さんの真似をして、あなたに「愛と憎しみ」の、『両価性』・ 同一の対象(親や恋人など)への愛情と憎悪が混同している。を抱いて、発病したと言う事です。
お医者さんが、
> 「妻子に危害を与える可能性は否定できない」と言われた。
のは、ご主人に、あなたへの愛と憎しみの「両価性」を見ていたと思慮されます。
それは、「両価性」の文字の中に意味が、語られています。
つまり、あなたや、お母さんや、お父さんを「価値があると思い・価値が無いとも思う」という、意味ですが、
Aさんを価値があると思い、Bさんを価値があると思う、「両価性」と、そういうことだと理は示しています。
そこで、結婚前の事について、ご主人は、このように語っています。
> 旦那の発病後、家族に聞いて知ったのですが、結婚前に旦那は女遊びに狂っていた時期があるそうなのです。
> 給料全額を1週間で女遊びに使い果たし、家族に借金をしてまで遊んだらしいのです。本人も事実だと言っています。
これは、特定の女性ではないとしても、Aさん、です。
そして、こういうこともご主人は言われています。
> 私との結婚も、プロポーズの言葉を考えるのに5年かかったそうだ。
つまり、ようきさんには「プロポーズまで五年間もかかったくらい真剣に思いつめていた。」と、プラトニックで純愛していつつ、は、Bということで、AとBは、ご主人の中では共存していたという現実があるわけです。
これが、ようきさん、
>>356
> この内の五柱目の神様のお嫌いな埃に関係あるものが症状の実相という事になります。
と、申し上げた、内容の、真相と言う事です。
つまり、ご主人の中では、「肉欲用の・性欲処理用の・A」がいて、「プラトニックな高尚な・結婚用の・B」がいた。
その、「両価性」こそ、ご主人のいう「秀治」の現象ということになるわけです。
ザおやさまでは、債務奴隷の話を申し上げていますが、
> 給料全額を1週間で女遊びに使い果たし、
> 家族に借金をしてまで遊んだらしいのです
これは、お金で女の人を買ったという事を意味しています。
その場合の[A]は、ご主人にとって金で買った性のための奴隷。
だから、結婚の対象とも思っていないし、AよりBは、高級で価値があって、一方は人間、一方は人間以下。
この、AとBへの、差別の心が、実は、ご主人の最もよろしくない、差別の思想、差別と言う隔て心の埃ということです。
妊娠中に、つまり、あなたが出産で夫婦の性交渉を停止した期間に、ご主人の中のA、への願望が強くなったと言う事。
そういうことを、きちんと分かって下さい。
そこで、おふでさきでは、こうなっています。
秀治は、内縁の先妻との間に子供がありました。
神は、内縁の先妻と秀治を、離婚させています。
そして、若き女房と、結婚しています。
「離婚と若い女房との再婚」、それが、お筆先一号の末の、最大のテーマです。
ご主人の願望というものと理解されます。
それは、あなたに対する、愛情の変形した憎しみとなった姿ですね。
何が違っているのか。
ふうふとは、「地と天とをかたどりたもの」。
陽気にくらす、暮らしの根源。そこに子が授かるという、天理の基本を、まったく忘れていたと言う、「理の間違い」にあります。 - [363]紬 07/02/05 01:30 u4yLwXaekZ
- >>361
ようきさんは、用木なんですね。状況お察し致します。
実は私、この120年祭の三年千日の期間中に鬱病を併発しまして、極度に精神状態の不安定の中で生活をしておりました。病名は違いますが、鬱を発病→心療内科へ通院→服薬→休養→再発→自殺企図→精神科へ転院→閉鎖病棟の前まで行って入院は免れましたが、その後1年程、通院治療をしている者です。そしてやっと、症状が回復に向かって安定している最中にいます。この度の年祭では、まさかの身上を頂いて、自分のそれまでの人生の棚卸しをした様でした。
実は、年祭に入る前に職場で友人になった方が大変な家庭環境の方で、その方を何とかおぢばへ帰って頂きたくて心を尽くしていました。その方のお父さんは、病気の宝庫の様な人で知り合った当初は癌の身上でした。お母さんは、統合失調症(40才で発病)で、お兄さんも、その気質がある人でした。彼女との友人関係の中で、年下の彼氏との恋愛の悩みや嫉妬、お母さんの出直し、お父さんの介護、彼女自身の子宮筋腫という身上、そして結婚の約束までした彼氏との別れ、その別れでの失恋の痛手の中で、教会へ参拝して貰いました。
しかし、会長さんに対して不信感を持ったらしく、おぢば帰りは叶いませんでした。彼女とは、その後、離れてしまいましたが、その経験で私は、人を助ける事の心の難しさを知りました。
彼女のお母さんは、60前後で最後は寝たきりとなり水も飲みない身体となって出直しをしたとの事でした。本当に、何とかお母さんと共におぢばへ帰って頂きたいと思った人でしたが、私には助けるだけの、その力がありませんでした。
その後でした、自分自身が重症の鬱病に罹ったのは。
それまでは、精神病を病んでいる人は、自分とは違う世界に生きている特殊な人達という印象でしかありませんでした。差別も偏見もやはり持っていたと思います。そして、自分は人助けをする用木だという自負の上から、その人達を見下ろしてたのだと気づきました。
しかし、親神様に、その特殊と思われた世界の中へ私はすっかり置かれてしまいました。そして今は、同じ目線で外来の待合室の椅子にそっと座っています。最近では、ちょっとおかしな風貌のオジさんも、きっと、おやさまにとっては可愛い我が子と見えるんだなぁ。。そう思うと自然と微笑んでいる自分がそこにいます。不思議なものですね、心とは。同じ対象の人が、訳の分からない怖い人から、微笑む対象となるとは・・。
私は、この身上を通して分かった事があまりにも大きくて、本当に今はこの身上になって良かったと思えます。私の自殺企図も、父方祖母がちょうど、私と同じ年齢(その症状が一番酷かったその同じ月に)入水自殺をしているんです。因縁とは、こういうものなのだと、その時、肌身に感じ取りました。
ご主人も、きっと因縁の中で病んでいるのですね。病みたく病む人は、この世にひとりもいないと思います。
どうぞ、おやさまを念じてくださいね。きっとたすけて頂けると思います。用木であればこその、難渋な道だと思いますので。 - [364]紬 07/02/05 01:36 u4yLwXaekZ
- >>362
基本さん、私もふうふの事、勉強させて頂きます。
だんだんに自分自身の因縁が分かってきました。 - [365]紬 07/02/05 01:51 u4yLwXaekZ
- >>355
私も精神症状が強く出ていた時には雲ばかりをよく見ていました。
それも、不思議と地震雲ばかりが目に付いてしまって。あまりに頻繁に見えるので怖くなってた時に、前の日に地震雲を見た同じ場所に綺麗な虹が掛かったんです。その時は、ほっとしました。
やっぱり地震雲じゃなくて、綺麗な虹の方がいいなぁ〜と感じたのを覚えています。
雲は雲読の命様ですね。やはり我身可愛いの埃が強いのかな。 - [366]基本。 07/02/05 07:16 4e8TnJQTBB
- >>364-365
地震雲と言うのは、ちょうど、地震雲の基本形、ここにありました。
http://www.interq.or.jp/earth/eqc/clouds.htm
おのおのの雲の写真に、次のような解説が付されています。
[ 地震雲は磁力線が雲をとらえて成長していく様子をみごとに示してくれる。絹雲の形は磁力線が磁場へと向かうにしたがって磁力線にそって尾のようにのびていく。この尾は震源地を示したり、他の震源地の磁力線とくっつき合う。この尾が長くのびてしっかりしたフォームを示す場合は、飛行機雲のように長く尾を引く雲になったりし、また,非双極磁場で放出された場合は放出される磁気プラズマの一部であったりする。震源地を探す手かかりとしてはかなり有効な現象だ。]
・・・
ザおやさまに、天日火の雨というおふでさきの解説を、投稿してあります。
おやさま[e40]
磁場に異常が生じると、地震雲が発生する。
電磁波の変化に敏感と言う事は、脳波の問題ですが、脳において、代謝物質が異常行動を起こすと、実は、医学では、本当の意味での治め方は何も見つかっていない状態にあります。
雲は、普通は空気の対流現象で発生が説明されていますが、磁場の異常による雲の発生は、大地震や大災害の予告として研究されている重大な課題と言う事です。
脳の代謝物質の異常による精神の病気は、医学的には、対症療法として症状を緩和させる事を第一の治療目的としています。
電磁波そのものを管理して治療すると言うには、あまりに医学は脳について、無知だと言う事になります。
そこで、医師の進める薬には、それは薬ですから当然なのですが、副作用と言うものがある。
脳の働きを抑えると言う事が主とした目的の治療薬が多く、電磁波の異常を起こしている「脳」そのものを正常にする事は、今の人間の科学力では無理だと言う事です。
ザおやさまの基本の投稿を一部引用しますと、
[246]基本。 07/01/21 07:32 acLCN8M2Ml
おふでさきの六号に、
この返し大社高山取り払い みな一列は承知していよ 六号115
この話なんと思うて聞いている 天火火の雨 海は津波や 六号116
と、あります。
「天火火の雨」、これの解釈は、お筆先講義(上田嘉成)では、文字通りに、天から火が降るというような解釈しています。
辻忠作先生に、このお筆先の意味を尋ねたとき、「辻忠作先生」は、「脳病」の事であると、言われています。
どうして、辻忠作先生に質問したかというと、お筆先六号は明治7年十二月の執筆です。
この年、明治7年の2月22日には、辻忠作先生はおやさまから、直接に、おふでさきを示されて、因縁の話をして頂きました。
それは三号の147で、ですから、この時代のおやさまの思想を、リアルタイムに聞かれた「辻忠作」先生は、お筆先の原義としての意味を一番知っておられた方だからです。
「脳病」。
基本が分類しておきましたが、
>>214
> @、やまいというものには、世界並みの病とそうでない病とある。
> A、世界並みと世界並みではない、どちらの病も、病の元は心からである。
> B、特定の病は、普通の病ではなく神の残念のやまいであり、医者薬は利かない。
> イ、あしのちんば(現代では、代謝性疾患・高尿酸血症の事)
> ロ、のぼせかんてき(現代では、脳の疾患・脳波の異常)
> ハ、むねのつかえ(現代では、心臓の疾患)
お筆先には、脳波の異常の見上は、医学では感知できないと言う予言として、知らされています。
紬さんが、
> 私も精神症状が強く出ていた時には雲ばかりをよく見ていました。
> それも、不思議と地震雲ばかりが目に付いてしまって。
と、言われている事は、まさに、電磁波に対して過敏になった状態をそのままに、示しています。
簡単に言えば、電磁波に対して鈍感になったらよいわけですが、インターネットも電磁波の世界。
ようきさんのご主人が、とりつかれたようにパソコンに向かうと言うのも、電磁波の平穏の無い、姿と見れば、お気の毒と言う事になります。
その、「代謝」の異常は、おやさまは、つとめ、でたすかる以外に無い事を、教えられている。
それは、異常となっている人の問題ではなく、それを見ている人の問題として、ひながたは、教えておられます。 - [367]基本。 07/02/05 07:54 4e8TnJQTBB
- ようきさん。
とても厄介なお願いになりますが、ザおやさまの基本の投稿を、最初からきちんとお読み頂けますでしょうか。
そこには、お筆先一号から三号までの事情が、出来る限り丁寧に書かれています。
例えば、ご主人のお父さんは、天理教の信仰をしていて、そして、自分の奥さんには、
>>358
> 母親が精神病で酒を飲んでは暴れ、父親が手をあげていた。
と、暴力をふるう。
その父親の姿は、おやさまの逸話を読まれた人なら分かりますが、天理教の信心をしている人として、さんげが無ければおかしい。
優しい心がなければならない。
ところが、そこにはむごい心しかない。
「六つ、むごい心を打ち忘れやさしき心になりて来い」
「六つ、むつまじい」
「六つ、ろくぢ」「六つ、ろっく」
隔てと差別の無いという事は、お互いに優しくものを言い合えなくてはならない。
ところが、お父さんは、お母さんを抑圧して、ものを言わさない。
なぜか、
それを「高山」の因縁と言う。
それならば、天理教の教会はどうであったか。
> 両親の常識のなさを、親戚や教会は、子供である旦那に言っていた。
> 教会と父親との板挟みにあっていた。
おやさまは、そんな天理教の教会のありさまを、なんと思われるでしょう。
おかきさげにあります。
「互い助け合いというは、諭す理」と。
ろくぢでないから、六つの「かしこね様の理」がない。
ご主人の心としては、「五柱目の神様のお嫌いな心のほこり」の問題ですが、その、周囲には、「六柱目の神様のお嫌いな心のほこり」が、積みあがっている。
それは、「わが子供がかわいいから他所の子よりも大切にしてしまう」と言う様な、人間的な埃の心とは違う。
ようきさん。
八つの埃。ご存知との事ですね。
「惜しい、欲しい、にくい、可愛い、恨み、腹立ち、欲、高慢」ですよね。
そして、お筆先にはこのようにあることもご存知でしょう。
「この道は、惜しい欲しいと可愛いと欲と高慢、これが埃や。」
「この道」をしていても、人間だから、惜しいとも思ってしまう。欲しいとも考える。
しかし、「憎い、恨み、腹立ち」
これは、この道にいるのなら、あってはならない。
お父さんは、お母さんを腹立てて暴力する。
お母さんは、お父さんを恨んで、酒に狂う。
教会は、憎いの埃を使う。
憎いと言うのは、六柱目の神様の、尊根命さまのお嫌いな、言葉の埃の事で、「悪口、仲ごと、笑い、誹謗(そしり)」、そういう、「六の理に反した事」を、憎いという埃と教えられています。
そしたら、そのどこが「道」なのか。
天理教の信心していても、人間だから、「惜しい、欲しいと可愛いと欲と高慢」は、自然に出てしまう埃ではある。
しかし、「憎い、恨み、腹立ち」は、おやさまの道にいるのなら、絶対にあってはならないのに、・・
そこには、宗教家業意識と言う「大社・高山」因縁があると言う事です。
たすける、が支配するに、そういう非人間的な思案を行使してきた人間の歴史の原点から、ザおやさまには、きちんと教えを、思想として述べてありますので、因縁の自覚の上にも、できたら、最初からきちんとお読み頂きたいと思います。 - [368]基本。 07/02/05 08:09 4e8TnJQTBB
- そこで、ようきさん。
> お父さんは、お母さんを腹立てて暴力する。
> お母さんは、お父さんを恨んで、酒に狂う。
> 教会は、憎いの埃を使う。
板ばさみのご主人であった。
そういう中で、五年間思い続けて、理想とされる女性として、ようきさんと結婚をなされた。
ご自分のストレスの処理は、性欲処理として、女遊びもしたが、今度は、子供のためにも、きちんとした父親としての、責任を果たさなければならないと、ご主人は、心から、そう願い思われた。
その時に、ようきさんは、何をしていたか。
ようきさんにも、「六」の理に反した心と行ないがあったと言う事。
お父さんの腹立ちと、お母さんの恨みと、指導する天理教会の憎いと、それと、まったく同じ心の埃が、あった、その中でも、「六の理」に反したものが、あって、ご主人の発病・発症を見た。
それは、なんなのか、
これまでの投稿の中に、ようきさん自身の心の埃と言うものの本質がしっかり、自白されています。
その、埃のそうじを、まず、自覚して、なさるのが天理教の第一歩です。
本来ならば、そこに、睦まじいという、「六の理」がご守護としてあるべき「ふうふう」に、「ふうふう」と言う「風の神」の理が無かった事。
この一点を、突破する。
ようきさんの、思案すべきは「六柱」。その守護の理の誠と、そうじすべき埃。
これを、もう少し、ご相談したいと思います。
(続きます) - [369]基本。 07/02/06 11:34 7PFn/Y0BjS
- ようきさん。
六柱の神様の「かしこね様」の、お嫌いな埃は「言葉の埃」です。
それでは、ようきさんは、そんな、「悪口や、人の中傷や、誹謗」を特別にしたわけではない。それで何で、ようきさんにも、問題があったかといえば、それは、「二人の世界をきちんと構築する」という決断が、出来ていなかった。
決断と言うものは「七柱目のたいしょく天様」のご守護の理です。
つまり、ようきさんの中にも、「切る神様」のお嫌いな埃があったと言う事で、それは「欲」と言う事です。
例えば「言葉」というもの、「会話」と言うものを考えてみ下さい。
会話する中に、憎いの埃があります。
しかし、もっと憎くなると、「口を利かない」という、手段に出ます。
「切る」という、それは、実は、かしこね様の守護も失うことになる。
その意味では、ようきさんは、ご主人に対して、二人で子供を育てていくと言う努力にかけていて、つまり、「欲」と言うものの埃としてのさんげが大切という事になるわけです。 - [370]ようき 07/02/06 21:56 E-NhVmr
- 基本。さん、非常に細かく、わかりやすいご説明ありがとうございます。ここまで核心に迫る解説を頂き、正直驚いています。こちらは、かいつまんで話しただけでしたので。
私自身の心の埃は、思い当たります。と言いますか、今まさに思い悩んでいる事だからです。
今、私は主人に対して愛情を持って接する事ができる自信がありません。この先2人で子供を育てて行く決断もできていません。
私は主人の断酒後、初めて主人の過去や心の内を知りました。それまで主人は、自分の過去は一切語らなかったのです。結婚後、教会や家族からは色々と聞いていましたが、聞いた事を主人には話しませんでした。
私は身上を持っています。メニエール病という耳の病気です。めまいのため伏せる事も多く、日常生活もできませんでした。病気の一番ひどい時に修養科に入りました。その時、詰所青年をしていた主人に出会いました。こんな体の私を主人は結婚相手に選んでくれました。主人に迷惑かける事はわかりきっていたので、申し訳ない思いで一杯でした。
結婚後すぐに子供を授かりました。妊娠前の2ヵ月間は主人の酒によるトラブルや喧嘩が絶えませんでした。断酒による禁断症状もひどかったです。正直離婚したいと思いましたが、妊娠後は酒をやめ、平穏な日々でした。が、主人は心の中でずっともがいていたのだと思います。
里帰り出産は迷いました。妊娠経過が順調ではなかった事もあって、主人と話し合い、里帰りしました。飛行機で移動する距離です。
里帰り中、主人が酒を飲んでかなり酔った時があり、電話で口論になりました。その後私が会長さんに相談し、主人は断酒を決意しました。それまでも相談させてもらってましたが、まさかアルコール依存症だとは思ってなかったようです。その時から明らかに主人がおかしくなりました。
「親父に見放された。親父にわかってもらえない」など、父親の事ばかりを言う毎日でした。父親と意見・考えが合わない事を非常に気にし、「親父の意見とは違っても、俺自身の考えで行動してもいいんだよね?」と繰り返し、最終的には「これからは親父は無視して俺の考えで行動する事にした!」と言いました。
主人は「俺はアダルトチルドレンだ」とも言っていました。
(続きます) - [371]ようき 07/02/06 22:38 E-NhVmr
- 主人の祖母と両親は仲が悪かったようで、「祖母は孫の俺を味方につけて親父の悪口を言っていた。俺の子供が生まれたら、親父は孫を味方につけて俺の悪口を言うに違いない」とも。そして「俺は親から愛情もらってないから、子供が生まれたらどうしていいかわからない」「子供には手をかけたい」とも言っていました。
私はその時は、主人と一生共に生きて行こう!と決意していました。電話も毎日して、共に支え合い、子供の誕生を楽しみにしていました。
ところが出産前の1ヵ月間、主人は狂ったようにインターネットに夢中になり、電話は途絶えました。こちらがいつ電話しても、パソコンに向かい、返事はおろそかになりました。この時既に、電磁波に過敏になっていたという事ですね。
そして出産。出産の報告をしても無言でしたが、子供の顔を見たら喜んでくれるだろうと思いました。会いに来てほしいと頼み、航空券も購入したようでした。が、会長夫妻に対する被害妄想が出始め、あっと言う間に発病しました。
入院中は父親と会長夫妻への恨みつらみを1から10まで話しまくっていたようです。医師からは会長夫妻と父親に危害を与える恐れがあると言っていました。ところが、父親が面会に行くと、父親の手を握って甘えると言うのです。父親には「体内に月日が入った」とは話さなかったようです。
主治医からも義父に病気の説明を幾度となくしてもらいましたが、「聞く耳がない」との事でした。
主人の顔は攻撃性に満ち、投薬量も入院患者中トップレベルとの事でした。
天理教の教会など組織に対する不平も、話していました。信者は教会の言う事を聞かないとならないのはおかしい。今後は教会にも親父にも依存しない。教会に行く必要はない。おぢば帰りもしない。俺が真の宗教を作る。退院後は、にをいがけをしたい。などと話していたようです。
父親と教会から離れた所で私と子供と3人で暮らすしかない、という人の意見もありました。私達のアパートは、教会と義父の家のすぐ近くにあったのです。教会の近く、あるいは教会内に住まなければ、私は不安でたまりません。私は帰る事ができませんでした。
主人が退院する時、子供を連れて主人を迎えに行きました。主人の姿は変わり果て、私と子供を目の前にしても宙を見ていました。
(続きます) - [372]ようき 07/02/06 23:09 E-NhVmr
- 主人の退院後、私の実家(教会)で一緒に暮らそうかという話になっていました。そのために実父と一緒に主人に会いに行ったのです。…が、想像以上に状態が良くなく、話は流れました。それで互いの実家にいる状況です。私も出産後体調を崩し、実家で助けられながら、やっとの思いで子供を育ててきました。
退院後、主人は教会の月次祭に行くようになりました。それ以外は家にいるようです。
話が長くなりましたが、元に戻ります。私は発病後に主人の心の内や過去を知りました。今、主人の全てを受け入れられないのです。妄想の「精通」の事が気持ち悪くて生理的に受け付けません。精通の話は今でもしているので、聞く度に「やっぱり気持ち悪い」と思ってしまう。病気とはわかっています。しかし夫婦となると、体の関係を抜きにはできないですよね…
会えば気持ちも変わると言われますが、退院時に会った時も気持ち悪かったです。アパートにはコンドームの箱が隠してありました。主人は「遊びに使った」と言いましたが、気持ち悪かったです。主人は誰が見ても生真面目で、女遊びをするようには見えなかっただけに、裏切られたようなショックもあります。
「気持ち悪い」と思うのは、私が主人を愛していないからなのでしょうか…心の埃の掃除をすれば、気持ち悪いと思わず、愛情を持って接する事ができるのでしょうか…こんな事を思って、主人と一緒に子供を育てて行く決断ができないのです。私も心に埃が積もり上がっていると思います。
主人は身上の私を支えてくれた。私は身上の主人から離れている。自分が卑劣な人間に思えます。 - [373]基本。 07/02/07 01:08 jWFfdK.WHr
- お筆先に、前生の因縁の話が出てくるのは、第一号のおしまいの所です。
「前生の因縁寄せて守護する これは末代しかと治まる」 一号74
このお筆先は、結婚について、「夫婦というのは前生の因縁よせて守護する」ものという、教理として、教団の中では説かれています。
天理教の本を読まれた人は、「花にには喋喋、糞には銀バエ」などというような、因縁の組み合わせだと、そんな風にもとかれていますが、それは、因縁の自覚を促すための方便のような教話であって、全ての真実というものではない。
因縁を寄せて守護する中には、「因縁を果たす」と「因縁で果てる」と、二つあります。
ひながたでは、秀治さんには4人の女性が、登場しています。
最初の奥さんは、お医者さんの娘で、秀治さんは漢方のお医者さんの勉強をしていて、その関係で、結婚してきましたが、三日で逃げて、実家に帰りました。
それは、神がかりの状態の中山みき様を恐ろしいといって、実家に逃げ帰りました。離婚です。
次の奥さんは、内縁の妻ということですが、二人の間には女の子も誕生していましが、自分のような身分の低いものが中山家とは結婚できないということで、身を引いてしまって、別離となれました。
その次の奥さんは、二人の間には男の子が生まれていて、内縁の妻ですが、神様は、埃の者として、屋敷からの掃除だと、中山家から出してしまっています。
そして、その後に、「悪事払うて若き女房」と、おんなじ因縁の女性をおやさまが仲立ちして、結婚をしています。
このように、肉体的に男女の関係が合ったとか、夫婦であったとしても、事実上の結婚していても、前生の因縁の守護という場合と、屋敷の掃除という場合とあるという、それがひながたです。
どこが違うのか、何が問題か。
それは、「欲」です。 - [374]基本。 07/02/07 01:50 jWFfdK.WHr
- ようきさん。
元始まりのお話にありますが、泥海の中に、夫婦の元となる「にんげふ」がいた。
人魚とも人型とも書きますが、その一筋心なるを見澄まされて、ふうふを拵えた。
泥海の中にいる、「伎魚・巳」。かな文字では「うをとみ」。
その心は、一筋であった。
人間の顔をしていた。
していることは、肉体は、人間ではないのです。
でも、顔は人間をしていた。
そして、一筋心と一筋心だった。
それを引き寄せてね夫婦を始められたと、教えられています。
「欲」の心は、一筋とは、言えない。
打算という、計算という、利害という。
その精神が、欲の心であっては、夫婦ではあるけれど夫婦ではない。
それならば、なぜ、子供は授かるのか。
一瞬の真心と真心で結ばれて通じ合ったときに、子供は授かってしまう。
「もう死んでやるんだ、どうなったっていい、めちゃくちゃになってもいい」と、思い込んでいる女性が、「今さえ良けりゃ後はどうなっても構わない」と、思い込んでいる男性に、レイプされてしまうと、それは、「本心と本心」だと、子供は授かってしまう。
それは、その瞬間においては、一筋と一筋と結ばれたことになるからです。
でも、そういう場合、子供が出来てから、悩むことになるわけです。
つまり、夫婦というものは、セックスしたから夫婦だというものではない。子供が出来たから夫婦というものではない。
ちょとはなし 神の言う事聞いてくれ 悪しきの事は言わんでな
この世の 地と天とを かたどりて 夫婦をこしらえ来るでな
それは、新たな世界の始まりだしというものが「ふうふ」。
始まりの理とならないものは、たんなる「同棲」。同じに棲む。棲息しているというだけの、生物同士の関係に過ぎないということになります。
「欲があるならやめてくれ 神の受け取りできんから」
欲と言うのは、思い切りのつかない姿であり、暗い闇のままに、ただ住み方を違えただけ。
そういう結婚は、結婚という名の、泥水事情の始まりとなるわけで、
心の姿が、表に出たなら、結局は欲と欲の「因縁で果てる」組み合わせだったということになります。
新たに世界を始めるという理のないものは、「欲にきりない泥水や」という、元の木阿弥に、陥ることになるのが、天理です。 - [375]紬 07/02/07 04:28 TV8/KZszg1
- >>373>>374
私の方の系統では、夫婦になると因縁の蓋があく(恋愛関係では見えなかった因縁の部分が表へ出る)そう説かれています。私自身、両親の不仲を見て育ったものですから、それまで、夫婦に成る事への希望が全く持てずにおりました。信仰当初は、『一つ身暮らしでお道をしていく』それが私の希望でした。しかし、所属の会長さんからは、それは(一つ身暮らし)特別な立場の人であって、私には当てはまらないと却下されてしまいました。
この度の年祭で身上となり、また元来虚弱体質な為、ひとりで生きて行くだけのものが無くなってしまいました。私は、この天理教を信仰していなかったら、夫婦になる事なぞ出来ない人間です。
ようきさんの書き込みを読んでいて、やはり本当の夫婦になる事の難しさを感じています。(ようきさん、これは私自身の心の問題ですので、どうぞ気になさらないでくださいね)
私は、いがみあったり、謗りあったりする冷たい関係の夫婦にはなりたくありません。理想ばかり言っていると言われても、夫婦の理合いのない中に生まれ、辛い思いをして育った子どもとして、何より夫婦仲良く通りたいとの願望が強過ぎるのかもしれません。
私には、8才違いの姉がいて、おぢばでご縁を頂いて、夫婦で信仰をしています。姉夫婦はお互いに両親の不仲を見て育った者同士、努力して夫婦をしています。会長さんは、姉のように幸せな結婚を私に望んでいますし、私も、そうなりたいと思っています。
今、会長さんから、繋の理を付ける為に『日参』を言われてます。
私にちょうどいい、夫婦仲良く通れる人が、現れてくるのでしょうか?前会長さんからは、相手ではなくて私が『もう一度会いたいと思える相手でないとダメだ』と言われた事があります。 - [376]三十三天慶大使超恋駅 07/02/07 04:30 VrvmmvnuXt
- うつびょうをはげましたら
だめです。
光とは恋駅なのです。 - [377]紬 07/02/07 08:12 TV8/KZszg1
- >>374
成っても成合でもの精神で信じて行動してみます。
神様のご守護を疑ってはいけませんね。 - [378]基本。 07/02/07 20:30 p/STUtyhzV
- 耳と言うものは、何の守護の理かと言いますと、「大食天命」様の守護の理です。
言葉を聞くと言うことは、実は、聞き分けると言うことです。
「分ける」と言うのは、「分別」、切る理で大食天命様の理のお働きです。
内耳というのは、内耳・中耳・外耳。
にほん・から・てんじく、このように並べますと、「にほん」=「内々のもの」というように、思案されます。
さて、算数ですが、3と言うのは、金銭縁談よろずつなぎです。
3足す3は6です。
3足す7は、十です。
数理の表裏には、つとめの配置の理があります。
6柱目のかしこね命様は、つとめの配置では、7柱目の大食天様と、丁度反対になっています。
方位で言うと、未申と丑虎という方位で、向かい合っています。
言葉の理とは、未申のかしこね命さまの守護の理ですが、その、かしこね命様の理の誠に対して、憎いという埃があります。
そして、そのかしこね命様の、一対の夫婦の理の女神様の大食天命様の切るという誠の理があり、その大食天命様の、誠に対して、「欲」と言う、埃があります。
黒白というのは、「生死」の理です。
その、大食天命さまは、人間の体内では、悪いものを切ってしまうと言う守護の理の神様です。
それは、「耳」の神様です。
そして、「リンパ」とか、「白血球」と言うのは、その大食天命さまのご守護の理ということ。
心得ておくべきです。
以前に、代謝の異常について、どこかで語りましたが、ガン細胞を攻撃する物資が、何かの事情で、自分の血管の内部の脂肪を攻撃するという,例を紹介しました。
ガン細胞のような種物を攻撃するような、体内分泌物質は、本来は自衛のための物です。
それが、肉体自身を攻撃してしまう。
その埃は、「欲」。と、いうものに、理解されます。
「ふくれる」と言うのは、大食天様の理。
「切る」というのも、大食天命様の理。
この一点が、きちんと理解されたら、「代謝」は、たすかるというのは、おやさまの教えと理解されます。
人類史上、最も「欲」の無い人は、中山みきさまでした。
その方の、まことにおすがりして、「欲の心の根」を切ることが、内耳リンパの身上には、一番宜しいと言うことです。 - [379]基本。 07/02/07 20:51 p/STUtyhzV
- さて、紬さん。
3足す7は、十です。
3のご守護は、7と3の二つの神様の理に適うことで頂くものです。
3柱の神様の守護の理とは、国狭土命様の理です。
お嫌いな埃は「恨み」です。
3柱の神様の、つとめの理の方位の反対の位置にしているのは、4柱の神様の、月読命様です。
理を立てるというのは、4柱の神様の誠の理です。
縁談のご守護を頂くには、どうしたらよいかというと、「腹を立てない」事。
「恨まないこと」
それが、3と4の理に、適うと言うことです。
そして、足して十と言う、貸し物借り物の理で言うと、3と7となりますから、「恨まない事」「欲にならないこと」。
これで、全てです。
紬さん。
> 私の方の系統では、夫婦になると因縁の蓋があく(恋愛関係では見えなかった因縁の部分が表へ出る)そう説かれています。
>
方便というもので、因縁があるから夫婦になるのです。「ふたが開くも何も」そんなことで、お互いを因縁の物と思い合うのではなく、二人で、新しく始めるのです。
「悪しきの事はいわんでな」と、言われています。
夫婦となると言うのは、あしきではない。
夫婦に、なりきれないことは、残念と言うことになります。
思い切りが出来ていない。それは、「欲」の心。
過去を引きずると「恨み・(裏を見る・過去を見る)」と言う事になります。
自らが、「地」「時」と、母親の理になろうとして定まらないのなら、日様の理のない、暗い天地を、見るしかない。
夫婦とは、「天地創造そのものである」。一筋心というものの結びつきである。
この、原典の教えを、胸に治めて下さい。
> 私は、いがみあったり、謗りあったりする冷たい関係の夫婦にはなりたくありません。
>
それを、欲というのですよ。
紬さん。 - [380]基本。 07/02/07 21:54 p/STUtyhzV
- 紬さん。
私は、毎日毎日喧嘩している両親の下で育てられましたよ。
母親はもう離婚すると、家を出ていこうとする。
そうすると、父親は、私を呼ぶのです。「お前、お母さんでて行くぞ」と。
その母親を、呼び止めに行くのが、私でしたよ。
こんこんと、神様の話をするのです。母親に、「こちらから切る神は無いと教えられているではないか」とか・・。「たんのうが足りない」とか・・。
簡単には聞かないが、最後には、「わかった」とか、「悪かった」とか、母親に言わせた。
小学生が、二三年頃から、これ、必死で止めないと、大へんですからね。
父親は、頑として、曲げない。母親はすごい剣幕ででていく支度ですから。
父親は、自分は絶対に誤る気はない。
それで、子供を使うのでした。
そして、ともかく、母親が思いとどまると、さんげとして、お供えを用意させて、私が教会に届けたのです。
まあ、お供えは、喧嘩の5、6回に一回でしたが、母親のののしりを、聞いてはなだめる。これは、対母親。
父親は、愚痴ではないように、愚痴をこぼす。このお相手をして。
話を聞いて上げて・・。
父親が、父親を慕っている女性の家に行ったときには、そのお供で付いていって、その家の人に、家に付くからずっと神様のお話をえんえんとしていた。
まあ、私が中学の頃には、ずいぶんと減りましたが、母親は、「直ぐ腹を立てて、こんな冷たい人はいない」と、私に言う。父親は「本当に心の狭い女だ」と、私に言う。
毎日毎晩喧嘩する両親なんだけれど、外面は良いから、人のいる時間には仲良くしてくれる日も、時も、ある。
夜になると、きまって、喧嘩が始まる。
夜明けまで、口論している。両親だが、そのうちには、おさまっていった。
ある時教会に行って、夫婦仲良くしなさいと、会長さんに言われて、父母ははい分かりましたと、返事して、教会の門を出た、その時にはもう口論を開始し、大喧嘩になった。
そんな、仲で、それを毎日毎日していた時期がありました。
でもね。
その親がいて、自分があった。
とても、感謝しています。その頃も、そんな人間らしい親の姿を、好きでした。
父親の気持ちも分かったし、母親の気持ちも、分かった。
子供たちが、寝静まった後、こんこんと二人で話をしている姿も、実は、密かにチェックしていた。
私が、中学生になる頃には、普通程度に、仲良くなり、喧嘩も時折になった。
思うのですが、
人間なんて、そんなに簡単に分かり合えないから、一緒に暮らす甲斐があると。
お互いが、命令は絶対聞くようなロポットであることの方が、異常なのだと。
紬さん、感情をぶつけ合えるというのは、夫婦だからこその特権みたいなものと、考える方が、自然だと思います。
経験者としては。です。
仲良くなるためには、けんかも、必要な事。
誤解しては、反省して、争ってはさんげして、少しづつ、仲良くなるらいの気持ちで、結婚相手を捜す方が、良いと思います。 - [381]ようき 07/02/07 22:37 E-NhVmr
- 基本。さん、ありがとうございます。ここまで理の話を聞けるとは、ありがたいです。わかりやすく、納得できます。
私は欲の埃も積んでいるという事ですね。
今日、主人の病気について、初めて聞いた事があります。私と出会った頃主人は詰所青年をしていたのですが、精神病のために青年勤めをしていたそうなんです。小さい時から精神がおかしく、妄想も今回が初めてではないらしいです。本人は一切言いませんが、主人を知る人数人に聞きました。
聞いた瞬間、「知ってたら結婚しなかった」と思いました。これも埃ですよね。欲?憎い?恨み?腹立ち?
因縁あって夫婦になったのに、自分勝手な思案をしてしまいます。
基本。さんにお願いがあります。私は出産後、耳管(中耳)の身上を頂きました。普通は閉じるはずの耳管がしっかりと閉じないのです。小学生の頃から症状があったのですが、出産後悪化しました。妊娠出産、体重減少、ストレスなどで発病するらしいのです。中耳の身上について、理の上からお諭し頂けないでしょうか?内耳と同じお諭しになるでしょうか。質問ばかりで申し訳ありません。 - [382]基本。 07/02/08 06:49 L3sKNb0ptC
- 耳という理の基本は、>>378、に申し上げておきました。
逸話編に「たすかる身やもの」というお言葉があります。
坐骨神経痛の病気の男性が、つまり、代謝の病の男性が、おやさまにお目にかかりに参りました。
その時に、
「救かるで、救かるで。救かる身やもの。」
と、おやさまは、言われました。
ようきさん。
このお言葉をしっかりと、胸に納めて頂けたらと思います。
そこで、代謝の病と言うのは、実は、神様の手引きであるから道教えであるから、実は、神様でたすかる病気なのです。
難病と言われます。これは直らないと思いがちです。
けれど、神様に手を引かれているだけのことですから、「ようき」にご思案ください。
「たすかる身」なのです。 - [383]基本。 07/02/08 07:22 L3sKNb0ptC
- それでは、改めまして、ようきさんとご相談をさせて頂く事とします。
人間身の内は、神の貸し物借り物と教えて頂いております。
身上というのは、人間の不摂生からなる病気もありますし、色々な病気がありますが、ここでは、神様からの「手引き」としての身上の事を、相談させて頂きます。
身の内の、悩む処、「ところ」に神様は、理をお知らせになる。
それが身の内の理の基本です。
> 私は出産後、耳管(中耳)の身上を頂きました。
耳管(中耳)という処に、神様のお知らせしたい「理」があります。
次に病の症状というものに、「医学的な病理」に、神様のお知らせしたい「内容」があります。「症状・療法」は、その参考と言う事になります。
> 普通は閉じるはずの耳管がしっかりと閉じないのです。
普通は閉じるはずなのに、閉じないという症状が、「病の元となっている心使い」を示すものと、言う事になります。
>>370
> 私は身上を持っています。メニエール病という耳の病気です。
> めまいのため伏せる事も多く、日常生活もできませんでした。
これは、ようきさんが、言われました病名と症状でしたね。
この中に、「病理」としての神様のお知らせがあるわけです。
まず、今までの内容を、きちんと貸し物借り物の理において、ご相談申し上げますと、
メニエール病
専門のお医者さんたちのご苦労を参考とさせて頂きましょう。
心の道を確認するつもりで、確かめてみて下さい。
http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~ent/topics/meniere.html
ここから引用いたします。
{ メニエール病とは
典型的なメニエール病は (1)回転性めまい(2)難聴(3)耳鳴り が連動して起こるもので、一回のめまい発作が約30分から6時間程度続きます。30歳から50歳に多く、子供では稀です。めまい発作は不定期に繰り返し、往々にして精神的ストレスや過労時が発作の誘因となります。
難聴は内耳性で特に低音部に障害があり、めまいに連動して変動します。時に上記のような症状がそろわず、例えば「低音部の難聴と耳鳴りの変動があるがめまいがない」という様な場合もありますが、経過をみると多くが数年で典型的なメニエール病の病像を現すようになります。メニエール病には病因などに不明の点も多いのですが、実際の患者さんの臨床症状からは確固とした疾患単位と認識できるものです。}
{メニエール病に厳密な診断基準は不要か
めまいは非常に多くの疾患の症状として現れるため、メニエール病にも当然の事ながら明確な診断基準が必要です。例えば、内耳と第8脳神経の異常によるめまいで代表的なものだけでもメニエール病以外に良性発作性頭位めまい症、突発性難聴、ストレプトマイシンによる前庭障害、前庭水管拡大症、外リンパ漏、前庭神経炎、聴神経腫瘍、神経血管圧迫症候群などが挙げられますが、これらは全く異なる病因によって起こるもので臨床症状、検査所見、治療法はそれぞれ異なります。さらに、脳幹や小脳の疾患も考慮すれば、各疾患の正確な診断基準がなければめまいに対処できない事は明らかです。}
{メニエール病の病因
何が原因でメニエール病になるのかは未だ結論が出ていません。ただ、メニエール病患者の内耳では内リンパ腔という部分の拡大(内リンパ水腫)が見られ、これによってその症状が引き起こされるという点については殆ど異論はありません。}
医学的には「めまい」、「脳の第八脳の関係」。「耳」、「リンパ水腫の拡大」
このような、症状として、病理は研究されています。
ようきさんも言われていました。
「めまい」。
ここから理を思案する事になります。
(続きます)
[続き]
c-32688909
※このスレッドは大団円を迎えた為、投稿は出来ません。 編集 