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名張毒ぶどう酒事件

 

1961年(昭和36年)3月28日午後7時ころ、三重県名張市葛尾(くずお)18戸と奈良県山辺郡山添村葛尾7戸で構成されている農業改良、生活改善、文化向上と両村民の親睦を兼ねたクラブ「三奈(みな)の会」(三重県と奈良県の頭文字)の年1回の総会が名張市葛尾の公民館で開かれた。出席者は32人、うち女性は20人であった。(葛尾は現在、三重県と奈良県の両県にまたがっているが、元々はひとつの村であった)

総会は前会長の奥西樽雄の挨拶で始まり、会計報告のあと、今年度の役員改選で新会長や各種役員の選出を行なった。

午後8時過ぎ、懇親会に移り、机の上には折詰が並べられ、男性には日本酒、女性にはぶどう酒が注がれ、前会長の樽雄の音頭で乾杯が交わされた。それから10分ほど経ったとき、突然、樽雄の妻のフミ子(30歳)が倒れ、それ以降、次々と同席していた女性たちが苦しみ出した。食べ物とともに血反吐を吐きながら会場から這い出そうとする者、台所でうめき声をあげながら倒れる者が続出した。そして、その女性のうち5人が死亡、12人が重軽傷という大惨事となった。重軽傷を負った12人はその後、病院に数日から1ヶ月ほどの入院を余儀なくされた。

死亡したのは、奥西フミ子(30歳)、奥西千恵子(34歳)、新矢好(25歳)、中島登代子(36歳)、北浦ヤス子(36歳)であった。

すぐに警察が駆けつけ、初めは食中毒と思われたが、衛生研究所など各種の調査で、それは有機リン性剤の農薬(テップ剤)の「ニッカリンT」の作用であることが判明し、ぶどう酒に口をつけなかった残りの女性3人にまったく異常がなかったことなどからぶどう酒に農薬が混入されている可能性が大きかった。この事件は「第2の帝銀事件」と世間で騒がれた。

ニッカリンTの致死量は0.06〜0.15グラム。青酸カリが0.15〜0.3グラムであるからいかに劇毒であるがか分かる。有機リン系の毒ガスや農薬は、人など脊椎動物が筋肉などを動かす際の命令を伝達する物質であるアセチルコリンを分解する酵素、コリンエステラーゼと結びつく。その結果、コリンエステラーゼの活動がブロックされる。そのため、アセチルコリンは情報を伝える仕事を終えるとただちにコリンエステラーゼによって分解されるのだが、そのまま残ってしまう。そのため筋肉は運動するようにという刺激を与えられたままになり、そのため痙攣を起こし、呼吸筋も動かなくなり死に至る。

4月3日、「三奈の会」の会員の奥西勝(当時35歳)が逮捕された。奥西は妻の千恵子と愛人の北浦ヤス子(ともに死亡)との三角関係の決着をつけるためにやったと一旦は自供した。だが、その後は無実を主張し続けている。

1964年(昭和39年)12月23日、津地裁は証拠不充分で無罪を言い渡した。

1969年(昭和44年)9月10日、名古屋高裁では、1審の判決を逆転させ、死刑の判決を下した。

1972年(昭和47年)6月15日、最高裁では、2審の判決を全面的に支持、上告を棄却して死刑が確定した。

検察調書や2審の有罪判決文などによると、奥西の犯行は次のようになる。

<奥西は千恵子と1947年(昭和22年)1月に恋愛結婚し、一男一女をもうけ、葛尾に住み、農業の傍ら、近くの石切り場で働いていた。1959年(昭和34年)の夏ごろから近隣の未亡人の北浦ヤス子と関係ができ、付近の竹薮で密会を続けていた。2人の関係は周囲の噂になっていたが、1960年(昭和35年)10月ごろ、妻の千恵子は2人が連れ立って歩いているところを見てしまった。当然、夫婦仲は険悪となり、口争いが頻発し、妻の千恵子は家事を放棄するようになった。愛人のヤス子は妻の千恵子に責められ、周囲の人たちからも厭味を言われるようになった。そこで、翌1961年(昭和36年)2月20日ごろ、愛人のヤス子が奥西と逢い引きしたとき、別れたいと切り出した。奥西は妻への不満と憎しみ、それに愛人の心変わりへの怒りが重なり、三角関係を清算してしまおうと考えた。2人を殺すと自分に疑いがかかる。なにかいい手はないものかと思案するうち、3月28日夜、「三奈の会」が開かれるという通知が届いた。会では男には清酒、女にはぶどう酒が恒例になっている。千恵子もヤス子もアルコール好きだから必ず飲むはずだ。他の女性には気の毒だが、この方法なら自分が怪しまれることはないだろう。竹筒に農薬「ニッカリンT」を入れ、それを隠し持って、隣家の奥西樽雄会長宅に立ち寄り、玄関に置かれていたぶどう酒1本、清酒2本を抱えて会員の坂峯富子と一緒に公民館に運んだ。そのあと、坂峯が雑巾を取りに奥西樽雄宅へ行った約10分間の留守の間に、ぶどう酒のビンの口金を歯でこじ開け、竹筒のニッカリンを入れ、口金を元通りにして人が集まるのを待った>

死刑が確定してから再審請求が5回提出されたが、すべて却下された。

第5次再審請求を退けた最高裁の決定理由「要旨」によると、奥西に死刑判決を下した根拠に次の3つの証拠群を挙げている。

1、10分間1人でいたという状況証拠
2、王冠に残った歯型
3、自白

要旨は、ブドウ酒に有機リン系の農薬を会の開会が迫った時刻に、公民館のいろりの間で人目につかずに入れることができたのは、10分間1人でいた奥西だけとしている。そして現場から押収されたビンの王冠の表面についていた傷跡は、死刑囚が王冠を歯で開けたときについたものという鑑定および証言が複数存在する、としている。最後に自白の存在を挙げている。

第5次再審請求で弁護側が決め手として提出したのが唯一の物証、歯型の鑑定の見直しだった。1、2審で王冠の歯痕を鑑定した大阪大学教授および名古屋大学教授は、奥西が実際に噛んだ別の王冠の歯痕と比較し、王冠と奥西の歯痕間隔が一致する、と鑑定し、これが有罪の決め手となった。これに対し、弁護側が新たに鑑定を依頼した日大歯学部助教授は、歯痕の間隔を計測し直した結果、10ヶ所のうち9ヶ所が一致せず、最大で2.6ミリのズレがあった、と指摘。学生10人で10個ずつの王冠を歯で開ける実験をした結果、同一人が同じ歯で噛んでも歯痕の間隔が常に一致するとはかぎらない、と結論付けた。つまり、歯型が一致しても一致しなくても、それは物証にならない、ということである。

奥西は「農薬は竹筒に入れて運び、竹筒は公民館のいろりで燃やした。農薬ビンは名張川に捨てた」と自供している。この自供が正しければ、いろりの灰からニッカリンを入れた竹筒の燃えがらや農薬の残留物が検出されるはずだが、警察が調査した結果、そういう痕跡は発見されていない。また4分の3ほど中身が残っていたビンを川に捨てたが、そのビンは川に浮かんだまま下流に流れたと自供している。だが、弁護側が実際に試したところ、何度やってもビンは浮かばずに沈んだ。ビンを投げ込んだとされる場所の川底も調べられたがビンは発見されていない。

確たる物証は何ひとつない状態であった。

1997年(平成9年)、名古屋高裁が第6次再審請求を棄却。

2002年(平成14年)4月8日、最高裁は第6次再審請求について請求を退けた名古屋高裁決定を支持し、奥西死刑囚の特別抗告を棄却する決定をした。5人の裁判官は全員一致で「確定判決の認定に合理的疑いが生じる余地はない」と判断した。奥西は名古屋高裁に7度目の再審を請求した。

2003年(平成15年)7月23日 弁護団は「ぶどう酒瓶の王冠を歯で開栓した」との奥西の自白が信用できないことを証明する鑑定書を、新証拠として名古屋高裁に提出した。王冠の内ブタは4つの突起が付いた「4つ足替栓」と呼ばれるもので、弁護団は1つの突起が完全に折れ曲がっていた点に注目。名古屋大学大学院工学研究科の石川孝司教授に鑑定を依頼した結果、人間の歯で開栓した場合、折れ曲がらないことが分かったという。

2004年(平成16年)12月1日までに、弁護団は「判決の認定とは違う農薬が犯行に使われた可能性がある」とする鑑定書を、新証拠として名古屋高裁に提出した。弁護団は「自白や鑑定の信用性に重大な疑問が生じた」としている。弁護団は、事件直後の三重県警の鑑定では「水分と混ざって分解した」として検出されなかった農薬の一成分の鑑定を神戸大、京都大の教授に依頼した。その結果、県警の鑑定とは逆に、水分で分解されにくいことが判明。もともとこの成分を含まない別のメーカーの農薬が犯行に使われた可能性が浮上した。 また、使われたとされる農薬の色が赤だったことも判明。白ぶどう酒に混ぜると赤みを帯びる可能性が高く、自白や関係者証言と矛盾するという。

2005年(平成17年)4月5日、名古屋高裁は、再審を開始する決定をした。小出裁判長は「混入毒物は、奥西の農薬とは異なる疑いがある」と述べ、捜査段階の自白の信用性に疑問を呈した。

死刑確定事件で再審開始決定が出るのは、1986年(昭和61年)の島田事件以来19年ぶり5件目。第7次請求では、名古屋高裁が弁護側の鑑定人を証人尋問し、第5次請求以来16年ぶりに事実調べを行った。島田事件の概要は死刑確定後再審無罪事件

2006年(平成18年)9月11日、名古屋高裁は再審開始決定に対する異議申し立て審で、毒物の鑑定を行った神戸大の佐々木満教授(有機化学)の証人尋問を神戸地裁で行った。異議審の最大の焦点である毒物の同一性について、佐々木教授は「奥西が所持していた農薬と混入された農薬は別の疑いがある」と述べた。検察側は、問題の成分が検出されなかった理由について(1)量が微量だった(2)加水分解して消失した――などと主張。佐々木教授は「別の成分が検出されているのに、問題の成分だけが検出されないのは合理的に説明できない」などと反論した。

12月26日、名古屋高裁は検察側からの異議申し立てを認め、再審開始決定を取り消した。同時に死刑の執行停止も取り消した。門野博裁判長は「本件に使用された毒物は(奥西死刑囚が所持していた)ニッカリンTの可能性が十分にある」と述べた。

最大の争点は、ぶどう酒に混入された農薬と奥西が所持していた農薬(ニッカリンT)の同一性。ぶどう酒内にニッカリンTの成分は含まれていなかったが、この点について検察側は「加水分解されたため検出されなかった」と説明。弁護側は「成分の加水分解される速度は遅く、農薬は別物」と主張していた。門野裁判長は「(成分が)検出されないこともある」とし、「農薬がニッカリンTでないとはいえない」と認定した。さらに再審開始決定の出た第7次再審請求審で弁護側が提出し、新証拠として採用された「2度開栓実験」やぶどう酒の王冠の内側に付いていた足の折れ曲がりの鑑定などについても証拠価値を否定。「新証拠は新規性は認められるが、(死刑判決を覆すほどの)明白性は認められない」と述べた。「2度開栓実験」は、ぶどう酒の王冠を覆う封かん紙を破らずに王冠を開けることが可能なことを明らかにしたもので、毒物混入の機会が特定できないことを証明したとされた。また、王冠の足の折れ曲がりは人間の歯ではなく栓抜きのような器具を使用したことを証明したもので、「歯で開けた」と供述したとされる奥西死刑囚の自白の信用性を否定するとされた鑑定だった。そのうえで、奥西死刑囚の自白について「自らが極刑となることが予想される重大犯罪について進んでうその自白をするとは考えられない」と述べ、信用性を認めた。

2007年(平成19年)1月4日、弁護団は再審開始決定を取り消した前年12月26日の名古屋高裁決定を不服として、最高裁へ特別抗告した。弁護団は「高裁の決定は『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則に反した重大な認定をしており、破棄されるべきだ」と訴えている。

2008年(平成20年)1月30日、弁護団は奥西の供述内容の分析結果などを柱とした申立補充書を最高裁に提出した。弁護側は補充書で、奥西の供述には「秘密の暴露」がなく、多くが取調官に迎合したとみられると指摘。「迎合性が極めて高い」とする心理テストの結果も添付した上で、再審開始決定を取り消した名古屋高裁決定は「供述をことさらに重視した事実認定で誤り」と改めて主張した。補充書提出は前年9月に続き2度目。

名張毒ぶどう酒事件をモチーフにした小説に、『銀の林』(新日本出版社/佐藤貴美子/1998) がある。

参考文献・・・
『名張毒ブドウ酒殺人事件 曙光』(鳥影社/田中良彦/1998)
『犯罪の昭和史 3』(作品社/1984)
『毒 社会を騒がせた謎に迫る』(講談社/常石敬一/1999)

『毎日新聞』(2002年4月10日付/2003年7月23日付/2004年12月1日付/2005年4月5日付/2006年9月11日付/2006年12月26日付/2007年1月4日付/2008年1月31日付)

関連サイト・・・
名張毒ブドウ酒事件

冤罪 名張毒ぶどう酒事件

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