小説本文
倫敦、霧の都。
と言ってもそれは十九世紀のことだったらしく、しかも実は唯のスモッグだったとか。
昨今では霧も少なくなり、今では年に数日だと言う事らしい。それよりも一日の天気の変化が激しいのが、日本から来た俺には驚きだった。
その日、俺たち――俺と遠坂とセイバー――がこの街に引っ越してきた日もそうだった。
朝にこちらに着いたときは晴れていたのに、荷物の搬入を始めた頃から一気に天気が悪化。慌てて荷物を部屋に放り込み終えた頃には、バケツを引っくり返したような土砂降へと変わっていっていた。
「だぁ――――――っ! ロンドン! わたしに恨みでもあるのか――っ!」
で、テラスでびしょ濡れになりながら天に向かって咆えているのが我が愛する遠坂凛嬢。
「凛、とにかく早く体を拭かないと」
そして、荷物の山からようやくタオルを引っ張り出して、遠坂に渡してくれているのが遠坂のサーヴァント、つまり英霊で中身はアーサー王というセイバー。俺たち王様にお世話されていて良いのだろうか?
ちなみに俺は遅くなってしまった昼食の支度をしている。
とはいえ碌な物はない、米と味噌、一通りの調味料、後は卵だけ。炊飯器が発掘できないため鍋で米を炊き、あとはわかめの味噌汁と出汁巻き、途中で買ってきたフィッシュ・アンド・チップスという恐るべきメニューだ。セイバーが怒らなきゃいいが……
「そろそろ出来るぞ、場所作っといてくれ」
俺は居間の二人に声を掛けた。
あかいあくま
「真紅の悪魔」 −Rin Tohsaka− 第零話
Asthoreth
「へぇお鍋でもお米って炊けるんだ」
「やはりシロウのご飯は美味しい」
予想とは裏腹に昼飯はかなり好評だった。というか二人とも米ばっかり食ってる。
まぁ荷物が着くまでの一週間、ずっとホテル住まい外食三昧だったので米に飢えていたのだろう。やっぱり日本人は米と味噌汁だ。………はたしてセイバーにもそれは該当するんだろうか?
「さっさと食って荷物の整理するぞ」
そんな二人に内心苦笑しながら、俺は急かすように言った。なにせ幸せそうにお米を食べている二人は、このままだと腰を落ち着けかねない。
「別にいいじゃない、お茶してからでも。寝るところが無いわけでもないんだし」
遅かった……すっかりお尻が重くなってますよ遠坂さんは。確かにまぁ日本人が考える引越しとは印象が違うな。俺はこれから数年住処となるフラットを見渡した。
ここは学院の寄宿舎であるのだが、寄宿舎というスケールではない。なにせアパートメントのワンフロア全部なのだ。5LDK+工房があるのだが、まず一部屋一部屋がでかい。一番狭くて日本の十畳間以上である。工房とLDKなどは10m四方はありそうだ。しかも全室家具付き、ちょっとした庭ほどの大きさで温室つきのパティオ迄ついている。セイバーは道場がないとご不満のようだったが……
まぁ考えて見れば学生とはいえ、特待生ともなると弟子を数人引き連れており、自家工房での研究も大切になるのだそうだから、それを考えたらこれでも手狭かもしれない。
だから日本からの持ってきた荷物は基本的は小さい物ばかり、嵩もさほどではない。ただその細かい物が未整理で箱に詰め込まれ、居間に山積になっていることが問題なのだ。
「そりゃ食う寝る住むだけなら良いけど、まだ工房用と生活用にさえ分けてないじゃないか」
そう、しかも今はその山には魔具と食器、薬品と調味料、魔術書とコミックが分け隔てなく生息しているのだ。
「大丈夫よ、箱ごと部屋割りして行けばすぐ済むわ」
そう言って遠坂は休も休もと誘惑してくる。
「凛の荷物が一番多いのですから、凛がそう言うのなら確かでしょう」
セイバーも同意する。仲良きかなマスター&サーヴァント。
「俺の荷物も大した事ないし……家電製品は俺がやればいいか」
元々俺はさほど物を持っているわけじゃないし、ロンドンに持ってきた物だってたかが知れている。セイバーだってこの一年で着る物とかちょっとした小物はだいぶ増えたが、それでも同じ年頃の女の子の数分の一だろう。
そんなわけでちょっとくらいはいいかと思いながら、俺はお茶の支度をすることにした。
一服終わって、まず俺たちは俺とセイバー、遠坂の私物を掘り出し、さらに魔術関係とその他に分けた。
ここまでは良かった。
俺とセイバーの私物があっけなく終わり、遠坂に声をかけた辺りから様子がおかしくなってきた。
「あれ? 遠坂居ないぞ?」
俺が部屋を覗くとそこに遠坂は居なかった。それどころか運び込んだ荷物の開封さえされていない。
「工房でしょうか?」
肩越しにセイバーも覗き込んでくる。中腰の俺の背中に乗っかかるように覗き込むものだから……いや、その……健全な青少年としては実にあれだった。昔はこんなことされたら跳び上がったもんだ、などと感慨にふけっていると、
「あら? 随分と仲がよろしいのね?」
後から柔らかで不機嫌な声が掛かる。
どわぁ!
俺は慌てて立ち上がろうとしてセイバーを跳ね飛ばす形になってしまった。とっさにセイバーに手を伸ばすがそれで今度は俺のバランスが崩れ。結局……
「シロウ、大丈夫ですか?」
セイバーに抱きかかえられて事なきを得た。
いや、分かってたんだけどね、俺よりセイバーの方がずっと身のこなしが素早いってのは……でもさ、男としてこれってどうよ?
「あ、セイバー有難う」
ともかく男の尊厳について哲学的な考察は後にして、俺はセイバーに礼を言った。
「いいのですシロウ、私は貴方の剣となり盾となると誓ったのですから」
セイバーは嬉しい事を言ってくれつつ体勢を入れ替える。ん? セイバーさん? どうして君は俺を遠坂の前に突き出すのかな?
「すまないシロウ……令呪の命令には逆らえない……」
そうか……て、ちょっと待て令呪なんてもうないだろ! あ、セイバー! 今、目で笑ったな、判ってやってるんだなこんちくしょう!!
「衛宮くん、わたしの話を聞いてくださらないの?」
遠坂が一つ咳払いして微笑む。うわぁ……すげぇ綺麗な青筋……て止めろ! 頼むからにっこり笑って涙目で首絞めるのは止めろ!
「すまない凛、少し悪戯が過ぎたようです」
ふいに横合いから声が掛かる、悪戯っぽく笑うセイバーという実に珍しい情景に、俺も遠坂も一瞬あっけに取られた。
「しかし凛も悪い、もっとシロウを信じてほしい。確かにシロウは女性に優しいが自分から手を出すような真似はしないはずです。それに……」
なんとも微妙な表現をなさいますね。
続いてセイバーさんはにっこり微笑んでストレートど真ん中を投げてくださいました。
「シロウは凛を愛しているのだから」
あ、遠坂が固まった。いやぁ見事に真っ赤に茹で上がったな。わかるぞ、俺も固まってるしきっと顔も真っ赤だぞ、うん。あ、でも首絞めたままもじもじするのは良くないぞ、ほら俺の視界がどんどん狭まってく……
「それよりも凛、工房の方は片付いたのですか?」
そんな俺たちを見やりながら、セイバーはよしよしといった顔で遠坂に尋ねる。ん? どうした遠坂?
「……あ、いや。ちょっと手間取っちゃって、士郎とセイバーはそろそろ終わってるかな、なんて…」
遠坂は漸く俺の首から手を放すと、なにやら手振り身振りで意味不明な事を言う。
まこと歯切れが悪い。実に遠坂らしくない、ということは遠坂らしくない状態なのだろう。
「手伝うぞ、ぜんぜん出来てないんだろ?」
「ぜ! ぜんぜんって訳じゃないんだから!」
がぁ――っと叫ぶ遠坂。でも顔が赤くて視線そらせるてるからやっぱり全然だったらしい。
「分かりました、私が凛の部屋を片付けますからシロウは凛の手伝いを」
セイバーが些か呆れたように諦めたように言った。あれ?
「セイバー、遠坂の荷物なんか分かるのか?」
「ええ、凛の家に泊まってるときはいつも私が整理していましたから、大抵の物は分かります」
本当に召使(サーヴァント)してたんだな……
「遠坂ぁ〜」
「だ、だってセイバー上手なのよ、あれが無いこれが無いって言うとすぐ見つけてくれるし……」
まぁうちに居た時も炊事はともかく掃除とか良くしてくれたしなぁ、人のことは言えないか。
俺はとにかく遠坂を手伝って工房を整理することにした。
で、頭を抱えた。
「遠坂〜」
引っくり返った玩具箱を、この歳になって見るとは思わなかった。といえば分かるだろう。
「ひ、一通り出さないと何処に何をしまっていいか分からないでしょ!」
「だったら分類しろよ! 雑然と床いっぱい並べてどうするんだよ! 真ん中のやつ取れないぞ!」
しょうがない……端からやっていくか。
「取敢えず、どれからだ?」
「あれ……」
遠坂の指差す先を見る、うん、チェストか、あれに小間物しまっていくんだな……で、何故真ん中にあるんだ?
俺は仕方が無いと掻き分けて進む。道が出来るように小物を拾っては遠坂に渡していく。
さてようやくたどり着いたぞ………
「遠坂?」
「なに? 士郎」
「何故今作った道が無いんだ?」
「士郎が渡してくれた物おいたから」
ああ、納得………出来るか―――――っ!
「あ〜もうなんだってそんなに要領が悪いんだ! お前優等生じゃなかったのか!!」
「優等生とこれとは別じゃない! わたしだってきちんと整理したいわよ! だから広げたんじゃない! 遠坂邸なんて積み重ね積み重ねで地層みたいになっちゃって探すの大変なんだから!」
「開き直るな! ていうか威張るな〜っ!」
「だから今度の家はちゃんとしようとしたんじゃない!」
「全然ちゃんとなってないじゃないか!」
「これからちゃんとするわよ!」
「これからっていつだ! 何時何分何秒からだ!」
俺たちは子供の喧嘩を始めてしまった。
そこに、ようやく居間とキッチンを片付けてやれやれといった顔のセイバーが工房の様子を見に来た。
右を見て左を見て、俺たちを見た……そして……
「いい加減にしなさ―――――いっ!」
セイバーがついにキレた。
待て! 落ち着けセイバー、鎧姿になるんじゃない! ってその竹刀はなに? トラでなくてライオンのストラップが付いた竹刀はなに!?
あまりの剣幕に、俺と遠坂は慌ててセイバーの前で直立不動の姿勢をとった。
バシッと音を立てて竹刀を床につき、仁王立ちしたセイバーが俺と遠坂を睨みつける。
「あなた方は何をしているのですか! 何も出来ていないではないですか! よく喧嘩などをやっていられますね!!」
「セ、セイバー。ね、落ち着きなさい……ね、ね」
流石の遠坂も勢いに飲まれて宥めに入る。でもな遠坂たぶん逆効果だぞ……
「凛、前々から言おう言おうと思っていたのですが……貴女には整理能力が全く無い!」
自分より背の高い遠坂を見下ろすように睨みつけながらきっぱり言い切るセイバー。うわぁキツいなぁ、でも俺もそう思うぞ。うん。
「シロウ! 貴方もです!」
お鉢が廻ってきてしまった。こら! 遠坂! や〜い怒られてやんってのはなんだ! お前だって怒られてるんだろうが!
「普段はキチンとした良い子なのに……どうして凛と二人になると一緒になって遊ぶのですか!」
健全な青少年としては、自分より年下の女の子から『良い子』扱いされるのは余りうれしくないぞ。それに別に遊んでいたわけじゃない、最初は片付けようとしてたんだ。
「だって士郎が怒鳴る」
と俺が言おうとする直前に、遠坂が口を尖らせて言い訳をはさんできた。
「俺のせいか!? 俺のせいなのか!?」
「ほら怒鳴った……」
もう勘弁ならん! 一度とことん話をつけなきゃと思ってたんだ! この間だってな……
第二ラウンド開始、二人してがぁ―――っと捲し立てていると……
「シロウ、凛?」
凄く静やかな声が聞こえた。
あ〜……なんか昔あったな同じようなこと、俺が冗談で必殺技ないかって聞いたときだっけ……
「本当に……いい加減にしなさ―――――いっ!」
結局そのあとしばらく小言を頂戴した後、俺たち二人は襟首ひっ捕まえられて庭先に放り出されてしまった。いや、さすが英霊一切抵抗できなかったよ……
「二人ともそこで反省してなさい! 工房の整理は私一人でやります!!」
「一人って! 無理だろ、流石に!?」
「シロウ、私を舐めないで頂きたい。連日連夜の宴会騒ぎ、魔術師は慢性二日酔いで騎士たちはメイドを根こそぎベットに連れ込む……そんな地獄のようなキャメロットの城を、毎日朝までにはきちんと片付けていたのはいったい誰だと思っているのですか?」
なにか凄まじく荒んだ瞳で、壮絶な笑みを浮かべて言ってのけるセイバー。円卓の騎士のイメージがガラガラ崩れていく。王様って大変だったんだな……
「朝までには片付けますから、ゆっくりとそこで休んでいてください」
と、笑顔のまま凄まじい事を言うと、セイバーはぴしゃりと窓を閉め鍵をかけた。っておい! 本当に締め出しかよ!
さいわい雨はもう止んでいたが、これはもう本当に朝まで締め出されたかもしれない。俺は一つため息を付くと遠坂のところへ歩いていった。
もうすっかり諦めたのだろう、遠坂は庭に端にあるガーデンテーブルに座ってロンドンの町並みを眺めていた。
「セイバーに怒られちゃったな」
その姿が少しばかり儚げだったので、俺は取ってつけたように声を掛けてしまった。
「……ん? そうね、考えて見たらあの娘、わたし達よりずっとお姉さんだったのよね」
「そりゃ千年前の人間だからな」
「そういう意味じゃないけど」
遠坂は俺の受け答えのずれ方が可笑しかったのかクスリっと笑って言った。
「セイバーが王様になったのは十五・六の時、それ以後は王の力で歳を取ってないわ。それから十数年、そのままの姿で王様してたんだって。だから、セイバーは人間としての年齢も本当はわたし達よりずっとお姉さん」
あ、それは初めて聞いた、それじゃ人間としては藤ねぇより年上じゃないか。うわぁそら“良い子”扱いされるわ。
そう思って思い返すと俺たちはこの一年半、ずっとセイバーに見守られてきた気がする。
「それで今日のあの始末じゃ確かに怒るか……」
「うん、もっと上手くやるつもりだったんだけど」
遠坂がひざを抱えてポツリポツリと話し出した。
「日本に居るときからそういう苦労かけてたから、だからこっちでは自分でうまくやろうと思ってた。まず全部広げて一からきちんと整理しようとしたんだけど」
「通路までふさいじまったのか」
遠坂はむぅ―――っと膨れて俺を睨む。でも夜霧のせいか怖くない、むしろ可愛い。
「ああ、霧が出てきたんだ」
それで気がついた、眼下のロンドンの街並みが街灯を乱反射する霧によって白く浮かび上がっている。
「七月でよかった、日本みたいに春からだったらわたし達凍死してるわ」
それでも日本に比べるとロンドンの夜は肌寒い、それに夜霧が加わればますますだ。俺はジャケットを脱いで遠坂の肩にかけた。あの赤い騎士ほどじゃないが、それでもこの一年半で少しは成長したつもりだ。こういう妙に危なっかしい遠坂を、俺だって少しは守れるだろう。
「……ふうん、衛宮くん気が利くようになったじゃない」
そう言うと、遠坂はテーブルから降りて俺寄り添ってきた。
「遠坂の教育の成果さ」
俺は、そんな遠坂の腰に手を回し軽く抱き寄せる。
「霧のロンドンか……最近じゃ珍しいって話だけどな」
「いいんじゃない?わたし達の門出は明るいロンドンに迎えられるより、こういういかにも魔都倫敦ってやつに迎えられたほうが相応しいと思わない?」
俺は言葉とは別の方法で遠坂に返事をした。
さすがに寒くなったかな? と思った頃、ようやく片付いたのかセイバーが窓を開けてくれた。
「私も別に鬼だというわけではないのです……凛やシロウが真面目にやってくれればそれでいいのです」
などとむっつり言いながらお茶を入れてくれていた。頬が微かに染まっているのは自分の激昂ぶりが恥ずかしかったのだろう。
「あ、どうせならこっちでお茶にしましょう」
遠坂がガーデンテーブルに俺のジャケットをテーブルクロス代わりにかけてそう言った。遠坂、別にいいんだけどさ……それ結構お気に入りだったんだぞ……
夜霧の倫敦を招いて深夜のお茶会。
俺たちはそうやって倫敦での最初の晩を過ごした。
セイバーの入れたお茶は温かかった。
わたし達の中でお茶を入れるのが一番苦手なのはセイバーだろう。今回の呼び出しまでセイバーはお茶など飲んだこともなかったらしい。だからお茶を知ってからだとまだ一年半、上手でなくて当然だ。
でも今ここで入れてくれたお茶は美味しかった。カップもばらばらで温度もちょっと熱すぎだったが、それでも夜霧の倫敦相手のお茶は美味しかった。
「今日から始まるんだなぁ……」
わたしは何気なく呟いた。
「うん、今日だぞ、たったいま」
士郎がおかしな事を言う。なに? と尋ねると耳に手を当てて応えてくれた。ああ……
ビッグベンの鐘が十二回、
霧の向こうから響いてきていた。
霧に浮かぶ倫敦、ここからだとわたし達はまるで雲の上にでも居るように感じる。これから舞い降りようと空を飛んでいるかのようだ。
うん、そう。倫敦に来たのは一週間前だけど、それはちょうど舞い降りる場所を探して空から眺めていたような物だった。わたし達はようやく降りるべき場所を見つけ、今日ここに降り立ったのだ。
そう、わたし達は本日ただいま、倫敦に舞い降りた。
END
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