TBS系の報道番組「NEWS23」のメーンキャスターとして活躍したジャーナリストの筑紫哲也さんが7日午後1時50分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。73歳。葬儀は近親者のみで行い、喪主は妻の房子(ふさこ)さん。後日お別れの会を開く。昨年5月、同番組で肺がんにかかっていることを告白。「がんに打ち勝って、また戻ってきます」と宣言し、闘病生活の傍ら、スペシャルアンカーとして番組にも時折出演していたが、1年半後に力尽きてしまった。
18年半にわたって夜のニュース番組をリードし、日本のご意見番的存在だった筑紫さんが、がんとの闘いの末、この世を去った。
筑紫さんは今月に入り、呼吸困難に陥るなど容体が悪化。がんは全身に転移し、手術は出来ない状態だったという。最期は都内の病院で家族にみとられながら、息を引き取ったという。
普段から喫煙していた筑紫さんは、昨年5月の健康診断で肺がんが発覚。同14日放送の番組で視聴者に「しばらく治療に専念したい。がんに打ち勝って、また戻ってきます」と報告し、番組を休養。闘病生活に入っていた。
その後も同7月の参院選などで、音声での中継に参加。同10月8日には147日ぶりに画面に登場し「約束通り戻ってきました。ほぼがんは撃退した」と“勝利宣言”。「たばこをやめざるを得ないし、少し太っちゃった」と照れ笑いし、髪の毛についても「抗がん剤の影響で2割ぐらい減っちゃった。上のところは付け毛なんですよ」と明るく語るなど、元気な様子だった。
それでも「がんは手ごわい相手。いつリターンマッチを仕掛けてくるか分からない」と慎重に話し、同12月からはメーンキャスターを共同通信社・前編集局長の後藤謙次氏(59)に託し、節目節目で番組に登場する「スペシャルアンカー」として番組にかかわっていた。
今年3月に番組を引退。8月11日に不定期の企画で、哲学者の梅原猛氏(83)と対談したのが最後のテレビ出演となった。
筑紫さんは朝日新聞時代に政治部やワシントン特派員として活躍。「朝日ジャーナル」編集長時代は「新人類」「元気印」などの流行語も生み出した。記者時代の77年にはテレビ朝日系「日曜夕刊!こちらデスク」の司会を務め、サファリルックでおなじみに。
朝日新聞を退社した89年には10月の「NEWS23」放送開始とともにメーンキャスターに就任。独自の視点で論評するコーナー「多事争論」が人気で、TBSがオウム真理教幹部に、教団と対立していた坂本堤弁護士のインタビュー映像を見せた問題が発覚した際、「TBSは死んだに等しい」と発言し、大きな反響を呼んだ。
人気キャスターらしく、都知事選や衆・参院選など、たびたび政治家への転身もうわさされたが、「私が権力の座を目指すことは今も今後もありません。長年やってきたジャーナリズムの仕事は大切」とジャーナリストとしての立場を貫いた。
◆石川さゆり弔問 ○…東京・練馬区の閑静な住宅街にある筑紫さんの自宅前には約30人の報道陣が駆け付けた。歌手の石川さゆり(50)も弔問に訪れ、目を真っ赤にして無言のまま。「昔の新聞記者仲間」という初老男性は20日前に入院先の病院で見舞ったそうで「変わらない感じで…」とうつむきながら話した。
◆筑紫 哲也(ちくし・てつや)1935年6月23日、大分県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、59年に朝日新聞社に入社。71年から米ワシントン特派員を務め、84年に「朝日ジャーナル」編集長に就任。89年7月、同社を退社。同10月からTBS系「筑紫哲也NEWS23」のキャスターを務める。93年にはギャラクシー賞テレビ部門個人賞を受賞。06年から立命館大学の客員教授に。著書は「総理大臣の犯罪」など多数。母親が滝廉太郎の姪にあたることから、93年から滝廉太郎記念館の名誉館長を務めている。
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