「じゃあ、どうすればよかった? その先を書いてほしかった」。駆け出しだった二十代のころ、県職員のOさんがある記事についてそう問い返してきた。
完成を控えた笠岡湾干拓地で開かれたマラソン大会の取材コラムだ。準備に当たったOさんの苦労も知っていたし、大会は盛り上がった。だが「ただ楽しかった、よかったじゃあ記事にならんぞ」と先輩に助言され、農業の新天地で開くイベントなのだから、特色や「らしさ」がほしかった、的なオチにしたのだ。
Oさんには「ランナーにダイコンを持って走らせればよかった」と冗談で返答したが、本当はこれぞというアイデアなどなかった。言う(書く)はたやすいが、やる方は大変だ。批判する以上は代案を持たねば。バッサリ切り捨てはいけない、と反省させられた。
神奈川県の県立高校で合格点に達していた受験生が、服装や態度の悪さを理由に不合格にされていたことが発覚した。すぐに校長が事実上の解任処分となって幕が引かれた。ルール違反は違反として、現実に学校を変える手だてがあるのか、当事者目線で代案を議論すればよかった。最近では、麻生総理のホテルのバー通いやカップめん四百円発言が「庶民感覚欠如!」とバッサリ切られてしまった。笑い話で済まされないのが怖い。
最近よくある○○バッシング。その燃え上がり方が激しい。社会を覆う“イライラ感”を映しているのだろうか。批判精神と、物事をじっくりと少しおおらかに見る目のバランスを忘れたくない。
(津山支社・道広淳)