全ての鍵は「コミュニケーション」にある。
異なものを理解しようとせず、否定し、拒否するメンタリティは、醜悪でしかない。
微笑むことができない社会関係は、オレにはいらない。
世界の姿は、自分の写像である。
自分の目が見るものは、自分が見ることができるもの、見たいものでしかない。
何が見えるにせよ、世界の姿は変わらない。
最近、変なやつが多いね。結局、関わらなければいいわけなんだけどね。
縁が無くなるということは、それだけのことさ。
出会うべき人は、もっとたくさんいる。
脳が飽きているのを感じる。多分、学びが足りなくなっているようだ。
講義でもゼミでも、知的刺激がどんどん薄れている。その分、学生たちが食いついてくるのはわかるんだが、明らかに以前の学生より、彼等から得るものが希薄になっている。
君らは何に詳しいの?って聞いたときになーんにも答えられない二十歳なんて。
大学生になったら、子供に逃げるな。「だからこれから勉強したいんです」なんて、一休さんレベルのレトリックにしか過ぎねぇ。
いろんなことをしたい、知りたい、そりゃわかるけど、お前、一度それを総括しろ。
学んだこと、知ったことに対して、お前等は、驚くほど無頓着だな。
単なる思い出作りで大学にいるのなら、オレはお前には付き合えない。
人間を20年もやってりゃ、人間のプロになってなきゃおかしかろ?
http:// www.rcwob.doshisha.ac.jp/review/2_2/2_2_063.pdf
コミュニケーションとは, 「〔広義の意味における言語の交換によって〕 『共通の,common.』ものを生み出す働きである。
つまり,コミュニケーションとは,言うならば,自分が頭の中に抱いている(抽象的)な広義の思考内容のコピーを相手の頭の中にも創り出す行為であると言える」という定義もある。
文化人類学の観点からは、
コミュニケーションが文化を生み出すものと考える。 その前提で考えれば、我々の価値観、世論、そしてパラダイムを生み出すものが、コミュニケーションということになる。
一つの仮説。
商業原理により動くメディアは、情報そのものに価値を与え伝達をする。であるとするならば、「パラダイム」はマスなメディアには乗らない。レアであるということは、報道価値があると言ってよい。「犬が人を噛めば云々」だけではなく、流行をメディアが取り上げるのではなく、メディアが取り上げるから流行になる、という現象はそれを証明する。
レアであること、すなわちアノマリーである。アノマリーがパラダイムとして昇華するには、本来長い時間を必要としたが、そこにマスなメディアの力が働けば、勢いその速度は加速する。
思考仮説:パラダイムチェンジを加速するのは、メディアである。
あ、だからコミュニケーションできないやつは、つまらんやつなのか。異なものを受け入れないというメンタリティは、老醜の臭いがする。
「洗脳ゲーム―サブリミナル・マーケティング」横井真路(リブロポート、1995)
アメリカの文化人類学者エドワード・ホールは「文化とはコミュニケーションである」と定義した。
つまり文化とは、個人が様々な体験を、同じグループに属する人々と同じ観点から観察することであり、潜在的に一定のルールを守りながら、価値観をはぐくむと言うことだ。単に言葉や歴史、テクノロジーを分かち合うだけでなく、ステータスや教育、政治、モラル、マナー、服装から清涼飲料水の銘柄まで、我々は「一定の解釈」を元に、世界観を作り上げ、これを相対的な文化と称している。
もう一つ、文化とは、既に確立している「一定の解釈」に深く影響されると言うことである。こうした目に見えない社会通念は、人々の潜在意識に深く根付き、各国や人種に特有の文化を生み出していく。要するに文化とは「学習」しなければならない「解釈」であると言っても良いだろう。
記号学者ロラン・バルトは、我々が信頼している文化とは、結局は人々の潜在意識に根付いた「仮説」であるとし、これを「神話」と呼んでいる。ここで言う「神話」とは、決して虚構を意味するのではなく、人々の社会通念が、広く深く信じられているがために、「真実」に対する疑問が全く問われないと言うことを意味しているのである。ある神話を元に構築された文化においては、一つの記号や価値観、そして意味は、くもの巣のように入り組み、連動している。
一つの文化が形成されるには、子供は一定の解釈を学習しなければならない。テレビによる洗脳能力は、一般に考えられているほど、小さなものではないのだ。
http:// www.rcwob.doshisha.ac.jp/review/2_2/2_2_063.pdf
「文化とはコミュニケーションである」,とは「沈黙の言語」 (TheSilentLanguage)で名高い文化人類学者エドワードIT・ホールの言葉であるが, 「文化とははじめからしまいまで,常にコミュニケイション〔ママ〕の-システムである。
文化の捉え方にはさまざまあるが,根本的には情報を送りだし,伝達し,保存し,処理するシステムが文化といえる」と彼は述べている。
ビジネスとコミュニケーションとの関係では,ホートンが
「ビジネスとはコミュニケーションの「部分集合」である 。人は,誰も,コミュニケーションを行わず取引を行わないままでいることも出来得よう。しかし,何人たりともコミュニケーションを行わずして経済取引を成立させることは出来ない」と言っているが、説得力のある説明である。ホールとホ-トンの2人によるこれらの言葉は,国際ビジネスを特徴づける上記の2点,すなわち異文化である点と多くは外国語で行われるコミュニケーションであるという点をうまく言い表している。
企業が海外進出をはかれば,そこでは否応無しに異文化-の対応とそれを実践するコミュニケーションの問題にぶつかることになる。日本の企業が海外-進出していく場合にとる行動は,すべて異文化環境におけるビジネスコミュニケーションの実行である。なぜならば,ヒトとヒトの間での意思の交換なしには取引も行われ得ず,取引のないところに経営が成り立つわけがないからである。その意思の交換は言語があって始めて可能になり,その言語による意思の交換をコミュニケーションと呼ぶ。
乱暴だが、現代における影響力を持つコミュニケーションは、
@テレビを代表とする商業メディア
A教育システム
B家庭、地域、職場におけるコミュニケーション
の、主に3つの領域により成立する。
ありきたりな論者ならそこにInternet(正確にはWebだべが)を持ってくるだろうけど、影響力のあるWebって、所詮マスメディア連動だし、市井の一庶民のブログなんて、ゴミでしか過ぎない。
シャノン以降、誰も情報の意味内容そのものを扱うことは出来なかった。だから
どの情報も等しく流通し、情報効果を生み出すといった幻想 がある。
「洗脳ゲーム」
1936年にイギリスで、アメリカでは1941年に始まったテレビ放送は、わずか半世紀の間にすさまじい勢いで世界を制覇し、いまや新聞や雑誌を越える巨大メディアとして君臨する。アメリカにおけるテレビ保有率は97.8%、各世帯辺り2台である(1990年)。
70年代後半まで、アメリカのテレビ業界は大手ネットワーク曲(ABC,CBS,NBC)による地上波局の独占市場だった。しかしCNNなどのケーブルテレビ局や衛星放送の台頭により、チャンネル数は一気に膨れ上がり、テレビメディアは新たな戦国時代に突入する。
ニールセンリポート(1996)に寄れば、アメリカ人の児童は、生まれてから小学校に入学するまでに、平均6000時間テレビを見ると言う。高校卒業までには、この数字は23000時間にも膨れ上がる。これは学校の授業時間の倍に相当し、両親と共に過ごす時間を大幅に超える。
悔しいが、結局はテレビでやんの。
情報化社会論はそれなりに深化しているが、メディアってそのまんまやんか。
テレビそのものの変質と文化を、総括しないと、今の授業がちょっと膨らまないなぁ。
おそらく腐るほど研究はされているだろうし、関心を引きやすいネタではある。
「洗脳ゲーム」
我々は、いまや無意識にテレビを社会の座標軸として捕らえている。テレビで表現されるイメージや見解を「モラル」「常識」と考えている。テレビは言うなれば、「外界への窓」である。窓から庭を眺めるのと同じように、我々はこの電気の窓を通して世界を知ろうとする。しかし、そのテレビが実は「広告塔」である事実に、視聴者は中々気づかない。いまだに視聴者は、テレビ番組とコマーシャルは、全く別のものだと誤解している。我々は、テレビの機能はあくまでニュースやドラマを視聴者へ伝達することが主体で、コマーシャルはその対価として挿入されているに過ぎないと捉えがちだ。すなわち、広告と番組は完全に二極化しているという考え方である。
しかしながらテレビ局の収入源は広告費であり、番組の質と広告費、そして視聴率は互いに関係している。テレビ局の存在理由は、株主への利益還元であり、放送時間という商品の売り買いを主な業務としているのである。番組が高視聴率であるならば、媒体料金は高値を呼び、放送局の売り上げは上がる。突き詰めれば、テレビ番組とは、広告主に対するテレビ局の宣伝だとも言えるのである。
現実には、プロデューサ、ディレクター達に支配されているにもかかわらず、自らがチャンネルをコントロールしているという錯覚に陥っている。
「ニッテレチン」は、ここの枠空いてます、買うてや、という意味だと、テレビ局の営業から聞いたことがある。
確かに、その局を見ている視聴者に、その局自体の名前を伝達しても意味は無い。
過去にもまとめたが、多くの番組は、特にバラエティに顕著ではあるが、他の番組や他のメディアの関係者が出てくる。メタ・情報番組だ。
いいとも、なんて「友達の和」と言わなくなって久しいね。1,2年生は、その言葉自体を知らなかった。最初は芸能界の友達関係を明らかにしようとか言ってたけど、今は「宣伝の和」ってことだね。
「情報産業論」,梅棹忠夫,
しばしば「時間を売る」という表現がとられるけれど、売っているのはもとより物理的外延量であるところの時間ではなくて、その時間をみたす「情報」なのである。一定の時間を情報でみたして提供すればその「時間」が売れるということを発見したときに、情報産業の一種としての放送業が成立したのであった。
いずれにせよ、売っているものは「情報」なのであって、空間や時間ではない。空間や時間は、情報の入れ物にすぎない。他の商品のように、それ自体が価値をもつものではないのである。
一般に、情報産業の提供する商品を、買い手は、その内容をしりもしないで、さきに金をだして買うのである。
メディアの本質は、
情報販売業ではなく、時間販売業であった 。少なくとも、40年以上も前に梅棹先生が看破した、情報産業としてもメディアのありかたは、その本質を変えることなく、ここまで来たというわけだ。
いや、違うな。
情報販売ではなく、時間販売だという、ビジネスのパラダイムチェンジを成し遂げた というべきか。
「情報って何だろう」岩波
アメリカン航空ですが、座席予約システムがその力の源泉であり、以降もCRSを中心として事業のパラダイムチェンジを行っていきました。座席予約システムからアメリカン航空の事業を考えると、航空事業とは座席の販売業としても捉えることが出来ます。輸送業を移動ではなく座席販売業と考えると、いろいろな関連する事業が見えてきます。劇場や映画、コンサートの予約は、まさに座席の販売ですし、ホテルやレストラン、ゴルフ場、レンタカーなども、実質的には座席の販売と考えることもできます。
ラジオ放送のDJは、元々ラジオ番組のオペレーションコストを削減するために考え出された手法だと聞いたことがある。
なんだかねぇ、も少し、世界って可愛いもんだと思ってたけどね。