Hatena::Diary

ハックルベリーに会いに行く このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-11-05

ガリレオ・ガリレイが「それでも……」と言ったもう一つの意味

たぶん地動説のことは誰でも知ってると思うが、天動説もまた誤りではないというのは、意外と知らない人が多いのではないだろうか? この前テレビを見てて、そんなことを思った。


NHKに「爆笑問題のニッポンの教養」という番組があって、爆笑問題の二人がホストとなって、毎週さまざまな学者の先生と侃々諤々の議論を交わしている。この前それを見ていた時に、たまたま天動説の話が出てきた。それは、天文学者である小山勝二との対話でのことだった。

その中で、爆笑問題太田光が何かの比喩として天動説地動説を持ち出してきた。そうして、天動説を「誤ったもの」、地動説を「正しいもの」の例えとして論を進めようとしたのだけれど、そこで小山に「いや、天動説だって正しいんですよ」と否定され、その比喩はすぐに取り下げざるを得なくなった。

そうして太田は、今度はまた別の話題に話を転換したから、彼が「天動説もまた誤りではない」ということを知ってたか知らなかったかは分からなかったが、それでも、それを知らない人は意外と多いのではないかと、その時に思わされたのである。


地動説天動説は、どちらが正しいとか間違っているという問題ではない。いや、とても厳密に言うと(それは主に美意識的な意味で)そういう問題になるのだけれど、とりあえず科学的には、そういう問題にはなってない。地動説天動説も、どちらも科学的に説明できることなのだ。

と言うのは、地動説天動説は、動きの基準をどこに置くかということの違いに過ぎないからだ。地動説は太陽を基準に置き、天動説地球を基準に置いたものの見方である。この二つの違いは、主に惑星の動きの計算方法が異なってくるということなのだけれど、どちらも天文学的に(あるいは物理学的に)説明できることなのである。


ところで、面白いのはガリレオ・ガリレイの頃から、そうしたものの見方というのはすでに確立されていたということだ。つまりこの時代でもうすでに、天動説地動説も、どちらが正しいとか間違っているという問題ではないと考えられていたのである。


地動説を唱えたガリレオ自身も、天動説が別に天文学的に(あるいは物理学的に)誤りであるとは考えていなかった。それは、ガリレオが著した「天文対話」を読めば分かるらしい。この中には、注意深く読むと、地動説天動説の違いは、単に基準をどこに置くかの違いに過ぎないということがちゃんと書かれているという。

ではなぜガリレオは、それが分かっていながらあえて地動説を主張したのか? それも異端審問にかけられるような危険を冒してまで?


それは、ガリレオ科学者としての美意識からだった。彼は、天動説より地動説の方が、惑星の動きをより簡単に、またよりエレガントに説明できると考えていた。ただそれだけの理由で、彼は地動説を唱えていたのである。


しかし結局ガリレオは、異端審問で負け、地動説を捨てることを誓わせられる。その敗北を決定づけたのは、審問官の、次のような指摘からだったという。

審問官は、ガリレオ自身も認めているように、天動説地動説もどちらも誤りではないのなら、あえて天動説を排斥しようとするのはナンセンスだと指摘したのだ。それが単にガリレオの美意識というあやふやなものからの主張であれば、それによって多くのキリスト教徒が抱く「天動説」という美意識をしりぞけて良い理由にはならない。そういう論法で、審問官はガリレオを問い詰めたのだという。

そうして結局、ガリレオもそれを認めざるを得なくなった。それによって、彼の敗北が決定したのだそうである。


そこで思わず呟いたのが、例の「それでも地球は回っている」という言葉だった。つまりこの言葉は、ガリレオの抑えきれない魂の叫びと言うよりは、ほとんど負け惜しみのようなニュアンスだったということだ。


これは、ガリレオにまつわる数多の伝説の一つに過ぎない(実際に「それでも……」と言ったかどうかも定かではないらしい)。しかしこのエピソードは、単にガリレオがその科学的信念に基づいて自説を主張していたということよりも、多くのものを示唆しているように思う。


ガリレオという科学者が、論理的なものの見方よりも自らの美意識を大切に思い、命を賭けてまでそれを主張した。しかしそうした美意識は、結局同時代人の同意は得られず、彼は敗北せざるを得なかった。しかし年月を経ることによって、最後に勝ち抜いたのはそうした論理的な正しさではなく美しさの方だった。そうしてなぜか、論理的な正しさの方は、今ではすっかり「誤っている」とまで誤解されるようになった……


こうした、あるできごとに対する人々の受け取り方の変遷の中には、この世界の本質と言うか、価値というものの正体が仄見えるように思うのである。そこには、この世界を解き明かす一つのヒントが隠されているように思えて仕方ないのだ。