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社説

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定額給付金―ふらつく麻生政権の足元

 麻生政権の看板政策である定額給付金をどう配るか。政府与党の調整がようやくまとまった。

 金額は1人あたり一律1万2千円。18歳以下と65歳以上には8千円を上乗せする。必要な約2兆円は各市町村を通じて支給するという。

 さて最大の焦点、所得制限とのかかわりはどうなったか。

 与党の合意文書にはこう書かれている。「各市町村が実情に応じて決定する。所得制限を設ける場合の下限は、所得1800万円とする」

 何のことはない。所得制限を設けるか、設けないか。強制的に制限するのか、自発的な受け取り辞退を求めるのか。制度の根幹にかかわるこうした点について、判断をそっくり各市町村に任せたのだ。

 何とも場当たり的で、無責任な政策というしかあるまい。

 自治体には困惑が広がっている。支給基準をどう定めるか。住民にどう説明するか。予想される窓口の混乱を抑える手だては。これらの問題を政府与党が真剣に考えた形跡は乏しい。

 もともと首相が言明したのは「全所帯」への支給だった。だが、与謝野経済財政相が「高い所得の世帯にお金を渡すのは常識から言って変だ」と所得制限を唱えると、首相も同調した。

 次に、所得制限には法整備などで時間がかかると中川財務相らが反論すると、首相が持ち出したのは、高額所得者に自発的な辞退を促す案。これには与謝野氏が「それは制度じゃない。あり得ない」と立ちはだかった。

 文字通り二転三転の末に、政府与党がたどり着いた折衷案が「自治体丸投げ」だった。全国市長会会長の佐竹敬久・秋田市長がさっそく「法律などの裏付けなしに自治体が勝手に所得制限をやれ、といっても無理だ」と反発したのは当然のことだろう。

 定額給付金は2兆円もの巨費を投じる政権の目玉政策である。所得制限を行う場合の事務手続きの煩雑さは想像できたはずだ。

 首相が緊急に必要だと思うなら、制限にこだわらず実施する手もあったろう。制限するなら、野党を説得し、きちんと法律を通して実現するのが筋だった。首相にはどちらの道をとる覚悟もなかったと考えざるを得ない。

 そもそもこの給付金の実現には、補正予算以外にも法律が必要になる。本来なら国債残高を減らすのに使う財政投融資特別会計の金利変動準備金を、給付金に回すための法律だ。

 今後の国会審議を考えれば、給付の仕方がまとまったからといって、首相のめざす年度内支給がすんなり実現するとはかぎらない。

 この構想は、いよいよ支離滅裂なものになっている。発足間もない政権の統治能力そのものが問われる事態だ。

東京裁判60年―歴史から目をそらすまい

 極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の判決から60年がたった。第2次世界大戦後に日本の戦争指導者を裁いたこの国際裁判は、東条英機元首相ら7人を絞首刑にするなど、日本の政治家や軍の幹部25人を厳しく断罪した。

 はるか昔の裁判だが、今もなお激しい論争の的だ。日本の過去の植民地支配や侵略を正当化した田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長の論文でも、東京裁判で認定された日本の戦争犯罪が、今もいわばマインドコントロールのように日本人を惑わしていると批判した。

 東京裁判をどう見るかは、有罪となったA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社に首相が参拝することの是非と結びついている。政治と不可分の問題なのだ。

 東京裁判となると、とかく議論が熱くなりがちだ。だが、私たちがまず確認すべきことは、東京裁判が極めて複雑な問題だという冷厳な事実である。「勝者の裁き」か「文明の裁き」かという二元論で、万人の納得のいく解釈はできない。それを単純化して白黒をはっきりさせようというところに、実は大きな落とし穴がある。

 論点を整理しよう。東京裁判に問題があるのは事実である。戦争が行われた時点では存在しなかった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くことは、法律学でいう事後法にあたりおかしいという批判がある。日本の戦争犯罪は裁かれたが、米軍の原爆投下は審理されなかった。連合国側だけで判事団を構成した。被告の選び方も恣意(しい)的だった。

 その一方で、この裁判の意義も忘れてはならない。裁判を通して戦争に至る道が検証され、指導者の責任を問うた。そのことで、戦後日本社会は過去を清算し、次に進むことができた。

 また、独立回復に際してこの裁判を受け入れたことで、国際社会への復帰を果たした。東京裁判はナチスドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判と並んで、戦争を裁くためのその後の国際法の発展に寄与した。

 こうした両面をそのまま受け入れる必要がある。欠陥に目を向けつつ、この裁判が果たした役割を積極的に生かすのが賢明な態度ではなかろうか。

 なぜならば、裁判が十全でなかったからといって、日本がアジア諸国に対する侵略を重ね、最後は米国との無謀な戦争に突入し、膨大な人命を失わせた事実が消えるものではないからだ。日本に罪や責任がなかったということにはならない。

 都合の良い歴史だけをつなげて愛国心をあおるのは、もう終わりにしたい。グローバル化は進み、狭い日本の仲間うちだけで身勝手な物語に酔いしれていられる世界では、もはやない。

 悪いのは全部外国だ。そう言いつのるだけでは、国際社会で尊敬される日本がどうして築けるだろうか。

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