2008年10月09日
野党への資料制限・秘密警察ばりの自民党
政官癒着の象徴
地方議会以下の自民党中央
自民党の国会対策委員会(国対)が各省庁に野党から要求された資料の事前提示を求めていたことが明らかになり問題となっている。民主主義の常識を外れた由々しき大問題だ。そのわりにマスコミ論調は客観報道に主体を置き、解説や論説で批判するものをあまり見かけない。政官の癒着は珍しくない、とマスコミも感覚がマヒしているのではないか。
いまの日本政治の最大の問題は政治と官僚の癒着だ。これが日本をゆがめている。半世紀にもおよぶ長期政権の弊害が象徴的にここに表れている。このこと一事をもってしても政権交代に値する。
自民党のしていることは政党というより、秘密警察だ。こんなことがまかり通ったら野党は政府をチェックできない。
いうまでもないことだが、役人は一部の政党のためのものではなく、全体の奉仕者だ。これは憲法にも規定されている民主国家の根幹だ。
【憲法15条の2=すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない】
いま開会中の国会でも野党が政府を厳しく追及している。麻生首相は責任を河村官房長官に押し付け逃げの一手だが、その官房長官の答弁は言葉に詰まり言いよどみが多く、何を言っているのか自分でもよくわかっていない様子。
長期に政権を支配している政党に言われれば官僚はいうことを聞くに決まっている。それは実質的命令に近いものだ。しかも体質的に秘密主義の官僚にとっても悪い話ではない。官僚と与党がグルになって情報隠しが行われているのがこれほどあからさまになったのは驚くべきことだ。まるで北朝鮮ばりではないか。およそ近代国家の体をなしていない。
もしこのようなことが地方議会であったとしたら大騒ぎになっていただろう。
私が長年取材している長野県議会でも、野党議員の資料要求を行政側が事前に与党側に伝えるなどということはない。念のため県職労幹部にも聞いてみたが、ありえないことと笑っていた。
いまの自民党政権は地方議会よりレベルが低いことになる。自民党は中央のほうが問題があり、地方に学ぶべきではないか。政権に執着するあまり、まわりが見えなくなっているようだ。一度下野したほうがいい─とは地方の自民党員の間でもよくでる言葉だ。
2008年10月01日
お粗末!中山前国交相の「日教組はがん」発言
政権交代前夜 押しつまった保守の本音ポロリ
中山成彬・前国土交通相の「単一民族国家」「ごね得」「日教組はがん」発言は、いよいよ差し迫った政権交代におびえる保守の本音がうかがえる。
「単一民族国家」と「ごね得」発言については謝罪したが、日教組に関しては大臣辞任後もテレビでさらに発言をヒートアップさせている。
大臣になってわずか5日で辞任したわけだが、本人はそれでも悔いはないと言っている。つまり確信犯というわけだ。
一部の政治家やネットでは中山発言を支持する声もある。政権交代が現実味をおびてきたので、それへの恐れが背景にあるのではないか。
組合活動はどこも停滞気味で、日教組も例外でない。加入者数も少なくなる一方で、無関心なことがトレンドだと勘違いしている若い教師も多い。敵対する側からしてみれば恐れるに足らない相手だと思っていたのだが、そうではないようだ。
日教組は労働運動の理想的環境を備えているところでもある。したがって構造的にリベラルの度合いが高い。
教師の世界は経験年数の差はあるが一般サラリーマンと違って部長、課長、係長、平社員といった階層化されたものはない。皆が平等だ。
ここが労働運動を引っ張ってきた面もある。だからこそ保守派にとっては”にっくき相手”に映るのだろうが、日教組がなくなったらそのほうが問題だ。
日教組に入っている教師はなにごとに対しても一生懸命な人が多い。上からにらまれているわけだから、上昇志向や事なかれの人はまず入らない。そのため当局に対して要求が厳しくなることはある。生徒や保護者にとってはありがたい存在だ。だが管理する側にとってはやりにくい相手である。一部に教条主義的人がいるのはどこの組織で同じことだ。そこだけ取り上げて批難するには当たらない。
がんどころか、なくてはならない存在だ。日教組が筋を通すからこそブレーキがかかる問題も多々ある。それが癪の種なんだろうが、気に入らないからといって政治家が声高に片寄った意見を公言していいものではない。大臣というより、政治家失格である。言いたい意見は公職を利用しないで言うべきだ。
これに同調する声が一部にあるが、世の右傾化を示す憂うべきものだ。昔はこんなことは堂々とは言わなかったものだ。腹の底では思っていても言わないというのは大事なことで、懐の深さを示すことにもなる。それがないということは人間が小さいということか。保守派も節度がなくなっている。
中山氏の発言は思想信条にかかわるもので、それは各個人が自由に持っていいもののはずだ。それを大臣の立場でけしからんと言っているわけだから、けしからんのはどっちかという話だ。
「単一民族国家」「ごね得」「日教組はがん」発言は同時期にされたものだからセットでとらえる必要がある。前ふたつの発言は本人も認めるとおり認識不足のものだ。アイヌを無視したり成田空港問題をよく理解していない人が、日教組に関して正しいことを言うだろうか。これも認識不足のものだが本人が認めたくないだけではないのか。
日教組を批難する一連の発言は信念に基づくものだと言っているが、それだったらそれだけを言うべきで、戦略的にもお粗末だ。
こんな粗こつな人だから、叩き上げでろくな教育も受けていないのかと思いきや、東大→大蔵省のキャリアの持ち主だ。東大では常識を教えていないのか?と言いたくなるではないか。
2008年09月30日
地方独占の麻生票は、自民党衰退の元
地方こそ、自民党の内なる改革待望
福田康夫首相が政権を投げ出した後、大方の予想通り麻生太郎氏がその座に就いた。近ごろの政治は予想外のことが多いのだが、次期首相だけが予定通り自民党の中で引き継がれるというのは奇妙な図だ。
自民党総裁選では、麻生氏が前評判どおり圧勝だったが、これを追撃流に斜めに見てみたい。地方票141票のうち134票を獲得したが、これはとり過ぎだろう。
地方票は各県連に3票割り当てられ、ドント式(31道府県連)と総取り方式(16都県連)で集計される。強い候補がより強くなる仕組みになっているのだが、それにしてもだ。このやり方だと、2位以下の候補への票は1位の候補へ吸収合算されることになる。その結果、もともと強いと見られていた麻生票がますます多くなった。
たとえば長野県の場合だが、実際の得票数は以下のとおりで、麻生氏以外の票も2643票あるのだが、総取り方式のため県連に割り当てられた3票はすべて麻生氏のものとなった。このような矛盾は長野県だけでなく、多くの県であったことだろう。
麻生氏が地方票を独占状態だったため、バランスをとったのか国会議員票は当初の見込みより少なくなったほどだ。
1位 麻生太郎 4,975票
2位 石原伸晃 777票
3位 小池百合子 768票
4位 石破茂 556票
5位 与謝野馨 542票
投票率 51.47%
麻生氏以外に入れた地方党員はこの結果に納得していないだろう。石原氏や小池氏に入れた人の票も麻生氏への票として合算されているのだから不満は残るはずだ。その結果、麻生総裁の元で近々行われる総選挙に少なからず影響があるのではないか。麻生氏に入れた人は選挙に力が入るだろうが、そうでない人はやる気が出ないのではないだろうか。
投票率は50%前後のところが多く、前回に比べて数パーセント低い。これは麻生氏の圧勝が予想されていたこともあるが、与野党逆転の瀬戸際にあるにしては低いものだ。自民党総裁選が日本国の首相を決める最期のケースになるかもしれないのにだ。
党員は月額4千円の党費を払っている。義理で入っている場合や、名義上のものもかなりあるといわれているが、それを無駄にしたことにもなる。
何人かの自民党員に聞いてみたが、政治の行方には高い関心を持ってはいるが投票しなかったという人がかなりいた。やはり自分の意思が直接投票に生かされないからのようだ。いまの仕組みだと少数意見を表明したいと思って投票すればするほど、多数意見に組み入れられるという奇妙なことになる。
せめて、自民党の中でぐらい総裁は全党員の公平な一票で決められるべきだろう。だが、そうすると本物の民主主義になってしまい、とんだ大番狂わせが出現することになるのでできないのだろう。
もし、そうなったら私も会費を払ってでも自民党総裁選に投票したい─という人が増え、自民党としてはありがたくないのだろうが、それでもいいではないか。誰かのコントロール下におかれた民主主義は見せ掛けだ。初期のころはある程度のコントロールも必要だが、熟成してきたらそれは足かせとなる。十分成長した子どもに、いつまでも小さな制服を着させておくことは成長を阻害するものとなる。混乱を恐れていては成長はない。
▼自民党の内なる改革待望
改革や政界再編というと中央での自民党や民主党を軸にしたものを考えがちだが、実は地方の自民党組織内にも改革待望の機運はある。それは、今回の総裁選で麻生以外に入れた人や棄権にまわった人たちのなかに深く静かにある。自民党はあまりにも長く権力の座にありすぎたために、地方組織も硬直化している。権力構造は地方でも昔から変わっていない。
中央では自民党党内で主流派と反主流派の入れ替わりがあるが、地方ではそのようなダイナミズムは自ら起こしようがない。中央では反主流となっても生き残る余地があるが狭い地方では、ひとたび反主流となるとその立場を逆転するのは難しい。特に自力でするのはむずかしく、中央からの”外圧”に頼らなければ困難だ。
自民党地方組織の主流派でない人たちの意見は軽視されることが多い。中央での政界再編を期に、地方でも県連レベルでの下克上を期待する人たちは結構多い。自民党長期政権の閉塞感は自民党地方組織の中にこそある。
2008年09月04日
福田首相突如辞任─自民党の権力欲の生け贄
陰の主役、公明党にその自覚は
マスコミが政権交代の障害
9月1日の福田康夫首相の突然の辞任表明には多くの人が驚いた。全部のテレビが通常番組を変更して午後9時半からの辞任会見を放送した。
辞任の理由について、様々なことを評論家や政治記者が訳知り顔でいっているが、そのどれもが当たっていない。たいていの政治家なら、その程度の障害は乗り越えるもので辞任するほどのことではない。だから皆が驚いた。評論家や記者の言い分が正しいなら、福田辞任は事前に予測できたはずだがだれもしなかった。
自民党は将棋でいえばすでに詰んでいる状態だ。なのに政権にしがみつこうとしているから様々な混乱が起こる。政権党としては権力に執着しているが、首相個人は逆にあまりに恬淡としている。首相が権力の座を突如放り出したのは、去年9月の安倍晋三前首相の突然の辞任に続いて二度目のことだ。一国の首相が1年ごとに政権を放り出すなどというのは他の国にはないことだ。自民党の政権担当能力のなさを表している。福田首相のすべきことは辞任ではなく解散だが、それをする意思も力もなかった。なりたくてなったのではない、本物の首相ではないからだ。安倍、福田のふたりの首相は自民党の権力欲の生け贄だったのか。
公明党はこれまで自民党にもの申すことがほとんどなかったが、ここに来ていろんな注文を付けている。といってもたいしたことを言っているわけではない。これまで何も言わなかったものが、ちょっと言い出したに過ぎない。なのに大激震だ。公明党がくしゃみをすれば自民党が吹っ飛ぶようだ。
公明党がつれなくなったから─というのが辞任の本当の理由だが、そんなことは口が裂けても言えないので、小沢一郎民主党代表への恨み言になった。自民党議員の多くは公明票に命綱を握られている。飼い主に逆らえない犬のようだ。
世の中は左右に振れたあと中道に落ち着くものだ。これから中道政党としての公明党の重要度は増す。だが、公明党自身それに気付いているのだろうか。いつまでも自民党の言いなりではダメだ。長いレンジでものごとを捉えるべきだ。
もはや自民党に寄り添っていることは公明党にとってマイナスのほうが大きい。自民党との連立解消だけでなく、今後の政界再編を視野に入た新党や民主党との連携を考えるべきだろう。
公明党支持者は寛容で落ち着いた人が多い。公明党への批判は彼らに向けられたものではない。アキレス腱はカリスマ的指導者やその体制にある。何ごとにも変化はあり、寿命はある。政教分離は時間が解決してくれる。問題の核心がなくなったときのことも公明党は考えておくべきだろう。
次期首相は麻生太郎幹事長(67)が本命だそうだが、口をひん曲げて喋るところが珍しいだけで首相の器ではない。人材払底、他に適当なのがないので、マスコミがあおっているだけだ。
ひと月前に内閣改造と党人事が行われたが、距離をおくとみられていたのに党の重要ポストに就いてしまっている。運がないのか政治センスがないのか─。
福田後の禅譲が噂されたが、こんな形で辞められたのではそれも批判を浴びてできないだろう。
小池百合子元防衛相(56)はやる気満々だ。慎重な言葉選びにそれが表れている。
私は今年の年頭にこんな予想をしている。
2008年政局展望 ─小池百合子首相?が最後の切り札
http://blog.livedoor.jp/tuigeki/archives/51867993.html
─抜粋─
政党のトップが女性に代われば自民党も大きく変わるのでは?という期待を抱かせるのに十分だ。これまで自民党は何度も同種の手を使って生きのびてきた。だが、今回はその振り幅が過去にないほど大きい。今の自民党にそれができるかとなると難しい。これしか生きのびる道はないのだが、それを理解できる政治家が自民党にどれほどいるかと考えると小池首相の可能性はしぼんでしまう。
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小池首相の可能性がふくらむのは自民党の危機的状況を示していることになる。時代の変化の象徴となってほしい。これぐらいのショック療法がなければ、日本の政治状況は変わらないのではないか。だが自民党という古い殻の中にいては花は開かないだろう。次の時代の政界再編の芽となることを期待したい。
時代の流れは政権交代へと動いている。この流れは押しとどめようがない。もはや放っておいても行き着くところにいくしかない。じたばた騒ぐだけ無駄だ。
マスコミが政権交代の障害になっている。彼らが変化を嫌っている。なにしろこれまで長いことやってきたシステムの変換を迫られるのだ。
政治記者は権力を持つ政治家と密接な関係になることで情報を得て自分の地位も築いている。肝心の政治家が権力から遠ざかれば記者の評価も下がる。いま大きな顔をしている記者や元記者の政治評論家はは自民党と一蓮托生だ。自民党が政権の座から滑り落ちることは、彼らの地位をも脅かすことになる。
このような記者はあまりに自民党べったりだったために、新たに権力を握った政治家に食い込むことはできない。新しく天下を取った政治家からみれば政敵と同じだ。
政権交代にブレーキをかける方向の記事を無意識のうちに書いてしまうだろうが、そんなことで時代の流れは変わらないだろう。
2008年08月06日
マスコミ志望者禁断の『ジャーナリズム崩壊』上杉 隆著
本書を発売日(7月31日)に書店でたまたま発見して、そのまま購入した。最近にない面白い本だ。マスコミの存在に根底から疑問を投げかけている。一般読者にとって驚くような<マスコミの常識は世間の非常識>が実例つきで書いてある。過去や最近起こったいくつかの事件の舞台裏などにも触れていて興味深い。情報がいっぱい詰まっている。
著者の上杉隆氏は週刊朝日、週刊文春に毎週のようにトップ記事を書いている。またコメンテーターとしてフジテレビなどによく出演している。ひさびさのスタージャーナリストになるかもしれない。
私は、田中康夫の脱記者クラブ宣言に呼応して長野県政を主舞台に、田中県政とマスコミ批判をしてきたものだが、マスコミの建て前報道や非常識にいつも歯噛みする想いだった。マスコミが田中康夫の本質をとらえ、報道していたら田中県政下の混乱はもっと少なかったはずだ。私が長野県政レベルでやっていることを国政レベルで書いた面が本書にはある。そうそう、と膝を叩きながら読んだところが何ヵ所もあった。
著者の上杉氏はありきたりのジャーナリストとはちょっと違う。乙に澄ましたところがない。扱う対象も石原慎太郎、田中真紀子など色物系政治家が多い。そのなかに田中康夫も入っていて、05年夏ごろ情報交換のために会ったことがある。背が高くすらっとしている。いまの旬の芸人でいうと、3の倍数のナベアツに似てなくもない。そのころはこんなに活躍するとは思わなかった。
上杉氏のやっていることはマスコミにけんかを売っているようなもので、孤軍奮闘の観がある。上杉氏の主張が世間に広まり、マスコミの見方が変わってほしいものだ。本書に書いてあることは私がいつも思っているようなことでもある。だから、追撃コラム読者は既視感を感じるかもしれない。
上杉氏のブログによれば、
http://www.uesugitakashi.com/archives/51466976.html
売り切れ続出 増刷決定!
発売2日目、早速増刷+5万部です(*・ω・)ノ
だそうで、歓迎すべきことだ。もっとも初版、増刷とも少なすぎるのではないか。
ところで、本書に一ヵ所誤植を発見した。たいしたことではないので、読んでみてのお楽しみ─として、どこにあるかは敢えてここでは明かさない。上杉氏には指摘のメールを先ほど打っておいた。増刷を期になおされるかどうか、マニアックな興味をお持ちの方は、初版を買いに今から書店に走ると珍品が手に入るかもしれない。
本書は一見、マスコミ志望者向けだが、好意的感想を試験官に述べると間違っても採用されることはないだろう。そういう意味で”禁断の書”でもある。しかし、真実は本書にある。いつの日か、本書がマスコミ合格のバイブルとなることを期待したい。