【海難記】 Wrecked on the Sea このページをアンテナに追加 RSSフィード

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text by 仲 俣 暁 生 (sora tobu kikai webpage)
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2008-11-11 Tuesday

[]水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読む。 このエントリーを含むブックマーク

梅田望夫氏のエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1が引き金になってだと思われるが、水村美苗の『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』asin:4480814965がいま、アマゾンで第一位になっている。私も「新潮」に掲載された冒頭の三章は読んでおり、はやく単行本で最後まで読みたかったので、梅田氏のエントリーを読んですぐに書店で購入し、数日前に読了した。

創作学科で有名なアイオワ大学で行われた、IWP(International Writing Program)に参加したときの経験*1を綴った最初の章、とりわけその前半部分は、文句なしにすばらしい。IWPはかつて中上健次も参加し、ここで中上は『地の果て至上の時』を書いた。水村はここで、世界中の、しかもおもに貧しい国から集まった作家たちと出会い、「地球上のあらゆるところで」「さまざまな作家が、それぞれ〈自分たちの言葉〉で書いている」ことに気づき、驚きを感じる。そして、「その〈自分たちの言葉〉で書くという行為」が、「〈自分たちの国〉を思う心と、いかに深くつながっていたか」と結ぶ。ここまではいいのである。

続く第二章で水村は、パリでの文学シンポジウムで出会った、イディッシュ語で書く作家を両親にもつ女性に「日本文学のような主要な文学(une litterature majeure)を書いているあなたとは比べられませんが……」と話しかけられたエピソードを語る。その女性は、日本語やイディッシュで書くことには、英語のような〈普遍語〉で書くこととは別の面白さがある、というのだ。イディッシュは、国がなくとも受けつがれたユダヤ人たちにとっての〈自分たちの言葉〉である。リトアニアやモンゴルといった小国の文学もまた、英語という〈普遍語〉のもとでは、滅び行く側の言葉かもしれない。そのような想像をするなかで水村は、しかし日本文学は、まがりなりにも〈主要な文学〉のひとつだったのであり、英語という〈普遍語〉の専制のもとで生き延びる可能性をもっている。だから「日本近代文学」は、読みつがれなければならない、という思いにかられていく。この本は、このあたりからだんだんおかしくなっていく。

「日本近代文学」は「国民文学」であり、「国民文学」を失うと「日本語」が滅びる、だから国語教育においては「日本近代文学」を読みつがせるべきだ、というのが彼女の主張であり、第三章以下では、そのことが「普遍語」「現地語」「国語」「二重言語者」といった概念で論証されていく。下地になっているのはベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で展開した議論だが、結論はアンダーソンとは異なり、アンダーソンが『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』asin:4334034012*2に収められた早稲田大学での講演で語った「英語ではだめなのです」という希望のメッセージを、「多言語主義」(多文化主義の「言語」版)でしかない、として切って捨てる。多言語主義がダメなのは、英語という「普遍語」の存在を忘却(隠蔽)しているからだ、というのである。

水村美苗のような、言っては悪いがマイナーな作家の本がネット上でこれだけの話題を呼ぶのは、センセーショナルなタイトルが理由だろう。文学への関心ではなく、一種の「ナショナリズム本」として期待されているのだ。実際、この本で水村が述べているのは、かなりストレートな言語ナショナリズムである。つまり、美しく正しき「日本語」を英語支配の時代のなかで守るために、「日本近代文学」は読みつがれなければならない、というのが、ごく簡単にいえば彼女の主張のすべてである。

しかし水村は、本と言えば「小説」しか読んでこなかったという。リトアニアの作家に会っても、リトアニアがどこにあるかわからなかった、というぐらいだから、ある意味、あのペイリン女史なみの世界観しかもっていない。だがそれはいいだろう。きっと、バルト三国のどれか、ということぐらいはご存じで、謙遜しただけなのだろうから。

また、日本に戻って作家になったら、「福沢諭吉、二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、谷崎潤一郎」といった、「図抜けた頭脳と勉強量、さらに人一倍のユーモアをもちあわせた、偉そうな男の人たち」の陰で、「女子供にふさわしいつまらないことをちょこちょこと書いていればよいと思っていた」(p58)という、この本で彼女自身が告白している、ファザコン丸出しの「文学少女」ぶりもいいだろう。なにより許せないのは、現在の日本で日本語で書いている作家たちに対する、彼女の徹底的な侮蔑であり、その侮蔑のベースにある無知である。

彼女は第一章の末尾でこう言い放つ。じつはこの啖呵が、本の最後でどのように回収されるのかということが、「新潮」で第三章までを読んだときの私の最大の関心だった。

もちろん、今、日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるでしょう。私が、日本文学の現状に、幼稚な風景を見出したりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。実際、そういう人のほうが多いかもしれない。だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。文学も芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人に向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。

「今、日本語で何が書かれているか」こそがもっとも大事だと思っている私は、この本が想定している読者ではないし、彼女とは芸術観、文学観もずいぶん違うだろう。だが、「芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない」という事実に開き直る姿勢は、文学者としてはあまりに「幼稚」である。私だって、いまの日本文学の現状に「幼稚な風景」を見ないわけではない。でもその「幼稚さ」はむしろ、いま自分たちを「文学」の側だと名乗る人たちのほうにこそ(それこそ水村さん自身の言動のように)見られるのだ。

過去百年以上の間に日本語という私たちの言葉が獲得した自在な表現力が、「文学」などという重たい看板を下ろすことで、いくつものすぐれた「小説」を生み出していることを、水村は知りたくもないのだろう。いま、そのような小説を書いている十指に余る現在の日本語作家たちこそが、「日本語」を守り、更新し、未来にむけて育てていく人たちだ。いまもっとも「孤独」なのは、実は彼らなのである。水村のような悲観的な意見は、ただちに多くの支持者を集めるだろう。ご心配なく、水村さんは少しも孤独ではない。

水村はこの論考で、日本文学の「幼稚な風景」を示す作家の具体名を挙げていないが、「日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるでしょう」という言葉からわかるとおり、村上春樹の存在はさすがに意識しているだろう。であれば、「普遍語」「国語」「現地語」との関係で、村上春樹についてなんらかの言及があってしかるべきではなかったか。

村上春樹はすでに「現地語」の作家ではなく、英語圏だけでなくアジア圏でも支持される、〈普遍語〉ともいうべき存在になっている。でも、村上春樹は「日本近代文学」と、まったく無縁の存在ではない。それは日本語による思考と表現が、英語と同様の普遍性をもつことの証ではないか(普遍的だから「文学的価値が高い」というわけではないにせよ)。

逆に、普遍性を欠く「現地語」ではだめだというのなら、かつてのご自身の「女子供にふさわしいつまらないことをちょこちょこと書いていればよいと思っていた」という考えは、その後、どのように乗り越えられたのか。日本近代文学史における「女流文学」と「国語」の関係はどうなのか。パリで出会った女性が日本文学を「主要な文学」と呼んだのは、「源氏物語」をはじめ、古代から近世にいたる日本語による文学的達成を指してのものだったはずだ。しかしなぜか、水村は「近代文学=国語」に固着するのである。

また、水村は「大衆消費社会」と「(近代=国民)文学」を対立的なものとして論じる。『続・明暗』を書いた水村のことだから、夏目漱石を彼女のいう「国民文学」の象徴とみなしていいだろう。だが、夏目漱石が「国民作家」となりえたのは、当時における最大のマスメディアだった東京朝日新聞に「新聞小説」を連載したからであり、あるいは円本や岩波文庫をはじめとするブロックバスター的な出版商品のおかげである。いまでも「新潮文庫」が「近代文学」の牙城であるように、大衆消費社会=初期情報社会の誕生は、「日本近代文学」が広く読まれるためには必要不可欠の条件だった。*3

彼女の主張はあちこちで自己撞着しているだけでなく、「ロングテール」や「グーグル・ブック・サーチ・ライブラリー・プロジェクト」についての記述に見られる、にわか仕込みの情報技術知識による誇大妄想によって、トンデモ本的な様相さえ呈している。*4

私はwikipediaを見て、水村美苗が経済学者・岩井克人の夫人であることを知り、なんだ、そうだったのかとガックリきた。ようするにこの本は柄谷=岩井的な言語=貨幣観と『批評空間』的な文学史観にもとづいた、柄谷行人『近代文学の終り』asin:4900997129のたんなる文学少女バージョンなのである。漱石の『三四郎』についての本書の記述は微笑ましいが、ようするに柄谷行人が「広田先生」、岩井克人が「野々宮君」、そして水村氏が「美禰子」といった役どころの茶番劇を見せられている気がする。この本が次の「小林秀雄賞」を取る可能性はかなり高いと思うが、そうなったら私はまた、この賞の恣意性を嗤ってやるつもりである。*5

というわけで、水村美苗の本は、梅田望夫氏が考えているのとはまったく違った意味でも、多くの人に読まれるべきである。そして議論が起こされるべきである。そして願わくば、このようなナショナリズムと悲観と無知と傲慢さ*6によって彩られた本は否定され、「近代文学」の達成をふまえつつ、現在の日本語で優れた小説を書いている作家たちの「孤独」こそが、広く知られるべきなのだ。

*1:2003年のこと。このときの参加作家一覧がここにある。http://iwp.uiowa.edu/writers/archive/2003bios.html

*2:この本についてはhttp://d.hatena.ne.jp/solar/20070523も参照。

*3:水村は、「明治、大正、昭和初期に書かれた近代日本文学の文章」は「なるべく多くの読者に読んでもらえるよう、規範性をもった市場で流通するに至った〈書き言葉〉である。「出版語」が規範性をもって流通し続けることによってのみ、古典の専門家でもない人が、〈読まれるべき言葉〉を読みつぐことを可能にする」と書いている。〈読まれるべき言葉〉を決定するのは学校教育だろうが、その決定を受けて「専門家でもない人」に読書を強制する「規範性をもった市場」とはなにを指すのか。また「明治」と「大正」(とくに震災前と後)と「昭和初期」とでは、「出版語」としての日本語にも大いに変化があったはず。漱石が「国民作家」となれたのは、彼の用いる言葉が、ながい時間をかけて完成された「出版語」だったからではないか。だから漱石の小説、とくに新聞小説の文章はいまでも読みやすいし、だからこそ学校教育で「規範」として強制しなくとも、自由市場のもとで多くの読者を獲得しているのではないか。

*4:第七章「これから五十年後、百年後も『三四郎』は誰にもアクセスできるものではあり続けるだろう。だが日本文学の専門家しか『三四郎』を読まなくなったらどうするか。コンピュータ用語でいう「ロングテール現象」の一部に『三四郎』が入ってしまったらどうするか。それは、あたかも日本近代文学の奇跡がなかったのと同じことでしかない」。この一文を読んだだけで、水村美苗が「ロングテール」についてもウェブについても、ほとんど正確な知識をもっていないことがわかる。

*5【この注は文意を通すため下線部をリライトした】水村の主張で唯一、傾聴する意味があるのは、〈書き言葉〉は〈話し言葉〉を書き写したものではない、という「表音主義」批判の部分だ。これだけとってみれば私は水村の考えに賛成である(この件についてはhttp://d.hatena.ne.jp/solar/20081012#p1も参照)。でもこれも現代の「文学」にあてはめた話になるとおかしくなる。特に以下は、誤解に基づく誤爆だと思う。水村はこう書く。「口語の変化がそのまま反映された文章を「新しい」などと言って喜ぶのは、〈書き言葉〉のもつ規範性がいかに文化を可能にするかを理解していないからである。(それと同時に、会話体の文章こそまさに〈現地語〉の〈書き言葉〉を特徴づけるものであることを理解していないからでもある」。これはストレートに読むと、川上未映子のような作家が芥川賞を受賞したことへのあてこすりにとれる(まさか「ケータイ小説」の話をしているのではないだろう)。しかし川上にしても、町田康や舞城王太郎や古川日出男といった、いわゆる「饒舌」文体の現代作家にしても、その文章は、じつは細心の注意で構築された〈書き言葉〉なのであり、けっしてたんに〈話し言葉〉や〈現地語〉を書き写したものではない。また、〈現地語〉ではだめで、すべからく文学は〈普遍語〉としての「国語」で書かれるべきというなら、大阪移住後の谷崎潤一郎の作品はどうなるのか。たとえば現代作家でも、柴崎友香のように〈現地語〉としての大阪弁と〈普遍語〉としての現代日本語の二重言語構造を生かした傑作を書く人がいる。そのことをどう評価するのか。ちなみに小林秀雄賞の過去の受賞作の半分程度は(水村の夫君である岩井克人の『会社はこれからどうなるのか』asin:4582829775を含め)、講演や談話といった〈話し言葉〉を〈書き言葉〉に置き換えた著作である。水村の批判はむしろ、こちらに向けられるべきである。

*6:1995年に単行本として出た『私小説 from left to right』asin:4101338124をこの機会に読んだが、水村美苗の言語観、国家観はこの小説の段階でほぼ形成し終わっており、その後の15年間に生まれた日本の現代小説の豊饒さによっては、まったく修正を迫られなかったようだ。1980年代後半から、彼女がこの小説の連載を『批評空間』ではじめた1990年代初期までの、いわゆる「バブル経済」期の日本の純文学には、いま思えばろくな小説がなかったので、そのように彼女が思いこんでしまったのも無理はないのかもしれない。



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