それはGoogle の方針を見るとわかる。
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Google について批判する声が社会的にかなり出ている。なのに Google は行動を改めない。ではなぜ、Google は行動を改めないのか?
それは、Google が「犯罪的」な存在であるからというより、「反社会的」な存在であるからだ。その行動の過程では、まさしく法を犯すこともあるのだが、そもそも根本体質が反社会的なのである。
そこでは、彼らの意図は「善」である。彼等は自分では「善」をなしているつもりで、それでいて「悪」をなしているのだ。その点では、狂信的な宗教集団と同様である。彼らの判断基準では、彼らは「善」をなしているつもりなのだ。
ただ、狂信的な宗教集団と違うのは、「神様」というような古ぼけたものを信奉するかわりに、「最先端のIT技術」というものを信奉することだ。そして、それを狂信的に信じながら、それを追究する過程で、社会悪をなす。自分が何をしているかもろくに意識しないまま。
以下では、Google の方針とはどういうものであるかを、赤裸々に暴露しよう。
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(1) 収益性
Google の第一目的は、ユーザーへの無償サービスではなく、自分の収益である。つまり目的は、「無償でサービスをプレゼントすること」ではなくて、「自分の金儲け」である。
( ※ ここでは繰り返さない。前に述べたとおり。 → マイ・マップによる収益 )
(2) 無謀性
Google の特徴として、「進取性」がある。新しいことをどんどんやってみよう、という方針だ。
しかし、これは言葉はいいが、裏返せば、「無謀性」のことである。ものの善悪を熟慮しないまま、「とりあえずやってみよう」という方針だ。「考えてから走る」のではなく、「走ってから考える」という方針だ。
この方針は、実際に米グーグル幹部が説明している。引用しよう。
「100年前に航空機が飛び始めた際には、住宅の上を飛ぶことが不法侵入にあたるのかということが問題になったが、ルートの下にある家からすべて許可を貰うということは現実的ではないとして考え直された」という例を挙げ、「我々は現在ユーザーにコントロールを渡すという方法をとっているが、新しい技術を導入する方法としては、何がベストかということを常に考えている」とコメントした。このような「走ってから考える」という方針は、必ずしも悪いとは言えない。それでうまく行くことも多い。特に、新しい技術の開発には、それは必要だろう。
( → internet watch )( → cf. ITpro )
例を挙げると、ライト兄弟だ。彼らが進取の精神を持っていたから、技術は進歩した。だから、進取の精神を持つことは、それ自体は悪くはない。
ただし、それでも問題ないのは、個人的に小規模な技術開発をする場合だ。同じことを大規模に企業化するとなると、社会的影響があまりにも大きすぎる。自分一人がリスクを負って実験するのは構わないが、社会全体にリスクを負わせて社会全体を実験台にすることには問題がある。
それはあまりにも無謀というものだ。Google にはその配慮が欠けている。つまり、無責任なのだ。
(3) 無反省
それでもまあ、社会全体をモルモットにする実験的事業、というのを認めてもいい。ある段階では、そういうことも必要だろう。コンピュータの発達過程では、そういうことはしばしばあった。
しかし、である。未知の領域に進むのはいいが、いったんダメだとわかったら退くべきなのだ。
ここでは、進む勇気でなく、退く勇気が必要だ。さもなくば、ただの無謀・暴挙であろう。簡単に言えば、犯罪的だ。わけもわからずに始めるのは仕方ないとしても、他人に迷惑がかかるとわかっていてやめないのは犯罪的だ。
その犯罪的な方針が最も顕著に出るのが、ストリートビューをめぐる態度だ。
「ストリートビューで住居を公開しますが、本人からの申し出があれば、住居の画像を公開停止にします。これで問題はありません」
という態度。つまり、「悪いことをしても、そのあとやめれば、もはや問題はない」という態度。
しかし、これは、次の態度と同じだ。
「レイプしてみて、相手がイヤだといったら、そのあとやめれば、もはや問題はない」
「殴ってみて、相手が痛いといったら、そのあとやめれば、もはや問題はない」
「空き巣で金を盗んでも、相手が盗まれたことに気づいたあと、要求された金を返せば、もはや問題はない」
ひどい言い分だ。普通の犯罪者がこんなことを言っても、通らない。しかるに、Google はそれで通ると思っている。自宅の画像を撮られたことを知らない人がたくさんいるのに、「ノーと言わなければイエスなのだ」という理屈。
こういうのは、「相手がイヤだと言ってもゴリ押しする」という典型的な犯罪者(強盗・殺人者・強姦魔)とは違うが、まさしく犯罪的である。比喩的に言えば、眠っている女を××するようなものだ。
こういう連中は、人の「心の痛み」というものは、まるで理解できないのだろう。どうせ「人の心を傷つけても、金で解決すればいいのさ」とでも思っているのだろう。(Google はその金さえも払わないので、その分もっとひどいが。)
(4) 既成事実化
いったんダメだとわかったら、退くべきだ。ストリートビューでも、マイ・マップでも、Picasa でも、カレンダーでも。(上述。)
しかし、ダメだと判明しても、やめようとしない。悪だと判明しても、悪を継続する。つまり、「過ちて改めず、これを過ちという」というやつだ。
では、なぜ、Google は改めようとしないのか? 改めるべきだという認識力が欠落しているのか? それほど愚かなのか? 違う。
実は、Google はもともと「過ちて改める」という方針を取らない。代わりに、次の方針を取る。
「悪の既成事実化」
説明しよう。
まず、何か新しいことをなす。そのあとで、それが「悪」だと判明する。このとき、普通の人ならば、それをやめるだろう。しかしその場合、金儲けもまたなくなる。これでは「収益の重視」という第1方針に反する。
では、どうするか? 「悪」を「善」に転じてしまうのだ。簡単に言えば、「悪」を「善」と思わせるように、世間全体を洗脳してしまうのだ。そのために用いる方針が「既成事実化」である。
「悪」だと判明しても、なし崩し的にずっと継続していると、人々は諦めてしまう。「しょうがないさ」と。…… Google はそれを狙っているのだ。
その一例が YouTube だ。これは、著作権法違反の温床だとして、犯罪の巣窟だと見なされていた。YouTube が小さな企業であるうちは、大々的に非難された。しかるに、Google が YouTube を買収してからは、非難の声がすっかり下火になった。相も変わらず、著作権法違反は続いているのだが、著作権法違反にいくらか配慮する形で、犯罪性の度合いを低めた。そのことで、「犯罪ではなく合法的な事業です」と見せかけた。……かくて、犯罪の巣窟である YouTube を、既成事実化して、金儲けの手段にした。
これでわかるだろう。「悪の既成事実化」こそ、金儲けの方法なのだ。そうすれば、自分では何らコンテンツを開発することなく、コンテンツとしての映像は、丸ごと他人に依存しながら、広告料収入だけは自分が儲ける。そういう「濡れ手で粟」のボロ儲けをすることができるようになったのだ。
( ※ Google の開発した映像など、下手な宣伝ビデオがあるぐらいだ。文化的には何ら貢献していない。ただし儲けるのだけは上手。映像泥棒みたいなもの。)
(5) ユダヤ精神
Google の体質はわかっただろう。こうだ。
明白な悪とは言えないような悪をなす。世間のやり玉に遭うが、世間に排除されないギリギリの程度まで違法行為を続ける。そのまま、既成事実化を推進する。つまり、世間が抵抗しない範囲内で、領域をどんどんひろげる。世間が一歩退けば、さらに一歩進む。こうして、領域をどんどん奪って、なし崩し的に、世間の領域を自分のものとする。
実は、この方針は、Google に独特の方針ではない。ユダヤの方針だ。
ちなみに、パレスチナの歴史を見ればいい。まさしくイスラエルは、その方針を取っている。少しずつ少しずつ、パレスチナの領域を奪っていく。押したり引いたりしながら、一歩また一歩と相手の領域を奪っていく。……これはまさしく Google の方針と同じだ。
では、なぜ、Google はユダヤの方針を取るのか? 私は不思議に思った。「最先端の米国企業がそんなことをするのは変だな」と。そこで、念のため、Google で検索してみた。その結果、想像どおりのことが判明した。
Google の創業者二人は、ともにユダヤ人なのである。さらにまた、創業資金を出したのも、ユダヤ系のロスチャイルドだということだ。( → Google 検索 )
まさか、こんな結果が出るとは思ってもいなかった。しかし、とにかくこれで、Google があまりにもえげつない方針を取ることについては、氷解した。
(6) 人生体験
なお、誤解を招くといけないので、注釈しておこう。「ユダヤ人だからだ」というのは、別に、人種差別的な解釈ではない。そもそも「ユダヤ人」というのは人種ですらない。(ただの宗教分類だ。)
ユダヤ人に特質的なのは、その人生経験・歴史経験にある。ユダヤ人は歴史的に迫害されてきた。流浪の民として、祖国を持たず、世界中をさまよった。今でもなお欧米では差別されがちだ。そういう被害意識が強い。そのせいで、過剰防衛に出てしまうのだ。
彼らが少しずつ対外的に進出しがちなのも、理由がある。つまり、「そうしなければ自分たちが陸地から海へ追い出される」という過剰な被害者意識を持つからだ。そういう過剰な被害者意識のせいで、過剰防衛に出てしまう。それが彼らの行動様式だ。
今回もそうだ。自社が社会にどういう迷惑をかけようが、彼らは知ったこっちゃない。彼らにとって大切なのは、自社を守ることだけだ。そして、世間の攻撃を受けたとき、一歩でも身を引くと、自社のすべてを奪われてしまう、という恐怖に駆られている。だから彼らは、一歩退くことができないのである。
彼らが自己の「悪」を認識できないのは、彼らが愚かだからでもなく、彼らが「悪」そのものに染まっているからでもなく、彼らがあまりにも臆病であるからなのだ。
(7) 社会性の喪失
以上が Google の行動様式だ。
ただし、ユダヤ人のすべてが同じようにふるまうわけではない。ユダヤ人のすべてが悪なのではない。世の中には立派なユダヤ人もいっぱいいる。そして、そういう立派なユダヤ人に共通するのは、他人との協調性が高いということだ。他人との協調性が高ければ、「他人に迷惑をかけない」といういことが、幼児のころからしみついているはずだ。
しかし Google の創業者は、そうではない。なぜなら彼らは、技術ばかりにとらわれていた、技術オタクだからだ。彼らのオタク性が、彼らを社会から隔絶させる。
Google は、確かに技術的に優秀だが、その技術の優秀性(つまり技術オタク性)ゆえに、かえって人間性が損なわれている。
「他人に迷惑をかけないこと」
「自分の損得よりも、社会の迷惑こそ、重視するべきだ」
こういうことは、子供でさえ、ちゃんと学んでいる。しかし、Google の連中は、そういうことができていない。「先端技術、先端技術」とだけ叫んでいて、人間としての基本的なことができていない。社会性の喪失。
ここに Google という会社の根本的な問題があるのだ。
( ※ ついでに言えば、それに気づかないで Google を賛美するような、お調子者の連中の責任もある。名前は適当に推察してください。)
【 関連サイト 】
高木浩光氏のサイト
→ http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20081110.html
「作ってる奴は頭おかしい」というのはその通りなのだが、根源的には Google の体質に原因がある、と見なした方がいいだろう。ダメなものを作ることが問題だというより、ダメなものを放置していることが問題なのだ。
「じゃ、放置しないでどうすればいいのか」
という疑問には、別項で答えてある。こうすればいいのだ。
→ マイ・マップの将来
ついでだが、「共有マップ」というのは、他社にもある。たとえば、So-net にある。無償サービス。
→ http://buzzmap.so-net.ne.jp/
この地図は、共有が前提で、「公開」は自明だから、ここに個人情報を載せるようなことは起こらないだろう。
つまり、勘違いは起こらないように、もともと設計してあるのだ。それが常識。
そして、そうするべきだということを、私は主張している。(ただし Google にはそれができない、ということも、本項で説明している。猿に人間の真似をしろといっても、無理なんですよ。)