My Life Between Silicon Valley and Japan このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-11-07

[] 水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。

とうとう、水村美苗の長編評論「日本語が亡びるとき」が本になった。

本書の冒頭の三章(280枚)が「新潮」9月号に一括掲載されたのを一気に読み感動してから数か月、待ちに待った刊行である。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

この本は今、すべての日本人が読むべき本だと思う。「すべての」と言えば言いすぎであれば、知的生産を志す人、あるいは勉学途上の中学生高校生大学生大学院生(専門はいっさい問わない)、これから先言葉で何かを表現したいと考えている人、何にせよ教育に関わる人、子供を持つ親、そんな人たちは絶対に読むべきだと思う。願わくばこの本がベストセラーになって、日本人にとっての日本語英語について、これから誰かが何かを語るときの「プラットフォーム」になってほしいと思う。この論考に賛成するかしないかは別として、水村の明晰な論理による思考がぎゅっと一冊に詰まったこの本が「プラットフォーム」になれば、必ずやその議論は今よりも実りのあるものとなろう。

水村美苗という人は寡作の作家なので、僕のブログの読者では知らない人もいるかもしれないが、五、六年に一度、とんでもなく素晴らしい作品を書く人だ。本書は「本格小説」以来の、水村作品を愛好する者たちにとっては待望の書き下ろし作品であるが、その期待を遥かに大きく超えた達成となっている。

内容について書きだせば、それこそ、どれだけでも言葉が出てくるのだが、あえて今日はそれはぐっとこらえておくことにする。多くの人がこの本を読み、ネット上に意見感想があふれるようになったら、再び僕自身の考えを書いてみたいと思う。

一言だけいえば、これから私たちは「英語の世紀」を生きる。ビジネス英語が必要だからとかそういうレベルの話ではない。英語がかつてのラテン語のように、「書き言葉」として人類の叡智を集積・蓄積していく「普遍語」になる時代を私たちはこれから生きるのだ、と水村は喝破する。そして、そういう時代の英語以外の言葉未来日本語未来日本人未来言語という観点からのインターネットの意味日本語教育英語教育の在り方について、本書で思考を続けていく。とにかく思考が明晰だ。しかも小説のように面白い。明晰な文章を読むと、その内容が厳しいものであっても快感が得られるものなのだ、と改めて思った。

少女時代から漱石に耽溺し「続明暗」でデビューした水村の問題提起は、「たとえば今日2008年11月7日、漱石と同じくらいの天賦の才能を持った子供日本人として生を受けたとして、その子が知的に成長した将来、果たして日本語で書くでしょうか。自然英語で書くのではないですか」ということである。放っておけば日本語は、「話し言葉」としては残っても、叡智を刻む「書き言葉」としてはその輝きを失っていくのではないか。「英語の世紀」とはそういう暴力的な時代なのだと皆が認識し、いま私たちが何をすべきか考えなければならない。

この本にこめられた、日本語を愛する水村美苗の「心の叫び」が、できるだけ多くの日本人に届くことを切に願う。

なまえなまえ 2008/11/07 07:01 「頭脳流出」と同じで、英語で書ける人は日本語で書くことを選択しなくなるのかもしれないですね。
英語に堪能な小説家なら読者の多い英語で書きたいと思うのが自然でしょうし、普通の個人が書くブログだって、英語で書いた方が反応豊かで楽しいかもしれない。

albertusalbertus 2008/11/07 07:19 初めてコメントします。

言うまでもないことですが、高等教育の一部では既に日本語は滅びていると言えます(より正確には、「英語に支配されている」?)。自分の論考をできるだけ多くの人々に知ってもらうためには、英語が一番の近道です。ですので、わざわざ日本語で書く必要がもうない、という時代になってしまっています。

このことが極めて重要な問題なのは、中世のラテン語と違い、ネイティブスピーカーがいるということでしょう。そこには、第二言語として英語を習得した人間とそうでない人間との、「越えられない壁」があるのではないでしょうか。

よい本を紹介していただきました。是非熟読して感想も書いてみたいと思います。

inudaishoinudaisho 2008/11/07 14:42 近代より前の日本は中国の漢字の世紀に属しておりました。例に挙がっている漱石も最初は漢文教育を受け、漢文で書いた随筆なんかも残っています。日本のエリートが外国語使いなのは常識に属することでしょう。われわれが日常的に使っている漢語の中には明治期に西洋の概念を翻訳してつくられた新語がたくさんあります。これは漢字の皮をかぶった英語といえます。もし「知的記述を日本語でしない」程度のことがその言語の死を意味するのなら日本語は既に死んでいます。

subversion2subversion2 2008/11/07 15:09 ↑そのとおりだと思います。
無用に不安を煽る木村さんのような人は、宗教団体でも設立する気なのでしょうか?

aa 2008/11/07 16:16 ラテン語が健在だった時代であっても、他の言語は滅びませんでした。
ですから、英語がどれだけ広まっても日本語は滅びることはないでしょう。
実にくだらない扇情的な記事ですね。

xjrshimadaxjrshimada 2008/11/07 17:17 「叡智を刻む書き言葉としての」の定義が曖昧です。
事実上そのような日本語は、時間とともに流動的に変化しています。

そのような感性で漱石先生を引き合いに出してほしくはなかったです・・・

七誌七誌 2008/11/07 22:15 米国経済が今大変なことになっていて、ドルが基軸通貨でなくなるのではないかとか言われていますが、本格的に米国が沈み始めて他の国が台頭し始めたら、英語はどうなるんでしょう?
日本語って1億人以上が使っているんだから、言語としては多い方だと思います。

dellcadellca 2008/11/07 23:07 言語がある存在意義を考えれば答えはおのずとでると思います。

salronasalrona 2008/11/07 23:43 エントリと関係のない話で恐縮です。
「ウェブ時代をゆく」に感化され「ウェブリテラシーを獲得するブログ」を始めました。いつかお暇なときにでも一読していただければ幸いです。

MACKEY32MACKEY32 2008/11/08 00:08 おススメの程有難うございます。
必ず読みます。

ubsp1977ubsp1977 2008/11/08 04:22 「日本語が亡びるとき」に目を通しました。英語がイギリスやアメリカの母国語であるということよりも、英語を用いて知識がインターネット上で蓄積されていくという現実を考えました。そして、そのことが英語を非母国語とする人たちに与える影響について認識するようになりました。実際に、私は科学を学んでいますが、日本語を使う必要性を全く感じないので、高校ぐらいから理系科目は英語で授業をすれば良いのに、と思っていました。

言語というのは、意識して利用していかないと「書き言葉」として成熟できないという水村さんの指摘に考えさせられました。

心情としては、やっぱり日本人が日本語と英語のバイリンガルであったらなあ、と思ってしまいます。

munyuumunyuu 2008/11/08 05:11 日本語はとっくに英語を取り入れています。
未来にはビジンイングリッシュのように、日本語と英語が融合するのでしょう。
英語も日本語を取り入れている部分がありますし。

知的記述にしても、日本語の方が合理的でわかりやすい記述が出来ることは多いです。特に理系科目では、英語よりも日本語の方が理解が早いですよ。

木村木村 2008/11/08 07:59 すみませんこの本はまだ読んません。ですが思うところを少々。
江戸時代には、九州の人間と東北の人間では言葉が通じなかったので漢文で筆談したという話もあります。
書き言葉としての日本語は所詮明治以降、国民国家としての日本のものであり、英語の普遍語化とは単に国民国家の期限切れのような気がしますね。
ラテン語文明がヨーロッパを、アラビア語文明が中東を、シナ語文明が東アジアを覆っていた時代のように、英語文明が世界を覆う新たな時代の始まりとでも言いましょうか。

石川石川 2008/11/09 00:21 漱石と子規との友情や、子規という人が、どういう知的な日本人であったか、伝記を含めて、研究されてみては、いかがですか? ちなみに、子規は、英語をカンニングして東大に入り、英語の試験が嫌で東大を辞めたらしいですよ。

なまえなまえ 2008/11/09 00:32 うえから梅田

ListlessnessListlessness 2008/11/09 00:37 id:munyuu ピジンです。美人じゃなく。
お手軽なところでhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%B8%E3%83%B3%E8%A8%80%E8%AA%9Eあたりをどうぞ。ピジンとクレオール言語の違いなどにも留意しつつ。

OctOct 2008/11/09 03:24 世界の話者数では、中国語が1位で、英語は3位です。
2040年ごろ、米国(カリフォルニア州)でスペイン語の話者が大幅に増える見通しです。
ネット人口では、すでに中国が米国を抜いています。
中国のGDPは、2040年ごろ米国を抜く予定です。
21世紀は、英語の世紀になるのでしょうか?

tofftoff 2008/11/09 04:35 この本をすぐに手に入れられる環境にないのが残念ですが、先般のノーベル賞をめぐって、中国での基礎科学における裾野の狭さについての議論に繋がるような気がしています。
日本と中国の科学教育の最大の違いは、自国の言葉でどこまで学ぶことが出来るかという点にあるという指摘を思い起こします。
中国語はいくら話す人が増えてもそれだけでは科学認識の裾野は拡がらないでしょう。

科学に限らず、思考する言葉としての日本語を残すことを考えるのいう視点は必要だと思います。

nekopanda_tarenekopanda_tare 2008/11/09 04:50 漢文という「普遍語」に対抗して日本語を鍛え上げていった先人たちに学べばいいのです。それと同じことを今後やっていけばいいだけの話です。水村さんもそれは否定していないようですし。ただし、旧かなづかいにこだわるのはいかがかと思います。方丈記も徒然草も、「旧かな」でかかれているわけではありません。

edoraedora 2008/11/09 06:08 日本語と英語、両方が自由に使えるようになりたいですね。
出来れば中国語やスペイン語も。
色んな考え型を取り入れて、発信出来る人が増えていくほうが良い社会なような気がします。もちろん日本語が大事なのは言うまでも無いですが。

hidehide 2008/11/09 07:05 日本語の衰退以前に、日本人は日本語で書かれた書物や文化を世界にきちんと発信する努力をしてきたか?という疑念も感じている者です。

ひじょうに興味深い本なので、
著者の心の叫びを早く読みたいと思います。



この本をさっそく読んでみたいと思いました。

加賀野井さんが好き加賀野井さんが好き 2008/11/09 08:14 munyuuさん
>英語も日本語を取り入れている部分がありますし。

マジですか?TyphoonやSeppukuなどの単語ならともかく、
文法や意味生成の部分で日本語の影響を受けている部分が
あるのならば、是非知りたいです。ヒントでもご教示願います。

KY-waks1KY-waks1 2008/11/09 11:29 どうか、今回の件で気力を失わないでください。

ブログ読者の読む目が育っていないこの状況
において、あなたは読者の低レベルに呆れて
去っていくことを選択しないでほしい。

勝手なことを言ってすみませんが、あなたの
ように素直に心情を話せる人は貴重だと
思いますので、お願いします。

これからも応援します。

プ 2008/11/09 21:40 相変わらずくだらねーな(w

surousurou 2008/11/10 01:28 無理にザワザワさせようとせずに書いた方がいいと思うのですが。
英語で書いてみては、どうでしょう?

比ヤング比ヤング 2008/11/11 06:28 前に一部が雑誌で出てたのは、夫馬も読んだんだけど。
そのときの最大の疑問は

「国語が滅びる!」って言うけど、公教育で使われる
言葉が英語になっちゃうですかね?

ってことだったけどね。

美紀美紀 2008/11/11 07:44 お怒りになるのは、当然でしょうが、それを言ってしまえば、それだけのこと、で、その程度のものだったのか、みたいなふうになるでしょう。損するのは梅田さん御自身であり、ばかなことばかりでしょう、この世は。。。
ネットだけじゃない。生きている間は、どこであろうと。
それをまともに怒るのは、知性的な人には見えません。

sheepsong55sheepsong55 2008/11/11 15:01 この水村さんの議論は何か変ですね。ちゃんと他の人に査読してもらってから出版した方が良かったのでは。今、日本語で書かれている文学と日本語の可能性・限界(そんなものあるのかいな)とを安易に結び付けています。

juna55juna55 2008/11/11 20:09 出版楽しみにしていました。1/3ほどなぜかよみづらく、中盤以降は衝かれたようによんでしまいましたが、あらためてなぜ強く読むべきだと言われていたのかが少しはわかった気がします。何本もの想いが輻輳して走っている様には感じましたが。
−ここしばらく白川静を読んでいるのですが、関連して深く考えさせられます。
−慶應150年で卒業生とはいえ福澤にたいした興味があるわけでもなかったのですが、少し改めて触れなおしてみていると、(また記念式典のinternet中継で天皇陛下の祝辞を聞かせていただいていても)感じるものがあります。
−井上ひさしの”国語元年”、”吉里吉里人”逆にメッセージ性がもっと鮮明なような気もします。
−水村さんすっかりわすれてましたが、続明暗の方だったんですね。”こころ”を中学生のときに読まされてすっかりいやになり全く食わず嫌いだった漱石を読めるようになるきっかけがなぜか22歳ころの”明暗”だったので強い印象があります。。

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