2回目の議論は、少人数学級です。08年9月にOECD(経済協力開発機構)がまとめた「図表で見る教育08」によると、日本の公財政教育支出の対GDP(国内総生産)比は3・4%。フランスの5・6%、米国の4・8%に比べ、大きな差があり、調査対象28カ国中、最下位となっています。
文部科学省は7月、公財政教育支出をOECD平均並みにする数値目標を教育振興基本計画に盛り込もうとしましたが、「日本は少子化が進んでいるため、1人当たりの教育予算は英米など主要国とほぼ変わらない」との財務省の反対などで見送られました。でも、教育への公費支出が小さいため各家庭の負担が重くなり、少子化につながっているとは考えられないでしょうか? 同じ調査によると、日本の教育費全体に対する私費負担の割合は31・4%と、加盟国中第3位の水準に達しています。
日本の小学校の1クラスは平均28・3人と、OECD平均21・5人より30%以上大きく、加盟国中、下から2番目です。中学の33・3人はOECDの24・0人を39%上回っています。この数値は全国平均で、東京都内では小学校の54%、中学校の78%が31人以上の学級となっています。
広島大大学院の山崎博敏教授(教育学)の調査では、理想的な1クラスの児童生徒数について、21~25人と答える小・中学校教員が多数を占めました。全国学力テストで2年連続トップとなった秋田県は、01年度から小学校1、2年と中学1年の3学年で30人前後の少人数学級を導入したのが功を奏したのではないかと自己評価しています。
一方、少人数学級にはコストがかかります。鹿児島県の教員人件費は30人学級の導入で、05年度の2・8億円から、06、07年度は5・9億円になりました。しかし、教員を雇ったり、校舎を増設したりすることは、即座の景気対策になるし、子どもたちという、私たち国民の最大の資産への投資にもなるはずです。国の定める学級人数規定の上限を現在の40人から25人に改めるよう提案します。コメントお待ちしています。(かつま・かずよ=経済評論家)
※このテーマでの投稿は既に終了しました。ありがとうございました。
教育について議論する際、注意しなければならないことが大きく2点あります。
一つは自分自身の経験を議論の前提としないこと。今の日本は国民の大半が義務教育の現場を経験しているでしょうから、それぞれの方が自分の体験談(昔は60人学級だってやれたのにといった類)を持ち出すと話がまとまりません。
60人学級の時代はまだ戦時の名残で、教師に威厳があった(あると思われていた)時代です。日常的に集団の中で勝手な振る舞いをする生徒に手を焼くことはあまりなかったでしょう。聞き分けの良い生徒たちであれば、たとえ60人を相手にしても何とかやれます。現代の学校の様子は違います。集団のなかに自分勝手に振舞う生徒が1人いるだけで、教師は落ち着いて授業を進めることができなくなります。昔と今とでは子供の質(しつけの度合い)が違うのです。集団のなかで落ち着いて学習に取り組めない子供が増えているのですから、学習形態もこの変化に対応しなければ良い結果は得られないでしょう。
私が、現代っ子を学習集団に組織する際、人数は少なければ少ないほど良いと考える理由はまずここにあります。究極の理想はマンツーマンです。(少なくすれば学習効果が上がるかと言われれば、生徒数以外の要因(指導する教師の力量など)も関係してくるので何とも言えませんが、それは別の議論として扱うべきです)
もう1点は、「教育全般のなかで学校(公教育)が担うべきこと、家庭が担うべきこと、塾や予備校などの民間の教育機関が担ったほうが良いことはそれぞれ何か」という根本的な議論をまずきちんとする必要があると言うことです。これができていないと、現在ある教育的課題をすべて学校(公教育)に委ねようといった議論に陥る危険があるのです(現にこれまでに寄せられたコメントを拝見するとこの種の意見が多く見受けられます)。
残念ながら公教育に多くを期待するのは無謀な意見だと思いますし、実際にあれこれ期待されてもすべてに応えることはできません。国が教育に必要な投資をしていないからというのは、その理由のひとつに過ぎませんが、そもそも官僚的答弁をすれば、「公教育は最低水準を保障すればそれでいいのだ」という言い方もできます。それ以上のものを公教育に要求するのであれば、もっと税金を払え(あるいは家庭で必要経費を負担せよ)ということだと思います。
それでも私が小・中学校(公立という前提で)は25人学級にするべきだという提言に賛成する理由は以下の4点にあります。
(1)例えば作文(添削)のような基礎的な読み書きの力を伸ばすためには、学習集団を少人数にし、きめ細かい指導をする必要があるから。(しかも文章表現力は長期にわたって反復練習を続けないと伸びないから根気のいる仕事です)
(2)子供の多様な興味に応える授業をするには、実習、実験、調べもの学習などを採り入れたほうが良いのだが、こういった学習活動は少人数でやるか、担当教師を複数にしてやらないと指導が行き渡らないから。
(3)各学校の教員定数はクラス数に基づいて法律で定められているので、クラス当たりの生徒数を少なくした方が、生徒1人当たりの教師数を多く配置できる。現代の教師は多忙な方が多いので、校務などにかかわる負担を少しでも減らすことで、部活動や生活指導の面でも教師が生徒に直接関われる機会(時間)を増やすことができるから。
(4)教師の質の低下を問題にするコメントが多いようですが、教師の能力は実際には現場での実践を通じて伸びるものです。知識・教養の高い人が教え上手だとは限らないからです。また大学時代の成績が良い人が子どもにとっていい教師であるとは限りません。なぜならば、教師の資質とは学習指導力だけではなく全人格的なものが問われるからです。
このような理由から、より多くの人が学校現場で子供を指導するという経験を積み、その苦楽を実感できたほうが社会全体の教育力のアップにつながると考えます。民間の人材も活用しながら、一方で学校現場は「教えるプロ(共に学ぶプロ)」を自前で育成する努力をもするべきです。教育行政はこういうところにこそ投資しなければいけません。
どちらかと言えば賛成です。今現在小学校に通っている息子を持つ母親ですが、昨年まで28人学級でしたが、今年は生徒数の減少により40人学級になり、その狭間で人数が多いということにより担任の子供たちへの目の届きが、かなり違ったように実感しました。あくまでも昨年の担任と今年の担任は違うので、一概に人数だけのせいとは言えませんが、目に見えてわかります。宿題のチェックの回転。家庭へのプリントの提出回数。先生から生徒(家庭)への伝達事項のし忘れ……などなど。現在の学校状況でひとりの先生が、40人を見ることの限界を見ているようです。
先生方が子供や家庭にどの程度関わっていいか、信頼性はどのくらいか、威厳はどうかと考えてみると、当時私たちが40人だったころとははるかに違っています。『モンスターペアレント』などという言葉が出てきたように、体罰禁止と言うように、『セクハラ』と言うように、昔とは断然違います。昔は通信表に「落ち着きのない子」と記されていただろう中にも、今では障害として、また違った対応がなされています。授業中のトイレ禁止も今はありません。そんな子供たちを40人、1人で見ていくには困難だと考えます。
私は25人学級に賛成です。教育は子どもの人格を形成し、知識や能力を育てる場だと思います。189のコメントにような会社等の集合体とは目的が違いすぎると思います。 子どものひとりひとりの違いがユニークさとして将来充分に発揮されるためには、ひとりの教師に課せられる責任は重大だと思います。教育は子どもの将来への投資ではなく、子どもが将来まっとうな人生を歩むために国と大人の責任だと思います。
教師といえどの欠点のある人間です。教育に情熱を注ぐ責任感を自覚してもらうためには、熟考する時間と自らが学ぶ事を保証する必要があります。それには出来るだけ少数の子どもの方が良いと思います。教育を単に学力の向上の場としてでなく、ひとりひとりの子どもの持ち味を発揮する場となるよう願っております。
元教員で、現在博士院生です。25人学級といっても、厳密には25人にはならないでしょう。25人を超えないように、という学級編制になるので、1学年51人の場合、17人となるので、17人~25人という幅で学級編制がされることになると思います。さすがに20人切ると学級運営においてメリットもデメリットも出てきます。25人は確かに理想ですが、20人を切っても勝間さんがおしゃる同様のメリットばかりとは必ずしも限りません。
また、経済対策についても極めて限定的です。かつてのバブル期に造られた校舎は現在空き教室ばかりで、その活用という意味ではメリットはありますが、増築というところまではいかないでしょう。
私は、やはり1学級30人を上限とする学級の編制で良いと思います。「公財政教育支出をOECD平均並みにする数値目標」については、私としてはこの1学級の人数を下げるというやり方は優先順位としては上位ですが、最優先は貧困層に対する支援です。貧困層の教育機会を奪っている現在の奨学金制度や学資支援制度は大きく見直す。少なくとも彼らを借金漬けにするような制度ではなく、無償貸与や後期中等教育、高等教育に対する財政支援を行うことで学費の増加に歯止めをかける施策を緊急に打つべきです。また、子どもが多い家庭に対しては、相当な高所得の家庭は除くとしても、年収0~1千万程度までで、3人以上子どもがいる家庭に対しては、高等教育の教育費の支援を行っても良いかと思います。
この施策は実際5年や10年で効果が見られないかもしれませんが、それ以降に抜群の経済効果を発揮すると考えます。能力のある貧困層の子弟が社会への活躍の場を広げることで、貧困の再生産の拡大が抑制され、新たなタックスペイヤーを創出します。その他生活保護世帯の減少なども見込めますし、少子化に一定の歯止めがかかるかもしれません。ただし、少子化のことも考えるのであれば、女性が働きやすいように保育所の増設など、仕事と育児の両立できる環境を作らなければいけないでしょう。
事実、現実から逃げたツケが今社会にはびこっています。事実を見つめ、反省をし「悲惨な歴史」などという言葉で終わらせずに、子供に未来を託す。社会全体で優先的に考えていく一つとして25人学級に賛成です。人間教育・愛国精神の基礎を作る場所として幼少時期の少人数での教育は絶対的な効果が得られると経験からも考えられます。経済雇用、教育支出対GDPの押し上げ、私費負担の軽減などにも有効的だと考えられます。
しかしながら諸先輩方の意見にありますように、無駄な教師を増やさない。特に閉鎖的な小山の大将になりたいだけの教師。責任感の無い教師。社会不適者などをこれ以上増やさない仕組み作りや、25人クラスと13人クラスなどのアンバランスなど、地域、保護者、民間企業も含め社会全体が徹底的な勉強が必要です(マスコミも本質を捉え協力すべき)。
奔放自由主義の日本では団塊の世代がスルーしてきたモンスターペアレンツ年代が給食費も払わず外車に乗る現状、親を含めた教育を(大人の教育が出来ないのであれば規制やルール作り)をする必要もあります。
子供は国の財産であるという考えを全国民が持ち、地域教育においても教育支出費を使いやすいようにする。ただ単に25人学級にし学校教育は教師に任すではなく、この25人学級という提言を皮切りに教育そのものに対する支出を見直す事も重要に感じました。 子供、親を大切に。
26番のコメントを書いた後で多くのご意見を拝読したが、「教員数を増やすのは賛成だがクラスの少人数化には反対」という考えは変わらない。
私が高2のときのクラスは社会科の選択科目の絡みもあって、男女比が1対2の変則的な構成だった。14人しかいない男子の言動はほとんど匿名性がないため、他人と性格や価値観が違って対立すれば逃げ場がなく、強いリーダーシップを発揮する者も生まれなかった。高校でさえこのありさまである。まして小学校のクラスで同性が十人前後となれば、唯一絶対の神より他人との関係を過度に重んじる傾向の強い日本社会の子どもたちにとって、自発的な人間集団の形成やいじめの根絶はかなり難しい。集団での遊びやスポーツを通して、自主性や社会性を育む機会も乏しくなるであろう。
私の知る限り、「学校は勉強するところ」というのが、少人数クラスが定着したらしい欧米キリスト教諸国の教育観である。私もその考え方に異論はない。日本の子どもたちが楽しく勉強して将来を生き抜くための学力や自立心を養うには、かの国々とは違った環境が与えられてしかるべきではないだろうか。
少人数学級の推進や教師の資質向上を主張される方々のご意見を読むと、失礼ながら「焼け太り」という言葉を連想する。教育の世界は一般の会社とかなり違っていて、「ゆとり」や「総合学習」等の政策が失敗すればするほど、その理由が解析されないまま投じられるお金が増えていくらしい。私たち納税者は「教育に金や手間をかければかけるほど、優秀な教師や子どもが育つ」という思い込みを捨て、人間や社会の真実を子どもたちに伝える教師らへの敬意を高めたいものである。そして、優秀な教師がデスクワークの海や過度の「全人教育」の要求におぼれて孤立せず、「あいつは世間知らずで人間味もないから、教師にでもなるしかないだろ」という心無い批判を社会から受けた「未熟な」教師たちとも力を合わせて子どもを未来に送り出す仕組みの構築を、国や自治体には求めたい。
私は、25人学級には反対である。理由 経済的効果と教育とは分けて考えてほしい。もう一つ住む世界が小さいと重箱の隅を突っつくような細かいことで、いさかいを起こし、精神がぎすぎすし、感情的な行動つまりいじめなどが発生することが多すぎる。これは、大人も子供も同じである。私の経験では勤める会社で小さな課ではいじめが発生するが、大きな課では、お互いにけん制し合ってこの発生が少ない。友達でも2人では、けんかなどをするが、3人では監査・検査ではないが、内部けん制ができてけんかなどが少ない。こういうことは、はっきりしている。
こどもの教育は、大きいクラスでいじめなど気にしないでもいいようなクラス環境にして、クラスの人が互いに内部けん制できるようにした上、勉学に励ませるべきである。
私は、団塊世代の生まれである。田舎の町で育ったが、小中高と1学年の学級数は、12クラスと多く、また生徒数も40~50人学級であった。喧嘩はあったが、それをもっていじめということになることは全くなかった。
当然の機能した論理だと考えます。さまざまな社会活動において、リーダーを中心とした構成を考えると15人から25人ぐらいで構成した組織が機能的に活動していることからも明らかでしょう。一人のリーダー(ここでは教師)が人員を掌握し望む方向に指導育成していけるのは20人名限界ではないでしょうか。もちろん人によって能力の差があるわけですからそのことを考慮に入れても構成人員の許容範囲は少なめにすることに帰納するでしょう。
翻って教育現場での状況を考えるに、低学年の児童であればあるほどクラスの人員数は少ないに越したことはないでしょう。ご自身がその立場に立たれた場合に本当に現状のクラス人数を指導育成できるのでしょうか。25人でも私は多いと思います。人に対して尊敬・愛情・感動を教えてゆくためにはどんな形が日本の子供たちにとって必要なのか諸外国の状況も参考にはなりますがあくまで日本の現状を踏まえたよりよい解決方法に向かって議論していくことが何よりも必要と思います。
25人という数は良いと思うのですが、導入の方法に問題があると思います。26人の生徒がいた場合13人クラスが2つ作られることになると考えられるからです。
以前40人学級の際、41名の学年は20名クラスが2つ39名の学年は1クラスというおかしな現象を見たことがあります。もう少し、細かい点に考慮した提案が必要なのではないかと思います。制度化されると、制度だけが勝手に動き出してしまうことが懸念されるからです。
今までの制度を前提にした、「25人学級」をというのは安易な提言のような気がします。少人数教育という基本概念は良いと思うので、新しい発想による提言をなさったらどうでしょうか?
私の意見は「だいたい賛成」です。「だいたい」は条件付きという意味です。少人数学級の目的は、「学力の向上」にあると考えます。投稿者の中に現役教師の方の意見があったかと記憶してますが、やはり一人の人間が教育できる人数には限界があるという認識を持つべきでしょう。
勝間さんの提言にも少人数学級による学力向上効果は数字としてはっきりと証明されているようです。反対意見の内容をみると「学力向上」よりも「人間教育」の観点からの反対意見が多いように見受けられます。
私も学校に通った経験があり、子供を持つ親の心としては、「学校」における教師、友人との出会いの中から人間的に成長して欲しいと願う気持ちをもっています。私たちは、学校に対して「学力の向上」と「人間形成」の二面性を求めていると思います。しかし、現在の児童の状況をみるとどうでしょう?家庭における「躾」を「人間形成」と勘違いしている大人は多くないですか?「人間形成」とは「躾」という基礎を持った上で成り立つものと考えます。教室の現場では、「学問」どころではなく、また、「人間形成」どころでもなく「躾」に翻弄される先生方が多いのではないのですか?
「学力の向上」を第一義の目的とするのであれば、習熟段階に併せた少人数学級が効果的と判断するのが合理的と考えます。しかし、「人間形成」も学校でなくてはできない大切な教育の一部と考えますので、少人数学級による弊害に対するフォローのためにも、学校運営、授業構成を根本的に検討することを望みます。
蛇足ながら、指導要領(要綱?)などは、お役人や大学の先生方で考えるのはもちろんですが、現場の先生と子供、保護者も一緒に考えることのできるシステムを考えて欲しいものです。
1.すでに、全国の小学校のクラスの50%は、子供の数が30人以下となっています。少子化と学校統合の遅れの中で、思いのほか、クラスの規模は小さいのです。技術的なことですが、「国の定める学級人数規定の上限を現在の40人から25人に改める」ということになれば、一クラスの子供の数が25人を超えると、クラスを二つに分けざるを得なくなります。一クラス10人台のクラスになってしまうケースもでてきてしまい、運用はとても難しくなります。
しかも、少人数の方が教育効果が高いとの結果はでていません。秋田は少人数といいますが、学力テストの最も低い県のなかにも「少人数」のところがあります。
そもそも、25人のクラスでは、男12人、女13人のようなことになるので、多様な子供がグループを作ったり、ぶつかったり、違う考えを披露したり、競い合ったりすることが、より難しくなります。
2.「GDP比で公的教育支出が少ない」という指摘ですが、一人あたり公教育支出でみれば、日本は諸外国平均並みには、お金をかけています。教員一人あたりの生徒数も同様です(日本のクラスの人数が大きく出ているのは、「担任を持たない」教員を多く抱えているからです)。
平成に入ってから子供は3割以上も減りましたが、予算や教員数はそれほど変わっていません。子供当たりの教員数で3割、予算で5割も増えているのに、教育が良くなったとの声が聞こえないのは、実は物量ではないところに問題があるからと思います。(注)公的教育支出をOECD平均まで増やせとの意見がありますが、そのためには、8兆円の予算の増額(消費税3%相当)が必要です。
3.また、「教育への公費支出が小さいため各家庭の負担が重くなり、少子化につながっている」と言われますが、これは公費支出をまかなう、家計の租税負担を視野に入れていない議論です。公費支出を増やすには、家計の税金も高くせざるを得ないので、家計全体でみれば負担が軽くなるとも言えません(家計を個々に見れば、子供のいない家計に、教育費負担を一部肩代わりしてもらう効果はあるでしょうが)。
実際、北欧のように公費負担が高い国は、「租税負担」も高い国です。税をもっと負担して公費支出を増やすのか、それとも今のように低い税負担で、より効果的な教育を求めるのか。私費負担が高いと主張する場合に、税負担の問題に触れている議論はほとんどありませんが、負担論の本質はここにあります。(注)そもそも、一人あたり公費負担が諸外国並みなのに、「高い」私費負担を支出している原因も考えてみる必要もあります。米国では、よい大学教育を得るため に私費負担は非常に高くなっています。
4.素晴らしい公教育を実践している学校もありますし、教員のなかにも頑張っている人は多くいます。しかし、公教育がおもわしくないとすれば、その一因は、マネジメントがうまくできていないことによります。特に、不思議なのは、学校間でより良い学習・指導方法を導入しようという競争が働いていないことです。
5.何でも教員でやるという閉鎖的な学校を開き、モンスターペアレンツや福祉を要する家庭等には、外部の福祉の専門家等で対処する。地域と学校との信頼関係を醸成し、学校を支える仕組み(支援本部)をつくる。不要不急な文科省等への報告(1年で1200件)などの雑務を整理し、教員が教育に集中できるようにする。そして、教育効果を上げたことをオープンにし、地域で評価する……。このようにマネージメントを改善していけば、教員も支えられ、教育環境もよくなります。同時に、生活指導や百マス計算などで学習受容能力を造り、基礎知識を与え、「よのなか科」などの真の「ゆとり教育」を行う。それをせずに、クラスの人数を弄っていても、木を見て森を見ない議論にすぎません。
少人数制の提案に賛成です。前提として (1) 小中学校は技能獲得の場である(2) 教育は将来の国力に対する投資である、の2点が真であると仮定します。
若年層の生産性を高めることが、日本国内の経済的な発展に必要です。人口分布は固定的で、現在の若年層が少ないという状況を変更することはほとんど不可能です。仮に、明日から出生率が2倍になったとしても、その人たちがGDPに貢献できるようになるのは20年も先のことです。したがって、現在の義務教育世代の生産性の向上が必須事項と考えます。
教育の成果を向上させる方法として、教育者の生産性を上げるというアプローチと、教育インフラによる生産性を上げるというアプローチを考えます。前者はつまるところ、教員の技能向上になるわけですが、これを短期間で実現するのは難しいと思います。他の方が指摘しているように、学校教員はすでに多忙なようですので、さらにスキルを上げるとかいうのは筋が悪いアプローチでしょう。
一方、インフラ側で生産性向上を助けるというアプローチは、筋がよさそうです。少人数制と教職員の専業化を組み合わせることで、各教職員が特定の技能を活かす余地が生まれます。人数が少ないので授業のコントロールもしやすいでしょうから、教員が科目の内容に集中しやすくもなります。
コストは増えると思います。ですが、このコストは投資です。40人学級で2.8億円負担の場合と、25人学級で2.9億円負担の場合で、どのくらいのROIとなるか検証する必要があるとは思います。これを全国に展開する場合には、線形にスケールするわけでもないでしょうし。それでも、教員ひとりひとりの技能を向上させる場合と、教員の現在の技能を活かす場合では、直観的に後者のほうが正味現在価値が高い印象があります。
ほとんど仮説ベースの話になってしまいましたが、結果が出るのが10年以上先なので、今のうちにリスク分散をして、少人数制を部分的にも導入するのが得策だと考えます。
公立私立小中高で計14校のスクールカウンセラーをしてきました。勝間さんの最初の問題提示として、225人学級の目的を「質の高い教育」のため、と仮定してお答えします。
現時点での、25人学級制には反対です。なぜなら、本当に質の高い教育効果が得られるのかという検証を行う必要があるからです。25人学級にして、学力が上がった地域もあればそうでない地域もあるのだとすれば、その違いはなにかをまず見極めることが必要です。
とはいえ、個人的には、いろいろな学校、学級、先生、子どもたちをみてきた結果、25人学級は、質の高い教育のための絶対条件ではありませんが、必要条件であるだろうとは思っています。つまり、25人学級さえ実現すれば、質の高い教育が実現できるかというとそうではありませんが、最低限のインフラである、ということです。もちろん先生の質の向上というのも必要条件です(ちなみに、勝間さんも例にあげていた秋田県は、特別支援学校の教諭の特別支援学校免許の保有率が、92.6%となっており、全国1位です。最下位の高知県50.5%、その次の沖縄県50.7%と比べると大きな差があります。秋田県が先生の質の向上にも力を入れている現われのようにも思われます)。
40人学級でも質の高い教育を受けられるというのは、たまたま「ラッキーなこと」なのです。40人学級で子どもたち一人一人に“わかる”授業を成立させるというのは、「ふつう」の力量の先生では難しいです。40人学級を維持できるのは、「スーパーティーチャー」です。やってみればわかりますが、子どもたちに話をきかせるのは、高等技術です。社会人経験者を教育現場にいれればいい、という意見もありますが、ぽっと入って授業ができるかといるとそうではありません。
いつ出現するかわからないスーパーティーチャーを待ち望むよりも、圧倒的多数の「ふつう」の先生たちが高いパフォーマンスをあげられる「しくみ」を考えたほうが現実的です。そういう「しくみ」ということでいうと、25人学級であれば失敗する確率が少なくなると考えられます。教育の失敗の不利益をこうむるのは子どもたちであり、社会であります。
昔は60人学級でもやってた、45人学級でも大丈夫だったということを言うかたがいますが、そうした教育体制は、明治維新後、西欧諸国に追いつこうとしていた時代や、戦後の復興期に、大勢の子どもを一つの教室に詰め込んで、1人の教師によって、ある程度の知識を身につけさせるという点では、安上がりでもあり、一定の成功はおさめてきました。しかし一方で、多くの「おちこぼし」をうんできたともいえます。
普通学級の約7%は発達障害(LD、ADHD、自閉症スペクトラム障害)を持つ子どもたちであります。そして、約20%はIQ75~85の境界知能の子どもたちといわれています。そうした子たちが、学力やコミュニケーション能力を身につけていくには、個別の丁寧なかかわりが必須です。先生たちの手間(という言葉は使いたくありませんが)が増えるのはいうまでもありません。さらにやっかいなのが、「みんないっしょに」というプレッシャーが個別に対応しようとする時に壁になるのです。
日本の学校において「みんないっしょに」、というプレッシャーが強いのは、40人学級で学級経営を維持させていくのに、都合がよかったからです。そういう集団のプレッシャーを使わないと、「ふつう」の先生では40人もの子どものを束ねることは難しいのです。子どもをコントロールするために、「みんながまんしているんだから、あなたもがまんしなさい」という手段と目的のすりかえがここでおこっています。
私は25人学級、大賛成です。経済のことや国の政策のことなど、難しいことはわかりません。現在、小学生の子を持つ母親としての単純な意見です(あさはかと言われるかもしれませんね)。
私自身は30人、40人、そして田舎の小学校での一桁の人数のクラスの経験があります。どれが良かったか?と問われると、「どれも、良いところもあり、悪いところもある」というはっきりしない答えしかできないのですが、今、子どもたちと子どもと関わっている先生を見ていて、正直、小学校低学年のうちは15~20人でもいいと思っています。
人数が多くなると、どうしても一人ひとりに目を向けることが難しくなると思います。担任の先生には子どもたちを管理するのではなく、しっかり関わって、様子を見て、一緒に過ごしてやってほしいと思います。添乗員さんが言う理想的な旅行者の人数のことを書いている方がいらっしゃいましたが、その通り、15人くらいで先生にしっかり見てやってほしいのです。勉強を進めるうえでも、人数が少ないほうが問題が少ないと思います。スポーツや何かの体験活動などで、人数が少なければ、隣のクラスや異学年のクラスと一緒に活動すればいいのではないでしょうか。
経済的な影響などはもちろん切り離せない問題だと思いますが、一番大切なのはそこで過ごす子どもたちがいかに意欲的に活動でき、自己肯定できる人になって、自分の居場所として毎日を過ごせるか、ではないでしょうか。今の私には学級の人数が少ないことでのデメリットというのは思い浮かびません。
中学生と小学生を持つ母です。わが子のクラスは40人です。小学校に上がったとき担任の先生から「今は大変ではっきり言ってA君(我が子)には目がいっていません。大変手の掛る子がたくさんで……」と正直に言ってくださりました。
手のかかる子どもがたくさんいます。先生の負担が大きくなると、子どもをしっかり受け止めることはできないのではないのでしょうか?
今年1年生になったわが子は「担任の先生は嫌いだ」といいます。「相談してみたら?」と言っても「そんな風に聞いたら先生の話をちゃんと聞いてなかったのか」と怒られるから聞けないといいます。もし40人ではなく、25人だったら……もう少し先生も余裕がありひとりひとりの子どもに向きあって子どもの目線で話をきくゆとりが生まれるのでは?と考えます。
日本は子どもを大切にしていないように思えます。学校がなすべきこと、家庭がなすべきことを双方がしっかりと自覚し責任を持てるよう国はもっと子どもにお金をかけてほしいです。教育費を考えると3人の子どもを普通に育てるのも大変です。教育費にこれほどお金がかからないのであれば私は4人目を産みたいです。
大都市郊外のベッドタウンに住んでいます。学年人数の関係で上の子は40人学級で、下の子は30人学級で学んでいますが、確かに40人と30人の差は大きいと思います。ですから25人になればもっと一人一人に目が行き届くとは思います。しかし25人を目指すことには反対です。
というのも、毎春、「この先生がもう定年を迎えられるのか、残念」ということがここ何年も続いており、また中堅層の先生方は伺って見ると社会人から先生になられた方が多く、団塊の世代の先生方が数年後には抜けられるという現状のままで25人学級を実現し先生の数を大幅に増やすと、経験の浅い先生が大多数になってしまいます。経験年数は確かに指導力とイコールではありませんが、経験によって懐が深くなり魅力を増す先生は多いと思いますしベテランが多い方が親としては安心です。
ですから、小学生を持つ親としては、現状では25人学級を実現するのではなく、30~40人学級で、定年あるいは事情で退職なさった先生を再雇用して副担任としてつけていただくことを目指すほうがいいと思います。
配慮を要する(先生方から見ると指導に難しい)お子さんが年々増えているという親仲間の感覚がありますので、複数の目で子供を見ていただく方がいいと思います。さらに言うなら副担任の先生方には学年の他のクラスにも定期的に出入りして子供たちに目を配っていただいたり、経験の浅い正担任の先生が対応に困られた時に協力してフォローしてくださるといいと思います。
学力格差についても副担任の先生が特に学力の低いお子さんに毎日声かけをして生活や学習の面倒を見て励ましていただけたら、子供たちにとってどんなにか応援になるでしょう。複数の目で子供を見守るのがいいと思います。
そして、その方法で今の先生方がかなり経験を積んでから、その時の子供の状況を見て25人学級1人担任制を導入するかどうかの議論をしていった方がいいと思います。ですから、現時点での私の意見は「反対」です。
現在、教員養成学部の教員になりたい学生が、常勤の教員以外に非常勤で採用されている卒業生が多くいます。25人学級になることにより、その教員養成学部の卒業生の就職できる環境を整備することができ、若い人の雇用の問題も解決するのではないかと思います。将来子供が少なくなることは間違いないですが、その原因もいまの小、中の教育環境を整備すること、そして、義務教育に関して、国からの負担を多くすることにより、家庭の教育にかかる支出も減じることが可能となり、子供を安心して教育できると思えば、出生率も上がりると思います。
子供一人一人に先生が指導ができる時間も増えることが可能となれば、子供の学力も上がり、将来の日本をその子供たちに託すことは安心してできる思いますので、少人数学級は、非常に良いことではないでしょうか。
公共事業で、橋や道を整備したとしても、それが不必要であれば無駄になります。それよりも、日本の将来をになう子供たちに投資をするべきだと考えます。
25人学級には賛成です。しかし、本当に議論すべき事項は、先生方がどこまで生徒・自動に対して向き合える時間があるのかということだと思います。現在では、いい・悪いは別にして、周りからの「干渉」が昔と比べて増えております。また、いろいろな研修や雑務も増えているようです。自分の子供の先生や、仕事柄おつきあいがある先生方を見ていると、本当に子供一人一人に向き合える時間がないように思えます。
従ってクラスの人数うんぬんの前に、教員それも、社会経験のある教員を増やし、先生一人あたりの人数を減らすということを考えて見た方がよいと思います(社会経験のあるというのは別問題ですが)。
勝間さんのご提案に予算、少子化などは複雑な要素が関係しあうものであるので、現在の教育の問題点を洗い出すいう作業をきっちりする必要があると思います。
基本的に、物事を教えるときは少人数、極端な言い方をすればマンツーマンが良いに決まっています。そのほうが“到達度”が高くなるからです。
テーマから外れるので恐縮ですが、むしろ私が問題にしたいのは“教える側の資質”であり、教師の“選抜方法”ではないかと強く思います。私の子が通う小学校に、多数の父兄が指導の仕方に疑念を抱いている教師がおり、上に申し入れをしてもめだって改善されない現実がある一方、別の都市での例ですが、有望な講師がモンスターペアレントとその子の指導に熱心に奮闘しても、それを支援しないばかりか逆に問題が大きくなるのを恐れた学校と教育委員会との狭間で孤立し、あきれたことに詰め腹を切らされるに至ってうつ病になってしまったという事実を知っております(その講師は採用試験の面接においても、あきらかに前記の問題に関連する試問を受け、当該教育委員会の監督する学校には採用されないと強く感じたと言っておりました)。
国や社会の将来を創るのは間違いなく教育です。であれば、教育者の養成の仕方と選抜方法を根本的に検討し直すべきではないでしょうか。もっと言えば、教育の現場を熟知していない役人に予算を握らせて施策を策定させていること、内向きな教育委員会に人事権を握らせていること、それらの方がもっと大きな問題です。それらの改革を論ぜずに理想的な学級人数を論じても意味がないと思いますがいかがでしょうか。
景気対策としての学校少人数制は、大変効果が期待できると思います。小学校、中学校などは文部省の管轄ですから、日本中で一糸乱れず通達通りの改訂が行われますので、雇用は間違いなく増えることでしょう。学校の建物に関しましても、基準を文部省が提示すれば、増築あるいは学校そのものの新築も行わせることができるはずです。
しかし少人数のクラスが、教育効果をあげるかという問題に関しましては、必ずしも期待通りにはいかないと思われます。すでに過疎地での事例が示されている通りです。わたしも小学校6年間を26人クラスですごしましたが、他の学年(35人クラス程度)と比べて教育環境が良かった印象は残っていません。むしろ同窓会などがあると、教師に嫌われていたわたしが一般的にエリートと言われる職業についており、教師に常に注目されほめられてきた同級生が低賃金の非正規雇用工場労働者になっているといった現実に、教育というもの、あるいは教師というものの限界も感じます。
教育を学校だけで行おうとすることの方が、無理があるのではないでしょうか。つまり予算があるのならば、学校の充実ではなく、その他の子供のための教育的施設あるいは制度の充実に使った方が良いのではないかと思うのですが。
結論として、少人数学級の導入には賛成である。しかしながら、それを導入したところで何かしらの劇的な変化があるとは思えない。いろいろな方が、主観的・客観的に論じておられるが、さまざまな教育改革が行われるたびに現場教員は負担を強いられている。
ゆとり教育にしても、周囲のイメージは教員が楽できるようになったと認識している方が多いかもしれないが、結局のところ負担は増え、ゆとり教育の本質から遠ざかったうわべだけの教育改革になってしまっている。
議論を深めていく段階で、いろいろと理想論や現実論などが飛び交ってできた改革案だったのだろうが、その議論をしているのは現場とはほど遠い人たちの話し合いである。結果として現場にあわず、表面的に終わってしまっている。踊る大捜査線で青島刑事が「事件は会議室でおきているんじゃない、現場でおきているんだ!!」と名セリフを残している。まさにそのとおりではないのかと、そう思うのである。
少人数学級を導入したところで、現場ではさまざまな混乱がおきることは当然である。しかし、賛成する理由は、導入後混乱がおちついていけば少なからず教員それぞれの負担減につながるからである。その上で、もっとしっかりとした生徒たちと最前線で接している教師たち、親、地域が一体となって議論してはじめて効果的な学校教育というものに向けて動き出すことができるのではないか。そのためにも、もっと現場への権限を譲渡してもよいと思う。少人数がいいのか悪いのかは各地域、各学校によりけりではないのか。それを話し合う場を設けることが先決ではないのかとそう思うのである。世間ではモンスターペアレントと過剰に反応している面も話し合えばほとんど解決できるのではないのか。 また、余談になるが、義務教育が実行されているのであれば、このような問題は基本的に現場が弾力的に吸収できるだけの問題として対処されていたのではないか。親が子どもに教育を受けさせる義務があるのであって、親がそれを放棄しているためにおきている問題は多発してはいないか。極論であるが、大クラスでステレオタイプな学習をしてきた人たちの問題が、親になってはじめてその子や孫を育てられないといった問題としても考えられなくはないだろうか。
もちろん全部が全部そうはいえないだろう。だが、個人一人一人が自分の胸に手を当てて、自分は絶対に間違っていないといいきれるものか?この問いに自信をもってYesを主張できるほど教育の問題は簡単ではないはずである。このようなに自らの考えを見つめなおすきっかけになった勝間さんの記事に出会えたことはとても幸せである。