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2002年09月27日

太田述正コラム#0060(2002.9.27)
<対イラク戦争雑感>
 
 対イラク戦に関する私の#55、56のコラムに対し、これまでコメントをお寄せになった方が一人もおられません。ひょっとすると、私の紹介したハーシェム家とサウド家の確執について、遠く離れた異国におけるファンタジーのように受け止められたむきが多いのかもしれません。
 決してそんなことはなく、両家の確執は、日本人にとっては極めて身近でなじみのある話なのだ、というところから本日のコラムを始めましょう。

 私は、アルカイーダ等の対米闘争について、日本の幕末の英国を主たる標的とした攘夷運動と基本的に同じものだと思っています。そして、サウド家は徳川家に、ハーシェム家は天皇家になぞらえることができると思っています。言うまでもなく、幕末期の世界の覇権国は英国でしたし、現在の覇権国は米国です。
 サウド家は、イスラム「正統派」のハーシェム家を排除し、イスラム教原理主義のワハブ派と一体化することによってアラブ/イスラム世界における権力と権威を確立しますが、「正統派」との関わり方が正反対であるとは言え、これは徳川御三家の一つである水戸徳川家が、徳川幕府の日本統治及び鎖国政策の根拠を、それぞれ日本「正統派」の最たるものである朝廷(天皇家)による授権及び日本の天皇制の卓越性、に求める水戸学(とりわけ後期水戸学=皇国史観)を生み出し、この考え方を全国に広めることによって徳川幕府の権力の正統性をコンファームしようとしたこと(http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/seishisai.htm。9月27日アクセス、等)になぞらえらることができるでしょう。
 現在のアラブ/イスラム世界では、イスラエル建国に反発し、イスラエルを支援する欧米、就中米国に対する反感が次第に高まって来ていたところへ、サウド家がイラクのクゥエート侵略を契機として米軍をサウディ国内に招じ入れたことへの拒否反応から、サウディ市民を中核とするアルカイーダ等が対米闘争を開始するのですが、片や幕末の日本では、ロシアの東漸や英国のアヘン戦争(1840年)による中国蹂躙等を目の当たりにして日本国内で危機感が高まっていたところへペリーが黒船を率いて来航(1853年)し、軍事力による恫喝の下で徳川幕府が「国是」たる鎖国をとりやめ、開国(日米和親条約1854年調印、1855年批准)したことに反発して攘夷運動が始まったわけです。

 アルカイーダの反米テロと幕末の日本の攘夷運動を同じようなものと見るとはなにごとだ、志士達は民間人や婦女子をも対象にした無差別テロなど行わなかったし、海外にまで出かけてテロを行った例もない、とお怒りになる方もおられるかもしれません。
 果たしてそうでしょうか。
当時の日本にはまだ外国の民間人や婦女子が余りいなかっただけのことです。1862年の生麦事件は必ずしも攘夷行動の例とは言えませんが、薩摩藩主の父、島津久光の行列を乱したとして、行列を警護していた薩摩藩士に斬りつけられた四人の英国人は全員、外交官でも軍人でもなく商人(、正確に言うと、三人の男性たる商人と一人の商人の妻、)でしたし、うち一人が落命し、女性も攻撃され、すんでのところで刀傷を負うところでした(ロバート・フォーチュン「幕末日本探訪記」講談社学術文庫1997年 248-252頁。原著は1863年)。
また、1863-64年の馬関戦争は攘夷行動のクライマックスでしたが、当時、交通・通信手段等が現在並に発達しておれば、ロンドンにおいて、長州藩士等による「同時多発テロ」が決行されていた可能性を誰も否定することはできないでしょう。

生麦事件によって引き起こされた1863年の薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷が不可能であることを悟りますが、英国の方も薩摩藩の実力を評価し、やがて英国は幕府を見限り、薩摩藩と手を結ぶに至ります(http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/202220.htm。9月26日アクセス)。同じことが、上記馬関戦争を契機に長州藩と英国(米国、フランス、オランダとともに戦いました)との間でも起こります(http://www.ysn21.jp/furusato/know/03history/history11.html。9月26日アクセス)。明治維新は、日本国内の薩長両藩の尊皇攘夷から開国・尊皇倒幕への転換とこれを支援した英国の動きとがあいまって実現したと言えるでしょう。

 客観的に見れば無謀としか言いようのなかった攘夷運動があったからこそ明治維新が実現したと考えれば、昨年の同時多発テロでクライマックスに達したアルカイーダの対米闘争が、逆説的にイスラム世界の革命的近代化をもたらす可能性もまた否定できないのではないでしょうか。
 明治維新と英国との関わりにヒントを得たのかどうかはともかくとして、現在、同じことをアラブ/イスラム世界で行おうとしているのが米国なのです。

 これは、断じて私の勝手な憶測などではありません。
根拠となるのは、イスラエルの高等戦略・政治研究所(Institute for Advanced Strategic and Political Studies)が1996年に公にした報告書である「過去との決別・・領土を確保するための新しい戦略(A clean break: a new strategy for the securing the realm)」です。
これはイスラエルの研究所の報告書ではありますが、8名の共同執筆者の顔ぶれを見ると、現在米国防省の国防政策委員会(Defense Policy Board)の議長であるリチャード・パール、同じく現在米国防省で国防長官を含む最上級の四つのポストの一つである国防次官をつとめるダグラス・フェイス、やはり現在米国務省で軍備管理及び国際安全保障担当の国務次官であるジョン・ボルトンの特別補佐官をつとめるデービッド・ワームサー(Wurmser)等、大部分が米国人であり、しかも現在米国政府の主要ポストにある人々が少なくない点が注目されます。
 この報告書の骨子は、
1 イラクのサダム・フセイン政権を打倒し、ヨルダンと並んでイラクにもハーシェム家王制を樹立する。
2 ヤセル・アラファトは失脚させ、PLOの力も弱体化させた上で、イスラエルは西岸及びガザ地区を併合する。(両地区のパレスティナ人は、ヨルダン、イラクに移住させる?)
3 これらにより、中東地区にトルコ・イスラエル・ヨルダン・イラク民主世俗国家群枢軸を形成する。
4 そして、シリアの民主世俗国家への体制変革を追求し実現する。
 5 新イラク王制に、同国における多数派たるシーア派住民を掌握させることを通じレバノンのシーア派住民を懐柔し、シリア及びイランの影響から脱却せしめ、かつまた軍隊の駐留等を通じてレバノンを支配しているシリアの体制変革を実現してレバノンを解放することによって、レバノンもまた上記枢軸に取り込む。
 
という驚くべきものです。
http://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0.7792.785394.00.html。9月3日アクセス)
 2を見ただけでも、イスラエルのネタニヤフ、シャロン両政権の採用してきた対パレスティナ強硬策がこの報告書のラインに添ったものであることは明白ですし、2001年に成立した米共和党ブッシュ政権の対中東政策も、オブラートに包まれているとはいえ、ほぼこの報告書のラインに添ったものであると言ってよさそうです。
 そしてブッシュ政権にあっては、昨年の同時多発テロ以降、上記戦略に、更にサウディとイランの体制変革の追求を付け加えた、と見ればすべての平仄があいそうです。(Guardian 前掲)

 幕末期の日本との違いは、現在のアラブ/イスラム世界においては、尊皇攘夷から開国・尊皇倒幕への切り替えに相当する内発的な動きがにぶく、ハーシェム家擁立やイラクやサウディ政権打倒に向けての世論の盛り上がりが余り見られないことです。(ちなみに、イラクのフセイン政権は、もともとはイスラム抜きのワハブ派政権というおもむきがありましたが、最近では意図的にイスラム原理主義に傾斜しつつあります。)そこで、否応なしに米国が前面に立たざるをえないという状況にあります。
 覇権主義的であるとして英国や米国に反発するのは自由ですが、19世紀も20世紀も、そして21世紀に入った現在にあっても、主役が英国から米国に交替しただけで、世界の各地域、各国の命運をこのような形でアングロサクソンが左右してきたことは厳然たる事実です。
 果たして米国は、イラクを攻撃するのか、攻撃した結果、米国は上述の戦略目標を達成することができるのか、はたまたこのような米国の動きに世界各国、就中アラブ/イスラム諸国やその世論がどう反応するのか、興味が尽きないところです。



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