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冷戦という名の厚い壁に隔てられた西ドイツとポーランドの間で、正式に国交が樹立したのは、日韓に遅れる事7年後の1972年の事である。 之に先立つ1970年、ここで言う「和解の儀式」として、当時の西ドイツ首相であったブラントが関係正常化条約調印のためにポーランドのワルシャワを訪れ、ユダヤ人慰霊碑の前で、犠牲者に黙祷を捧げ、跪いて謝罪した事は、よく知られている。 その後、両国は、いわゆる歴史教科書対話へと進む事になるのだが、特にポーランドの人々のわだかまりを解くのに、この儀式の果たした役割は大きかったと、言われている。 また、侵略した側である西ドイツが、分断国家であった事も、見落としてはならない。 1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約によって主権を回復した日本は、早くも、その五年後にはソ連との国交を回復し、国連加盟を果たしている。 去れに対して西ドイツは、1970年になっても、統一問題や国境問題のあった東ドイツやポーランドはもちろん、チェコスロヴァキア、ブルガリア、ハンガリーとも国交を回復しておらず、その結果、国連に加盟する事も出来なかった。 当然ながら、このような状況は、経済大国として台頭しつつあった西ドイツにとって早期に解決されなければならず、ポーランドとの国交正常化は、自らが国際社会に復帰し、「普通の国」としての立場を取り戻すのに不可欠のものであった。 東ドイツやポーランドとの国交は、第二次世界大戦後、「鉄のカーテン」によって、家族や友人と引き裂かれた人々にとっても切実な問題だった。 東西冷戦の時代、「西側陣営の東端」に位置する西ドイツにとって、隣接する東側諸国との関係正常化は、政治的、経済的のみならず、社会的にも必要不可欠な事であったのだ。 ポーランドに於ける「和解の儀式」が行われたのと同じ1970年、西ドイツはソ連との間で領土問題を最終的に解決し、1972年には東西ドイツが互いを承認する事になる。 結果として、1973年には東西ドイツが共に国連加盟を実現する。 当時の西ドイツにとって、「過去」は正に「現在」の問題に直結するものだったのである。 しかし、日韓の間には、そのような状況は存在しなかった。 日韓基本条約により、日韓両国の交流への障害は取り除かれ、人々は正式なビザを取得さえすれば、何の気兼ねもなく、両国の間を行き来できるようになった。 そして「過去」に関する議論は、ますます抽象的なものとかり、私達の生活とはますますほど遠いものとなっていったのだ。 朝鮮半島をどう見るか 木村 幹 著より |
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ドイツの戦争責任について取材すると、必ずと言っていいほど「ブラントの跪き」を話題にする。 イアン・ブルマー氏もこう書いている。 「ヴィリー・ブラントがかつてのワルシャワ・ゲットーで跪いたように、日本の政治家が跪いて歴史的犯罪を謝罪した事は一度もない。」 あれは、一体、何だったのだろうか? 西ドイツ首相はヴィリー・ブラントは、東西冷戦の最中の1970年、ワルシャワを公式訪問した。 市内にある石造りの「ゲットー英雄記念碑」に献花し、跪いて両手を組み、無言の祈りを捧げた。 ゲットーというのは、ユダヤ人を強制的に集めて居住させた地区の事を指す。 中略 「跪きによって、ポーランド侵略を含むドイツの戦争責任を明確に認めたものとポーランド人には評価されました。」 1970年12月6日午後、ワルシャワ入りして一泊したブラントは、7日朝、サスキ公園わきにある「無名戦士の墓」に献花した。 この墓は、第二次大戦後につくられ、いまも衛兵が永遠の火を見守っている。 火を中央にして建つ霊廟の柱に埋められたプレートを見ると、第二次大戦だけではなく、さまざまな戦役での戦没者の霊がまつられている。 ブラントは、さらに約1.5キロ北西のゲットー跡広場を訪れて、記念碑に献花した。 ワルシャワ市立図書館の資料によると、記念碑はゲットー蜂起の英雄達を顕彰するため、ポーランド・ユダヤ人中央評議会によって建てられ、蜂起5周年に当たる1948年4月19日に除幕された。 非ユダヤ系のポーランド人犠牲者は、対象とされていない。 ブラントはゲットー記念碑前で突然跪いて祈りを捧げた。 予定には全くない行動で、随行員さえ驚いたという。 ブラントが戦争の罪責を無言で謝ろうとしたのなら、むしろ無名戦士の墓で跪くべきだったのではないか? それが、現場を見ての感想だった。 相殺された過去 議会演説は日程にはなく、ブラントは、その7日の晩餐会のスピーチでポーランド首相に語りかけた。 「今日は、我が国民と私自身にとって、あなたの国民に与えられた大きな苦難、そしてまた、我が国民が味わなければならなかった重い犠牲について、痛ましい記憶を思い起こさせる日です。....1939年以降の数年間は、比べるものない、最も暗い期間でした。それを消し去る事は出来ません。」 ドイツ政府に残るスピーチ公式記録によると、第二次大戦についてのくだりは、これだけだ。 「我が国民が味わなれればならなかった重い犠牲」という言葉が注目される。 単に戦災にあったと言うだけではなく、ポーランド人によるドイツ人への非道な行為も暗に指しているはずだ。 ソ連の独裁者スターリンは、占領したポーランド東部の領土を戦後も手放そうとはしなかった。 その代わり、ポーランドに対し西部で埋め合わせをしてやるため、ドイツとの新国境をオーデル・ナイセ線とする事を主張した。 これにより、ドイツは領土のおよそ4分の1を失う事になり、そこにいたドイツ人住民は、強制的に移住させられた。 西側連合国も、これを容認した。 ドイツ政府のデータによると、この新ポーランド領を含め、終戦時にソ連・東欧地域にいたドイツ人1173万人が今のドイツ領内へ追放された。 そのさい、ヒトラー時代の報復としてリンチや強姦が行われ、衰弱死、病死をあわせドイツ人210万人が死亡または不明となった。 ブラントの晩餐会のスピーチでは、謝罪どころかドイツ人の犠牲を持ち出し、侵略の相殺を試みたようにさえ思われる。 <戦争責任>とは何か 木佐 芳男著より |
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では、何故、跪いたのだろうか? 1993年にブラント生誕80周年を記念して行われた展示 「ヴィリー・ブラント ある人生 1913-1992」のカタログに本人の手記が引用されている。 「ワルシャワへ向かう時、600万人の犠牲者への思いが心にのしかかっていた。 、、、、ワルシャワ・ゲットーでの死の戦いへの思いが心にあった。 ゲットー蜂起は、数ヶ月後にポーランドの首都で起きた英雄的な蜂起に比べ、ヒトラーと戦う各国政府からは、殆ど気に留められなかった。 私は、何も計画してはいなかった。 だが、ゲットー記念碑への特別な思いを表現しなければならないとの気持ちを胸に、宿舎のヴィラヌフ宮殿をあとにした。 ドイツ史の奈落の淵で、殺された数百万の人々の重圧を受け、私は言葉で言い表せない時に人がする事を行ったのだ。」 ブラントの言う「ポーランドの首都で起きた英雄的な蜂起」は、明らかにワルシャワ蜂起の事だ。 それに比べ、世界の注目を集める事の無かったゲットー蜂起に思いをはせ、ブラントは跪いたのだった。 中略 すでにブラントは1971年3月21日、ケルンで行われた「友愛週間」の開会式で、似た表現により跪きの真意について語っていた。 「12月始め、ワルシャワに立った時、私にはドイツ現代史の重荷がのしかかっていました。 犯罪的な人種政策の重荷です。 ....アウシュビッツにもかかわらず、狂信や人権抑圧は終わっていないと考えました。 ....(跪きに)否定的なコメントをする人もいましたが、それなら私は問います。 ドイツ首相にとって、ワルシャワ・ゲットーがあったところ以外のどこで、責任の重荷を感じ、その責任に由来する罪の償いを試みられるというのでしょうか!} ワルシャワ蜂起で立ち上がったポーランド人ではなく、ユダヤ人への思いを胸に跪いたのは明らかだった。 ゲットー蜂起やホロコーストの犠牲者への償いだった。 中略 「ポーランド侵略への許しを請うものだったと、見なす事は出来ないと思います」 とうのユダヤ人社会は、どう考えたのだろうか? ドイツ国内で発行されている「ユダヤ人一般週刊誌」(AJW)のユディット・ハルト編集長は言う。 「ポーランド人ではなく、ユダヤ人犠牲者に向けられたものでした。 もちろん、ポーランド市民権を持っていたユダヤ人もいましたが、ポーランドでは反ユダヤ主義がはびこっており、彼らの殆どは、自分が社会の一員だとは考えていなかったのです。」 回想録でブラントはこう続けている。 「私は、ポーランド側を困惑させたようだ。 あの(跪きの)日、ポーランド政府の誰も、それについては話しかけなかった。 したがって、彼らも歴史のこの部分を、まだ清算してはいないのだ。と私は判断した」 清算していない「歴史のこの部分」というのは、おそらくポーランドの反ユダヤ主義の事を指している。 1930年代、ポーランドではユダヤ人商店のボイコット、ユダヤ人からの借金帳消しなど、ナチス・ドイツと変わらない迫害が行われた。 ポーランド政府は、国内にいる300万人近いユダヤ人を、すべてマダガスカル島などへ送り込もうとしたこともある。 ナチ政権はユダヤ人絶滅政策にふみきる前、ヨーロッパの全ユダヤ人1100万人以上をマダガスカル島へ強制移住させる計画を立て失敗した。 それは、ポーランドの案を真似たものとされる。 中略 戦後の一時期も、ポーランドの共産主義政権によって、反ユダヤ政策がとられた。 つまり、対ユダヤ人に関しては、ポーランドの政府も国民ももどちらかと言えば、加害者の立場にあった。 ゲットー記念碑の前での跪きが「ポーランド側を困惑させたようだ」とブラントが記したのは、そのためだったと思われる。 ブラントの回想録は続く。 「私に同行してワルシャワへ行ったカルロ・シュミートが後に語ったところによると、何故、私は無名戦士の墓では献花しただけで、跪かなかったのか?とある(ポーランド側の)人物から聞かれたという」 ポーランド人はドイツの被害者だったとの立場からすれば、 「なぜ、ユダヤ人ゲットー跡で? との疑問や不満は、ある意味で当然だった。 ドイツ首相がポーランド人に謝るなら、無名戦士の墓で跪くべきだった。 <戦争責任>とは何か 木佐 芳男著より |
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異なる悲劇 日本とドイツ 西尾幹二著より 2005年02月01日 |