昨日をもちまして、平成20年度の報恩講を無事終えることができました。
住職になって2回目の報恩講でしたが、余裕は全然なくて、そして、色んな事にかけずり回っているうちに3日間があっという間に過ぎ去っていました・・・。
ただね、
2日目の夜の法要のあと、大急ぎで後片付けをしていたら・・・・、ロウソクの火を消す際に、溶けたロウをかなり派手にぶちまけてしまったのです・・・。仏具とか、床とか「お内陣」の中の広範囲にベッタリとロウが付いてしまいました。
なぜ大急ぎで片付けをしていたのか?というと・・・・・、早く、仲間のお坊さん達と飲みたかったからでありますぅぅぅ(苦笑)
最終日を1日残した時点で、ロウで「お内陣」の中を汚してしまった自分が情けなくて情けなくて。
で、その後も気になってですね、眠れなくなって、3日目の早朝4時頃に起きて、ロウソクを除去するスプレーやら柔らかい布などを駆使しながら、なんとかキレイに最終日の法要を迎えようと、パジャマ姿のまま頑張ってました。
でも、ホントに派手にロウをぶちまけてしまったので、結構大変でした。
作業に没頭してたので、あっという間に2時間くらい時間が経過して、外は明るくなってきて、朝の6時を過ぎていました。
すると・・・・、
本堂の外側で楽しそうな声が聞こえ、お寺に人が集まっている気配がするのです。
それは、ウチのお寺の「婦人会」の皆さんでした。
最終日の法要(ご満座)の後に、お参りに来てくれた皆さんにふるまう「お斉(とき)」というお食事を用意するために、朝7時前に集合して準備してくれてたのです。
その「声」と「気配」を感じながら、しみじみ、じ~~~ん・・・としてました。
みんなが報恩講という大きな法要を勤める為に、ホント、支えてくださっているんだなぁ・・・と実感した瞬間なのでした。
昨日(3日)、最終日の「ご満座」の法要では、
本来の「作法」は、覚如上人の書かれた『嘆徳文(たんどくもん)』を拝読することになっていますが、
ウチのお寺では、2005(平成17)年からそれを廃止しました。
その年の報恩講にあたっての「住職の想い」を綴り、「オリジナル表白文」として読むことにしたのです。
昔からの「作法」はもちろん大事ですけど、今・現在の「想い」も儀式の中に盛り込みたい。それには、その『嘆徳文』の拝読する部分を変更するしかないと思ったからです。
今年で2回目になる私KONOのオリジナル表白文を以下に掲載します。
昨年とほぼ同じ箇所もありますが、毎年「更新」する箇所も必ずつくり、最後の法要の場で表現できれば・・・と考えています。
(注・寺院名はネットの性格上、面倒なので伏せさせていただきます。)
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表白
本日、ここに、平成二十年度○○寺・宗祖親鸞聖人「報恩講」の満日中法要をお勤めするにあたり、阿弥陀如来のご尊前におきまして、敬って申し上げます。
昨年住職に就任し、二年目の報恩講をお迎えできました。こうして、たくさんの御門徒様、ご参勤いただいた御法中の皆様のご協力・ご支援を賜り、「平成二十年度 ○○寺報恩講」を無事お勤めできましたことを、今、味わい噛みしめている所です。
さて、報恩講までの今年度をふり返りますと、たくさんの御門徒様のお葬儀をお勤めした一年でもありました。いつもお寺にお見えになりご一緒に聞法をされていた方、昨年の報恩講にはお元気にお参りくださった方、お寺で生まれ育った私を子供の頃から可愛がってくださった方、そんな懐かしい方たちが亡くなってしまうという事実に数多く出遇わなければならない日々でした。 お葬儀を勤めることは、新米住職の私にとって、思わず逃げ出したいのが本音であります。しかし、事実と向き合うことの厳しさ、難しさを思い知らされながらも、そんな私が、座りこんで歩みを止めてしまわないように、たくさんの「学び」の機会をいただいているのだな、と受け止めさせていただく毎日です。
・この私にとって、亡き人はどのような存在になっているか?
・この私にとって、亡き人から学ぶべき「教え」とは何であるか?
・そして、この私にとって、仏教の教えとは、親鸞聖人のお示しくださったお念仏の教えとはどのようなものなのか?
・この私にとって、人生とは、いのちとは、生きているとは、生きていくこととは、何であるのか?
通常の私たちは、何でも自分の都合よくいくのが「当たり前」という土台に立っています。しかし、私たちは「縁起的存在」であり、全てはつながり・関わり合いの中にあり、実際は、都合よくいかない事の方が多く、そこで躓(つまづ)き、苦しみが生まれます。そんな私の為に、お釈迦様は、「世の中はアテにならない(諸行無常)」そして「ママにならない(諸法無我)」という「法(人生のルール・道理)」を覚り、「事実に目覚めて生きよ!」と説かれました。
そして、お釈迦様の教えを深く問うていかれた宗祖・親鸞聖人は、仏教を「南無阿弥陀仏」の「お念仏」として私たちにお伝えくださいました。お念仏の教えをいただく私たちは、まさに、「目覚めて生きる」事の大切さを確認し、「無碍の一道」を歩まれた親鸞さまのお姿に学び続けていかなくてはなりません。
今後も、皆様と共にこのお寺が親鸞聖人のお念仏の教えを学び、それぞれの人生を味わい深く豊かに意味ある日々を歩んで行く為の「聞法道場」となるよう、阿弥陀如来のお導きのもと、たとえ小さな一歩でも「住職」としての勤めを続けていく覚悟であります。そして、皆様との関わりの中で、様々な声が聞ける、声が聞こえるということを大切にして参りたいと思っています。
平成二十年十一月三日 真宗大谷派○○寺住職 釈文秀 敬って申し上げます。
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さ、
また、
来年の報恩講に向けて、1年の日々を積み上げていくのだ。