ニックネーム:Chase
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表面の事象に惑わされず世の中の深層を読み取ることを心がけています。

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2008年11月08日(土)
田母神航空幕僚長の解任が示す日本の病理
田母神俊雄航空幕僚長の解任が話題となっている。この事件?はいろいろなカテゴリーから日本の病理を指摘するのに格好の分析対象であろう。当代随一の論客である植田信先生、太田述正氏がいち早く取り上げている。

植田信先生は、田母神論文については、それがスティムソンの東京裁判の範型の中で動いていることを一瞬にして看取された。この表現は流石(私程度がいえないが)というべきである。先般、丸山、小室の思想がヘーゲル哲学圏内のエピゴーネンであることを喝破なさったことを思い起こし思わず唸ってしまった。

太田氏は、こんな風である。(引用はじめ)職を賭すのであれば、もっと他に訴えるべきことがあるだろう、と私は思う。私は、「航空自衛隊の組織の内情は無茶苦茶なのが実状だ。そうした環境の下、空自はパワハラが数多く見受けられ、また陸海空の中でも最も業者との癒着がひどい組織だといえよう。」と『実名告発 防衛省』の37〜38頁で記したところだ。(引用おわり)

ということで、その純粋な?意図とは裏腹に自衛隊の改革に大きな水を差すことになったと指摘されている。

私は、今回の田母神俊雄問題について、両雄がご指摘なされた以外の視点から述べたい。

それは、田母神俊雄航空幕僚長の解任は間違いであるということである。

理念型として言い切れば、単なるイデオロギー表明にすぎないことに対して、たとえ政府中枢の組織に属する人間に対してであっても、国家権力が、人間の内面の自由に対して干渉することは絶対に避けなければならないことである。田母神俊雄氏は、この論文を大いなる意図を持って発表したかもしれないが、政治的統制(シビリアンコントロール)には服すはずであり、そのことはアプリオリに設定すべき前提だ。仮に少しでも服さない態度を表明した時は、その時こそ間髪入れずに解任すべきである。

この主張の根拠は、近代国家の大きな特徴が、中性国家であるということにある。

あの丸山真男氏の論文「現代政治の思想と行動  丸山真男 著 未来社 増補版 P13/7-9より」から引用しよう。

(引用はじめ)
それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的な立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。
(引用終わり)


このことは一般国民に対してだけの適用ではない。総理大臣に対しても同様である。麻生総理大臣が、端的にいえば歴史修正主義に近い史観を持っていることは、これまでの麻生総理の言動からつとに知れ渡っていることである。村山談話なんぞ相いれないことは明らかであろう。もちろん総理就任後の言質ではないことはいえるのだが、思想が人生後半期に変わる人はいない。

同様に麻生氏の部下である田母神俊雄氏がどこかの懸賞論文に応募してイデオロギーを表明したからと言って上述の中性国家としての理念型の貫徹の趣旨からいって問題とすべきことではない。加えて中性国家が村山談話なんぞを正史?としているかのごとき現況は、相も変わらず日本が近代国家以前であることの証である。斯様に前提から崩れている話についてあれこれ論及する虚しさが漂う。


(転載はじめ)東京新聞より
空幕長論文 不祥事続発省内怒り 『内容は持論』認める
2008年11月1日 朝刊

航空自衛隊のトップが政府見解に公然と反旗を翻した。日本の過去の侵略や植民地支配を正当化した田母神俊雄航空幕僚長の懸賞論文。浜田靖一防衛相は三十一日夜、空幕長解任に踏み切った。イラクへの自衛隊派遣をめぐる司法の違憲判断に「そんなの関係ねえ」と言い放った人物。その立場をわきまえない主張に「あきれ果てた」「あまりにひどい」と批判が渦巻いた。 
(転載おわり)

2008-11-08 21:08 | 記事へ |
| 国内政治 |
2008年11月06日(木)
A Hard Day's Nightのイントロの謎が解明された!
これは面白いニュースが出た。ビートルズA Hard Day's Nightの冒頭の「ジャーン」という音を数学で解明したというのだ。詳しくは転載記事を読んでいただくとして、私は中学生の時、譜面を見てGsus4とあったので、3フレットのバレーのポジションで弾いていたのと開放弦ベースで、1弦はF、2弦はC、3、4弦は開放弦で、5弦はC、6弦はGの二つで弾いていた。


残念ながら両方とも原曲のサウンドからは程遠かったが、他に皆目あてがなかった。ところが最近のYouTubeでかすかにJohnの手元が見えるのとあるコピー譜面から、1弦はG、2弦はC、他は開放弦という説?を見た。これは原曲に確かに近いのでこれかなと思っていたが、でもしっくりしない印象をも持っていた矢先だった。下の記事を見れば、そのような邪推アプローチは無駄だったようだ。ジョージ・マーティンが言っているようにレコーディング時には好き勝手に音を入れ込んでいるようである。

まあそうだろうな。僕がプロデューサーでも何か面白いことをと考えるだろう。それはさておきこの記事が凄いのは数学的アプローチで解析したことである。音楽と数学の関係は極めて深い。数学者は音楽好きが多いといわれるが、それはその関係性の深さによる。

http://news.goo.ne.jp/article/wiredvision/nation/2008news1-18276.html
(転載はじめ)
英ダルハウジー大学[数学・統計学部]のJason Brown教授が、半年という時間と、高度な数理解析技術を費やしてついに解明した。音楽史上屈指の謎――ビートルズの楽曲『A Hard Day's Night』の冒頭で鳴るあの「ジャーン」という音――のコードを解明したのだ。

ギタリストたちはこの数十年間、このコードがどのように演奏されたのかと頭を悩ませてきた。このコードには、ビートルズにいた2人のギタリストと1人のベーシストが1度の録音では出せないような音が含まれているにもかかわらず、専門家が同曲のこのパートでは多重録音は行なわれていないと断定しているからだ。

解析の結果、このコードには、プロデューサーのジョージ・マーティンが演奏したと思われる5つのピアノ音が含まれていることが判明した。

Brown教授は、フーリエ変換を使って標本化(サンプリング)された音の振幅を分解し、原音の周波数を求めることでこれを突き止めた。[リンク先の記事は、和音の個々の音を解析し、自由に編集できるプログラム『Direct Note Access』の紹介。音声編集ソフト『Melodyne』で知られる独Celemony社の技術]

Brown教授は、自身がまとめたレポート「数学と物理学と『A Hard Day's Night』」(PDFファイル)の中で、次のように論じている。

「では、他の3つのD3音はどうだろうか?[レポートによると、D3が4つ聞こえた後にF3が3つ聞こえるが、4つのD3のうち、ひときわ大きい1音はポール・マッカートニーのベースと考えられ、残り3音が謎とされている]

ジョージ[・ハリスン]の12弦ギターでは1つの音しか出せず、ジョン[・レノン]が6弦ギターで別のD3音を出していたとしても、まだ1つ残る。(中略)ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンは、この楽曲でジョージ・ハリスンのソロの上にピアノの音を重ねていたことが知られている。では、『問題のコード』の一部はピアノの音なのだろうか?」

[さらに、F3が3つ聞こえる謎については以下のように説明している。]「[この周波数帯域では、]、ピアノのハンマーは、3本の弦を同時に叩いて1つの音を出している。これで、F3の音が3つ聞こえる問題については説明がつく。すべて、ピアノが出しているF3音の可能性が考えられる」

つまり、この周波数帯域では、ピアノ内部のハンマーが、平行に張られた3本の弦を叩くことで、3つの音が出されているのだ[ピアノの弦は、高・中音部では1鍵について3本、低音部では2本または1本を叩く]。

これで謎のほとんどは説明できるが、Brown教授は、出所が分からない他のいくつかの音についても、それが何の音か(ジョン・レノンのギターか、ジョージ・ハリスンのギターか、あるいはジョージ・マーティンのピアノか)を解明しなければならなかった。

Brown教授のレポートは、ジョージ・マーティンの自伝『ビートルズ・サウンドを創った男――耳こそはすべて』(邦訳河出書房新社刊)から引用して、次のように述べている。

「『レコードで聴こえる通りのことが、必ずしも実際の演奏で行なわれているとは思わないことだ』と(マーティンは同書の中で)論じ、レコーディングは映画制作と同じで、錯覚を起こさせるために舞台裏でありとあらゆる効果が用いられているのだと述べている」

「時に数学は、最も困難な謎さえ解明してくれるということだ」――お見事、Brown教授。
(転載おわり)

2008-11-06 22:34 | 記事へ |
| ビートルズ |
2008年11月04日(火)
「すみません」を「すいません」というな!
日本語の乱れが氾濫している。特に「すみません」を「すいません」という輩は大嫌いだ。ふざけていっているのかと思ったりする。著名なブロガーでも「すいません」と平気で使う。この程度の日本語のセンスしか持ち合わせないような奴のブログなんか見たくもない。といいつつ毎日みているのだが・・・・(汗)

某サイトよりコピペする。
(転載はじめ)
そもそも「すみません」は、動詞「済む」に打ち消しの助動詞「ぬ」が付いた「済まぬ」の丁寧形「済みませぬ」が元の形である。

相手にお願いや謝罪をする場合は、このくらいのことではあなたの気持ちがすまない、納まらないでしょうが、どうかよろしくお願いしますという気持ちや、それでは私の気持ちが済みません、納まりませんというように、気持ちが離れないというような意味で「済みません」が使われるようになったと言われている。

「すいません」は、「すみません」の「み」が徐々に軽く発音されるようになり、母音の「い」だけが残った形であり、「正しい日本語」とは言えない。

「すみません」と「すいません」は、(意味上の)違いがあるということではなく、畏まった場では本来の「すみません」を使うべきということになる。
(転載おわり)
2008-11-04 22:42 | 記事へ |
| 日本語 |
2008年11月03日(月)
テロ最前線で日本人は戦えるのか
いよいよ米大統領選の日が近づいた。日本でマケイン当選を予想していた人たちは旗色が悪くなってきている。ブラッドリー効果、接戦の際には暴動の可能性も示唆して、可能性の片鱗に賭けようとしている。接戦どころかオバマが地滑り的勝利を得る可能性まで出てきた。誰も分からない投票予測をあれこれいってもしょうがない。日本人ごときが予想するなんてまず不可能だろう。楽しみなのは外れた人たちの狼狽だ。評論家という人たちは、何か目新しい情報を得たときに、後で自分の実績としたいがためにとりあえず流して、後になって結果次第で、利用したり取り繕ったりだ。まあそれでメシを食っている?から仕方ないか。大したメシでもあるまいし・・・。

ところで、米新政権のジャパンハンズの顔ぶれが昨日のNHKのドキュメンタリーで紹介されていた。共和党系はあのマイケルグリーンが登場していたが、お得意の?日本の安全保障面での貢献が何よりも必要であることを強調していた。米大使館の日本人達はそれに対して言葉がなかったのが印象的だ。民主党政権でもブルッキングスが政策で前面に出てくるということで、以前ブログでも紹介したが、アメリカ一極支配から協調主義の時代に入る中で、日本への防衛分担は必然的に求められてくるだろう。

これをアメリカの陰謀と見るか、自分の問題と考えるかは、その分析した人物の日頃の生活態度に表れてくるはずだ。常に3Kの現実から逃れ続けようとする人たちが前者であろう。後者では、多少、自分を客観的に自省しようとする人達であろうが、それでもまさか俺がとは思っていない。アメリカがイラク戦争で数千人の死者を出し続けていることにも鈍感だろう。もっともアメリカの為政者たちは自分の息子なんかは絶対に戦争に行かせないようにコントロールする。あーあ情けない。といって私も戦争は行きたくない・・・。必要であれば自分は行くという意思(常識?)を持たせる国民教育が施されなければまず無理だろう。戦後日本では絶望的だ。というか幕末〜明治〜敗戦期を除けば凡そ日本国民はそんなDNAを持つのであり、その期間(幕末〜明治〜敗戦期)の日本人の行動こそが異常だ。この時期に異様な国民精神を注入したのは一体誰なのであろうか。

閑話休題。ここで桎梏となるのが集団的自衛権の問題だ。アメリカは対テロ戦争最前線での日本の参加を求めている。日本は言わずもがな及び腰だ。それはそうだろう。日本における今の為政者の世代は、戦争を遂行した世代ではないため、若い世代に戦争の最前線に行ってくれとどうしても言えないからである。その説明責任を負おうとした瞬間に政権は瓦解し続けるだろう。それ程、戦後日本では、他国での武力行使にはアレルギー状態が継続したままである。トップダウンで再度強制外科手術するより他は道がない。先の異様な国民精神の再注入をしなければならないか・・・。(情けなくも人ごとで終える)
2008-11-03 11:10 | 記事へ |
| 安全保障 |
2008年11月01日(土)
太田述正氏のテーゼが全国民に布告された
太田述正氏のコラムの#2883(2008.10.31)<皆さんとディスカッション(続x292)>で、集団的自衛権の行使の問題について、太田氏の所見が簡潔にまとめられていた。これを太田テーゼと呼びたい。
(←すみません。著作権に問題ありましたら即削除致します)
(転載はじめ)
憲法で集団的自衛権の行使が禁止されている結果、日米安保条約の下、自らの国土に対する脅威がほとんどない日本では軍事力を持つ意味はほとんどない。だから、政官業癒着構造の下で日本の軍事関係者等は、軍事費を軍事力の整備・維持以外の事に使っている。

米国は、日本を保護する立場にあることを喜んではおらず、日本の「独立」を望んでいる。さて、日本にも核の脅威だけはある。だから、日本も核は持ってしかるべきだ。<しかし、>自国で持っていなくても、宗主国のアメリカが核を持ってるので、アメリカの核をあてにできれば、日本は核を持つ必要はない。

問題は、アメリカが日本の危機の時には核の使用をすると言っていることが信用できるかどうかだ。
このように考えてくると、核保有に「正しい答え」は無さそうだ。私が「核保有論」をはっきり語らないのは、日本が「独立」さえしていないので、そんなことを考えるのは時期尚早だからだ。「独立」した後、国民全員で議論し、核保有をするかしないか決めればいい。先に国民の大勢が「独立」したいという意志を持たないといけない。
(転載おわり)


これは、額縁に飾っておいて何度も繰り返し音読して読む込むべき内容である。残念ながら日本の知的レベルはそこからはじめないと既に病膏肓に入った病状は回復できない。この論理は欧米人なら(自国の安全保障に置き換えたとして)高校生でも組上げることができるものだが、日本人は戦後の桎梏があり、いつまでたってもこのようなレベルに到達しえない。専守防衛論やアメリカ陰謀説がいかに空論で意味がない言説であるか太田氏のテーゼからは自明で導出される。
2008-11-01 19:44 | 記事へ |
| 安全保障 |
2008年10月28日(火)
集団的自衛権は独立国家の要件か
太田述正氏のブログで、集団的自衛権の行使ができる前提が、独立国家であるための要件か否かの問答があった。その中で、KS氏の回答が太田氏に激賞されていた。




(引用はじめ)
<KS>
一、軍隊はネガティブリスト(ハーグ陸戦法規等)のみによって拘束される。
二、軍隊はポジティブリスト(集団的自衛権を行使してよい等)で規制すべきで
はない。
(例外的な項目はあり得る)
三、よって集団的自衛権を行使するか否かの集合範囲でなく、ネガティブリスト
の補集合が担保されているかが軍隊の機能に関する常識である。
四、そうでなければ、戦争を必要と主体的に判断した場合に足かせなく動かすこ
とはできない。すなわち独立国家とはいえない。
五、このような常識によっておかれた軍隊を持つ国が独立国家である。
六、なお、軍隊出動のチェックは国会が行う。

 以上の典拠は、色摩力夫等の一連の著書(小室直樹との共著となっているが、
上記内容は色摩氏担当)
(例)
http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/data/1993002.html
http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/data/1994002.html

<太田>
 すごい! これは天才的回答です。
(引用おわり)

KS氏の回答は、集団的自衛権が独立国家云々の話にとどまらず、そのメタ解釈に踏み込んだものである。原理論というべきか。この程度の常識が日本では通用しないことが、戦後最大の悲劇である。太田氏のいう吉田ドクトリンの帰結なのであろう。あーあいつもながら言ってもしょうがないことをまた言ってしまった。

閑話休題。少し以下を付け加えよう。(某サイトより)
1 自然法上、国家には自衛権がある。
2 国際法上、すべての国家に自衛権がある。
3 国連憲章は自衛権について、第五十一条において、個別的自衛権と集団的自衛権を国家の固有の権利と認めている。
4 サンフランシスコ対日平和条約は第五条(C)項において、「連合国としては、日本国が主権国として国連連合憲章第五十一条に掲げる個別的または集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取り極めを自発的に締結できることを承認する」と明記している。
5 日米間の1960年の日米安保条約はその前文において、「両国が国際連合憲章に定める個別的または集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」と明記している。


そして、内閣法制局の集団的自衛権の行使を認めないとする憲法解釈がある訳であるが、上を見れば明らかに無理がある。憲法は国家を制する命令であることから、戦後の政府がずっと憲法違反をし続けていたことになる。

2008-10-28 22:48 | 記事へ |
2008年10月24日(金)
WBCの監督は投票で決めよ
加藤コミッショナーは前駐米大使である。近代精神の権化たる米国の考え方を肌で知っているはずだ。それなのにWBCの監督問題でこの混迷ぶりである。あーあ日本は日本なりの考え方でよいとお決まりの台詞なのだろうか。支配層がこんな体たらくでは近代化など及びもしない。こんなものを聞くにつれ、植田先生の律令国家論を想いだす。

一番抜けている議論はいったい何か。それは議論を尽くした上で、決着は投票(多数決)で行うということである。最初の投票で過半数を取れない場合は決選投票を行うというオプションもあったほうがよいだろう。とにかく投票して決めることが何より大事だ。デュー・プロセスオブ・ローなんて言葉を持ち出さなくてもよいが、民主主義の基礎ツールを使おうという発想は一向にでてこない。たかが投票ごときというなかれ、ここには数千年に及ぶ人類の発展史が凝縮しているのである。マスコミも例のごとく不透明だ何だといっているが、どうしていいかわからない。投票せよの一言がいえないのではなく浮かばないのだ。


全員一致に拘り、気持ちのよい合意形成を目指すことはいわゆる村社会の掟であり、近代化がなされていない日本社会の不文律のルールであることは飽きるほど聞いてきた。それでも、やはり具体的な踏み込みがなければ、誰かの一歩がなければいけない。小室先生がいわれていた。日本ではザイン(在ること)がゾルレン(なすべきこと)に常に転化していると。自民党の総裁選挙は何とか投票で行っているが、少し下のレベルになるといつもこの体たらくである。

イチローなんてアメリカにこれだけ長くいるのに、ちっとも近代化の常識さえ学んでいないようだ。自分がビッグであることを誇示するしか感心のない男に成り果てた。イチローがいうべきことは、現役監督がやるべきだなんてことではなく、投票で決めようの一言なのである。まあ最低限、対象範囲を合意で決めるというくらいは勘弁してもよいが、最後は投票あるのみ。この一言を出せ!マスコミ!
2008-10-24 00:27 | 記事へ |
| 日本社会 |
2008年10月23日(木)
なるほどなるほど
流行り言葉は面白い反面、うっとうしい面もある。流行り言葉ではなくてもちょっとした言い回しが頻繁に使われているというのもある。"お疲れ様です"というのもそうだ。この言葉は1985年くらいまではそれほど発する言葉ではなくなったが、その後いきなりブレイクした。これはいつも言っているアノミーの進行と絡めて面白く解説できるが、今は面倒なのでとりあえずやめる。

ここ数年、よく聞くようになったのは、『なるほど、なるほど』だ。テレビでもよく聞くし、東京、大阪の人と話すときもしばしば耳にする。確かに「場を持たせる」のにはとっても便利な言葉だ。しかしまずひとつの疑問は、「なるほど」となぜ一回で止めないのかということだ。なぜか二回言うのがパターンのようだ。もうひとつは、「なるほど」って別に思わなくてもいいところでも多用されることだ。これは浅ましさも感じて見苦しい。

人口に膾炙した言葉にあまりに背くのも大人気ないが、その背後に潜む人間性の弱さについては、言葉ごとに敏感になる必要がある。
2008-10-23 00:10 | 記事へ |
2008年10月19日(日)
天然ガスが日本を救う
とうとう出た。ついに出た。「天然ガスが日本を救う〜知られざる資源の政治経済学」(日経BP社)である。日本のエネルギー政策の中心課題であるエネルギーセキュリティについての最高の良著だ。タイトルは天然ガスとなっているが、天然ガスを基軸に他の資源も比較言及しており、単なる天然ガスのプロパガンダ本ではない。いわゆる天然ガス抜きの水素社会の欺瞞性も明確に指摘されており、安易な未来予想論とも決定的に異なる。著者は、資源エコノミストの第一人者として名高い石井彰氏である(プロフは下記参照)。氏は天然ガスの宣伝をどこかの業界から頼まれたわけでもなく、真摯で冷静な学問的判断からこの本を書いている(このことは本書を読めば明らかに判る)。したがって、特定の業界のバイアスがかかっていないことも同著の信頼度を高めている。

この本の出版に際して、私が最もいいたいことは、天然ガスの資源としての有用性の常識が、日本では知られておらず、大いに国益を棄損しているということである。欧米の資源エコノミストからすれば、本書に書かれていることなぞ、特段のものではないと思われるはずである。まさに世界の常識は日本の非常識!といって過言ではない。

中身の概要については、下記のアマゾンの記事を一瞥してほしいが、(日本における)天然ガスのあまりにもの過小評価の不当性を正面から訴えている。昨今の地球温暖化問題の対策としても天然ガス導入が最大の対策と力説しており、いわゆる再生エネルギーがいかに実態のないエネルギーかもあわせて分かりやすく説いている。余談だが、低炭素社会という言葉も、電力業界が戦略的に使おうとしている用語である。何とここには、天然ガスは含まれておらず、原子力と再生可能エネルギーの普及により全体の平均としての低炭素を実現しようとするものである。これは漫画以下の何物でもない。電気だけで世の中が動くと誤解しているとしか思えないような世紀の奇策?である。

長くなるので、少し戻るが、本書はまさに寒天じゃなかった、干天の慈雨!いくらでも賞賛の言葉が出てくる。断わっておくが、私は氏の回し者でも何でもない。天然ガスに必要以上の思い入れを持つものでもない。すべてのエネルギー資源を同列に並べ、その利活用にあたっては、最適化を図るべきという総論を基本的に持っているにすぎない。そんな私でも、天然ガスの日本国内における認知度の低さは切歯扼腕(私がしてもどうしようもないが)していた。最大の問題は、エネルギー政策の歪みがそのまま天然ガスのポジションを落としめていることである。

エネルギー政策の歪みについては、多くの言葉を紡ぐ必要があるが、簡潔をモットーにしているので簡単にいう。それは、原子力への偏重と電力会社のあまりものポジションの強さである。これは日本の国情に伴う歴史的経緯もあり、簡単に批判できるものではないが、21世紀に入った今、この是正は必ず成し遂げられなければならないものである。

まあしかし、余談として電力会社の立場でものいえば、そもそも国から電力業界は原子力を押し付けられたのであって、自らの提案ではなかった。それは、原子力発電所の建設ペースを見れば自明のことである。それなのに現在では、説明責任は基本的に電力業界に預けられている有様だ。まさに植田信先生がいうところの不比等戦略により官僚無謬性が貫徹された事象の一事例であり、げに恐ろしや律令システムといったところか・・・。ともかく、このあたりは天然ガスが東京ガスの強いイニシャチブで日本に導入されたことと対蹠的だ。

閑話休題。
この本は、およそ経済問題(その基本となるエネルギー問題)を論じる人には必読の書である。繰り返すが、日本にとって不幸なことは、本書に記載されている程度の常識がエネルギー業界の常識になっていないことであり、また著者のような論を発信するエコノミストの層の薄さである。人材が払底どころか、そもそもそのような人を育成する産業社会システムが存在していないことである。練習問題「理由を不比等戦略の考え方を基に論ぜよ」。さあどういうかな?簡単なイメージでいうと、あらゆる企業情報データ(大事なもの)を豊富に体系的に有しているのが官僚であり、民間のエコノミスト輩はそれらを与えられておらず近づけもしない。データは論理を構築する源泉である。よって日本には、エコノミストが育つ土壌など一切ないのである。これがこの国の統治機構だ。存在するエコノミストは産業グループの紐付きばかりで、エスタブリッシュメントの繋がりでデータのおこぼれをもらい仕事をやっているに過ぎない。石井氏のような懸命に独自の努力を積み重ねている人は、なかなか日の目を見ないのである。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より転載)
石井 彰
エネルギー・エコノミスト(専門は国際石油・天然ガス動向)。日本経済新聞社記者を経て、1976年よりエネルギー関係団体にてエネルギー投資事業に従事。81年ハーバード大学国際問題研究所客員。3年間の欧州駐在を含めて89年より国際エネルギー情報分析に専ら従事している。1974年上智大学卒。世界ガス会議東京大会国内委員会、石油技術協会資源経済委員会、石油学会等の各委員を歴任

内容紹介(Amazonより転載)
空理空論、現実離れした議論が横行する環境、エネルギー問題。そこにリアルな認識での議論をと一石を投じた1冊。
著者の結論は明快だ。日本のエネルギー問題と環境問題を一挙に解決する救世主、それは天然ガスである。CO2排出量は石炭火力の3分の1であり、積極的に石炭・重油を天然ガスで代替すれば京都議定書も容易に達成できる。しかも、天然ガスは日本の近隣地域、ロシアも含めた「広域極東」に大量に眠っており、エネルギーの安定供給という観点からも天然ガスが優れている。
したがって、風力や太陽光発電などの再生可能エネルギーや、最近脚光を浴びているバイオ燃料などは、天然ガスの足元にも及ばない。

ロシアから欧州につながる天然ガスパイプラインに象徴されるように、欧米では天然ガスの利用が盛んである。一方、わが国では天然ガスの利用度が先進国で最低であり、その力に無知である。わが国有数の資源エコノミストである著者が、あまり真面目に取り上げられてこなかった資源である「天然ガス」について一般向けに書き下ろした。ロシアと中国、欧州との天然ガスを巡る綱引きなど、天然ガスの地政学についても詳述している。
(転載おわり)
2008-10-19 19:06 | 記事へ |
| エネルギー |
オリジナルな言説の創出の困難性
今さっき知ったことを何十年も前から知ったような顔をして平気な人がいる。私も時々やる(汗)。ネットが普及している現在、ブログなんかでは知ったかぶりの話を吹聴する輩が叢生というか、増殖というか蔓延っているというか、もうアナーキーな状態だ。

そんな中で、ゼロからの言説を構想しオリジナリティーを出そうとするのは容易ではない。出来たものにケチをつけるのは簡単だともいわれたりするが、実はこちらも容易でない。ケチつける側の知性を問われるからである。「質問力」なんて大前研一氏の本が出ているように、適切な質問自体、本来難しいものである。

西部すすむ氏の言論界のポジションが劣勢なのを先般指摘したが、上記に述べた観点でいえば、西部氏は極めて自分のオリジナリティーを持っている評論家だ。まあ経験論からの壮大な演繹を唯一の発出点としているだけに、そのモチーフを難解風な言葉繰りながらも見破られやすい弱点はあるのだが・・・。

話は逸れるが氏の言論でもう一つの良い点は、自分を突き刺している点だ。人の批判(ヘーゲル流での意味)をする場合、自分はどう考えているかを問われることになる。その視点を性格なのか、西部氏は発言の際にいちいち断わりを入れる変な癖がある。”もちろん私もその例外ではありませんが・・”なんていう言い方だ。聞いている人が素直に聞けばよいが、明晰さに欠ける印象を与えやすいのは、氏には気の毒にも見える。

話を戻す。人間は時代背景の影響の前には無力だ。したがって、自分の言説がどういう影響を受けているものかを際限なく遡っていく癖を有していないと、オリジナリティーと思っていたものが、突っ込まれた際にたちまち底の浅さを露呈してしまうことになる。その意味で今行う言論は、過去の思想の検証を同時に負っているといえよう。歴史は現代史であるというかの有名なモチーフとも通底しているものがある。
2008-10-19 10:35 | 記事へ |
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