2008/11/11(Tue)
筑紫哲也さんの死を悼む
緒形拳さん、筑紫哲也さんとここのところ一期一会、袖振り合わせた人の死に直面し、痛い。
筑紫さんとは80年代に『東京漂流』を出した前後に2回ほど対談している。元新聞記者らしく、よくバランスの取れた人だった。
そのバランス感覚と言えば『朝日ジャーナル』で彼がホストになってインタビューを受けた時のことが思い出される。
体制批判の急先鋒であった学生運動に参加していた糸井重里さんがのちにコピーライターとなり、見事に変節を遂げ、企業の片棒を担いでいることに違和感を覚えていたらしい筑紫さんが私の口から糸井批判を引き出そうと何度か水を向けてきたのである。
そこまで水を向けてくるならと冗談まぎれにずいぶん過激なことを言ったらあわてて修正の言葉を加えて私の勇み足をいさめた。それも朝日新聞に勤める編集者ならではのバランス感覚だろうと感心したものである。
そういう意味ではテレビメディアには合っていた人ではないのかと思う。
テレビでは過剰は許されない。
筑紫さんはその限界の中で相当果断な綱渡りをした人だと思うが、テレビ業界で10年20年生きのびることができたということは降板しなければならないような本当に危ないことは言ってはいないということでもある。これは横車を押すことが芸になっているビートたけしなどにも言えることだが、テレビにはそういうバランス感覚が必要ということだろう。そしてそういうバランス感覚を長年維持していると “良識”くささが匂うようになるものだが、彼はその良識にも陥ることがなかった。
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筑紫さんがやっていたころの『筑紫哲也NEWS23』といえば次のような思い出もある。オーム真理経問題が世間を騒がせていたころ、インタビューをさせてもらいたいので会えないかというスタッフからの電話があった。
六本木のとある喫茶店で二人のスタッフが待っていた。
ひとりは『紫哲也NEWS23』のデスクらしい。私はテレビにはあまりこの件で出る気持ちはかったがインタビューであるから自分の話すことがそのまま放映されるなら出てもよいかなという思いもあった。
デスクは現在TBSアメリカ総局長で時折テレビでアメリカ報告をしている金平茂紀さんという人だった。
私はそこで当時『週刊プレイボーイ』で連載をはじめていた「世紀末航海録」に書きつつあったオームの麻原と水俣病に関する私の推測を述べた。あくまでこれは私個人が突き当たった事実をもとにした推量であると断ってのことである。
この推論は拙著『黄泉の犬』の冒頭に書かれていることだが、ある意味で公にするには非常に危険な推論であり、日ごろタブーに挑戦しているかに見える『筑紫哲也NEWS23』であっても放映は無理だろうとの腹があった。
案の定、私がその推論の一部始終を話し終えると彼らはなぜかあいまいな態度で口を濁していた。私としては放映が無理なら無理、その推論が放映に値するものでないなら、ないとはっきり言ってほしかったのである。
彼らのそのあいまいな態度を見て多少ふがいなさを感じた私は「やはり民放の番組というのはニュースのあとに企業のコマーシャルなんかが絡んでいますからね」と暗にテレビメディアの限界に言及した。
その言葉を聞いた金原さんはとつぜん「それはマクルーハン理論でしょ」という予想だにしない言葉を吐いた。
つまり彼は「メディアはメッセージである」との標語のもとに「メディアの中ではあらゆる情報やイメージが等価に干渉しあう」というあの古臭いマクルーハン理論を私が持ち出しているかのように述べたのである。まさかここでマクルーハンが出て来るとはと、そのいささか頭でっかちな発言でこちらの方が驚いてしまった。
私はスポンサーというものが最大の権限を持つ民放では今私が話したような話は出来ないのではないかときわめて単純なことを述べたまでのことなのだ。
結局私たちは後味の悪い雰囲気のまま別れたのだが、その後インタビューのオファーが来なかったことは言うまでもない。
それは当然のこととして私にはひとつ気がかりなことがあった。私のあの時の話は筑紫さんの耳に入っていただろうか、入ってはいなかったのだろうかということである。
そしてもし入っていたら彼はその話をどのように処理しただろうかと思うのである。
今となってはその答えを知るよしもない。
そんなこもごもの思いとともに民放テレビという限界の中で果断に戦って尽きた筑紫さんに、心からご苦労様と申し上げたい。
2008/11/09(Sun)
写真集をめぐる絶望と希望
毎年木村伊兵衛賞の選考が近づくと写真集が送られて来るが、昨今どの写真集の奥付を見ても自費出版に近いものか、弱小出版社の発行となっている。
この傾向はここ10年、いや20年顕著なことで、昨今大手の出版社が写真集を手がけることはほとんどなくなったと言ってよい。かつて7、80年代さまざまな形の写真集が大手から出されていた時代を思うと、想像もできないほど写真集受難の時代がやってきているわけだ。
とは言っても7、80年代においても写真集というものはもともとタレントのヌードや今でも中堅の出版社からコンスタントに出ているグラビアアイドルの写真集は売れるが、それ以外の写真集は採算をあわせるのが精一杯で売れるものではなかった。ひとつには日本人は欧米人と異なってにもともとビジュアルなものを楽しみそれに金をはたくという精神的余裕がないということ。そして基本的には日本人は文字の好きな民族ということがある。
それからもう一点あげなければならないのは大判で多色刷りで高価な紙を使わなければならない写真集はどうしても価格が高くなってしまうというネックがある。そしてかりに価格が高くとも初版のすべてがはけたとしても再版が非常に困難だ。
印刷費や紙代の高い写真集は採算ベースにあわせるには重版時に最低でも3000部は刷らなければならない。文字の本であれば1000部の刷り増しでも十分採算が取れるのだ。初版が多くて5000部の世界の写真集の状況ではぞれが全部売れたとしても再版は不可能なのである。写真集が初版止まりが多いというのはそんな単純なところに理由がある。
そういう難しい写真集の出版環境がある上に昨今の出版不況が追い討ちをかけているということだろう。この状況は拙著『メメント・モリ』であっても例外ではない。
26年前『メメント・モリ』は写真集としては異例の50000部を刷ったわけだが、当時の情報センター出版局の局長はこの本をどうしても1000円以内におさめ、広く見読してもらいたいという強い気持ちがあった。初版の980円を維持するぎりぎりの線が50000部だったのだ。社も非常に勢いのある時代であり、そのようなきわどい勝負もすることが出来た。それでも彼は再版が怖いと漏らしていた。980円の定価では10000部を刷らなければ採算が取れないからである。
だがこの『メメント・モリ』は採算ラインに合うよう定価を徐々に上げつつ長年にわたって再版を維持してきたのだ。近年は年に2回、それぞれ3000部の刷り増しという数字が多いがそれが儲けも損もない採算ラインの数字だったのである。
そういったボランティアに近い地道な出版を重ね何とか『メメント・モリ』を維持してきた情報センター出版局には感謝している。
だがこういったぎりぎりの再版活動もここのところの資材の高騰で難しい局面に立たされつつあった。このまま行けば『メメント・モリ』はやがて廃刊に追い込まれるに違いないという私なりの読みがあった。
『メメント・モリ』のリニューアルの理由はメンタル面においては先のブログで書いているが、もうひとつの理由としては刷新によって新しく息を吹き返さなければならないところまで来ていたのである。
『メメント・モリ』が写真集かどうかというのは異論のあるところだろうが、ロングセラーであるこの本にしてそのようなひっ迫した台所事情があるわけだ。
このような時代にあって写真集を大手が敬遠し、自費出版かそれに近いものしか形にならないということはある意味で残念ながらいたし方のないところだろう。
そのような写真集をめぐる状況の中で『メメント・モリ』を維持することは若い写真家にも希望を与えることにもなるわけであり、悲観的な材料だけでなく、写真というものが今後どのような方法論によって新たな可能性を持ちえるのか、私としても探って行きたいと思っている。
2008/11/02(Sun)
魚の釣り方さえ知らないのだから教えようがないのかも知れない、釣り名人の化けの皮。
小泉、安部、福田と首相が変わるたびに辛口の言葉を吐かなければならない一国民として、いつか誉めるような首相や内閣が生まれてほしいというのが本音だ。
今回の麻生首相に関しても総裁選に参画したおりに先のブログでキャバクラの店長がお似合いだと多少ふざけた評価を下した。そんなおり一時期通っていた歯医者に麻生さんも通っていて、どうやら医者のkさんはそのことを笑い話として麻生さんに伝えた様子だった。
いやあれは評価の言葉なんですよと伝えてほしいと弁明したわけだが、まんざらそれはウソでもなかった。
プレスリー狂いでアメリカの言いなりになった小泉やひ弱なお坊ちゃまクンの安部、一企業の経理担当くらいがお似合いの福田より土建屋のオヤジが似合う田中元首相のような泥臭さがよいと思っている者としてはキャバクラの店長がお似合いというのはある意味でひとつの評価なのである。
それから麻生さんは私と同じ県の出身ということもあり、件のように同じ歯医者に通っていたこともあり、この4代続く二世首相の鬱陶しさを帳消しにしてもがんばってもらいたい、どこか評価したい、との思いがあったわけだ。ところが今回の景気浮揚のための緊急対策を見てみると、ひょっとしたらこの人、歴代の首相の中でも稀代の無能首相なのではないかとの思いをぬぐえない。
100年に一度の経済危機という言葉を吐きながら、採った政策が国民一人当たりに一律1万2千円の給付金を配る。日曜祭日はどこまで行っても高速道路1000円。
わが耳を疑った。ナニそれ?
まるで小学生が考えるような場当たり的政策、いや政策というより”思いつき”。
政局より政策と口癖のように言いながら政策を政局にすりかえるという姑息さはあのねじれ飴のような人相にぴったり。これは公の元で大っぴらにできる税金を使った全国規模の選挙対策の贈収賄以外のなにものでもない。百歩ゆずって政策であったとしても貧困、無能、さらに言えば財務金融担当大臣の中川を含め2バカ閣僚のご乱心であり、アホなトップをいただく国民の不幸はまだ続くのかと思うとうんざりだ。同じく無能であった小渕内閣の時のばらまき政策時のように金を与えても使うとは限らないとわかっているわけだから2ヶ月間有効の「時限金券」のようなものを発行するくらいの芸はやってほしいのだが、そういう学習能力もないらしい。
中国の故事に優れた政治家を言う次のような逸話がある。
釣り初心者の子供が川辺で釣りをしている。
そこを通りかかったすでにビクいっぱいに魚を釣っている釣りの名人が、一向に釣れないその子供の様子を見ていた。
そして彼は子供に自分が釣っている魚を与えるのではなく、そこで釣りのやり方を教えるのである。釣りのやり方を習った子供は生涯に渡って食料を確保できる。
それが政治であり、優れた政治家のやることだと故事は伝えている。
今回の2バカ閣僚のとった行動は一時しのぎにその子供に魚を与えただけのことで、それは食ってしまえば一夕にして消えてしまうあぶくのようなものだ。しかもその魚代は我々国民のポケット(税金)から抜いてこれ見よがしにくれるわけだから一風変わった種類のスリのようなものである。
この100年に一度(麻生の言)の経済危機のなさか、どうやら100年に一度の無能内閣が誕生したようである。
2008/10/30(Thu)
君、生き急ぐことなかれ、死にたもうことなかれ
本の寿命が短い。
むかしは情報の移り変わりがゆるやかで書店に数ヶ月間くらい単行本が置かれるのは普通のことだった。その寿命が年々短くなり、昨今はまるで雑誌扱いのように一週間あるいは数日で本が撤去されることすら珍しくない。ときには本屋に送られて梱包も解かずそのまま送り返されることさえある。
誰もが本を書くようになって書籍の出版点数が増えたことと、人々の情報の消費が加速していることの現れだと思うが、時には数年もかけて書いた本が一週間で人々の目の前から消え去るわけだ。
そんな書籍短命化の時代にあって拙著「メメント・モリ(死を想え)」が二十六年もの長きに渡って読み継がれていることは稀有としか言いようがないし、ありがたいことだ。
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「メメント・モリ」は私が長年アジアから日本にかけて旅した折に撮った写真に人間の生死に関する詩を添えたものだが, この本が出来る過程の隠された経緯を話すならきっと読者は驚くはずだ。公にするのはこれがはじめてだが、この本に収められた七十二編の詩は、実は一日で書かれたのである。
製作の過程は次のようなものだ。
まずそれまで長年の間に撮った写真を私なりの基準でセレクトする。200点はあったと思う。その写真を1メートル四方の大きなビュアーに並べる。そして心を落ち着かせる。心身の集中度が高まった時点で写真に目を移す。数多くある写真の中のどの写真に目をとめるかという法則はない。目に飛び込んできた写真がその時点で選んだ写真ということになる。
私が写真を選ぶのではなく写真が私を選ぶのだ。目に飛び込んできた写真を見てそのときに脳裏にひらめいた言葉をさっと口唱する。かたわらに居る編集者がその言葉を即座に書きとめる。
作詞をあえて二十四時間内に行うということを自分にかせたのにはひとつの理由がある。長い文章は物理的にそれに応じた執筆の時間が必要だ。だがひらめきによって生まれる一行詩のようなものは長い時間をかけて考えるものではないと思っている。思考によって生まれるのではなく、言葉そのものが生き物のように身体からほとばしる。それが理想だと思っている。
そして詩が次々と生まれた。
夜明けから、次の日の夜明けまで、窓の外に朝の青い光が満ちはじめ、最後の詩「あの景色を見てから瞼を閉じる」が口から出たとき、それを書き取る編集者の目にうっすらと光るものを見た。ずっと詩の生まれる瞬間に立会い、そして詩を聞き続けたことによって彼の中に気持ちの高まりが生じたのかも知れないと思った。
詩は何篇作らなければならないという決まりはなく、時間のリミットが来たら終わりということだったから、最後の時計の秒針が二十四時間目の終わりを指したとき、緊張が一気に解けた。そして私は昏倒するかのように仰向けになり、そのまま深い眠りについた。
「メメント・モリ」の誕生である。
当然この「メメント・モリ」が二十六年もの間読まれ続ける本になることなど本の制作に関わった誰もが想像だにしていなかった。
今では写真に詩を付した作りの本がずいぶん出回っているが、当時写真にこのような詩をつけて書籍化するというような試みはなかったから読者は今までに見たこともないものを手に取ったということだろう。
以降、この本は多くの人々の生き方や人生に関わってきた。
そして二十六年目の今年、時代に応じた新しい息吹を吹き込むため「メメント・モリ」は改編されることになる。版元も「情報センター出版局」から「三五館」に変え、装丁も初版の装丁者である坪内祝義さんの手によって一新し、二十編あまりの新しい詩と写真を入れ替えた。文字はすべて贅沢なシルバーとなった。白抜きでは写真の邪魔になっていたからだ。シルバーというのは角度によって薄くなったりはっきり見えたりする。この効果が大変いい。
この本が長きに渡って生きながらえたのは「情報センター出版局」の地道な出版活動も無視できない。初版の刷りが案外多く、5万部のスタートだったから、1年にそれぞれ3千部で2回程度増し刷りをして合計おそらく20万部くらい(詳細は把握していない)出ているはずだが、大手の出版社であったとしたらそこまで地道な再版をしただろうかというとどうも怪しい。
その意味において版元には感謝している。版元を変えた理由は別にトラブルがあったわけではなく、これまで海外の人がこの本を手にしても言葉がわからず歯がゆい思いをしていたので、私としては採算は取れないにしてもぜひ英語版を作りたかった(十一月下旬に出版予定)ということと、当初この本の編集に当たった情報センター出版局の編集者が三五館を興した人ということがあった。情報センターで十分役割を果たしたので彼のもとに返したいという思いは前からあったのだ。というのは私はいかなる出版活動にあっても対出版社と仕事をしているという意識はなく、編集者個人と仕事をしていると常々考えて来ているからである。
その私の考えを情報センター出版局では快く受けてくれて、三五館へ移譲となったわけだ。そしてこれから将来に向けての情報センター出版局での本作りの話も進んでいる。いかなる遺恨も残すことなく、大人の解決ができてよかったと思っている。
さてその新「メメント・モリ」の帯文には次のようなコメントが記されている。
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さよなら「メメント・モリ」そして、こんにちは「メメント・モリ」
日替わりで情報が消えていくこの時代に二十五年の長きに渡って読み継がれている本書は稀有の書だと思う。その二十五年にいろいろなことが起こった。最愛の肉親の死を受け止められない人が本書を読み、気持ちの落ち着き所を見つけられたという例は多い。重荷を背負った自分から解放されたという人もたくさんおられた。悩みあればことあるごとに本書を開くという人。あるいは本書を片手に命を絶ったというメールがその女子高生の友人から来た時、私自身がなぜかと悩まざるを得なかった。またあるアーティストたちは本書にきっかけに歌や映画や演劇をつくった。
こうして長きに渡りさまざまな人々の人生に関わってきた「メメント・モリ」はすでに私の手から離れ、それのみで光を発している。そういった自立した書を改編するというのは不遜ではないかとの思いもあった。
だがこの二十五年さらに悪化の一途をたどっている世の中に生きるための座右の書として、より研ぎ澄ました強固なものにしたいという思いが私にはある。そして心を鬼にしてある写真や言葉を葬り、ある写真や言葉を産んだ。賛否はあるだろう。それは甘んじて受けたい。そして読者と切磋琢磨しながら、本書はこの地点にとどまることなく、さらに進化して行くはずである。
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帯にそのように書いているようにこの本はさまざまな人に影響を及ぼして来た。
表現の分野でもこの本にインスパイアされてさまざまな表現が生み落とされている。先般のブログでも記した緒方拳さんとの関わり。またミスターチルドレンの桜井和寿さんがこの本をもとに「花」を作曲したことはよく知られる。あるいは最近話題になっている映画「おくりびと」の主演の本木雅弘さんは二十代の後半で「メメント・モリ」を読みインドを旅したらしい。そしていつか死をテーマにした映画を作りたいとの思いを温めていて実現したのが「おくりびと」とのことである。
そのように書物が人の生き方や表現に影響を及ぼすというのは著者にとってこの上ない喜びだが、逆に言えばこんなに恐ろしいこともない。
その思いを身を持って知ったのが新「メメント・モリ」の帯にも触れている、ひとりの女子高生の死であった。
三年前のある秋、ある女子高生が私のホームページにメールを送って来た。その文面を読み、私の思考は一瞬止まった。彼女の友達が「メメント・モリ」を枕元にこの世を去ったと書いてあったからだ。私は少なからぬショックを受けた。この本は死を想い、よりよく生きようという思いで書かれた本でもあっただからだ。そんな思いで書かれた本が人の死を誘発したとするなら本末転倒である。
……一体なぜ彼女は死んだのだろう。考えつづけたがわかるわけはなかった。ちくしょう、と思った。あるいはひょっとしたらこの本はそのとき彼女の死に際しての枕経のような役割を果たし彼女の死を和らげたのかも知れないとも思った。
そんなさまざまな思いを抱きながら私は、メールをくれた女子高生にメールを打ち返した。彼女の死が何だったか知りたいと。だがついにメールに返事は来なかった。
今回の「メメント・モリ」の改編は先にも述べたように時代に即した新しい息吹を吹き込むためということもある。
だがここで本音を言えば、ひとりの女子高生の死が私の中にいつまでも解決不能のわだかまりをもたらしていたということが幾つかの改変の動機の中のひとつであることは間違いない。
「メメント・モリ」が彼女の死にどのように関与したかは不明だ。
だが亡くなったことは確かなことであり、その事実は重い。
……この本はまだ力不足じゃないのか。
そんなひそかな思いが私の中に生じていてずっと消えなかった。
ヒトさまを救うといううぬぼれたことを考えているわけではない。少なくともまだ人生がはじまったばかりの未熟な者にとりついた死神と渡り合うくらい、もうちょっとパワーアップしなけりゃな。そう思った。
この二十五年間、人々、とりわけ若者をとりまく時代環境は苛酷になっている。そんな時代の中で、もう一度自分の分身であるこの本を鍛え直したいと思ったのである。
掲載した新版の「メメント・モリ」にある次の新しい言葉は、一人の若者の死がきっかけとなっている。
2008/10/20(Mon)
改訂版「メメント・モリ」
改訂版「メメント・モリ」はいつ出るのかという問い合わせが多く、ホームページで先駆けてお知らせするのがスジだと思うので、つい先ほど出来上がって来た本をアップしておく。カバーは銀である。
2008/10/14(Tue)
雅子さんバッシング報道には妙な情報操作が隠れているような気がしてならない
ところで以前、雅子さんのことにこのブログで触れて少なからぬ反響があって以降、マスコミに見られる雅子イジメとも言うべき現象をひそかにフォローしていた。
週刊誌では定期便のように雅子さんバッシングの記事が現れるが、今週もまたバッシングをうかがわせる「週刊文春」の見出しがある。
「雅子さま運動会観戦に”とんでもないことだ”朝日名物記者がかみついた」
拾い読みしてみるとその”かみついた”人物というのは朝日の編集委員(すでに定年退職しているらしいが編集委員として残っているとのこと)宮内庁担当記者の岩井克己とある。
ああ、またこの人物かと少なからず合点した。
これまで時系列を追ってさまざまな雅子バッシングの記事に目を通して来たのだが、なぜか雅子バッシングの記事には必ずこの人物が急先鋒となって登場するのである。
以前この人はどういう人かと朝日の幹部の人に尋ねたことがあるが、皇太子と美智子さんのご成婚をスクープした記者ということらしい。
それにしても、なぜこの人物はことあるごとに雅子バッシングに精を出すのだろう。
不思議なことに雅子さんの病状に回復の兆しが現れはじめると、彼のバッシングが始まるのだ。
なんらかの意図があるのだろうか。
今後もフォローしてみたい。
2008/10/12(Sun)
アカプリで負のオーラを放っていた彼、そして世界に向かって「ノー!」と叫ぶあの帽子をかぶる男の孤独とは一体何。
ある意味で壮絶と言える人生であった。
ロスで自殺した三浦和義氏は一度赤坂プリンスホテルのロビーで見かけたことがある。階段わきのポールに寄りかかって携帯で話し込んでいた。
アカプリのロビーというのは相当の広さで多くの人が居たのだが、入り口からロビーに入った瞬間、遠くの人物に妙な存在感を感じたのだ。そこだけがブラックホールのように負の空気が漂っていたからだ。背の高いすらりとした男で色黒だった、
昨日、ロスに護送する飛行機の映像を見ながら妙なきな臭さを感じてもいた。
えらく派手なロゴの入った帽子のことが気になったのだ。
その全部の文字が見えたわけではないが、PEACEとPOT言う文字が読めたように思ったとき、おいおいずいぶん物騒な帽子をかぶっているなと思った。
PEACEとは幻覚剤、POTとは大麻のスラングだからだ。その横にMIの文字が見えたとき、それはMICRODOT(マイクロドット)であろうとの想像がつく。
MICRODOTはLSDのスラング。
この三つのドラッグに関するスラングは私がインドに居たころよく使われていて、ヒッピー連中の間ではその頭文字が別れのあいさつ用語にもなっていた。
敷衍してそのあいさつはあのなつかしき反体制スラングである。
それにしてもあんなアナクロな帽子どこで見つけてきたんだろう。
アメリカという国はかつてのようにドラッグに寛容ではない。というよりタバコすら排除しょうとするほどクリーンシンドロームの吹き荒れる国だ。その傾向は9・11以降さらに過剰になった。したがってサイパンにあのような物騒な帽子が売っているとも思えない。
ひょっとすると獄中にいる間、彼がデザインして注文したのだろうか。
三浦氏はいっさいのコメントを拒否し、体制、あるいは世界そのものに向かって「ノー!」と叫ぶがごときその帽子をかぶって、おそらく死地となるであろうロスに向かった。しかし誰もその物騒な帽子を取り上げなかった。それは誰もがそれに気づかなかったということだろうか。
あるいは9・11以降もまだこの国に辛うじて言論の自由が保障されていることの証だろうか。
いずれにしても彼には覚悟は出来ていたということだろう。
それにしても他者を信じず、自死するほどの底なしの彼の孤独とは一体何だったのだ。
合掌
ここのところ合掌続きだが、死すれば善も悪もみなほとけ様。
2008/10/08(Wed)
骨にはりついた空しい肉片でニヤリと微笑んで死ぬ演技を残して逝ったような気がする
俳優の緒形拳さんがお亡くなりになられた。
私は緒形さんとは面識があるわけではない。
4年くらい前、彼の方から連絡があった。
私の著書「メメント・モリ」の中に収めれれている詩のひとつを書にしたためたいのだが許諾してほしいということだった。緒形さんが書をたしなみ、優れた書をかくことは何かの雑誌で知っていた。そのように使われるのは私としてもうれしいことなので快く承諾した。
しばらくして彼の立派な装丁の墨跡集が送られて来た。ページをめくるとそこには紙に刻み込むような力のこもった書がしたためられていた。
彼が「メメント・モリ」の中で選んだのはこの詩だ。
「その景色を見て、わたしの髑髏(シャレコウベ)がほほえむのを感じました」
一昨日と昨日、京都の印刷所にいた。
新しい「メメント・モリ」の本刷り立会いのためである。
普通、写真家は校正刷りを見て意見を言い、本刷りに立ち会うことは少ないが、私は実際の刷りである本機構成にも必ず立会う。そしてすべての色出しに考え方を伝える。緒形さんが亡くなられたとの報に接したのは偶然にも彼が選んだページを含む版に目を通したあとだった。
その後の報で彼は5年前に肝臓ガンを患ったとある。
緒形さんが「メメント・モリ」を手にしたのはひょっとしたらその時かも知れないという思いが走る。少なくとも「その景色を見て、わたしの髑髏がほほえむのを感じました」という詩を選んだのはガンを宣告されたあとということになる。
彼らしいな、と思う。
この詩は「メメント・モリ」の中にある死に関する言葉の中でも挑戦的で諧謔(かいぎゃく)をはらんだ言葉だからだ。
人は皆それぞれの肉の内側に髑髏を擁している。
人がほほえむ時、髑髏、つまり骨がほほえむのではなく、その骨の表面に張りついた皮や肉がほほえむに過ぎない。そのように人間の喜怒哀楽とは肉の動きにゆだねられる儚(はかな)く消えやすい現世における時限的現象だ。
私の脳の映像の中では「その景色を見て髑髏がほほえんでいる」とき、その骨に纏(まと)いつく皮や肉は死んだように微動だにしていない。だが内部の骨はほほえんでいる。現世とは真逆なのだ。現世に生きながら意識は死の世界の普遍を見つめ、その世界で遊んでいる。
「骨格」という言葉がある。
人はみなその死の世界に等しい骨格を所有している。その骨格を見失い、それを被う肉のみがぶくぶくに肥大化し、肉に発生するたくさんの煩悩によって人は右往左往する。自らの身体を形作る骨格という普遍を見つめ、意識することで肉の氾濫は制御できるはずである。
だが「メメント・モリ」には「人間は肉でしょ。気持ちいっぱいあるでしょ」というそれとは矛盾し、相反する詩もある。
緒形さんは肉の詩ではなく、髑髏の詩をお選びになった。
ひょっとしたら彼はそのとき、覚悟しょうとした、あるいは出来ていたのかも知れない。
ふと、そのように思う。
ご臨終のとき、緒形さんの髑髏にまとわりついていた肉はどのように動いただろう。
……あるいは髑髏は微笑んだか。
それは知るよしもない。
合掌
2008/10/04(Sat)
蟹工船、燃ゆ。
大阪のビデオルーム火災で一人の介護ヘルパーの男性が死んだ。
ニュースの中で足早やに通りすぎるように流れたコメントだったが、この現実の痛さに一瞬時間が凍てついた。
彼は1泊1500円のビデオルームから老人介護の仕事に通っていたということなのだろうか。介護ヘルパーの労働賃金が安く、食っていけないということは巷間ささやかれるところのものだが、大都会の場末の業火によって図らずも「日本の現実」というものが炙り絵のように浮かび上がった恰好だ。
合掌
2008/09/26(Fri)
年賀状に自分の子供の写真を送りつける自己溺愛と変わらぬ政治家の妄言など
昨今、淡白にプッツンする政治家が多く実になさけない。
安部元首相の投げ出し。元農水相の自殺。福田元首相の投げ出し。そして今回の小泉の政界引退と、もともと二世というのは胆力が弱いと昔から言われているが、はからずも逐一それを証明する格好となっている。
胆力が脆弱で困難な状況に直面すると持ちこたえられないというのは個人の資質であってこちらがどうのこうの言う筋合いのものではないが、こと国政をあずかる政治家であれば話は別だ。彼らは国をあずかり国民をあずかっているのである。そんなに仕事を簡単に投げ出してもらっては困るのだ。
小泉政治というものが何であったかというのは今回の自民党総裁選挙において小泉が押した小池総裁候補の地方票が0表という前代未聞の結果となったことがよく表している。
自民党議員票というのは猿山の権力抗争の結果に過ぎず、それが即政治家としての評価につながるものではないが、かりにそれが自民党員であったとしても日本に暮らす生活者が小泉におしなべてノーを突きつけたことは重い。彼はそのゼロ評価に少なからずショックを受けたのではないか。
その彼は老人医療制度、製造業への派遣社員制度の解禁、身体不自由者の労働環境への圧迫とさまざなな分野において弱者切捨て政治を行ってきたわけだが、そういった政治の中で地方が疲弊に追いやられていることはここ2年「日本浄土」の旅で地方めぐりをしたおりにいやというほど見せつけられている。
公共事業がいかに自然を破壊してきたかは私たちは自分の身の回りを見渡せばいくらでも例を挙げることが出来る。だが悪弊であったその公共事業でさえ、死んだように静まり返った村のなどでユンボなどが稼動しているのを見ると、それもひとつの”槌音”としてそこだけが元気に見えるという妙な印象を受けたものだ。
それくらい地方は死に絶えているのである。
そして地方の死という置きみあげを残して小泉はスタコラさっさと去る。
おそらくイタリアあたりにオペラでも見に行くのだろう。
そしてそのあとに来るのはまたもや世襲の悪夢。
規制の政治構造を叩き壊すと威勢のいい打ち上げ花火をあげ、国民に喝采を浴びた為政者の帰る場所が、ふたたび暗い因習の政治世界であったことは小泉の馬脚が見えたということだろう。人というのは立ち去り際にその人の素顔が覗くものだ。
彼は北朝鮮拉致問題で訪朝したことが下降する人気の挽回策であったことが示すように、思うに自己保存本能に長けた人であり”政治”というゲームに夢中になった人ではあるが、他者とか国家というものは考えなかったのではないか。小池女史はとつぜん梯子を外された格好だが、田中真紀子の場合も同様そんな”女の捨て方”にも彼の資質が見える。
ひるがえって昔の政治家の佇まいのことを思う。
つまり吉田茂から田中角栄にいたる歴代の首相を振り返るに、さまざまな問題は噴出したが、彼らの多くは少なくとも国家国民というものを考えていたように思う。たとえば個人的には好みと言うわけではないが、老年になるまで議員を続けおられた中曽根康弘も少なくとも無私の気概を持ち、国家を憂え国家を考えている。
そういう政治家が居なくなり、自己愛の強い小粒な政治家がふるいにかけられた砂粒のように山盛りになっているのが現状だ。
そして政治家が時代とともにどんどん小粒になるその”ふるい”のひとつが世襲という因習である。
小泉もその因習の産物であるなら新首相の麻生も因習の産物。因習だらけなのである。能力と自助努力によって国会議員になるのではなく世襲という”ひきつぎ”なわけだから政治家がどんどん小粒になるのは自明の理。そのことは小渕少子化相の議員相手の就任時の挨拶がよく表していた。
「実は今日は私の長男の1歳の誕生日なんです」
世間では取りざたされなかったが、その耳を覆いたくなるような公私混同の妄言に私は耳を疑った。
おそらく小渕家ではあたかも皇室のお世継ぎのように小渕三世誕生を祝ったことだろう。
現状にかんがみるに、やがて何十年か後にはその1歳の長男が国会議員になるはずである。そして議員相手の就任挨拶に長男のことを持ち出すというのは、その言葉を国民が聞いたときの無意味さとはうらはらに、二世議員のひしめく自民党議員の集まるその場の空気に一定のリアリティを醸しているということだろう。
そんな議員と国民の吸っている空気の乖離している国に私たちは住んでいるということだ。
2008/09/19(Fri)
「メメント・モリ」から「おくりびと」へのメッセージ
現在上映中で好評を博している映画「おくりびと」を数日前に見に行った。
主演の本木雅弘が新聞各所のインタビューで、私の著作「メメント・モリ」がこの映画を作るきっかけとなったと語っていたからだ。彼は20代の後半に拙書を読み、インドを旅したとのこと。そしていつか死をテーマとした映画を作りたいと考え、実現したのが「おくりびと」であるらしい。俳優の発想が監督を動かし、映画が出来上がるというプロセスもユニークだが、こういった長年の間に発酵熟成したイメージが実を結ぶという時間軸をたどる表現は昨今の何事もインスタントに出来上がる時代においては貴重だ。
だが、過去に「メメント・モリ」影響を受けたものが表現として昇華したというふれこみの表現はいくつか出会っており、正直なところ作品を見聞きしてみると一体どこに接点があるのだろうと首をひねることも多々あった。だから今回も多少の疑心暗鬼を抱きながらの鑑賞だったが、見終えた感想は秀逸のひとことである。本木君をはじめとする他の俳優、奥さん役の広末涼子、納棺師の親方山崎努、その他、余貴美子、吉行和子らのこの世あの世、あるいは死に対する解釈には隙がないと感じた。映画のストーリー立てもきわめて過不足のないものに仕上がっており、久しぶりに”映画”を見たという思いがある。
映画の内容や評論はこれから映画を見る人のためには邪魔になるので胸の内にとどめるが、ひとつ言えることはこの映画には昨今の映画のみならず絵画、写真、アニメ、マンガ、文芸、ポップス、テレビ演芸など表現一般に氾濫している”おおげさな身振り”や”外連”や”こけおどかし”のようなものがない、淡々とした、時には静謐さえ感じさせるということだ。
私たちの感覚体はマスメディアの過当競争、過剰表現によって昨今非常に鈍感になっており、大きな声、おおげさな身振りにしか反応しなくなっている傾向がある。そのことは私の仕事に対する読者の反応にも現れていて、畳に針を落とすような微細な音を聞き分ける地味な文章や写真を読む力が確実に衰えている。
私の作品を例に取るなら「東京漂流」的な反いつ的で大ぶりな表現には反応出来ても「日本浄土」のような普通で地味なものには反応出来ないという読者がいるわけだ。
「日本浄土」でも取り上げた松田正平という今は亡き味わい深い画家がいる。
彼の言葉に「犬馬は難し、鬼は易し」という言がある。
つまり犬や馬のような普通でありきたりなものを描くのは非常に難しいが、鬼のような大げさな身振りのものを描くのは易しいという意味である。その鬼が今は氾濫している時代だ。
思えばかつての小津安二郎の「東京物語」のようなとりたてて何が起こるわけでもないのに除々に自分の内部の感情が高まって行き、最期にはある種のカタルシスを覚えるというような地味な映画が興行として成立していた時代というのは、今よりずっと民度が高かった時代なのかも知れない。
そういう意味でこの犬馬の映画「おくりびと」が世間に広がりを見せていることは非常に良い兆候である。そしてこの優れた映画の起点に拙書が関与しているということは嬉しい限りだ。
さて、ところでその「メメント・モリ」のことだが先ほどちょうど、装幀家との数時間のやりとりを終え帰ってきたところだ。
短いものでは2週間で新刊本が本屋から姿を消す恐るべき時代にあって、古典文芸以外で四半世紀もの長きに渡って読み継がれるというのは非常に珍しい本だ。しかし当初から25年目に内容を刷新したいと考えていた。
装幀もそうだが、版元も小さいところだが三五館というところに変え、写真、詩歌ともその4分の1を改ざんしている。そして同時に英語版も作るつもりだ。版元を変えたひとつの理由はあまり商売にもならない英語版を三五館が引き受けたということもある。
とは言うものの、すでにこの本は私の手を離れ、一人歩きをしていることを思えば、手を入れるというもの不遜な気がしないでもない。だが、私自身も清水の舞台から飛び降りる覚悟でやったつもりだ。
そしてこの本の再生とともに私自身もゆるやかな再生へと向かいたいと思う。
2008/09/06(Sat)
残暑
2008/08/02(Sat)
新刊・日本浄土

少々時間のかかった新刊「日本浄土」(東京書籍)が出た。
ここ2年ほど思うままに日本各地を旅した記録だ。
とりたてて名所旧跡などを訪れるわけでもなく、ごく普通の土地とのふれあいが描かれているが、この本の序章の「口紅」には私が幼少のころに触れた女の唇のことが描かれている。その記憶をもとに長崎県の島原を旅するという物語であり、早熟と言えばそれまでだが、おそらくそれが初恋と言ってもよいのかも知れない。
雑誌で部分的に発表したおり、瀬戸内寂聴さんが藤原さんには今後このような艶物語を書いてほしいと切に願われた経緯がある。
確かに私はこれまで女を正面から書いたことはないが、とうぜん一応男でもあるからこれまで様々な女性に袖振り合っている。ひょっとしたら並の男性より豊富な男女の関係を切り結んでいるかも知れない。だが交わった異性を書く、あるいは撮るということは私の流儀にはない。どうもちかしい異性を世間に売り渡すような後ろめたさを感じてしまうのだ。そんなことはひとり胸の内にしまっておけばいい。そういう思いがある。だが作家としてはそのように美味しい素材を永遠に葬り去るというのも多大の損失である。
こと異性に関しては様々な点において悩ましいものだ。
ただこの「口紅」が比較的すんなり書けたのは私以外の登場人物がすでにこの世にいないからということもある。そこには口紅の残り香の記憶だけが漂っているのだ。その残り香だけをたよりに旅をし、女の故郷を訪ねる。そこでどういう思いが去来したか。そういうことを書いているのである。
この本のある章には「大海に針をひろう」という言葉が出てくる。
本来は天台宗の「菩薩処胎経」というお経に書かれている言葉で、中国にも「大海労針」と似た言葉があるが、もともとこの世に人間として生まれてくることの得難さを顕している。転じて不可能なほど困難なことを表す熟語にも使われる。
私がこの本の中でこの言葉を使ったのは現在の日本において旅することの難しさをその言葉に託したのだ。私は四半世紀のスパンでこれまで断続的におりおりの日本を旅している。
豊かになるに反比例して年々風景や風土、人間の生活は痩せ細っており、とくにこの数年間の旅ではそのことが一層深まった感がある。それはまた小泉政権下の数年とも言えるわけだが、格差社会はこの中央対地方というものの中にも如実に現れていて、一度豊かになったものが今度は潮の引くような貧困をかかえつつある。
それは人間の活気が失われているという光景に現れるわけだが、過剰な情報の流入は風景のみならず人間の心をも画一化し、いずこにおいてもツルリとした無感動な風景が目の前に立ちはだかる。
こういった日本のスタンダードな風景の中を旅するということは表現者としてはまことに辛いことになる。こと写真に関して言えば、一日中歩き回って1カットも押せないということが起きる。その日はあきらかに失業者なのだ。
だが大海に針をひろうがごとく、粘り強く歩き続けねばならない。
生きているか、生きているか、とコツコツと風景の、そして人の胸元の扉をノックして歩く。
たいてい返事はない。
だがその痩せ細った風景や人の扉があるときほんの少し開くことがある。
おっとまだヤツは生きてるぜ、って旅が生き返る瞬間だ。
日本浄土とは大げさな風景ではなく、そのほんのちょっと開いた扉から垣間見える希望とでも言おうか。大海労針とは今の疲弊しきった日本という国で希望を持つことの難しさでもあり、旅においても同様なことが展開される。だが、それでもなお小さく扉は開くのだ。
根気よく歩き続ければの話だか。
2008/07/22(Tue)
夕刻の神秘の海から子どもたちを締め出す奇妙な管理
浅野素女さんはジャーナリストとして長年フランスに暮らし、結婚して二児をもうけているが、毎年の夏には私の房総の家に遊びに来られる。
今日もはじめてご主人を伴って遊びに来たのだが、その前の日は外房の白浜で一泊したとのこと。
その白浜での話が笑えない。
親子4人でその日の午後は浜に出て泳いだらしいのだが、監視員が小うるさすぎてゆっくり泳いでいられないらしいのである。
浜の人々を過剰に監視し、波に気をつけろだの、岩はすべるので用心しろだの、ちょっと変わった行動をするといちいちスピーカーで注意し、しまいには「あ、今西の方に怪しい雲があります」などと空の実況中継まではじめる始末。
日本のおせっかいな母性管理社会というのは外国人にとって七不思議のひとつであり、駅のホームでの駅員の事細かなアナウンスなど、引き合いによく出されるのだが、昨今はとうとう自然との戯れの中までこのおせっかいが浸透しているらしい。
「それはね、浜に出ている人のことの安全を願ってのおせっかいじゃなく、何か事故があると浜の管理者に責任が及ぶことを恐れての自己保身というやつ。つまり自分の保身のために人のおせっかいを焼いているというわけ。今の日本はそういう国なんだ」
自分自身でしゃべっていても興ざめするような解説を加えていると、浅野さんはさらに驚くべきことを言った。
「4時半になるととつぜんマイクで監視員が言うんです。本日の浜開放はこれで終了しました。浜にいるかたは速やかに退去してくださいって」
「なにそれ?」
かなり日本のことに詳しいと思っている私にしても海水浴場が4時半で閉鎖なんて、はじめて聞く話である。
「監視員が巡回してきてまだ浜に残っている人に注意を促すんです。それで浜にはイギリス人と私たちだけが残ってしまった。不思議なのは日本人ってこういう過剰管理に従順で浜にすっかり日本人がいなくなってしまった。過剰なおせっかい焼きも変だけど、一人残らずそれに従う日本人も不思議な感じがして」
夏場の4時半と言えば太陽が西30度くらいのところにあってまだ煌々と明るいし、直射日光もきつい状況である。というより海水浴の楽しさというものは真昼の苛烈な太陽の下での遊泳もいいが、夕凪の中での海はまた格別風情があるものだ。
残念ながら外房は夕日を拝むことは出来ないが、それでも夕日が落ちたあとの淡い夕焼けの下の浜辺には真昼にはない風情がある。
私が子どもだったころには当然”浜の門限”のような馬鹿なことを考える大人はいなかったから、子どもたちは月夜の浜にさえ出て、波打ち際で遊泳し、海蛍のざわめく神秘にも接したものだ。
外房の白浜だけの現象なのかどうなのかわからないが、これでまた外国人が出会う日本の七不思議のひとつが増えたことは間違いない。私はこの二年日本の地方を巡っている。よく人は自然が失われたという。確かに昔にくらべ無意味な公共事業のおかげで多くの自然が破壊されたことは疑う余地がない。
だが一方でそんなに悲観するほど自然が失われているというわけではなく、まだまだ残っているのである。
その残っている自然との交わりが白浜のような保身のための過剰管理によって閉ざされている現状は笑えない深刻な話である。
昨今は子どもより大人の方が狂ってきているとしか思えない。
2008/06/18(Wed)
加藤智大や酒鬼薔薇聖斗にならずひっそりと死んでいった無数の青年
今回のアキハバラ事件の加藤智大は私が八十年代に描いた「乳の海」の主人公である透君にそっくりだという説がある。確かに加藤智大と母親の関係をつぶさに検証すると、あれから20年の歳月を経て、乳の海の主人公が完璧とも言える姿で我々の前に現れたとの感が否めない。
その後の加藤智大の書き込みによれば、彼の母親は智大が着る服まで管理していたという。
乳の海には透青年が母親同伴でブティックに行ってコートを買う際に、スクランブルジャンパーを選ぼうとして母親から止められ、むりやりにベージュ色のお行儀の良いコートを選ばされ、ついにキレた透青年は、そのコートを地面に叩きつけるシーンがある。
母親から脱出した透青年はその後社会に出るのだが、ここでも現代社会という母性管理的な環境の中で徐々に骨抜きにされて行き、最後は透明な僕になって行く。
ご承知のように透明な僕とは神戸の酒鬼薔薇聖斗の吐いた言葉だが、その事件の起こる十年前に乳の海ですでに透明な僕は登場しているわけだ。
透青年そっくりの加藤智大が酒鬼薔薇聖斗と同じ歳とすればここに見事なトライアングルが完成するわけだ。だが透青年は透明な僕になって消えるが、加藤智大と酒鬼薔薇聖斗は爆発する。この消えることと爆発することは紙一重であり、この社会の抑圧構造の中で透青年のように消えた青年は加藤智大の何百倍いや何千倍も存在すると見るべきだろう。
その消えるとは自殺のことである。
いわゆるネットの仮にそれを「出会い系自殺」と呼ぶなら、ネットつながりの練炭による他人同士の心中や薬物による心中である。孤独と社会的抑圧の中で加藤のように爆発せずひっそりと死んで行った青年は無数におり、そのことを思うと暗澹たるものがある。
ところで私のところにきた投稿メールの告発で知ったのだが、読売新聞の編集委員が書いたと思われる6月10日付けの「編集手帳」のこの事件に関する記事の中に「世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを」という見過ごすことの出来ない論調があった。
この論理は他者の存在というものが念頭にないネットに氾濫する「てめえ一人で死ね!」というゴロツキ論調とまったく同じ論理であり、そのような論調が日本で最大部数を誇る新聞の編集委員によって書かれているということに驚きを禁じえない。
それが単独であればもう記事にもならぬほど読売の筆者がのぞむ「ひっそりと死ねばいい」青年たちは加藤智大のように暴発することなく、日常茶飯事に私たちのかたわらで人知れず死んでいるのである。
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