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田母神 俊雄 平成15年7月

航空自衛隊を元気にする10の提言

〜パートT〜


目    次
  はじめに 6 あれでいいんだ同好会
1 80対20の法則 7 訊くな、基準を求めるな
2 一勤務一善 8 後輩に夢を与える
3 報告の遅れを叱らない 9 えこひいき大作戦とお邪魔虫大作戦
4 TOTAL SUM IS CONSTANT 10 国民の国防意識の高揚
5 厳正な秩序と組織の能率は反比例する   おわりに

 はじめに
 誰がシナリオを書いているのかわからない。しかし何か日本の国を弱体化するような大きな流れが少しずつ進行しているような気がしてならない。平成の初めまでは日本弱体化の流れは大きなものにはならなかった。バブル景気が国中を元気にし、日本人がみんな自信を持ちチャレンジ精神に溢れていたから、弱体化の流れもその陰に隠れていた。しかしバブル崩壊後の景気低迷が長引くにつれて日本人が自信を失い始め、また政治家や高級官僚の不祥事が明るみに出るにつけ国民の国家に対する信頼が揺らぎ始めた。一方では東京裁判史観すなわち日本悪玉論を信奉するグループなどは、これを機会に日本弱体化の動きを加速させつつあるような気がする。例えばわが国が近年推進している男女共同参画社会、夫婦別姓、情報公開、公務員倫理法等は、その有用性を否定するものではないが、他方これが日本弱体化のために利用されているのではないかという危惧を禁じえない。

 男女共同参画社会は、能力があるにも拘わらず女性というだけで差別を受けないためにはあるべき方向であるが、一方ではこれをエリートを廃し弱い者に全てを合わせる競争のない社会を造るために利用しようとする動きがあるような気がする。これらの動きは、学校における男女混合名簿の作成、男らしさ、女らしさの否定等に現れている。男女の差を認めないくらいだから当然同性の差は認めない。エリートを認めるはずがない。しかしながら人類の歴史を見れば社会を発展させてきたのは一部のエリートであるし、競争のない社会にどれほど活力がないかは言うまでもない。

 夫婦別姓は仕事の都合上、姓を変えたくない女性が救われる効果はあるが、日本の家族制度を崩壊に導きかねない恐れがある。何よりも田中さんの奥さんが佐藤さんで、佐藤さんの奥さんが田中さんだなどというのは私にとっては漫画に思える。社会が混乱するだけではないか。多くの女性は結婚をしたら相手の姓を名乗ることに喜びを感ずるはずである。うちのカミさんだって最初は喜んでいた。

 また情報公開は、民主主義国家において国民が政府の活動を理解する上では当然のことであるが、わが国においては本来これとペアであるべき機密保護に関する法律がない。情報公開に熱心な人たちが一方では、機密保護法がないことには頬かむりしているのが心配である。これら両法はペアであることが先進国の普通の姿である。自由民主主義の国では、国家は国民を守るものである。それにも拘らずわが国では国家を危殆に陥れるような重大な国家機密を漏洩しても軽微な犯罪として取り扱われる。国の安全保障上問題である。

 公務員倫理法は確かにこれまでの官民癒着、官僚の汚職など役人の行き過ぎを是正する効果はあるものの、一方では役人の行動を制約し士気を低下させる。また産官学の情報交換を局限し日本の産業の国際競争力をそぐというマイナス面があることも事実である。多くの役人がそれを認識しながらも、これに対する対策の必要性を口に出せないのは厳しい社会的批判を恐れているからだと思う。

 このような状況から日本の国全体が、そして役人が押しなべて縮み指向になり、自衛隊にもその傾向は現れている。何か新しいことや改革をやろうとして失敗するよりは恒常業務を淡々とこなすことが大事になりつつある。しかし自衛隊は本来行動する際にこそ真価が試される組織である。自衛隊は常に来るべき行動に備え、社会の状況や軍事情勢の変化を見逃さず常に自己変革が求められている。日本全体が縮み指向の今こそ元気を出す必要がある。元気がなければ各種変化を察知し、来るべき行動に備えることは困難である。そんな思いから、これまでの部隊および空幕における勤務を通じて感じていることを自衛隊が元気になるための10の提言として以下にまとめてみた。もちろん本提言は筆者の私見であり、中には同意できないような提言もあるかもしれない。読者の皆さんには大いなる批判精神をもって読んで頂きたいと思う。これから部隊長等に配置される後輩諸君の何らかの参考になれば幸いである。


1 80対20の法則
 SOCに入校していた頃に時間を有効に使うための本を読んだことがあった。その中に80対20の法則というのがあり、確か「目標の80%は20%の努力で達成できるが、目標の残り20%を積み上げるために80%の努力が必要である。従って時間を有効に使うためには目標の達成率を80%程度に抑えなければならない。」というような内容であったと記憶している。自衛隊に入隊以来、私の誤解かもしれないが、どんなことにも常に完璧を期すよう教えられていたような気がするので、当時の私にとっては大変に新鮮な印象があった。しかし今になって考えてみればこれは極めて真っ当なことであると思うし、いろんな場面に適用できるように思う。

 まず自分が自ら仕事をする場合において重要であると考える20%の仕事に80%の努力を集中した方が良い。そして残り80%の仕事を20%の労力で実施するのだ。これまでの部隊等における経験に照らしてみれば、これで必要な目標は達成できていたように思うし、効率的に業務が進んだようだ。組織において上の立場になればなるほどやることが多くて、全てについて完璧にやり遂げることはいかなる超人でも無理であるし、もしそれを求めると時間的に遅れ遅れになり結局は任務遂行ができないことになる。

 部下を使って仕事をする場合には、仕事の20%以内を掌握し80%以上は部下に完全に任せた方が良い。部下に任せるということは部下の決めた振り付けに従って踊ってあげるということである。部下を信頼するということである。しかしながらこの任せるということが極めて難しい。特に真面目といわれる人ほど全てを掌握したがる傾向があるような気がする。真面目な人はおそらく部下は自分と同じほどは真剣に仕事に取り組まないのではないかと深層心理で考える場合が多いのではないか。従って完全に任せることが心配になる。しかしそれでは仕事の能率も悪いし、部下も育たない。指揮運用綱要に「指揮の要訣は部下を確実に掌握し・・・」とあるが確実に掌握することと全てを掌握することとはまったく異なることである。

 さらに言えば自衛隊でも上級の指揮官になれば部内の仕事は20%ぐらいにして、自衛隊の外で自衛隊のための仕事をすることに80%以上の努力を費やすべきではないかと思っている。対外的には基地司令とか群司令とかのポストを得ないと、どんなに能力の高い人でも部外では相手にして貰えないことも多い。ポストを得た人はそこのところを十分に理解して部下にはできない仕事に努力を傾注すべきである。それは部隊や部下の努力を広報し、自衛隊を支援してくれる人を増やし、自衛隊に対する国民の理解を深めることにある。手を変え品を変え行われる国家安全保障にとって好ましくない活動に負けない親日活動を行うことは部隊長等の責任と認識すべきである。しかしながら対外的な行動は面倒だし、各種困難も伴う。またそれほど熱を入れなくても誰からも文句を言われない。部下を指導している方が楽である。いきおいエネルギーは内向きになりがちである。しかし指導と称して部下に任せるべき仕事に過度に介入することは部隊の精強化には逆効果であることを理解しなければならない。任せたことは指導しないで好きなようにやらせることだ。通常は部下の手のひらの上で踊ってやる覚悟が必要だ。


2 一勤務一善
 空幕に勤務している担当者は朝から夜まで忙しい。私も担当の頃に月曜日に出勤して土曜日に帰宅するような時期を過ごしたことがある。六本木の空幕の建物の中によく泊まったものだ。恐らく自宅で寝ているよりは空幕で寝ていた日の方が多かったに違いない。どんなに頑張っても次から次と仕事が流れてくる。いやになって自衛隊を止めて他の仕事を探そうかと思ったことも度々あった。当時はバブル景気の最盛期であった。今では懐かしい思い出である。

 あれから十数年の年月が流れたけれども、現在でも各担当の諸君は同じように仕事に追いまくられていることと思う。しかしどんなに忙しくともルーティンの仕事をこなしているだけで満足してはいけない。ルーティンをこなすと同時に、日本の国のために、空自の精強化のために、或いは後輩諸君のために何か一つ良いことを成し遂げなければならない。これは俺がやったと言えるような、あの人がこれをやってくれたと言われるような仕事を是非やって欲しい。前任者から申し送りを受け、ルーティンの仕事をこなして、全く変化のない状態で次の人に申し送ることは恥だと思わなければならない。

 新たな配置を命ぜられたならば、状況を分析して、できるだけ早く自己の職務に関し在任間に実施すべき目標を立てることだ。この目標を達成するには通常他の人の協力も必要だから、必要な場合周囲に対し公言しておく方がいい。もちろん目標はかなりの困難を伴うものであることが必要であるし、正義の旗が立つものでなければならない。正義の旗が立つとは、国家のため、自衛隊のため、あるいは後輩のためになる目標であるということである。自己満足のための目標であっては意味がない。

 自衛隊に勤務していると幹部であれば2〜3年ごとの転勤は当たり前である。それぞれの人がそれぞれの勤務地で一つずつのいいことをしてくれれば空自はもっともっと強くなる。後輩諸君にも感謝される。日本の安全保障がより確固たるものになる。一日一善という言葉があるが一勤務一善の心構えを持とう。その心構えがない人は次の言葉を額に入れて飾っておけばよい。
 「こなせルーティンワーク!!」


3 報告の遅れを叱らない
 部隊等において服務事故等が発生し上級指揮官にその報告が行われず、後日それがマスコミ沙汰等になった場合、上級指揮官は、ゆめゆめ「なぜもっと早く報告しなかったのか」などと言ってはいけない。何をいつ報告するかは本来部下指揮官の判断事項である。もし事前報告がないことを責めれば部下指揮官は次からは細かいことまで報告を実施するようになるであろう。しかしこれが続くと部下指揮官が自らの責任で物事を処理するということが出来なくなる。とにかく何でもいいから報告しておけと言うことになり、また何でもかんでもお伺いをたてることになる。上司の顔色ばかりうかがい上司に対していわゆる仕事の丸投げを行い、部下指揮官として十分な能力を発揮しなくなる。当然のことながら組織としての総合戦力は低下していく。従ってこんな場合上級の指揮官は次のように言ってやるのだ。「お前も自分の責任で部隊と部下を守ろうとしたんだよな。お前の気持ちは良く分かるよ。その心構えは指揮官としてはとても大切なことだ。あとは俺が耐えるから心配するな」と。そうすれば部下指揮官は、その後いろんなことがあったとしても状況に対応して最も適切な処置をするようになるであろう。彼等は、上司は俺のことを守ってくれる、俺のやることは支持してくれると感じ、のびのびと行動し、その結果として組織戦力は最大になるのだ。

 ところが上級部隊や外からの圧力に耐えきれず、報告の遅れをなじったり、部下指揮官にあれこれと細かい指示をしたり、怒りの感情をぶつけたりする事は往々にしてあり得ることだ。しかしそのとき上級の指揮官は部隊の精強化よりは部隊の弱体化に貢献していることを認識する必要がある。特にマスコミ等で事故やこれに関する報告の遅れなどを取り上げられた場合に日ごろ冷静である指揮官でさえも心の平静を保つことはかなりの困難を伴う。しかし指揮官はこれに耐えて我慢することが必要なのだ。決して部下に当たってはいけない。そのときたまたまミスがあったにしても、航空自衛隊においては、通常は報告はやり過ぎくらいに行われていると私は思う。報告は本来報告を受ける人の状況判断に必要な事項に限られるべきであり、何でもかんでも報告されるべきでない。これまで部隊等において上下の意思疎通をよくするためにと称して「何でも報告せよ」と指導されたこともあったが、私はこれは基本的に間違いであると思っている。不必要な細事を上級指揮官の耳に入れて上級指揮官を煩わせるべきではない。上級指揮官には常に大局的判断に専念してもらうことだ。また上級指揮官は部下指揮官の所掌事項について細部にわたり知りたがってはいけない。組織の能率を低下させ、部下指揮官のやる気を失わせるだけである。


4 TOTAL SUM IS CONSTANT
 指揮官は何のために存在するのか。平時においては部隊を精強にするためにこそ存在し、部隊を精強にできない指揮官は存在意義がない。しかしながら自らは誠心誠意のつもりでも指揮官の指揮振りが部隊の精強化に逆行する場合があるので注意を要する。

 自衛隊においてはランクが上がるにつれて上司等の指導を受ける機会が少なくなるために上級の指揮官ほど自ら省みて第三者的に自分の指揮官振りを評価してみる着意が必要である。上になればなるほど注意されないだけ、わがままが出やすいと心得るべきである。それだけ自律心が要求されるが上級指揮官も人の子、自分だけで律することは極めて難しい。一般的に人は他人を見る能力に優れているが、自分を見る能力となると極めておぼつかない。指揮官も他人の力を借りることが必要であるが、現実的な方法としては自分の指揮官としての評判等を聞き、自分に注意を与えてくれる同期生や期別の近い友人を持つことが良いのではないか。もちろんそれは部下でもいいが、一般的に部下の場合は精神的拘束があり、あれを直せ、これを直せとは言いにくい。これについては私は自衛隊の監察制度を活用すればよいと考えているが、細部については別の機会に譲りたい。

 さて指揮官として最も避けなければならないのは、自分の行動によって部下を萎縮させてしまうことである。指揮官が任務達成への情熱を燃やすことは極めて重要であるが、仕事に情熱がある人は、他方では部下の指導も厳しくなる場合が多い。勢いあまって怒ったり、怒鳴ったりしてしまう場合も多い。部下の性格にもよるが、それによって部下が萎縮してしまうとしたら大問題である。部下が萎縮してしまうと上司に怒られまいとすることに最大のエネルギーを使い、本来の仕事に注ぐエネルギーはどんどん減ってゆく。結果として組織戦闘力はどんどん低下していく。つまり部下が上司に対し気を遣う量と仕事そのものにがんばる量の和はいつも一定なのだ。TOTAL SUM IS CONSTANTである。

 部下が自分に対し気を遣わないですむようにする最も良い方法は、知らない振りをする、あるいは少し抜けたところを見せることだ。私のこれまでの経験では上司が抜けたところを見せてくれたときにほっとしたことが何度もある。だから時には上司が部下の机の周りに出かけて馬鹿話をし、大笑いをする配慮が必要である。このときほんとに馬鹿と思われるのではないかと心配する必要はない。上司が利口ぶろうが馬鹿な振りをしようが上司の能力、識見、品性は部下はとっくにお見通しだ。だがあんまり馬鹿な振りを続けると、癖になってほんとに馬鹿になってしまうので要注意である。


5 厳正な秩序と組織の能率は反比例する
 国家や社会には適度の秩序が必要であり、秩序が維持されていないとみんなが快適に暮らせない。今のイラクのことを考えれば良くわかると思う。昔の日本は、街中等において若い者が悪さをすれば年寄りがこれを諌めることができた。今では年寄りが注意でもしようものなら若い者に殴り飛ばされるので見て見ぬ振りをするしかない。勇気がないといって年寄りばかりを責めるわけにはいかない。戦後の学校教育において、個人の権利と自由ばかりが強調され、道徳教育を軽視してきた結果が傍若無人の若者を多数生み出している。他人の迷惑を顧みない若者が多すぎる。一時話題になった成人式の光景などは正に目にあまるものがある。目上の人を敬うということがきちんと教えられていれば、若者は年寄りの忠告に従うはずである。昔の日本にはそういう風土があった。しかし今の日本にはそれがない。学校の先生でさえも尊敬の対象にならない。

 一方自衛隊においては世間と違ってきちんとした秩序が維持されている。多くの心ある人達が自衛隊の各種行事や成人式等を見て、同世代の若い隊員が街中で見る若者達とまったく違っていることに感動される場合が多い。自衛隊においては目上の人あるいは上官を敬うという風土が出来上がっている。軍事組織である自衛隊にとっては、これは組織存立の要件であり、上官は権威のある偉い存在である。しかしながら上官が偉すぎると、一方では部下は精神的自由を失い適切な権限の委任が行われにくくなる。部下指揮官や幕僚が細かなことまで一々上官の御沙汰を仰ぐようになるし、意見具申や部下から上官に対する意見の表明も少なくなっていく。即ち自衛隊における厳正な秩序を徹底的に追求すると部下指揮官等の精神的硬直が起こる。行き過ぎるとイラクや北朝鮮のようになり、上司を満足させることが組織の目的になってしまう。航空自衛隊の現状を見るに組織の秩序は適正に維持されているので、上司が部下に対し、よほど目に余るものは別として、礼儀正しさや完璧な手続きをあまり求めるべきでない。それを求めた途端に組織に硬直が起きる。厳正な秩序にも適度のあそびが必要であり、あそびがないと仕事の能率はどんどん低下する。規則ガチガチ型の人に改革のエネルギーや仕事の馬力が期待できないのはこのためである。指揮官は、部下にのびのびと仕事をして貰うことが大切である。厳正な秩序と組織の能率は反比例するのだ。


6 あれでいいんだ同好会
 防衛庁設置法と自衛隊法は防衛2法と呼ばれ、予算成立等に伴うこれらの改正については戦後の55年体制下でいつも与野党の対立法案であった。このため自衛隊において各種事故や事案が発生すると、某野党などはここぞとばかり自衛隊を攻撃し一部マスコミもこれに同調してきたのではないかと思う。残念ながら我が国においては今なお自衛隊が国民の財産として十分には認知されていない。部隊等においてはこのため事故防止に格別の努力をし、隊員指導を強化してきた。その結果25万人の人員を抱える自衛隊の各種事故率は25万の人口を持つ市や郡に比較して圧倒的に低い状態に抑えられている。犯罪白書によれば、千人あたりの日本国民全体の刑法犯は平成11年から13年まで22.9、25.7、28.1であるが、自衛隊の刑法犯は、4.0、4.4、4.9とその約6分の1である。しかも25万人の平均年齢は35.1歳と若く、20歳そこそこの若者を数多く抱えた組織であるのにである。高校等において全く先生の言うことをきかなかった者が自衛隊に入って数ヶ月もすると礼儀正しい立派な社会人になるのを見るにつけ自衛隊は素晴らしい教育機関であると思う。

 にもかかわらず一民間人が起こしても何の話題にもならないような事故でさえも自衛隊員が起こした場合、マスコミ等で激しく叩かれる場合がある。しかも10年以上も前に自衛隊を辞めて民間人になっている人あるいは昔自衛隊に数ヶ月勤務しただけの人の不祥事についても元自衛官などと報道される場合もあり、それ自体は確かに事実ではあるが、なんとなく不自然さやある種の意図を感じざるを得ない。

 しかしこのようなことが長期間繰り返されると、われわれ幹部自衛官の心の中にも萎縮が起り、空幕やメジャーコマンド司令部等においてさえ、事故はゼロにはならないことを忘れ、隷下部隊等が起こした事故、あるいは事故に対する許せる範囲の対応のまずささえ責めたくなる。しかし私はこれを統率上絶対にやってはいけないと思う。私自身それをやってしまった場面に何度か出くわしたが、それによって空自内の団結を損なうこと著しいものがあると痛感した記憶がある。事実その事故が起きても相変わらず空自の事故は少ないし、隷下部隊等の対応もまずまずの合格点であると思っていた。しかしながら外から責められているという事実をもって誰かを悪者にしないといけないような雰囲気が充満していた気がする。問題を起こしたことが問題なのである。「どうしてこんな事故を起こしたんだ。だから俺達の仕事が増えて大変だ。そうでなくても忙しいのに。」という気持ちはよくわかる。しかしここは気持ちを切り替えて隷下部隊を護ることを考えなければならない。それをやらなければ部隊の上級司令部に対する信頼は失われてしまうし、何か理由があって自衛隊を攻撃している人達の思う壺である。自衛隊員がやる気をなくすことが無上の快楽である人たちに迎合しては国益を失ってしまう。よく自衛隊に対する信頼が失われたとか、警察に対する信頼が失われたとか報道されることがあるが、今までわが国においては自衛隊に対する信頼も警察に対する信頼も失われたことは一度もないと私は思う。国民は自分の生命等がもし真に危険にさらされたならば、信頼が失われたと報道されているときでさえきっと自衛隊や警察に助けを求めたであろうと思うからである。どこかの国の軍や警察とは我が国の自衛隊や警察は違うのだ。

 従ってこのような場合上級司令部等は隷下部隊等を護る発言をすることが大切である。事故を起こしたことは謝罪するにしても、少なくともそれに対する隷下部隊等の対応については「あれでいいんだ」と言わなければならない。これまでの私の経験ではあれでいいんだと言えない程のまずい対応は経験したことがない。空自の部隊長等になる人はそれなりの能力も常識も備えており、それなりの対応をしていると思って間違いない。よく調べもせずに「いったい何をやっているんだ」などとゆめゆめ言うなかれ。万が一あれでよくなかった場合は上司が責任を取るのだ。しかし「あれでいいんだ」と言わなければ、その責任を部下たちに取らせることになる。幕僚等が指揮官に迷惑をかけてはいけないという気持ちはよくわかる。しかしそのための予防線として初めから隷下部隊の対応のまずさを強調するようでは、決して部隊は精強にはなり得ない。幕僚は指揮官も部隊も両方護る責任がある。隷下部隊の対応はいつでも合格点であることを信じよう。みんなであれでいいんだと言おう。私は自称、航空自衛隊の「あれでいいんだ同好会」の会長である。

7 訊くな、基準を求めるな
 部隊等に勤務していると、規則類の細部についてどう解釈すればいいのか疑問が生ずることが多い。特に司令部の幕僚としては、法令の解釈の間違いによって指揮官に迷惑をかけてはいけないという心理が働く。従って「方面隊に訊いてみます」、「総隊に訊いてみます」、「空幕に訊いてみます」ということになる。空幕においては「内局に訊いてみます」、「財務省に訊いてみます」、「経済産業省に訊いてみます」ということがごく自然に行われていることが多い。そして多くの場合訊かれた側も即答できず、調べて回答するということになる。時間が経って回答が届き、担当者としてはこれで法令解釈についてお墨付きを得て、目出度し目出度しということになる。

 しかしここに一つの大きな罠がある。法令の解釈について疑問が生ずるのは、いわゆるグレーゾーンの解釈についてである。明確に解釈できることについてははじめから他人に訊く必要はないので、上記のような事態は生じない。それではグレーゾーンの解釈について問われた側はどう対応するのか。問われた側は法令解釈についてより責任が生ずることになるので、グレーゾーンの解釈については、より安全サイドの解釈をする場合が多い。これが繰り返されると判例的に解釈が定着し、グレーゾーンはだんだん狭くなっていく。それによって通常は部隊の行動にとってより選択肢が減り、より経費がかかることになる場合が多い。

 もうひとつの問題は、訊くことの繰り返しにより上司の意向が明示されないと動けないという体質が出来上がることである。即ち作戦的体質が失われるということである。上司の意向の範囲内で一生懸命頑張りました。結果はあまりよくなかったけれども私の責任ではありませんということになりやすい。これでは任務達成にかける情熱が感じられない。大部隊の指揮官が自分の部隊の行動を細部にわたり全て掌握することは不可能である。作戦の方針や計画の大綱的事項を示し細部については部下指揮官等に任せることになる。部下指揮官等は上級指揮官の意向等全般状況をよく把握し自らの判断で最適行動計画を作り部隊を動かすのだ。自衛隊が行動する場合、細部の状況は常に千変万化する。その際一々上司に指示を仰がないと動けないというのでは任務達成は不可能である。「どうしたらよろしいでしょうか」と訊かれれば、上級指揮官としては「お前はどうしたいのか」と訊き返すことになろう。

 第3の問題は訊くことによって自分の権限や力をどんどん失っていくということだ。自衛隊は服従の重要性を教えるせいか、隊員は一般的に服従心が旺盛で上司の言うことには素直に従う習性がある。それは一方では大変重要なことであるが、他方何かわからないことがあると、自分でよく考える前に上司に訊いてしまうのである。しかしちょっと待って欲しい。グレーゾーンの問題について、自分より権限のある部署等に訊いた場合、万が一法外と思う指導をされたとしてもそれに従わざるを得ない。自分の判断でやれる範囲を自ら狭めることになる。グレーゾーンの解釈については、人により解釈が違うのは当然である。だからグレーゾーンなのだ。だからその解釈については可能な限り自分でやることだ。自衛隊の精強化のため、どこまでできるか、何ができるかという視点で自ら解釈する着意が必要だ。他人に訊くという事は、裏を返せば「私の力あなたにあげます、私はあなたのコントロールを受けます」ということだと知るべきである。しかしながら中にはどうしても訊くことが必要なこともあるだろう。私は絶対に訊くなと言っている訳ではない。簡単には訊くなと言っているだけである。そして訊く場合には自分の力を失うかもしれないという覚悟が必要である。

 もうひとつ付け加えたいことがある。訊くことと類似の事項として「基準を示して欲しい」というのがある。航空自衛隊は業務がSOP化されているせいか、ルーティンの業務をこなすことは大変便利になっている。しかし長い間SOPに従って業務をこなしていると、自ら考える習慣が失われていく。何か基準がないと途端に仕事ができなくなる。ルーティンではない仕事をするときに「これは基準が決まってない。空幕で何か基準を示してくれればいいんだが」というような例はよくあることだ。そして空幕に基準作りをお願いし、お願いされた空幕も基準を示すということが相互に無意識のもとに行われているのである。日本人特有の横並び意識もあると思うが、ルーティンではない1回限りの仕事に基準を示すことを求めるべきではない。基準が示されていなければ、自分の裁量の範囲が広げられているとアグレッシブに考えてはどうだろうか。「そんなに細かい基準を示さないでくれ。やりづらくてしょうがない」というくらいの元気があっていい。基準が示されていないことは自分の権限を拡大するチャンスなのだ。上級部隊等もまた要請に応じて簡単に基準を示すべきでない。部下指揮官等が自ら判断し、自ら決心するよう部隊等を指導したほうがいい。部隊毎に指揮官毎にやり方が違うことを許容しなければならない。もしそうでなければ部下指揮官の存在意義がなくなってしまう。統一するのは真に必要なものに限定することだ。そうしなければ千変万化する状況下で効果的に任務遂行ができる強い部隊を育成することは出来ない。統一の極致は全体主義である。部隊の行動が統一されていないとどうも落ち着かないという人は、頭の中が全体主義に侵され始めている。

 「訊くな」、「基準を求めるな」というと、一般的に指導されていることには反するかもしれない。しかし空自の現状を見るに訊き過ぎ、基準の要求し過ぎのような気がする。例えば今、自宅から2百メートルほど離れた駐車場にいて、車を20メートルほど移動することが必要になった。このとき運転免許を携帯していないことに気がついた。もし車を動かしたら免許の不携帯に当たるか。これを警察官に訊いた後でないと行動に移せない、というような仕事をしていないかどうか反省してみる必要があろう。訊かれた方はそれは不携帯に当たらないとは言えないであろう。自分の責任で処置してくれと言いたくなる。何事も行き過ぎは修正されなければならない。決められたことを決められたとおりやるだけの航空自衛隊になってはいけない。「俺のやりたいようにやらせろ、必ずみんなが満足する結果を出してみせる」というくらいの元気のある部隊長がいっぱいいて欲しいと思うのである。


8 後輩に夢を与える
 後任者が自分のポストに配置された場合、自分よりは楽に仕事ができ、自分よりは大きな力が振るえるようにしておくことは先輩の責任である。「今はいいよな。でもおまえたちの時代になったら大変だぞ」と言い残し何の責任も感じないようでは困るのだ。先輩は後輩に夢を与えなければならない。将来は少なくとも今よりは良くなるという夢である。当面の対応としてどんなに立派なものでも、それによって後輩が手足を縛られ、自分よりも困難な事態に直面することが予測されるような解決策では後輩に対して申し訳ないし、自衛隊の精強化には反するものとなる。私たちは常に、自分の判断が将来後輩たちに負の遺産を残すことがないよう配慮する必要がある。

 例えば空幕における防衛力整備について考えてみよう。航空機やミサイルシステムあるいは警戒監視レーダー等を整備する場合、もし1社独占の体制になるような選択をした場合は、後輩たちは会社間の競争をさせることもできないし、もちろん会社を選ぶことはできなくなる。1社に集中したほうが効率的という主張もあるが、短期的にはそうであっても長期的には高い買い物になる場合が多い。通常は各種不測の事態等を考慮して、最低2社の体制は残したほうが後輩のためになる。もちろんそれは空自のためであり、日本国のためでもあると思う。国の財政事情が許せば3社や4社の体制が望ましいが、通常はそれでは非効率であり、2社体制を目指し、国としては常にナンバー2の育成を心がけておけばよいのではないかと思う。ナンバー2の育成は、弱い者に味方するということであり、自衛官のメンタリティーにはぴったり来るのではないか。

 航空事故や服務事故等で基地対策を実施する場合は相手が空自の味方であるか否か、日本国民として国家の発展を真に願っているか否かが対応の重要な分かれ目になる。味方ではないと考えられる人やある種の思想を持った人に十分な誠意を尽くして説明したり、細かい調整をしたりするのは基本的に間違いである。また、説明者の選定に当たってはレベルを考慮する必要がある。群司令や団司令などがはじめから出て行くようでは相手に足元を見られるだけである。まして簡単に空幕から部長等が派遣されたりすれば、相手によっては現地指揮官を相手にしてくれなくなる。現地指揮官のステータスの低下は著しいものがある。一度中央から人が派遣されると、次回にはさほど必要がなくても「何故中央から人が来ないのか、現地を軽視しているのか」と言われるだろう。

 戦後我が国の外交が謝罪外交に徹したと言われているが、その結果はどうか。もっと謝罪しろと言われ状況はどんどん悪くなるだけである。その場を収めようとして1歩下がる、あるいはより誠意を尽くすことは、当事者にしては楽な選択である。しかしそのために後輩がもっと苦労するようでは正しい選択とはいえない。そうしないためには多少の摩擦を覚悟しても踏ん張ることだ。のらりくらりと不真面目にやることが必要な場合も多い。結局は誰かが踏ん張らなければならない状況がいつかは訪れる。防衛庁や自衛隊の基地対策が謝罪対策になってはいけない。自衛官は本質的に純粋な人が多く誠意を尽くせばいつかは分かると思っている人が多い。しかしある種の思想を持つ人たちには誠意を尽くしてはいけないのだ。毅然とした対応をしないと泥沼にはまるだけである。誠意を尽くすべきか否か、相手をよく見て判断しなければならない。そしてもっと大事なことは現地における対応を空幕においては支持することだ。これまで県知事や当該市長が中央を訪れ、現地部隊の対応に不満を漏らすこともあったが、よくよく調べてみれば、ほとんどの場合現地の対応は大筋で適正なものであったと記憶している。よく状況を調査することなく、現地で摩擦が起きたらいつでも部隊側に問題があると考えることは自信のなさの裏返しである。あるいは部内の誰かを攻撃したくて言っているに過ぎない。航空自衛隊はもっと自信を持っていい。

 我が国は中国や韓国に謝り続け、自衛隊は基地周辺に対し謝り続けるような構図に近づいているような気がしてならない。部隊指揮官等がもっと毅然として国民に接することができるようにしなければならない。彼らが精神的に萎縮して自信を失っているようでは自衛隊を精強にすることはできない。国の安全保障上マイナスである。そのためには中央における対応が毅然としたものでなければならない。防衛庁も空幕も部隊を守ることが必要であり、それによって部隊等からの信頼を得ることが必要である。部隊を攻撃し、部隊を弱体化しておいて中央のステータスを維持するというような馬鹿なことがあってはいけない。部隊を精強にすることは中央の責任そのものである。部隊があっての防衛庁、部隊があっての空幕である。決して「部隊は一体何をやっているんだ」などと言うなかれ。


9 えこひいき大作戦とお邪魔虫大作戦
 自衛隊は、部外の人に対する対応について、極めて公正、公平な組織であると思う。私は行き過ぎているくらいだと思っている。この国を愛し国民の発展を願う善良な人も、とても善良であるとは思えない人も同じ扱いをしようとする。自衛隊を応援してくれる人と反自衛隊活動をする人さえ同じく扱おうとする。しかし何だか少し変な気がする。私は本当の公正、公平と不公正、不公平は、もう少し中間点がずれたところにあるのではないかと思う。現在自衛隊が実施している公正、公平は反自衛隊の人たちから見て極めて公正、公平なのだ。そして自衛隊を応援してくれる人たちから見た場合には極めて不公正、不公平に見えるのではないだろうか。自衛隊を応援してくれる人たちは、「俺とあいつが同じ扱いか?」と感じるに違いない。しかしこれらの親自衛隊派の人たちはそれでも自衛隊に注文をつけてくることはまれである。自衛隊は、反自衛隊派の批判を恐れ彼らを丁重に扱い、親自衛隊派の人たちに我慢を強いているのだ。あるいは親自衛隊派の人たちに自衛隊が甘えさせてもらっているのだ。しかしこれが長い間続くと親自衛隊派の人たちが自衛隊を離れてしまう。国家安全保障にとってマイナスになる。私は決して違法行為を勧めているわけではない。公正、公平にもグレーゾーンがある。このグレーゾーンを親自衛隊派の人たちのために最大活用すべきである。私は自衛隊はもう少しえこひいきをしていい、即ちグレーゾーンを活用していいと思っている。そしてそれが普通の組織における公正、公平の概念に近い。

 航空団司令をやっているときに、部外者の戦闘機の体験タクシーに関し「司令、あの人を飛行機に乗せたらあの人も乗せざるを得ません」という話があった。部隊等においてはよくある話だ。しかし私は「そんなことはない。体験タクシーは国民に対する広報が目的なのだ。効果を考えて乗せたい人は乗せるし乗せたくない人は乗せない。それは自衛隊の利益、国益を考慮して自衛隊側が決めることだ」と答えた。そして部隊は部隊の意思として主体的にそれを決めた。自分の決めたことが部外から批判され問題になることを恐れれば確かにそんなことはある。しかしそのために始めから自分に与えられた正当な権限の行使をためらう必要はない。人間のやることに完璧はないから必ず一部の批判はある。どんな選択をしてもすべての希望者を同時に体験タクシーさせることは無理であるから、順番が来なかった人や外れた人からは批判がある。権限を行使した者が一部の人から批判を受けるというのは民主主義社会では当然のことなのだ。にも拘らず批判に対し非常に敏感に反応する人がいる。いわば批判恐怖症とでも言おうか。だから誰も乗せないというのだ。「俺に関係のないところで決めてくれ、決まった通り実施するから」というわけだ。同意しかねる考えである。指揮官は批判恐怖症に陥ってはいけない。そんなことを他人に決められてたまるか、俺が決めるんだという気構えが必要だ。選択的に自分が乗せたい人だけ乗せればいい。ただし部外に対しては「あなたは乗せたくないから乗せない」とは決して言わないことは言うまでもない。角の立たない理由はいくらでも考えられる。いい人とそうではない人の扱いは違って当然である。各種事情があり、いつでも自分の思うとおりにはできないかもしれないが、頭の片すみに是非えこひいき、即ちグレーゾーンの活用を留めておいてもらいたい。もちろん合法的なえこひいきである。

 念のために断っておくが、親自衛隊派も反自衛隊派も有事に際し自衛隊が等しく安全を保障する対象であることはいうまでもない。いかなる思想を持つことも自由民主主義国家においては許容される。しかしながら有事自衛隊が効果的に任務を達成するためには、平時においてこれらの人たちと自衛隊の関わり合いについては差があって当然と思うのである。親自衛隊派の人たちとより親しく付き合い、必要な情報を提供し、あるいは情報の提供を受け、国の守りの態勢を整えることは自衛隊の義務とさえ言えるだろう。

 また、えこひいきできない人は決して尊敬されることはない。戦後のわが国の全方位外交なるものがあった。どんな国とも等しく仲良く付き合うというものだ。こんな考えを持つ人と長い間友達でいることはできない。困ったときに助けてくれるかどうかいつもわからないのだ。友人としては最も信用できない類の人たちである。結果としてわが国は国際的に信用の高い国であるのか。どうもそうとはいえないようだ。結局は経済大国にふさわしい尊敬を得ていないのではないか。日本の国は顔の見えない国といわれるが、自衛隊も善良な国民から顔が見えないと言われてはいけない。もっと自己主張をすべきである。自衛隊はえこひいきをするくらいで丁度公正、公平になることができる。

 もう一つは徹底的にお邪魔虫することが大事である。組織のステータスとか個人のステータスとかは、どれだけ人や仕事について影響力があるかで決まる。欧米諸国のようには責任と権限が明確ではない日本型組織においては、どんな仕事にも多少の関連を見出し参加することができる。自衛隊は今回は支援してもらわなくても結構ですとか、これは○○課は特にやって頂くことがないので会合に参加する必要はありませんとかいう話はよくある。しかしここで「はいそうですか」と下がってはステータスは上がらないし能力向上のチャンスを失ってしまう。何か貢献できることがあるかもしれない、将来の勉強のためにとか理由をつけて参加させてくれるよう主催者側や主管部下に迫ることだ。参加しなくてもいいと言われれば、これは仕事も増えないし、やらなくていいチャンスだと考える人もいる。わざわざ仕事を増やして一体何が幸せなのかと言う意見もあるには違いない。しかし自衛隊を強くする、部隊を鍛えるとかいうことを考えた場合、このような姿勢はいささか消極的ではないかと思う。もっと前向きな積極的な姿勢こそが1歩前進や改革の原動力になる。

 手前味噌で恐縮だが具体例を挙げないと理解しづらいと思うので小松基地司令のときの話をしたい。毎年秋に小松市のどんどん祭りが開催される。私はこれを2度経験したが、着任して最初の祭りの時には市役所前に造られた特設ステージに、市長、市議会議長、商工会議所会頭など約20名とともに小松基地司令の席が準備され、祭りの開会式が行われた。特設ステージに並ぶ人たちは1人ずつ紹介があり、紹介後入場するという形だった。2年目には開会式のやり方が変わった。場所も小松市の陸上競技場に移され、ひな壇に並ぶ人たちも大幅に数が減り、市長、市議会議長、商工会議所会頭など限定された数名の人たちになるということだった。そこで小松基地司令は並ぶ必要がないという連絡を受けた。私は監理部長を派遣して是非並ばせて欲しいと申し入れを行った。結果はやはり並ばなくていいというものだった。それでも私は諦めなかった。祭りは日曜日に行われたが、私は、開会式の時間にひな壇のちょうど正面になる陸上競技場の観覧席に制服を着て副官とともに座っていた。開会式の直前になって私の姿を見つけた祭りの実行本部の人がやってきてひな壇の人たちが基地司令にもこちらに並んでもらってはどうかと言っているということで、結局私はひな壇に並び場内放送で紹介を受けることになった。これを私はお邪魔虫大作戦と呼んでいる。

 並ばなくていいと言われたときにそのとおりにすることもできた。申し入れを行って再度断られた時点で諦めることもできた。しかし結果としてひな壇に並び場内放送で紹介を受けたことにより、小松の祭りに集まった人たちは、基地司令のそれなりのステータスを認めることになったと思う。このこと自体はそれだけを見れば取るに足らない些細なことである。しかし私はこの些細なことの積み上げがその人や職位のステータスを造っていくのではないかと思う。

 もうひとつ例を挙げる。福井県で全国農業祭が行われ皇太子殿下御夫妻が参加されるために小松空港経由で現地に向かわれることがあった。石川県が出迎えの計画を作ったが一般市民が道路沿いに並んで殿下御夫妻を歓迎し、多くの警察官が警備のために動員されるというものだった。私は警察官とともに自衛官の雄姿も是非殿下御夫妻に見て頂きたいと思った。そこでこのときも自衛隊にも是非と列をさせて欲しいと申し入れた。しかし場所の関係とかで基地の外でのと列は遠慮して欲しいという回答が来た。それでは自衛隊の姿が一般の人たちには見えることがない。諦めきれずに交渉したところ、それでは空港ターミナルの出口で基地司令にも県知事、県議会議長や小松市長とともに約20名の出迎えの列に並んでもらうことにしましょうということになった。この出迎えの光景は多くのマスコミが取材していたので多分小松基地司令の姿も多くの県民が認識したのではないかと思う。何か重要な行事等があるときは必ず自衛隊が参加している、基地司令はひな壇等に並んでいると県民が自然に思ってくれればそれがステータスである。

 部外で実施される国防を真に考える政治家や研究者の講演会等にも積極的に参加したらいい。参加基準などが示されることもあるが、それを超えて参加できないのかどうかを知っておく必要がある。何にでも顔を突っ込んでいる、いつもジャブを出している、それが大事である。ジャブを出し続ければたまにはアッパーカットが決まることもある。単一の事案から成果を求めてはいけない。犬も歩けば棒にあたる。面倒だと思っても仕事だと思って出向いてみることが大事である。その地道な努力がその人のステータスを築いていく。組織的にやれば、それは組織のステータスになる。ひとつの事案のみを取り上げればほとんど取るに足らないことだ。しかしその積み重ねがやがて大きな成果を生むことになる。いつもあの人がいる、いつも自衛隊の姿が見えるということが大切である。ステータスの向上に意を用いない組織はやがて衰退すると思う。だから私はあえてお邪魔虫大作戦を推奨する。


10 国民の国防意識の高揚
 近年我が国の歴史教科書が極めて自虐的に書かれていることが産経新聞等によって明らかにされ、扶桑社の新しい歴史教科書が作られることになった。多くの日本国民はこのことを歓迎し、本教科書は市販本として数十万部の売れ行きを示し暫時ベストセラーの一角を占めた。私はこの教科書が売れて本当によかったと思っている。残念ながら学校の教科書採択においてはあまり採用されなかったが、市販本としてかなりの数が売れたことにより今後とも学校における歴史教育を正す運動は継続されることになろう。

 問題は自衛隊が歴史教育を正す運動をどう考えるかである。もちろん自衛隊には本件に関する法律上の責任は全くない。しかしながら今後とも学校教育において日本の国の悪いところばかりを強調するような歴史教育が継続されることは、国家安全保障上重大な問題があるのではないか。学校を卒業した一般国民は、そんな悪い国なら守るに値しないと考えて当然である。しかしながら事実はどうか。第2次大戦前の我が国の中国、韓国や東南アジア諸国に対する対応は欧米列強の対応に比較すればよほど穏健である。道路や鉄道などインフラを残し、回収が投資を下回るような植民地政策を実施したのは列強の中では我が国だけである。一番悪くない日本が一番悪く言われている。政治家がもっと頑張ればいいのにとか、文部科学省は一体何をしているのかとかいう意見もあろうが、自衛隊にも国の機関として国民が正しい歴史観を持つためにやれることがあるのではないかと思う。国民が国の伝統を尊重し、国を愛する心を持つことは国家安全保障の基盤であり、その具体的戦略についても今後検討が必要である。

 自衛隊はこれまで政治的活動に関与せずということを強く指導されてきたために部外において意思を表明する活動については極めて慎重な対応をしてきた。自衛隊の外で行われることには無関心を装ってきた。しかし気がついたら反日活動がこれほどにも進展している。これを認識すれば、今後はこれに負けない親日活動をするぐらいの心構えが必要である。それは国の安全保障上必要であり、現行法の枠内でもできることはたくさんあるのではないか。我が国は民主主義国家であり自衛官にも言論の自由は保障されている。従来のような慎重な対応に終始することなく、国の安全保障を担当する専門的見地から積極的に意見を述べるよう心がけるべきである。そして自衛官はそのための勉強を平生から継続しなければならない。

 さて先にも触れたが自衛隊は、部内者に対する教育機関としては極めて優れている。学校でどれほど言うことを聞かなかった者でも入隊して3ヶ月もすれば立派な社会人になる。私たちはこれまで余計なことをして社会的に糾弾されるよりは、自衛隊の中だけでしっかり頑張っておけばよいと考えてきた。しかしマスメディアの発達により、いかなる組織においても広報の重要性が叫ばれるようになり、国民の自衛隊に対する関心も高まりつつある現在、自衛隊ももっと国民に対する広報、国民の国防意識の高揚について配慮すべきではないかと考えている。私は現在統幕学校長であるが、例えば統幕学校の研究部門を充実させて、自衛隊の発信基地として活用するのだ。ホームページを毎週書き換える、定期刊行物を発刊する、マスコミが取り上げるような国際的セミナーを開催する、雑誌や新聞に投稿する、テレビやラジオで直接国民に訴えるというようなことを組織的に実施するのだ。更に部隊等において基地司令等が基地周辺住民等に対しあらゆる手だてを尽くして広報乃至は国防意識の高揚のための活動を行うのだ。今現在は反日的グループの活動が我々の活動を上回っている。彼らの努力が我々の努力を上回っていたから教科書はどんどん自虐的になり、中国や韓国から事あるたびに謝罪を要求され、国のために尊い命を捧げた英霊をまつる靖国神社への総理の参拝さえままならないのではないか。

 国の安全保障を全うするために国民の国防意識を高揚するのも自衛隊の任務だと考えた方がいい。平時における部隊指揮官等の主要な任務は精強な部隊を造ることであるが、今後は国民の国防意識の高揚にも努力すべきである。その心構えを持てば各部隊指揮官等の動きも従来とは少し変わってくるだろう。部隊指揮官等はもっと外に出てどんどん多くの人に語りかける必要がある。6空団司令をしているときにある新聞社の論説委員をしていたO氏と話をすることがあった。話が国民の国防意識に及び、私が「政治家が国防の必要性についてもっと国民に訴えるべきですね」というとO氏は「団司令、それは自衛隊がやるべきだ。自衛隊は国民の国防意識の高揚にももっと意を用いるべきだ」という趣旨の意見を述べた。私は従来から多少そういう感じは持っていたが、この時以来確信を持ってそう思っている。米ソの冷戦は終わった。しかし我々は今、日本国内において反日的グループとの冷戦を戦っている。この冷戦に勝たなければ、日本の将来はないと思っている。


 おわりに 
 景気が長期に亘って低迷し回復の兆しがなかなか見えない。日本経済は外国資本に乗っ取られる恐れも出てきているという。北朝鮮の日本人拉致問題の解決も遅々として進まない。また自虐的歴史教科書問題等いわゆる歴史認識に関しては中国や韓国から言いたい放題言われている。国民のフラストレーションも逐次増大しつつある。日本国民は今これらの諸問題を解決してくれる強いリーダーを求めている。先の東京都知事選で石原都知事が投票総数の約7割、308万票という票を集め圧倒的強さで再選された。石原都知事は中国や韓国に対してもまったく卑屈になることなく、堂々とものを言い、南京大虐殺や慰安婦の問題などで日本人の心にたまっている鬱憤を見事に晴らしてくれる。北朝鮮の日本人拉致問題でも、「どうして日本政府は報復を考えないのか」と勇ましい。中国や韓国の日本政府に対する内政干渉に辟易している日本人にとっては、石原都知事のような強いリーダーの出現を待ち望んでいる。強い知事の下で都民も元気が出る。わが国では一部の人たちが、彼を右翼だとかタカ派だとか批判するが、石原知事くらいで普通の国の普通のリーダーである。多くの国民はそれを理解している。

 自衛隊においても今、強い指揮官の出現を隊員が待っている。日本の国がよく外圧に弱いといわれるが、国内においては自衛隊も外圧に弱い。部隊指揮官等は外圧から部隊等を護ることにもっと意を用いる必要がある。従来自衛隊で事故や事案が起き、マスコミ等で報道された場合、やや公正を欠いている報道も多かったような気がする。今までは「またやられた」の繰り返しだから、自衛隊も次第に元気をなくしていく。指揮官や上級司令部に対する信頼が損なわれ、部隊の士気が低下し団結が崩れてゆく。東京裁判史観、日本悪玉論を信奉する反日的グループは事あるごとに自衛隊を攻撃し弱体化を図ってきた。しかし今東京裁判の呪縛から日本国民も少しずつ解放され、自衛隊に対する国民の期待も高まりつつある。強い自衛隊であることを国民も望んでいる。隊員が元気をなくし部隊の士気が低下するようでは国民の意に反することになる。部隊長等は自衛隊に対する不当な攻撃に対しては断固戦う必要がある。空幕の広報室等もその都度きちんと反論しなければならない。きちんとした対応ができないと、その場は収まっても次回はもっと人手も金もかかることになる。今後はもっとしたたかに対応することが必要である。

 指揮官は部下から見て、さすが、強い、頼もしいと言われる存在でなければならない。それが軍事組織に絶対的に必要とされる指揮官を中心とした部隊の強固な団結を生む。強い指揮官のもとで部隊にも元気が出る。自衛隊を元気にしておくことは、国民に対する我々自衛隊員の責任である。元気であってこそ部隊等を錬成し精強な自衛隊を造ることができる。以上述べてきた10の提言は強い指揮官になるために私自身がこれまでの勤務の自己反省を含め心に留めているものである。指揮官によって部隊は大きく変わる。部隊に対する指揮官の影響力は絶大であり、多くの隊員が身をもってこれを体験している。指揮官の部隊統率要領によって部隊は元気にもなるし、不元気にもなる。「最近の若手幹部はどうも云々」などと部隊等でよく耳にすることがある。しかしその責任は彼らにあるのではない。自衛隊のより上級の指揮官の部隊指揮要領が彼らの隊務に対する取り組み方を規定しているのだ。下を変えるのには上が変わるのが一番早い。指揮の要訣は「部下を確実に掌握し…」と教わると真面目な人ほど部下指揮官の仕事の中身まですべて掌握し管理しようとする傾向がある。それが徹底されると管理される側、即ち部下指揮官はどんどん意欲を失っていく。人は自分に裁量の幅があるとき心底意欲をかき立てられる。自衛隊は今管理が行き過ぎている気がする。空幕や上級司令部等も部隊等に任せることができることについては努めて部隊等に任せることだ。我々はもっと部下に対してはのびのびと仕事をさせ、部下の振り付け通り踊ってやる覚悟が必要ではないか。それが将来航空自衛隊を担ってくれる強い指揮官を育てることになるのだ。そしてそれによって空いた時間は、部隊の改革、一歩前進のための創造的な仕事や部外に対する広報、国防意識の高揚のための活動に振り向ければいい。それによって自分自身もまた強い指揮官になれるのではないかと思う。

 時代は大きく変化している。今有事法制が国会を通過する情勢になり、自衛隊が行動する時代になって来た。自衛隊も変革を求められ、防衛庁をあげて防衛のあり方検討が実施されている。陸海空3自衛隊の統合運用も17年度の法制化を目指し鋭意検討が行われている。これらに追随するためには自衛隊が元気でなければならない。元気がなければ新たなことに取り組む情熱もわかない。その鍵を握っているのは自衛隊の各級指揮官である。なかんずくそれは自衛隊の上級指揮官等の隊務に対する取り組み方に掛かっている。

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