近代の憲法は、憲法の改正を厳格にし容易に改正することをできないようにしていると言われる。これを硬性憲法という。
(しかし、日本の大多数の憲法学者と異なり、最近では憲法は国家が存在するところでは必ず存在するという、従来の教科書的な説明を採らない見解が増えている。憲法という法律は近代になって初めて獲得されたものであるという歴史認識が妥当であると考えられたからである。現在の憲法は「近代的な意味での憲法」を指している言葉なのである。憲法が近代の市民革命によって成立した経緯を観れば自ずと明らかである。)
さらに、こうした日本国憲法に代表される憲法は、硬性憲法という性格を超えて、憲法の改正に限界が存在するのかという問題もあり、見解が対立している。
「憲法の改正に限界がある」という限界説と「改正に限界はない」という無限定説があるが、限界説は憲法の三つの基本原理である「平和主義・基本的人権の尊重・主権在民」の規定を改正してなくしてしまうことを否定する。一方、無限界説はどのような改正もあり得るとする。
現在憲法を改正し、特に憲法9条の根本的な変更を望んでいる政府自民党は無限界説に立っていることは明白であるが、改憲派の多数がどのような立場かは自明ではない。
この憲法改正の限界問題で私が最近一番納得したのは、日本の大学で政治思想の歴史を教えていた政治学者ダグラス・ラミスさんの議論だった。ラミスさんは以下のように言っている。
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憲法の改正は限定はなくどんな改正も可能である、と改憲派の人たちは言うが、平和主義や基本的人権をなくし、主権在民も変更しても、彼らは同じ憲法間の変更であると言うのであろうか。
しかし、こうした憲法改正手続きが実現して憲法の三大基本原理が変更されてもなお、同一の政治原理の枠内にあるという言明には無理がある。
「そのような条項を憲法に入れるということは不可能という意味ではなく、ただその結果は『改正』なのではなく、新憲法になる、ということだ。」(「憲法は政府に対する命令である。」平凡社)
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なるほど現在の憲法の支柱部分に変更を加えて、戦前のような憲法原理になった場合にも「憲法改正」というのは、牽強付会であり詭弁である。
ラミスさんの非常に簡明な説明が妥当であるとすすなら、改憲派の憲法論は憲法破壊的な見解であり、こうした改正行為それ自体が違憲審査の対象となる思われる。現在の憲法の基底にある価値を重視するならば、改憲派の立論は改正手続きを手段にした政治的クーデタと言えるのではないだろうか。
この問題に関連して、「現在の憲法は後の世代を拘束するのか」という重要な問題も存在するが、今回は憲法改正の限界問題に限定して後者の問題(憲法とプレコミットメント)は今後に展開することにします。
参考文献:愛敬浩二著「改憲問題」(ちくま新書)
「護憲+コラム」より
名無しの探偵 |
(宮沢俊義)が通説であり、これによるとクーデター以上の革命によりできた改正だった、という説明になっています。