ニックネーム:Chase
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表面の事象に惑わされず世の中の深層を読み取ることを心がけています。

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2008年09月27日(土)
ポールの政治性についての一考
ビートルズの本格的?評論をやるつもりがなかなか進んでいない。過去の記事を見てみると、”ビートルズは日本人だ”の論は、内容が悪すぎた。タイトルが意味がないし、論旨も酷過ぎた。気が向いたら消去するかもしれません。すみません。

今日、少し筆を進めてみる気になったのは、ポールマッカートニーが、イスラエル講演を行ったとの記事に接したからである(下記に記事転載)。今、思えば、優等生的なビートルズの音楽が、当時はどのような意識で世界の人々に捉えられていたか、今日の若い人はもう知る由もないだろう。保守的な国イスラエルでは、全盛期のビートルズは公演できなかったのもむべなるかなとの思いがする。

そして注目すべきことは、ポールは名前からしてアイルランド系だから、当然カトリックということになり、ナチスとカトリックの関係を想起すれば、いわゆる反ユダヤ主義としてユダヤ教と距離があることになる。このあたりは、亡くなったヨハネパウロ2世が、先年、イスラエルを訪問し謝罪したことからも、根深い対立構造が歴史上続いていたことがうかがえる。ポール自身は、そのようなわだかまりが持っていないはずであるが、この時期のポールの公演は、和解路線の過渡期に発生する事象であると力学的な読解をすべきことがらである。単なる音楽シーンでの出来事ではない。

ビートルズ時代は、ジョンと違って、ポールは政治への深入りは避けた姿勢との印象があるが、しかしあの"Give Ireland back to the Irish"なんて歌を歌ったことを英語が弱い日本人は、当時思わず看過してしまったものである。BBCで放送禁止になったことは知っているが、その背景については、日本人は関心を持たなかったことをよく覚えている。後のIRA闘争なんかの歴史を鑑みても、この曲の衝撃はジョンの”Power to the people”程度のものではなかった。

(転載はじめ)
(産経ニュースより 2008.9.26)
http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/080926/mds0809261125000-n1.htm
幻の公演、43年経て実現 イスラエルで元ビートルズ

25日、テルアビブでのコンサートで熱唱するポール・マッカートニーさん(AP) ビートルズのメンバーだったポール・マッカートニーさん(66)が25日夜、イスラエルで初のコンサートを開いた。ビートルズは1965年に同国で公演を計画したが、政府高官が「若者を堕落させる」として中止させたとされる逸話があり、43年を経ての実現となった。

駐英イスラエル大使は今年、元メンバーらに「深く後悔すべき歴史的怠慢」だったと謝罪の文書を送付。マッカートニーさんはイスラエル側から建国60年記念事業の1つとして公演を依頼された。

中部テルアビブの野外ステージには、若者から中高年まで約4万人が詰め掛け、マッカートニーさんはヘブライ語とアラビア語の両方であいさつ。「イエスタデイ」などのヒット曲を披露したほか、中東和平に思いを込めて「ギブ・ピース・ア・チャンス」(邦題「平和を我等に」)を観客と掛け合いで歌った。(共同)
(転載おわり)
2008-09-27 20:29 | 記事へ |
| ビートルズ |
2008年09月26日(金)
日本人は作為の契機を獲得できるか
近代社会のメルクマールのひとつとして「作為の契機」の概念がある。戦後最大の思想家の丸山真男氏が重視した概念であった。作為の契機とは、人は社会を主体的に変えていける考えることである。人が、意思、目的をもって自由に行動することである。敗戦後、東京裁判の例を見るまでもなく、一億総懺悔、一億総無責任体制を発揮した我が日本民族は、「作為の契機」概念、すなわち近代化とは無縁の国民性を余すことなく示した。

このエトス(行動様式)が、今なお全く変わっていないことは、植田信先生が、「律令理性」の概念で日々立証され続けておられる。しかし、今更の話しながら、これだけ、国際間の往来・交信が進んでもこのシステムは堅牢無比なままなのであろうか。決してそうではないだろう。やはり社会的な外力が働けば、近接していくことは可能だと希望を持ちたい。なんて考えていたところ、植田信先生のサイトで、「野村、リーマンを買収し、三菱UFJはモルガン・スタンレーの筆頭株主に 」http://8706.teacup.com/uedam/bbs/6336の記事を拝見した。

これは、アメリカのバブルが破裂したことによる一種の棚から牡丹餅であったが、世界最先端を走るアメリカ金融機関の筆頭株主という立場は、未曾有の境地であろう。植田先生曰く、”日本金融人は、ここでリーダーシップを発揮できるか。 できるかどうかではなく、アメリカにその力がなくなった今、どうしても発揮しなくてはならない状況を迎えました。”とのこと。これまで、”状況を見極めて慎重に判断したい”という常套句で経営を行ってきた日本株式会社経営陣は、果たして変わることができるであろうか?リーダーシップをgeneralizeすれば、まさに作為の契機の発揮だ。アメリカでのクラッシュの成り行きに注目していきたい。
2008-09-26 12:38 | 記事へ |
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2008年09月23日(火)
太田述正の属国理論
待望の太田述正氏の新刊「属国の防衛革命」が出た。あにはからんや、太田氏の肝心の防衛論は示されていない。なんと属国であるから、何をいっても無駄とのこと。いやはや太田節がいきなり炸裂といったところである。その点、期待を裏切られたが、太田氏の基本理論をまとめて提示しており、氏のブログを散見するより楽なところはありがたい。

ところで、日本はアメリカの属国であるという場合の、属国という用語は、ブランドとして、近年では副島隆彦氏の独壇場であった(本人は、その意味するところを含めて所有権を主張している)。昔では江藤淳、ちょっと前なら小室直樹等々が使っていたが、副島隆彦氏は、歴史に連なるジャパンハンズの存在を指摘しながら属国論を展開していったところがこれまでの論者と違うユニークな点である。しかし、副島氏は怒るかもしれないが、ジャパンハンズのモチーフは落合信彦氏のかっての一世を風靡した一連の著作にあるのではないだろうか。落合氏は、日本国内の"counterpart"、"agent of influence"に関するヒエラルキーをよく指摘していたからである。

閑話休題。太田氏の属国論と副島氏の属国論は中味はてんで違う。太田氏は、副島氏の影響は受けていないと思われるが、属国論のブランド自体は薄々知っていたのではないかと推察する。しかし、その根本が大違いであるために、独自の属国論をまわりをかまわず構成できたのであろう。

その属国論の根幹だが、これは新刊の冒頭の論に出てくる。それは、日本は属国にさせられているのではなくて、自ら進んで属国になっているという点だ。前者は、例えば"war guilt information program"の存在なんかを持ち出して盛んに右派の論客から提示されている概念である。この理論は、いわゆる国の歪みをアメリカのせいにすることで自己免責しやすい。あわせてモラルハザードも生む考え方だ。

太田氏の属国論は、朝鮮戦争以降は、アメリカは日本を真の独立国に誘導しようと努力してきたが、日本が惰眠を貪り、属国にすすんで成り下がってきたというものである。確かにこの感覚のほうが、我々を覆っている気持の根本を抉り出しているようでしっくりくる。朝鮮半島文化にある事大主義となんら変わることのない卑屈な思想だ。皮肉な?余談だが、ここでは、副島隆彦氏の理論が使える。すなわち日本文明なぞは存在せず、東アジア文明の中の日本文化(a cultute)であるということだ。
2008-09-23 07:59 | 記事へ |
| 思想 |
2008年09月20日(土)
竹中平蔵と寺島実朗は水と油
竹中平蔵と寺島実朗がウェークアップに同席していた。最後の方で気づいてしまったと後悔したが、政府系金融機関についてのやりとりでやりあっているところだけは見ていた。瞬間的に、あーもうこの二人は水と油だなあという感じで、竹中氏は寺島氏など歯牙にもかけない風情であった。依って立つイデオロギーが全然違う。語弊はあるが、竹中氏はいわゆる新古典派、寺島氏はケインジアンといったところだ。以前にも述べたが、寺島氏は見た目と喋り口に重厚さを漂わせているが、政策に関する主張は現実性がなく評論家のためだけの評論家である。竹中氏はアメリカ盲従?姿勢は警戒すべきであるが、政策的な対応はプロであることはこれまでの実績が証明している。

竹中氏は高橋洋一氏とコンビで、反米系評論家から、売国奴のレッテルを貼られているのは周知の通りであるが、彼らの話自体は、そもそもの頭脳のレベルの高さが随所に出たりして、ついついパンピーの私なんかは理解したくなる話術の持ち主だ。話し言葉で、根拠や推論の項が入るため、論理がよく通っているのである。その内容に異論を持つものであっても彼らの話しぶりについては学ばねばならない。

実際のところ、彼らがどれだけ売国奴(失礼!)なのかは、反対者との対面ベースでのやりとりを聞けばおおよそ判断できるであろう。テレビでは難しいだろうから、ぜひ雑誌でやってほしいものである。エコノミスト誌あたりでもいいだろう。

最近の竹中氏の言辞でやり玉に挙がっているものを備忘録として掲載する。ジャーナリスト上杉隆氏との対論である。これを読む限り、リーマンショックの真っ只中の現在、確かに異様に聞こえる。(08/09/23に加筆:三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)や野村ホールディングズが、電光石火でモルガンスタンレーやリーマンに出資・買収を行った。中立的にいえば、以下の竹中氏の言辞と符合する。)

(転載はじめ)
竹中 サブプライム問題は新しい事象なので、全体像を把握している人は誰もいないと言ったほうが正しい。私は、アメリカ経済は長期的には強い成長力を持っていると思うんです。今回打撃を受けても、やがてどこかで金融の混乱は収まってくる。リセッションになるかもしれないけれども、ある程度回復する力は持っていると思います。

私は実は、日本のほうを心配しています。サブプライムの影響そのものは大きくないが、円高を通して輸出産業が影響を受ける。一方で改革が進まず内需が弱い。日本をよくすることは、サブプライムとは別に考えていく必要があります。

そこで今回、ニッポンの作り方として、「民営化された日本郵政はアメリカに出資せよ」とぜひ申し上げたい。さきほどキャピタル・クランチの話をしましたが、アメリカではここ半年くらい、俄然一つの問題が浮かび上がっているんです。アメリカの金融機関が資本を受け入れるときに、誰が出するかということです。そこで、最近のキーワード、ソブリン・ウェルス・ファンド(SWF)があります。政府系ファンド、つまり国が持っている基金です。アメリカの金融機関がSWFからお金を受け入れるケースが増えていますが、一方で、他国政府から資金を受け入れてもよいのかという問題がある。ある国が政治的な意図をもってアメリカの金融機関を乗っ取ってしまったら、アメリカ経済が影響を受けるのではという懸念も出てきています。

翻って考えると、日本にはかつてとんでもなく巨大なSWFがありました。それが今の日本郵政なんです。資金量でいうと300兆円。他のSWFとは比べ物にならないほどのSWFがあったんです。民営化したので、今はSWFではない。だからアメリカから見ると安心して受け入れられる、民間の資金なんです。アメリカに対しても貢献できるし、同時に日本郵政から見ても、アメリカの金融機関に出資することで、いろいろなノウハウを蓄積し、新たなビジネスへの基礎もできる。
(転載おわり)

http://diamond.jp/series/nippon/10003/?page=2より転載
2008-09-20 14:05 | 記事へ |
| 人物 |
2008年09月15日(月)
大恐慌が始まった。
いよいよ正真正銘の大恐慌が始まった。リーマンブラザーズの倒産がその号砲を告げるものである。大方の予想を裏切り破産法の申請とはまさに驚天動地だ。信用収縮とはこんなにも苛烈であることをあらためて世界に知らしめたのが今回の破綻劇である。世界の資金調達が一斉に緩和化され危機回避のあらゆる手段が尽くされることであろうが予断を許さない。

日本の休み明けの株取引は売り一色に染まるであろう。暴落は間違いないがどの程度の下げ幅かに注目が集まるはずである。大怪我を恐れた損切りが素人投資家をはじめとして一斉に行われるはずである。大手証券会社の幹部は戦々恐々であろう。全面ストップ安になる可能性も高い。

1998年だったかLTCMの破綻劇を思わせるが、今回は倒産そのものであり、名門中の名門の一角が崩れるショックは大きい。今から一年間、いったいどのような世界が現出するのか。自分に降りかかる火の粉を振り払いながら何とか生き延びたいものである。
2008-09-15 20:54 | 記事へ |
| 世界経済 |
マスコミの堕落
日本のマスコミの堕落は人口に膾炙したものがあるが、記事の重大さの優劣のセンスもどうしようもないものがある。

最近で言えば、北朝鮮の金正日総書記の重病説だ。今後の推移によれば、難民の大量流出、核兵器の拡散等の深刻な問題を引き起こす可能性が大であり、多くの目の監視が必要な問題だ。自民党の総裁選挙に浮かれているこの国ではすでに権力の空白が生じており、半島情勢に伍していないことが懸念されている。これはもう連日、一面に掲載していかねばならない問題である。

他でいえばリーマンブラザーズの買収問題だ。これは超弩級の事件であり、対応を誤れば世界大恐慌の引き金を発しかねない問題だ。サブプライム問題が一息ついたなどの報道もあったが、逆にその深刻度は増していたわけでありこのような基調で報道したマスコミはなかった。


ファニーメイとフレディマックはアメリカ政府の救済が強調されているが、どこまで現実的かは懐疑的だ。このような倒産に係る事象は、常に性悪説で見ていかないと、一瞬にして消えてしまったとだけしか見えない。

日本の金融機関もサブプライムに係る貸付状況は深刻なものがあるが、情報操作により取り上げ方が地味だ。だからすべての事件が因果関係が判然とせずに結果が出たときだけ大騒ぎする。分析能力がないマスコミの常だ。当事者意識がなく分析能力もないわがマスコミの堕落は底が抜けて久しい。上杉隆氏の著作の通りである。
2008-09-15 08:35 | 記事へ |
| マスコミ |
2008年09月10日(水)
保守派の分裂
積読していた中川八洋氏の皇位継承に関するいくつかの本を再読したが、内容はともかく氏の批判は表現が強すぎるものが多く、その点が惜しまれる。皇室の危機を感じればこその言い振りであろうが、批判された側は、その時点で聞く耳を持たなくなるだろう。

それはともかく、保守派および民族派(保守派との違いは曖昧)における近年の分裂ぶりは深刻なものがある。大きく見れば、これもアノミー現象の系なのであろう。点ばかりが存在して派閥さえ感じられることが少なくなった。中川氏は渡部昇一氏しか支持者はいないようかのようだ。大原康男氏や前回取り合げた高森明勅氏は大東塾系だろうが他の拡がりが感じられない。小林よしのり氏くらいだろうか。

目立つのはあの西部すすむ氏の孤立だ。氏はパール判事批判で形勢が極めてよくない。正論で小林氏と八木氏に総攻撃を受けていた。西部氏が鳴り物入りで、中島岳志氏と上梓したパール判事に関する本は、要領を得ない面白くない本だ。西部氏の批判は一にも二にも設計主義批判がベースにあるものであり、すべての思考はそこから演繹されてきている。パール氏が法実証主義?によってA級戦犯無罪を下したとして法実証主義は設計主義に淵源があるというモチーフなのである。すべてがこの調子で切り込むからなんだかワンパターンに感じてしまうのである。

中川氏によれば、法実証主義のセルゲンはスターリン主義の極左とのことであるが、この人にかかると極左か否かでこれも西部氏とは違った意味でよろしくない。ところが中川氏と西部氏は設計主義批判では全くベクトルを同じくしている。違うのは親米か反米かという点で正反対だ。

近年の保守派?内の反米派について、猪瀬直樹氏は保守の中の左翼とレッテルを張り、うるさい奴等だと酷評している。竹中平蔵氏が売国奴だという批判に対するスタンスなのであろう。中身は異なるが、現在のアメリカ政府を仕切っている体制に対して副島隆彦氏、小林よしのり氏も大きな疑義を呈している。

まとまらないが、やはり大事なのは保守および右の定義である。これは経済体制を安易に含ませてはならないことに留意すべきだ。いわゆる資本主義擁護は右などという考え方である。この考え方がぶれるものだから戦前の皇道派のイデオローグとなった北一輝が安易に左翼などと分類されてしまったりして混乱する契機になっている。

簡単に言う。保守および右とは、建国の国是および連綿と続くイデオロギーに忠実であろうとする態度である。この定義を使えば、日本において、資本主義か否かなどは何の意味もないことは明白であり、天皇を含む皇室制度の護持か否かにその核心がある。アメリカでは違う。彼の国では、資本主義は建国のイデオロギーであり、それから自由、キリスト教保守派などもそうである。そのような思想に忠実な態度がアメリカにおける保守派なのであり、日本の保守派と何の関係もなく親近性もない。せいぜい国を大事にしようという大枠ぐらいであろう。

2008-09-10 12:22 | 記事へ |
| 思想 |
2008年08月30日(土)
皇室のあり方
今回の朝まで生テレビもなかなか面白かった。西尾幹二氏の雑誌「WILL」の皇太子殿下への諫言云々の連載が発端らしい。10年ほど前、週刊文春などでも皇后陛下への批判があった。構造的には前回と似ている面がある。つまり皇室を批判している思想的バックボーンがいわゆる保守派といわれる人たちのものだったからである。前回の騒ぎは右翼の襲撃で幕を閉じた?が、今回の顛末はどうだろうか?

ここで実は大きな問題がある。つまり皇室を批判することが保守派・右翼に理論的に可能かという点である。このことを根本的に考えるのはそれほど容易でない。言葉の定義をしっかりしつつ論を積み重ねないと語弊の渦に埋没してしまいかねない。

まあそういわず一言で言ってみると、日本においてはそのような批判は理論的に可能ではない。したがって、西尾幹二氏は保守派でも何でもない立場からの批判である。もう少しいうと”あるべき天皇の姿”をイメージして、その差異を批判するという構造は、日本の思想上は左翼に属する。2.26事件の皇道派も同根だ。

皇室への批判は日本の保守派からはありえない。輔弼・補翼、卑近にいえばサポート、助言あるのみである。共演していた高森明勅氏は、そのことをよくわきまえている論客である。説明も理論的で上手だし、皇室の歴史にも通暁している。大東塾出身なので右翼などというレッテルを貼られているが、いわゆる正統派右翼に属する?だろう。

ところが、余談だが、あの中川八洋氏は、高森明勅氏の女系天皇容認論をはじめとする皇室論、その他の叙述を展開したことで、隠れ共産主義者の馬脚をあらわしたなどどその著書で批判していた。中川氏の著作を見ると、なるほど皇統というものは極めて慎重に考えねばならないことはよく分かる。でもしかし、中川氏が高森氏を共産主義者と批判するに及んではいうもいったりである。

アメリカの右翼がCIAを共産主義者と非難していたが、少し似ている感もある。ともあれ、高森氏への批判からすると中川氏はウルトラ右翼とでもいうべきかもしれないが、中川氏はアメリカとの同盟をなぜか異様に尊重している。TVでの登場も、竹村健一の番組で、鈴木善幸首相が日米安保は軍事同盟ではないなんていったことに関して、大批判を行った時がデビューである。爾来、アメリカの軍事政策への日本の関与をしきりに訴えていた。なので、いわゆる新右翼(ヤルタ体制打破)の類ではないのであろう。いったい日本の思想の系譜はどうなっているのだろうか。
2008-08-30 21:29 | 記事へ |
| 皇室 |
2008年08月26日(火)
評論家を見極めるメルクマール
重村智計氏が北朝鮮の金正日総書記のダブル説を週刊現代紙上で発表し話題になっている。独裁者のダブルの存在は常識に属することであるが、重村智計氏によれば、すでに本人は死亡しダブルと操縦する集団指導体制に移っているとのことである。講談社の現代新書でも、今現在のダブルの可能性を示唆した本を出している。満を持しての発表だったのだろう。

しかし、予想されるがごとく各所で批判に晒されている。出身母体?のサンデー毎日でも、殿ご乱心といわんばかりの批判記事がでていた。しかし、批判の根拠自体は示されていなかった。日中韓の当局がそんな情報を掴んでいないわけがないとの思い込みだけが根拠だった。

それはともかくこのような説の真贋を一般人が見極めることはできない。間違っている可能性も十分あるだろう。そんなことよりも評論家の言説に信頼が置けるかどうかが問題だ。信頼を置くということと間違ったことを言わないということは必ずしもイコールではない。重村智計氏自身、これまでに書いたことが間違っていたことが何度かあることが、サンデー毎日でも書かれていた。

しかしながら、重村智計氏の書いたもの、実績を見れば(典拠省略)、氏は極めて事実に忠実で、勇気を持って報道に携わっていることは明白だ。その結果の予測・推測の間違いならいたしかたがないだろう。直観といえばそれまでだが、そこらあたりのポンコツ評論家とは雲泥の差を感じる。

太田述正氏も真面目で正直な評論家である(しかし、太田氏は重村氏の本「外交敗北」を読むに値しないとブログで揶揄しいたが)。小林よしのり氏も毀誉褒貶はあろうが、信頼できる人であると感じる。猪瀬直樹もあまり人柄は好きではないが、言っている事は素直に聞ける。あの?竹中平蔵にしたって各所でいわれる売国奴というレッテルには与したくない(小林よしのりは竹中をこき下ろしている)。

人物を挙げれば挙げるほど人物相関がぐちゃぐちゃになってくるが、一番大事な観点は、その評論家・学者がタブーに斬り込んで発言しているかどうかだ。この一点が、評論家を見極めるメルクマールだと私は思っている。安全地帯での発言しかないのなら、いくら鋭くてもパンピーの類に属するといっていいだろう。
2008-08-26 18:33 | 記事へ |
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2008年08月15日(金)
日本柔道は死んだ
北京オリンピックで、日本の柔道が惨敗を続けている。谷亮子の試合でも以前感じていたが、もうレスリングとモンゴル相撲を合わせたような競技になってしまったようだ。足を掴んで倒すというのはいかにも卑怯な勝ち方である。こんな技は反則にしないと元来の柔道が全く失われてしまう。加納治五郎?だったか、講道館柔道の祖がもし今のオリンピックを見たら、とても柔道とは思わないであろう。

両者腰を引いた体制で組み合う姿は無様としかいいようがない。こんな柔道で負けない試合をやろうとすれば、レスリングに徹するしかないだろう。大体何だ、あのモンゴル相撲みたいな技で鈴木に勝った試合は・・・。勝ったほうも負けたほうも情けないとしかいいようがないではないか。恥ずかしくないのだろうか、あんな競技をせこせことやっている自分を。こんな柔道だったら負けても何の悔いはない。筋力の大小ですべてが決まってしまうようになるだろう。日本柔道は完全に死んだ。
2008-08-15 12:47 | 記事へ |
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