西尾幹二のインターネット日録

2006年06月
2006年06月30日

帰国してみると梅雨(六)

 次の写真は澤コレクションの所蔵現場である。
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 約15000点に及ぶ一私人による蒐集と所蔵は、それ自体が偉大な仕事で、強い意志と情熱なくしては果し得ない業績である。

 蒐集には日夜古書店その他の渉猟、保存には夏に湿気を防ぎ、冬は乾燥を恐れ、言葉に尽くせぬご苦労らしい。

 今は全冊門外不出である。紙の摩滅と造本の解体が恐れられるからである。しかし永久保存と国民的利用という相容れない要請が迫ってもいる。

 澤コレクションは日本が日本人の心を取り戻し、真に甦るための量り知れないパワーを与えてくれる国民的財産である。

 PDFその他による科学的方法での永久保存と万人への開放とを同時に行うような政策が求められている。そのために必要なのは資金であり、かつ広範囲の各層の関心と声援である。

 これらの本の理解と評価によって、日本人は初めて8月15日の、占領軍によって押しつけられた裂け目を埋めることができ、歴史の連続性を回復することができるのである。

 焚書された7100冊はもとよりのこと、氏によってあらためて蒐められた周辺関連本の約10000冊がことのほかに重要である。たとえ国立国会図書館にそのうちの約7~8割が現存するとはいえ、われわれの日常の視界から消えてしまった本は存在しないに等しい。誰が図書館に通って古書の山を丹念に研究することができよう。

 インターネットで自由に検索し、解読し、あの時代の日本人の心を再体験する人が少しづつ増えてくることが何よりも必要である。

 澤氏はその切っ掛けを与えてくれた。日本人が日本人であるための魂の蘇生に戦後60年にして一番大きな仕事を果したのは澤氏であったということになるだろう。一層のご研鑽と蔵書の維持努力への尽きせぬご配慮を祈りたい。


(了) 
     

2006年06月29日

帰国してみると梅雨(五)

 鎌倉駅に向かう帰路、雨は上っていた。

 澤氏の『総目録GHQに没収された本』によると、GHQが初回に没収した10冊のうち9冊は毎日新聞社刊、1冊が朝日新聞社刊である。また出版社別で一番多いのが朝日新聞社刊140冊、次いで多いのが毎日新聞社刊81冊である。

 あの時代に戦争の旗を振っていたのはどの勢力であったかがよく分る話である。けれどもGHQに真先に、最も敵視されていたのは名誉なことでもある。当時の日本の国家意思を代表した言論機関だった証拠でもある。

 日本は明治の開国以来、近代国家として国際社会を独立独行して歩んだことは間違いない。日英同盟はあったが、英国に外交主権を委ねていたわけではない。たとえ敗戦の憂き目を見たとしても、敗戦の決断もまた自己判断であった。

 しかし8月15日を境いにパラダイムは一変した。日本は目を覚ましたのではなく、目を鎖したのである。自分で判断し、行動することを止めた。主権を外国に委ねてしまったからである。

 8月15日より以前の日本人の心の現実を見直す時代が今来ているのである。遅きに失する嫌いさえある。

 日本人の歴史はいまだ書かれていない。歴史は過去の事実がどうであったかを今の地点から確かめる作業ではなく、過去の人間がどう考え、どう感じていたかを再体験する作業である――少くともそこから始まる。

 私がGHQ焚書本に注目しこれを知りたいと思ったのは、「現代史」を書きたいと秘かに念じたからである。冷戦崩壊後ソ連から一時かなりの資料が解禁され、アメリカの公文書館からも少しづつ(対ドイツ戦に比べれば遅れているが)、戦時資料が公開され、われわれも次第に複眼を得るようになった。

 ここで昭和初年から20年までの日本人の世界認識、日本人の戦争への覚悟がどう表現されたかを知り、三番目に今までの戦後の日本人の思想をこれらに加え、三本柱で歴史は書き直さるべきだと思っている。

 一番目については、2年くらい前から若い友人柏原竜一氏にインテリジェンスの世界を中心に、アングロサクソンの考え方をめぐって、書籍の紹介や知見のご披露をもって私の蒙を拓いてもらっている。私がなかなか呑みこみが悪く、彼を苛立たせているのが現実だが、これは見通しが立っている。

 しかしどうしても接近がむづかしいのが2番目の文献である。GHQ焚書図書がそれである。自分に残された人生の時間と生命力とをも考慮して、どのように解明に当るべきかを思案中である。

 私は歴史家ではない。大きな規模の叙事詩を書きたい。正確をめぐる諸論争にまきこまれたくない。人間として生きた日本人の心の歴史を書きたい。

 例えば焚書図書の中で私が拾い出し、これは本物だと思って今熱心に読んでいるのは谷口勝歩兵上等兵『征野千里――一兵士の手記――』(昭13)という、完全に忘れられた一冊である。私の目指している方向をお察しいただけたら有難い。

つづく

2006年06月28日

帰国してみると梅雨(四)

 私の見た範囲でさえ焚書図書の多くが幕末に日米戦争の起点を見ている話をしたら、澤さんは面白がった。林房雄の百年戦争史観は私より歳上の世代には、戦前・戦中から説かれたむしろありふれた、きわめて一般的な視点であったわけだが、その割に当時の言論人が私たちの世代にこの点を教えてくれなかったのが今思うと不思議でならない。

 私の記憶では、小林秀雄も河上徹太郎もたしか「林君は作家として誠実に振舞ったことを疑わない」というくらいの友情応援の言葉であったように思い出される。福田恆存も何も語らなかった。

 「そうなんです。そこが問題なんですよ。」と澤さんは言った。彼は昭和15年生れで、戦後の記憶は確かである。

 焚書図書の蒐集をしていて、数多くの著者の叙述に触れて、彼が感心した一点は次のようなことだったという。

 「歴史には焚書坑儒の例は数多くありますよね。書いた文章や書籍がいつの日か廃棄され、著者の名が辱しめられるかもしれない。そういうことを予感して、いざというときの難を避けるための口実、弁明できる一言をどこかに挟んでおく――そういうことを誰ひとりやっていないんですよねぇー。」

 「成程、きっとそうですね。敗北を前提にして書いている人は一人もいなかったんでしょうね。そうだと思います。『米英挑戰の眞相』(大東亞戰爭調査會編)という本に、対日包囲陣の規模と内容が詳しく、合理的に書かれてあるのを今度読んだんですが、叙述に恐怖がみじんもないんですよ。」

 「個人としても、国家としても、恐怖やたじろぎがないんでしょう。立派ですよねぇ。今から考えると不思議でもありますが。」

 「私は戦後にむしろこんな経験があるんです。」と私は60年安保より数年前のことを思い出して言った。「私が大学に入学したのは昭和29年ですが、当時は共産主義革命が明日にも起こるかっていう時代で、私は大学のクラスメイトに<人民裁判でお前を死刑にしてやる>と言われたのを覚えています。そういう時代だったんですが、保守系の文学者や思想家の発言のところどころに、いざというときの難を避けるための口実、革命派に媚を売る一言、あとで弁明できるような文言をこそっと入れている例をよく見掛けました。私は、何だ、こいつ卑怯だな、と思ったものです。有名な人にそういう例が多かった。竹山道雄と福田恆存には絶対にこれがなかったんです。」

つづく

2006年06月27日

帰国してみると梅雨(三)

 昭和8年―19年当時の本は私の父の書棚にもあったし、戦後もしばらく古書店ではいくらも目撃されていたはずだが、占領軍によって流通を止められ禁書扱いされたので、私が読書年齢に入ったときにはすでに私の視野の中には入っていなかった。

 今度わずか50冊ほど見ただけでいくつもの発見があった。アメリカとの戦争を主題にした本が7冊あった。うち5冊は歴史を扱っている。面白いことに気がついた。

 戦争に至るまでのアメリカとの交渉を歴史に求めている著者たちは、大抵幕末にまで遡っている。ペリーの浦賀来航に「侵略」の起点を見ている。

 なかには昭和15年10月刊の『日米百年戦争』(アメリカ問題研究所編)という本があって、歴史を見る尺度をもっと大きく取っている。ポルトガル、スペインの地球制覇の野望に欧米文明の危険の萌芽を見ている。アメリカとの百年戦争をヨーロッパとの五百年史の内部に位置づけようとしている。

 今でこそこういう広角度の見方は再び少しずつ広がり、定着しつつあるけれども、戦後和辻哲郎の『鎖国』が評価されていた一方的空気を思い起こしてほしい。歴史の見方は全然逆だった。日本は鎖国していたから科学精神に遅れた。ポルトガル、スペインに門戸を鎖した日本の内向きの姿勢にむしろ歴史の失敗がある。封建主義と軍国主義との悪しき根がここにある、と。

 戦争をほんの少し知っている私の年代でさえ、こういう歴史観を植え付けられていて、長期にわたる欧米の侵略を見ないで、戦争の原因を短い時間尺度に、しかも自国の歴史の内部に求める習慣にならされていた。

 28-29年の頃、林房雄『大東亜戦争肯定論』が幕末からの百年戦争を説いているのを『中央公論』連載時に知って、非常に新鮮で、かつ危ういものに思った。100年という時間の取り方が当時の私には初めて見る大胆な見方だったからである。

 だが、今度GHQ焚書図書の約50冊を見て、「百年戦争」のモチーフは私より歳上の世代には新鮮でも何でもなかったという、ごくありふれた尺度だったことに気がついた。なぜなら日米戦争を幕末から説き起こし、ペリーの来航にアメリカの「侵略」の第一歩を見るのは、以上に挙げた通り、戦前・戦中の本ではごく普通の慣行だったことを今度初めて知ったからである。

 GHQによる焚書はやはり小さくない出来事だったのだ。私の若い頃の歴史を見る目の誤差をすでに引き起こしていたのである。

つづく

2006年06月26日

帰国してみると梅雨(二)

 澤氏によると焚書図書は従来の目録の間違いもあって確かなところは総数約7100冊である。うち6100冊はページ数などを確認ズミ、さらにそのうち約5000冊を所蔵しているという。6100から5000を引いた1100冊は国立国会図書館で確認し得たものである。

 国立国会図書館は焚書図書の約7ー8割を保存していると彼は推定している。焚書を免れたのか、長い戦後史の期間に補充買いしたのか、詳細は分らない。澤さんが所蔵し図書館にないものもあるし、その逆もあるようだ。

 25日午後、鎌倉は雨だった。鶴岡八幡宮から海の方へ歩いて、お宅はすぐに見つかった。日本人の視界から姿を消した昭和20年までの大量の本がご自宅の生活の場につながる空間に、アイウエオ順で整然と収められていた。作りつけられた書棚は天井まで幾つも並び、人間がやっとひとり通れる隙間が何本か通路をなしている。

 じつは私も気がついていて、今度の論文で言及しているのだが、焚書はされなかったもののほゞ同質同内容の、周辺関連文献がある。澤さんはそれらも蒐めてこれは約10000点に達していると聞いて、見れば小さな色紙の付箋で区別して保管されている。10000点という数に驚いた。

 例えばある10冊の全集や叢書のうち1冊が焚書され、9冊がそうでないようなケースが見られた。しかし不思議なのは、なぜその1冊が選ばれたか基準が分らない。他の9冊のほうがGHQからみてずっと危険だと思われる場合もあるのだが、占領軍の没収の方針もずいぶんいい加減だったんですね、と二人で話し合った。

 澤氏は『総目録GHQに没収された本』を昨年上梓されたが、『GHQの没収を免れた本』という新しい目録を近く世に出したいとかで、作業中の大冊のノートをみせていたゞいた。

つづく

2006年06月25日

帰国してみると梅雨(一)

 6月5日からイギリスを旅行していた。「続・つくる会顛末記」が毎日少しづつ掲示されていた間、スコットランドをゆっくり見て南にくだり、(七)の2で全部終った日に私はロンドンにいた。

 イギリスの旅の印象についてはまた機会を別にしたいが、季節外れの猛暑で、16日午前9時に成田に着いてみると、予想していた通り雨が降っていた。

 午後3時家に帰り、30時間眠らないで時間差をやりすごした。それから9時間寝て、17日から20日の午前6時まで寝たり起きたりしながら、『諸君!』8月号に反論論文を書いた。題は編集部がつけた。「八木君には『戦う保守』の気概がない」(32枚)

 もうこれで勝敗はついたと思う。すべてを終りにしたい。こんな仕事にいつまでもかまけている時間はもうない、と不図気がついた。

 論争文はこれまで数多く書き慣れて来たが、旅から帰った直後であるから気力と体力への不安が少しあった。

 留守中のネット情報を読むのに一日かかったし、〆切り時間制限が絶対だからどうなるかと心配だったが、まだ今回は大丈夫だったことが保証された。私は私の体力に(知力にではない)、お前よくやるなァ、とそっと呼びかけている。

 旅に出る前に「続・つくる会顛末記」の原稿をたくさん書いて長谷川さんに託して行ったわけだが、じつは同じ時期にちょっと新しい仕事に手を付けている。22枚の論文「GHQが隠蔽した『戦前の日本人の世界認識、戦争への覚悟』」を、みなさんはびっくりすると思うが、小林よしのり編集『わしズム』夏号(7月19日発売)に書いて、旅行中にゲラが組み上がっていた。小林さんにはまだ会っていないが、彼からの依頼原稿に応じたのである。ここにも私が「つくる会」から離れた行動の自由が現れている。

 GHQによる焚書図書は約7100冊あると推定され、うち約5000冊は澤龍氏のコレクションに所蔵されている。

 これとほゞ等量の、焚書からは漏れたが、大略同内容の、昭和8年頃から19年頃までの、今は誰も省みない図書が同氏のコレクションに蒐められている。帰国すると同氏から葉書を頂き、後者をどう考え、どう扱ったらよいか相談にのってもらいたいというので、早速電話し、25日(日)鎌倉のお宅のコレクションの現場に伺うことになっている。

 氏のコレクションとは別にGHQ焚書図書を今までに約600冊蒐集しておられる方がいる。私が『わしズム』原稿に利用させてもらったのはこのうちの約30冊である。他に私自身が国会図書館からのコピーで約20冊分を持っている。

 焚書と非焚書の両方で合計10000点以上になるこれらの本を私ひとりで探求できるわけがない。私が可能な限り検証し、この未知の、日本人が置き去りにした歴史の秘宝の山への登山口を切り拓くくらいのことしか出来ないだろう。これにはある出版社がすでに本にしたいという声をあげてくださっている。

 私を取り巻く環境は最良の条件で整っているのだが、今度『わしズム』に書くために少し勉強して、私はにわかに不安になっている。なにしろジャングルに無防備で単身わけ入るような暴挙に思えてならないからだ。この夏600冊のコレクションをまず徹底的に読みこんで、それからゆっくり案をねろう、と今考えている。はたして理想的なことができるかどうかが不安である。チーム編成で組織的に取り組まないと解明は難しいと思う。個人でどれくらいのことが出来るかなァ、と予想もつかない規模に戸惑っている。

 日本人はなぜこんな大事な文献を放棄してきたのだろう。とりあえずは『わしズム』夏号をお読み頂きたい。

つづく

 6/26 一部改変

2006年06月24日

「『昭和の戦争』について」(十)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第五章 偽装歴史観に裏付けられた平和憲法=「GHQ占領憲法」


第一節 「明治憲法」の本質――模範的な立憲君主制憲法

 連合国軍総司令部(GHQ)は、戦争犯罪国家=日本帝国の基礎に「明治憲法」と「教育勅語」そして「神道」があり、この国家体制は、「天皇独裁の神権主義的擬似立憲体制」だと断定した。だが、明治憲法の本質は、これとは正反対なのである。

 立憲政治体制とは、憲法を柱にした「法治主義」で特定の権力に偏らないように権力の均衡を図りながら国家を運営し国民を統治する政治体制のことである。憲法草案の起草者・伊藤博文らは、第一に歴史と文化伝統を尊重した。『皇室典範および帝国憲法制定に関する御告文』は、「惟ふに此れ皆 皇祖皇宗の後裔に貽(ノコ)したまへる統治の洪範を紹述したるに外ならず」と明言している(『憲法義解』一九一頁)。第二に、西欧の君主制国家の憲法、特にプロイセン憲法、ベルギー憲法を参考にした。この両憲法は、英国立憲君主制を模範(モデル)に制定されたものでだから、明治憲法は、君主権力と行政権、立法権、司法権、軍事権と言う権力の相互抑制のバランスを良く取っている。権力分散と公議世論政治を程よく按配した模範的立憲君主制の憲法だと当時の西欧諸国の憲法学者たちからも高く評価された秀逸な憲法なのである。

 「明治憲法」が制定され、議会政治が始まって以降、明治国家の安定は増大し、日清・日露の両戦争に良く「挙国一致」して勝利した。明治の立憲君主制国家は、欧米諸国から高い評価を得た。これがあったれ場こそ、日英同盟が成立したし、国力の増進は目覚しく、明治の御世の有り難さを多くの国民が実感したのである。つまり、明治国家体制は、独裁政治体制とは正反対のデモクラシー、複数政党制の議会制国家体制だったのである。


第二節 「GHQ占領憲法」の本質――日本弱体化の謀略法規

 我が国政府は、陸海軍の無条件降伏で辛うじて「國體護持」を保障されたと判断してポツダム宣言を受諾した。しかるに、完全武装解除した敗戦国に襲い掛かったのは、占領軍による日本弱体化のための国家改造政策の強行であった。ポツダム宣言は、日本に民主主義を復活すると謳っていたから、連合国側は戦前の日本に民主主義が定着していたことを知っていた。然るに、占領軍政府=GHQは、日本国は「無条件降伏」したのだとの巧妙な詭計をもって施政権を剥奪した我が国に対して「日本国憲法」なるものを押し付けた。施政権・外交権を完全に剥奪されて占領軍権力に身を委ねた被占領国家に、憲法制定権があろう筈が無い。

 そこで、総司令官マッカーサーは姦策を弄した。まず、「ワー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」なる情報操作を推進した。大東亜戦争が悪辣無道な侵略戦争であり、多くの日本国を不幸のどん底に叩き落したと日本国民洗脳作戦を展開した。悪逆無道な戦略者を推進した国家指導者=軍国主義者を断罪するとして「極東国際軍事裁判」なる茶番劇を演じた。次いで、帝国議会と枢密院に『大日本帝国憲法』改正手続きを踏ませて「GHQ占領憲法」に摩り替えたのである。

 「GHQ占領憲法」は、内容面でも異常である。第一に、この憲法の基本精神は我が日本の歴史と文化伝統の正統性に根差すものではない。第二に、この憲法は、日本を半身不随の中途半端な国家にする目的を持つ。日本の國體の柱である皇室制度を曖昧なものに貶め、従って、国家の元首が不明である。第三に、平和憲法と称して非武装=戦争放棄を建前とする。だから、独立主権国家としての外交・軍事を推進できない。国防の自由が無いから、外交も臆病で卑怯な外交たらざるを得ない。国家の尊厳と独立、国民の生命・財産の安全を自力で保障できないから、この憲法の本質は、国家・国民のための憲法ではなく、日本弱体化の謀略法規であると私は断言する。

 第一の問題を敷衍すれば、西欧世界の近代啓蒙主義思想、アダム・スミス、ロック、アメリカ独立宣言、フランス革命の人権宣言および共産主義思想をミックスした思想を基礎としている。これは対日戦争を積極的に推進した米国ルーズベルト大統領(民主党)のブレーン「ニューディーラー」らは、自分たちが理想とする政治制度を有色人種の優等生日本に実験的に移植したグロテスクな代物である。冒頭に述べた「ポツダム宣言」と「ハーグ陸戦法規」に完全に違反している。「日本国憲法」は、誕生経緯と内容の異常性からして国家基本法の要件を満たしていない。(注・この間の詳細に関しては拙論「敗戦国体制護持の迷夢」、雑誌『正論』平成一六年三、四月号連載を参照されたい)。

 このような国家・国民の憲法とは言えない憲法を定着させてしまったのは、戦後政治の大失敗だったと断言せざるを得ない。失敗の一例を挙げれば、米ソ冷戦の緊張の高まりと共に、特に朝鮮戦争(一九五〇年六月~五三年七月休戦協定)を契機にアメリカは、我が国に再軍備を熱心に要請するに至った。しかるに、時の日本政府(吉田茂内閣)は、これが「日本国民の総意に基いて制定された民主的な憲法である」と、逆螺子作戦でアメリカ政府の要望に反抗したのだった。つまりは、「憲法第九条」を盾にして再軍備を拒絶した、と言う大きな捩れ現象を発生し、憲法の欠陥を自ら修正し難くすると言う赦すべからざる愚行をなしたのだ。

 しかし、吉田茂は米国の圧力を排除出来ずに、かろうじて、「戦力無き軍隊」であるとして自衛隊(一九五〇年八月警察予備隊令→五三年九月防衛庁設置法・自衛隊法)を発足させた訳である。国民全般の涙ぐましい復興努力とその後の高度成長に後押しされ、また防衛庁と自衛隊の努力研鑚もあって軍事力としては相当強力な軍隊に成長した自衛隊三軍ではあるが、「憲法第九条」と法的に中途半端な国防軍としての位置づけの故に、いざ国家有事=緊急事態となったとき身動きが取れないという異常な状態のままで今日に至ったのである。

 一九五二=昭和二七年、サンフランシスコ講和条約発効以後も、占領体制から脱却して真の独立主権国家への回復、真の戦後復興を目指そうとする政治家・国家官僚が、如何にも少なかったのは遺憾の極みである。共産主義や社会主義に幻惑されて、戦前の日本を呪詛し、このような戦後政治を背後から支えた左翼知識人(所謂進歩的文化人)とその共生勢力だった大学や大形メディアや出版界の罪責は限りなく大きい。その左翼知識人勢力に育てられた世代が今や我が国の各界の最高指導層に蟠据している。教育は戦後教育の延長線上に展開されている訳だから、「百年河清を待つ」間に、我が日本民族は数千年の歴史と伝統から断たれた日本人にして日本人ならざる民族に変性されて行くのであろうか。教育を正常化する勢力が劣勢なのだから、このままでは日本の前途は実に危ういといわざるを得ない。


むすび  現下の課題

 最後に本講義の纏めを述べよう。「昭和の戦争」は、満洲事変から敗戦までの一貫した「十五年戦争」と言うような戦争ではなかった。だが、支那事変と大東亜戦争は一連の戦争であった。支那事変は、有色人種の優等生大日本帝国の擡頭に我慢できない米英と世界の共産革命を先ず弱い部分である東アジアで成し遂げようとしていた共産ロシア(ソ連)が、支那の軍事独裁者蒋介石を背後から軍事的・政治的・財政的に支援・指導し、さらに支那共産党を介在させて闘わせた言わば代理戦争であった。ソ連や米英は支那事変を長引かせることで日本を世界戦争の舞台に引きずり出して撲滅しようと狙ったのである。共産ロシアは、米国同様に軍閥独裁者蒋介石を支援して日本と戦わせる一方で、中国共産党を育成し蒋介石の足元から支那大陸の共産化工作にも余念が無かった。 

 未だ弱小だった毛沢東指導の支那共産党の後方攪乱戦術は見逃し難い重大問題である。その謀略は異常に逞しかった。大日本帝国滅亡後、共産ロシアの目論見どおり、支那共産党の大陸制覇は達成された。アメリカはトンビに油揚げを攫われた。最後の段階で参戦した共産ロシアはユーラシア大陸を略制圧、我が国固有の領土である樺太・千島を不法占拠して今に至っている。これらは、謀略情報戦に不得手で、「信義」や「誠実」をモットーとする我々日本人には中々理解できない醜い世界の出来事だった。 

 最後にもう一度言おう。満洲事変から支那事変、そして大東亜戦争に関して我が国は侵略戦争の計画は何ももたなかったのである。だから、これらの戦争は我が日本にとっては「独立自衛」を求める以外の目的はなく、侵略戦争との意識は何もない戦争だったのである。モノの見事に誤解に基づく理想世界の拡大を欲した米国と、共産ロシアの二つの謀略勢力に支那大陸の戦場に引き込まれて、結局は押し潰されたと言える。

 逆に言えば、一九三〇年代から四〇年代のアジア大陸の戦争は、米国とソ連の侵略戦争だった。アメリカは勝ち誇って「大東亜戦争」と言ってはいけない「太平洋戦争」と言えと命令したが、正にそこにアメリカのあの戦争への意欲、太平洋からアジア方面への侵略意欲が明瞭に出ているのである。これが大東亜戦争の真実である。

 米国やソ連が日本を貶めるために創作した歪曲歴史観に基づく支那・朝鮮の至極「政治的」な言い掛かり挑発に、我が国政府は気遅れする謂われは全くない。韓国・北朝鮮の言い掛かりは歴史の事実を意図的に曲解した怪しからぬ妄言なのである。また、支那共産党政府要人が、事あるごとに日本政府は反省が足りない、「歴史を鑑にせよと」説教するが、全く善人と悪人が転倒した盗人猛々しい、片腹痛い言い草なのである。彼らは、支那共産革命を達成する目的で、日本軍と軍閥蒋介石を徹底的に共倒れになるまで戦わせる悪行を働いた張本人なのである。アジアの連帯など考慮の外、モスクワの指令に従い、アジアの共産化を追及していたのである。彼らが何時も勝ち誇って言う「抗日戦争の勝利」は、彼ら自身のものではなく、モスクワの勝利のおこぼれに預かったのである。間もなくモスクワからの自立の欲求が台頭し、「中ソ対立」に至った訳である。

 戦後日本の政治家・官僚は祖国の歴史への理解度も国家・国民を正しい道に導こうとする勇気も洞察力も足りない。自尊心を失い国益追求への強い意志も失い、低次元の利害調整や私益追及に汲々たる

 木偶の坊が多過ぎるのである。その基盤には国民の歴史観の歪みが厳然としてある。

 日本民族最大の敵は、実は我々の足元に蔓延っている。我々にとって本当に大事な現下の課題は、「GHQ占領憲法」と「東京裁判史観」が、日本人から自信と勇気と品格を奪い去り、自虐的な卑怯者にしてしまった元凶だと言う真実を大悟することである。正々堂々の解決策は、国民精神と国家体制を祖国の歴史と文化・伝統の正統性に復古することである。    

完 

        

2006年06月23日

「『昭和の戦争』について」(九)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない


第四節 盧溝橋事件の突発――日支激突の挑発者は誰か?

 一九三七(昭和十二)年正月二一日、帝国議会の施政方針演説で広田弘毅首相は、「所謂コミンテルンの危険性は近来益々増大の兆候あり」と述べた。だが、政変となり、二月二日 林銑十郎内閣が成立。二月十日、支那共産党は、国共合作・共産革命の武装蜂起停止・土地革命停止、そして紅軍の国民革命軍への合流を国民党に提案したのである。

 六月四日、第一次近衛文麿内閣が成立した。
 
 七月七日、北京郊外の盧溝橋で日支両軍衝突事件が突発した。二十二時四十分、支那側から発砲。この事件そのものは今までも多発していた日支両軍の小競り合いだったので、日本政府は、現地解決そして不拡大方針で臨んだ(今井武夫『支那事変の回想』一頁。臼井『日中戦争』三十三―三十六頁)。

 だが、日本の姿勢とは逆に、八日、中共中央委員会「徹底抗日」通電した。

 九日、蒋介石政府は、大掛かりな動員令を発令した(カワカミ『シナ大陸の真相』一四三、一四八頁)。

 十日、埼玉大和田海軍受信所、北京米国海軍武官からワシントン海軍作戦司令部宛暗号電報を傍受した。それは「第二九軍宗哲元麾下の一部不穏分子は現地協定にあきたらず今夜七時を期し日本軍に対し攻撃を開始することあるべし」とあった(初代海軍軍令部直属攻撃受信所所長和智恒蔵少佐(後、大佐)の東京裁判での宣誓口供書)。

 十一日「午後八時、特務機関長松井太九郎大佐と張自忠との間に二九軍代表の遺憾の意表明、支那軍の盧溝橋からの撤退、抗日団体の取締徹底を期待した現地協定(松井―秦徳純)」が成立した。東京ではこの日午前の五相会議において、支那軍の謝罪、将来の保障を求めるための威力顕示のための派兵も已むなしと陸軍三個師団の動員を内定した。しかし、支那駐屯軍から現地停戦協定が成立した旨の報告が入ったので、軍部は一応盧溝橋事件の解決と認め、内地師団に対する動員下令計画を見合わせた。丁度この頃、支那共産党宛コミンテルン指令の骨子「日支全面戦争に導け」。

 支那共産党が、国共合作宣言を公表したのは七月十五日、蘆溝橋事件の一週間後のことだ。

 十七日、蒋介石と周恩来の廬山談話(四原則の声明)があり、蒋介石「対日抗戦準備」「最後の関頭に立向かう」応戦声明を発表した。

 十九日までに、蒋介石軍は三十個師団(約二十万)も北支に集結、内約八万を北京周辺に配備。この日、南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めない、東京は南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通報してきた。つまり、現地協定拒否の表明である。

 二十日、支那第三十七師の部隊は、盧溝橋付近で日本軍に対する攻撃を再開。

 二十一日、蒋介石総統は南京で戦争会議開催、日本に対して戦争の手段に訴えると公式採択したのである。


第五節 盧溝橋事件の総括――支那民族の特性が見事に現れているこの十年間及び三週間

 ①日本は戦争を望んでいなかった。

 ②東京裁判で中華民国側は、華北に日本軍が侵略したのが原因だと言い張ったが、北平に駐屯していた通称天津軍は一九〇一=明治三四年七月、列国一一ヵ国が支那政府と締結した「北京議定書」に基づき、支那の首都の治安維持のための条約に基づく駐屯だった。

 ③様々な史料で明らかなように、日支両軍衝突を挑発したのは支那側で有り、それは支那共産党の謀略部隊による挑発であった。

 ④盧溝橋事件以後の三週間、日本側は、四度停戦協定を結んだが、支那軍は悉くこの停戦協定を破った。

 ⑤この三週間、日本側は動員令を出すのを控えたが、蒋介石(南京)政府は即座に動員令を発した。

 ⑥この三週間に支那軍は二十五万の兵員を北支に結集したが、日本は事件の平和的交渉を通じて解決しようと必死に努力した。

 我邦は明らかに和平を強く希望していた。しかし、支那の応答は、七月二五日の廊坊(天津―北平間に所在)事件、七月二六日の広安門事件、そして七月二十九日の通州事件であった。特に通州では冀東政府保安隊が日本人民間人およそ二百人を大虐殺する惨酷な事件だ。次いで一万人の日本民間人が居住している天津日本租界が襲撃された。打ち続く残虐な事件の後を追って、八月九日、上海国際租界で日本海軍士官大山中尉・水兵殺害事件突発。ついで起こったのが、八月十三日の第二次上海事変である。

 上海事変に関して指摘すべきは、蒋介石軍は第一次上海事変の後に国際間で取り結ばれた協定=上海停戦協定を踏み躙る軍事行動だった。しかも、英・米・仏は国際法を踏み躙る蒋介石に好意的だった。九月二日、日本政府は、『北支事変』を『支那事変』と改称し日支軍事衝突のこれ以上の拡大を防ごうとした。だが、九月二十二日、南京政府と支那共産党は同時に『国共合作』・『民族統一戦線結成』を宣言して、徹底抗戦の構えを見せたのである。上海の支那軍の妄動を制圧すべく、中支那軍は南京を制圧したのである。参謀本部と現地軍との間に作戦を巡る見解の相違が生じたこと、中支方面軍司令官松井石根が有る意味で最大の貧乏くじを引かされたことをもっと明らかにする必要がある。

 日本軍国主義が昭和初年に立てた大陸侵略、世界征服の「共同謀議」から必然的に発展した侵略戦争が支那事変だったと『東京裁判』は断案した。しかし、この判決が、如何に歴史の事実を無視した、歪曲された「昭和の戦争」論であるかを大凡示すことが出来たと考える。カール・カワカミは言う「日本人の忍耐力は実に驚嘆に値する」と(一五四頁)。

つづく

2006年06月22日

「『昭和の戦争』について」(八)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない


第一節 「抗日民族統一戦線結成の提唱」=一九三五=昭和十年

 満州事変の終結からニ年経った一九三五=昭和十年七月、モスクワで開催のコミンテルン第七回大会は、「反ファシズム統一戦線・人民戦線路線」を採択した(公安庁『国際共産主義の沿革と現状』、カワカミ五九―六〇頁)。それは、「ソ連が資本主義列国を単独で打倒すことは到底不可能である。目下の急務は、アジア正面の敵日本帝国、そしてヨーロッパ正面の敵ドイツ帝国を撃破することだが、この二国は強力でソ連の手に負えない。従って、日独を欺くためには宥和政策を以てし、彼らを安心せしめ(ドイツとの不可侵条約《一九三九年》並びに日本との中立条約《一九四一年》)、日本を支那と米英、ドイツを英仏と戦わせて、漁夫の利を占める」という戦略を建てたのである。日米は支那大陸でその権益を巡り、長い間冷戦(静かな戦争)を展開していたから、ズバリの戦略と言えよう(コミンテルン資料)。

 コミンテルン決議を受けて支那共産党中央は、同三五年八月一日に「抗日民族統一戦線結成」=八・一宣言を支那全土に発した。東京でゾルゲと尾崎秀実が、日支を激突させ、最終的には支那を支援する米英と日本を激突させる謀略工作を開始したのは、前年昭和九年の初夏であった。この年十月七日、広田弘毅外相(岡田内閣=同内閣は翌年二月の事件に遭遇)は、蒋作賓駐日支那大使と会談、日華提携の前提条件①排日運動の停止、②満州国の黙認、③共同防共=赤化防止政府を提示(広田三原則)したところ、支那大使は概ね同意した。しかるに蒋介石は戦後の回顧録『秘録』(十一巻、七〇―七二頁)で、広田三原則に同意した覚えは無い、広田が勝手に「支那も賛同した」と公表したのだ、我々は否定していた、と述べた。だが、「東京裁判」で日本を悪者に仕立てるために辻褄を合わせる虚偽の証言である。支那人は明白な史料が残っていても平気で嘘をつく、南京大虐殺三十万人なぞは平気の平左の嘘八百である。


 

第二節 華北分離工作への支那の抵抗――民族統一戦線結成工作の進展とその背景

 三五=昭和十年十月下旬、毛沢東の紅軍主力は、陝西省北部に到着した。(支那共産党史は、「英雄的大長征」と言っているが要するに逃避行であり、その間に凄惨なる内ゲバが続いて毛沢東がヘゲモニーを掌握)。この敗残集団である共産党を一挙殲滅せんと蒋介石は、西北剿共総司令部を西安に設置、自らが総司令、副指令に張学良を任命した。だが、張学良は乗り気でなく、寧ろ親の敵、満州掠奪の敵と恨みを重ねていて、「抗日救国」を提唱する共産党との連携を密かに進めていた。いや、寧ろ共産党側が張学良を丸め込んだのである。張学良にはコミンテルンから指令が出ていて軍資金と兵器の供与を受けていた。

 さて、満洲建国以後、支那の反発は益々強まり、日支間に小競り合いが絶えない。そこで、我邦は支那本部と満洲の間(華北)に緩衝地帯を形成しようと本腰を入れた(注・冀察政務委員会成立=委員長宋哲元。宋は華北省主席を兼ねた。また三六=昭和十一年四月一七日には華北治安維持に支那駐屯軍《通称、天津軍》を現在の千七百から五千七百に増強している)。これは「華北分離工作」と言われた(注・「華北処理要綱」という華北五省の自治強化政策案を政府が作成したのは一九三六=昭和十一年一月十三日)。満洲に支那の内戦が直接波及するのを防止するのが、我邦の意図であった。

 しかるに、国民党や支那共産党筋は、日本帝国主義は満洲掠奪だけでは飽き足らず、華北侵略・支那本部侵略を目指している証拠だと騒ぎ立て、それを受けて十二月九日(十二・九運動)、北平の学生らが「抗日救国」「華北分離工作反対」の大々的な示威運動を実行、運動は全国各都市に波及した。十二月十九日、支那共産党中央は「抗日民族統一戦線結成策」を決定した。年が明けて三六=昭和十一年正月、蒋介石は、「未だ外交的手段による失権回復は絶望的ではないが、時が来たれば抗日に立ち上がる事も有り得る」と演説した。

 このように情勢が目まぐるしく変転する中、二月から三月にかけて山西省方面の軍閥と戦闘中で劣勢だった毛沢東は、五月五日、周囲の状況を読んで突如今まで掲げていた「反蒋」のスローガンを「連蒋」に切り替えた(五・五通電)。八月二十五日、支那共産党中央は、公式に「反蒋・反国民党」の看板を下ろして、「共同抗日・建設民主共和国・回復国共合作」を表明したのである(八月書簡)。蒋介石の共産党掃滅作戦を思い止まらせようとの戦術転換だった。支那の激しい反日運動を米国の民主党系メディアも熱心に支援した。


第三節 西安事件――東アジア情勢の重大な曲がり角

 歴史というものは実に複雑怪奇なものである。大陸政策のギクシャクに激しい危機感を持った日本内地の陸軍青年将校の政府転覆のクーデタ未遂事件=(一九三六=昭和十一年)二・二六事件が起こった。これが支那の強硬な対日姿勢を一層促す作用を果たしたのは当然である。日本に敵対する諸勢力は、日本の政治状況の極度な不安定、内部分裂の兆候であると読んだのであろうし、それが「抗日運動」を超えて「抗日戦争」へとその意欲を高めた筈である。ソ連・コミンテルンそして支那共産党は間違いなく「抗日戦争」の確信犯であった。これに対し、蒋介石は未だに「抗日戦争」には半信半疑ながらも、共産党殲滅作戦をまず完遂しようとの決意は動いていなかった。

 共産党側が盛んに国共合作復活のサインを出し続けたのに対し、蒋介石は、この年の晩秋、北西剿共軍副指令張学良に全面攻撃を指令、十二月四日、督戦のため西安に乗り込み、副指令張学良および揚虎城らに共産軍攻撃を強化して三ヶ月以内に共産党を殲滅せよと厳命した。張学良が剿共作戦に不熱心だったからである。これが、再度のしかも共産党主導の国共合作への流れを促したのである。既に指摘したように張学良は、ソ連・コミンテルンや支那共産党と通謀していた。剿共作戦を中止して国共合作を回復し、「抗日戦争」に立ち上がろうと決意していた。ここに張学良の一世一代の大芝居が突発する。西安事件である。この事件は東アジア情勢の大転換点だ。事態の推移を時系列で確認しよう。

 ①一九三六(昭和十一)年十二月四日、総司令蒋介石、督戦に飛行機で西安に到着。この日から、張学良は剿共作戦を停止して国共合作を復活し「共同抗日」に立ち上がろうと蒋を説得し続けた。だが、蒋は頑なにそれを拒否して剿共作戦の即時強力実行を命令する。十二日、張学良は叛乱に踏み切る。陝西綏西司令揚虎城と共謀し、蒋を軟禁した。

 ②その日、示し合わせたように延安から周恩来が西安に飛来。蒋との折衝にかかる。毛沢東指導の延安共産党本部は、「蒋介石誅殺」を決議した。

 ③時を移さず、モスクワからスターリンの支那共産党宛電報が達した。「蒋介石を即時釈放せよ、さもなくんば貴党とは関係を断絶する」と言う厳命だった。蒋介石を人民裁判にかけて死刑に処し、西北抗日防衛政府を樹立する積りでいた毛沢東は、当時の力関係と従来の支配=服従関係からスターリンの命令に屈服せざるを得なかった。この時、延安は勿論西安でも「蒋介石処刑論」が圧倒的だったと言う。毛沢東はスターリンの厳命に接して地団太を踏んで悔しがったと言う。

 ④監禁された蒋介石と周恩来=中共からおよそ六項目の条件を呑まされた(田中正明『朝日・中国の嘘』一一一頁)。監禁二週間目の二十五日、蒋は釈放され、無事南京に帰還した。年が明けて一九三七=昭和十二年正月六日、蒋介石は剿共作戦を中止して西北剿共司令部を廃止した。二七年四月の蒋介石の反共クーデタ以来約十年の国共内戦は停止された。これでスターリンの東アジア戦略=日本帝国主義と蒋介石を激突させる戦略は軌道に乗ったと共に、支那共産党は殲滅の危機から脱出したのである。そして、西安事件の次に遣って来たのが盧溝橋事件である。

つづく

2006年06月21日

「『昭和の戦争』について」(七)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第三章 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない


第一節 「満洲某重大事件」=張作霖爆殺事件(一九二八=昭和三年)

 先に見たように、田中義一内閣は、東三省に満洲人自身の努力による安定政権が樹立されることを期待し、満洲(奉天)軍閥の頭領張作霖を支援しようとしていた。しかし、現地関東軍将校には、張作霖は信頼できない、満洲支配を委ねるのは危ないと判断する者が多かった。その様な時期に、蒋介石の「北伐」攻勢に押されて奉天に退却する途次の張作霖を爆殺する事件が一九二八=昭和三年六月四日起きた(満洲某重大事件)。

 関東軍参謀河本大作大佐の策謀であった。河本らは、蒋介石が満洲を制圧するならば、日露戦争以来の日本の満洲権益に障害が生じることを恐れた。そこで、支那南北対立が生み出した事件に偽装して張作霖を葬り、東三省(満洲)を混乱させ、混乱鎮定に関東軍が出動して満洲・南蒙古をより安定した日本の影響下に置こうと構想した。これは明らかに日本政府=田中外交の構想を超えていた。外地での不祥事を昭和天皇から厳しく叱責され、田中は恐懼の極、頓死するに至った。田中の満蒙政策はこれで頓挫した。

 だが、関東軍の目論見も別な意味で大きく外れる。若造だから操縦し易いだろうと予想して張作霖の後釜に息子の張学良を据えたのが大誤算になる。張学良の背後には支那共産党、そしてその背後に鎮座するコミンテルンの影がヒタヒタト迫っていた。(注・コミンテルンの策謀説)

 蒋介石は六月八日、北京に無血入城を果たして、北京を北平と改称した。後は東三省(満洲)を残すのみとなった。蒋は、奉天(東三省)軍閥の新首領張学良を七月三日、安国軍総指揮官に任命した。間もなく張学良は蒋介石に服従を表明して、日本政府および関東軍を困惑させた。十二月二十九日、張学良は、蒋介石に完全服従した(東三省易幟=青天白日旗)。蒋介石の支那統一は略々ここに完了した。
当時の諸情報を勘案すると、蒋介石の常備軍は約二二五万(内、張学良の満洲軍は二六万)数的には世界最大の陸軍を擁していた。また、満洲方面を狙うソ連の常備軍は約一三五万、極東地区=蒙古・ソ満国境に約六〇満配備と言われる。ソ連は既に「モンゴル共和国」なる完全な傀儡国家を作っている。ソ連の次の標的は南蒙古・満洲・華北だが、大戦略家で慎重なスターリンは、満洲には日本の軍事力と支配権が安定していると判断、直接満洲問題に介入せず、支那本土に日本の落とし穴を構えるのである。

 他方、我が国の兵数はおよそ二五万七千、その内、関東軍はたったの六万五千だったのである。どちらの国が軍国主義国家だったか、一目瞭然ではないか。(ラルフ・タウンゼント『介入するな』一一三、二三六頁、藤原彰『軍事史』一六五頁) 

 尚、王国を再興しようと好機の到来を待ち望む清王朝残党の動向も見落とせない。亡びた清国皇帝愛新覚羅氏の出身の地=故郷は満洲である。支那本部の地を失った今、故郷満洲に帰還して国家を再建する動きも当然あった。


第二節 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

 さて、張学良の「易幟」は、我国の満洲政策に大転換を強いた。満洲における外国利権の回収を目標にする蒋介石が有利になったからである。そして、勢い付いた蒋介石は「革命外交」なる条約・協約を自分の都合で平気で裏切る外交に転ずる。この困難な時期に、内閣首班は政友会の田中義一から民政党の浜口雄幸に交代し(一九二九=昭和四年七月)、幣原喜重郎が外相に返り咲いた。これまた歴史の皮肉だ。幣原の「善隣友好・対支宥和」の外交信念は固かった。大幅に譲歩することで日支関係の円滑化を図ろうとした。切り札は、不平等条約改訂=関税問題で大幅に譲歩するから支那には日本の満洲権益を認め欲しいと言うのだった。

 さて、支那統一を略々成し遂げて、自信を深めた蒋介石の態度は強硬だった。日支外交好転のために支那公使に任命された幣原の腹心佐分利貞夫は、着任後間も無く帰国して、(箱根で)理由不明の謎の自殺を遂げた。本国政府=外務省と幣原融和外交を良いことに有る事無い事言い募る支那政府との板挟みの心労からと推測される。後釜に小幡酉吉が任命されたが、支那政府は小幡の公使就任を拒絶した(アグレマン拒否)。理由は、小幡が彼の「二十一か条要求」の作成作業と「日華条約」締結交渉に携わっていたからと言うのだった。

 カール・カワカミはその著書『シナ大陸の真相』で「幣原外交の問題点は支那人の物の考え方、取り分け彼が外相をしていたあの数年間における支那人の発想法を全く理解出来なかったことである」と指摘し、当時支那の外交姿勢は「如何なる支那に対する宥和政策も支那人の自惚れを助長させることにしか役立たない」と米国の支那研究家ロドニー・ギルバートの著書を引いて断案している。そして「実際支那は、幣原男爵が宥和や善隣友好などを口にしている正にその時に日本と結んだ条約を全面的に侵害する手段に訴えてきたのである」として、その条約・協定侵害事件のリストを掲げている(一一五頁)。

 なお、一九二九=昭和四年七月には、中東鉄道利権問題を巡り満洲軍閥張作霖と対立したソ連は、支那政府と国交断絶し、北満洲に進撃して、小戦争を演じている。ソ連の北満洲侵略と幣原外交の失策に危機感を深めた関東軍作戦主任参謀石原莞爾らが、一九三一=昭和六年九月十八日、柳条湖(満鉄線路爆破)事件を起こして満洲制圧に決起した訳である。これが満洲事変である。そして騎虎の勢、翌三二=昭和七年三月一日、満洲国建国に突き進んだ。確かに、政府の公式政策ではなく、出先関東軍の独走だったが、これはわが国内の問題であり、日支関係においてはやや強行策ではあったとしても、ソ連は関東軍との激突を不利と判断して兵を引いているし、当時の支那=蒋介石の対日強硬論に対する機先を制することによる、既得権益は防御されたのである。なお、満洲族の独立意欲に応えた側面も重要だった。

 さて、翌三三=昭和八年五月三一日、塘沽停戦協定が成立した。長城以南に非武装地帯を設定し、支那軍の撤退確認後、日本軍も撤兵すること、その治安維持には支那警察が当たること等が協定された。この時、蒋介石政府は、満洲国政府側と郵便・電信・電話、陸上交通、関税業務に関する協定も結んでいるのだ。協定調印は事実上の満洲国承認である。義和団事変から日露戦争そしてポーツマス条約で国際的承認の基に獲得した権益の防衛であり、その既得権益保護をより安全・確固たるものにしようとした正当防衛的な国策の推進であった。満洲事変はここで決着したのである。

 だが、蒋介石の国民党と支那共産党とは、日支停戦協定後も口裏を揃えて「日本帝国主義の侵略・略奪」は大問題だと内外に大々的に吹聴した。支那の巧みな国際プロパガンダ=情報戦術で日本は圧倒的に押し捲くられていた。条理を弁えない支那民族の性格から発する反日・侮日運動は益々猛り狂い、調子に乗った支那政府は、国際連盟に日本の「満洲侵略」を断罪してくれと提訴するのである。だが、共産ロシアの傀儡国家=モンゴル共和国に対しては口を噤んでいるのは不可解であるが、それは共産ロシアが支那を支援していたこと、国連には共産ロシアの回し者が潜入していたで、謎は半分以上解けるのである。

 なお、コミンテルンは一九三二=昭和七年にも日本共産党に革命指令(所謂「三二年テーゼ」)を発して天皇制打倒と指示しているが、日本官憲の共産主義者対策は当然強化されてきている。

 さて、国連はリットン調査団を満洲に派遣した。同調査団は、日本の満洲に対する特殊な事情や支那政府の数々の不信行為も認めたが、結論としては日本の軍事行動は支那への侵略であるとし、日支間に新条約の対決を勧告する報告書を纏めた。米国のジャーナリズムも盛んに日本軍国主義の支那大陸侵略非難を書き立て始めた。因みに一九三三=昭和八年三月、米国第三二代大統領に民主党のF・D・ルーズベルトが就任した。ルーズベルトは大の日本嫌・支那好きだったし、共産主義思想に共感を覚える人物だったことは、十分に注意深く確認しておく必要がある。

 我邦は国際連盟の決議に強く反発し、一九三三=昭和八年三月、国際連盟を脱退した。我が国政府は、「支那は完全な統一国家ではない。それ故、一般的国際関係の規範である国際法の諸原則を直ちに適用することは困難である。それにも拘らず、連盟諸国は、架空の理論を弄んで現実を直視していない」、と強く国連の姿勢を非難した。これは正論だったと言えよう。正に当時の政府が言ったとおり、国連は「架空の理論を弄んで現実を直視していない」。満洲事変・満洲建国は「侵略」と言う概念に合致しない。日清・日露両戦争以来、多くの尊い犠牲と労力と資金を投入して、国際社会の諒解を生真面目に獲得して、「生命線」の育成を図ってきた我国の立場は、英国などは実は理解を示すところだった。

つづく

2006年06月20日

「『昭和の戦争』について」(六)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第二章 満洲事変への道


第八節 蒋介石の反共クーデタ(一九二七=昭和二年四月二一日)と「北伐内戦」

 一九二五=大正十四年三月、孫文が病没した。国民党左右両派の対立は激化した。一九二六=昭和一年三月に蒋介石は広東国民政府部内の共産分子の粛清に着手、ここに第一次国共合作は終焉した。

 蒋介石は、同年七月、国民革命軍を率いて支那統一を目指す「北伐」に立ち上がり、二七=昭和二年一月三―五日には漢口英国租界、六日には九江英国租界を実力奪還する漢口・九口事件を起した。さらに三月二十四日には北伐軍は南京を占領して列国領事館を襲撃や市内で虐殺・略奪・暴行を働き我が在留邦人も惨害を蒙った(第一次南京事件)。日本領事(森岡正平)の「無抵抗主義」が惨害を大きくした。英米日軍艦の報復砲撃。襲撃終息。荒木亀男大尉の自決。国内に幣原外交は軟弱過ぎると憤る声が高まった。 

 丁度この頃、ボロディンらは国民党右派を切り離そうと同年二月、国民党左派と共産党党員らに武漢政治を作らせた。「北伐」途上で危機感を強めた蒋介石は、上海で反共クーデタ(四・十二クーデタ)を敢行、武漢政府と絶縁、広東から共産党員及びシンパを撃退した。このクーデタの背後には米国の支援工作が潜み、蒋は米国から大量資金援助を得ている。当時の日本政府が、以上のように複雑怪奇な支那大陸の内乱にソ連や米国が絡まる政治状況を如何捉え、如何対処しようとしたか。問題はこれである。


第九節 幣原外交の空回り

 正にこのように困難な時期に、幣原外交と言われる「親英米外交」「対支宥和外交」が、第一期=一九二四=大正十三年六月から一九二七=昭和二年四月まで、第二期=一九二九=昭和四年七月から一九三一=昭和六年四月まで都合六年間に亙り展開された事は、大正・昭和史の大失態であったと私は思うのである。

 幣原喜重郎の外交理念を彼の演説で確認しよう。一九二二=大正十一年、ワシントン会議全権幣原が最終会議でした演説は、「日本は条理・公正・名誉に抵触せざる限り出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思わない。日本はその提供した犠牲が国際的友好と善意の大義に照らして、無益になるまいと言う考えの下に喜んでいるのである」「日本は国際関係の将来に対し、全幅の信頼を抱いてワシントンに来た。日本はこの会議が善い結果をもたらしたと喜んでいる」と底抜けの楽観論を述べている。(幣原平和財団『幣原喜重郎』二五四頁)。

 善意と条理に従い支那に譲歩すること、日本が犠牲を厭わないことで日支友好関係の構築が可能だと幣原が楽観しているのが良く判る。幣原は米国の思惑も、支那民族の異様な個性と我が国への嫉妬心も左右対立の混迷も、そして支那諸勢力の背後に在って共産革命に導こうと蠢く空恐ろしいソ連の謀略工作も視えていない様子だ。支那大陸の現実は、とても楽観できる状況ではなかったのである。大正デモクラシーの楽観的思想状況と幣原外交との関係、実に興味深い問題ですが、ここでは割愛する。


第十節 田中外交の挫折

 一九二六年=大正十五年七月(大正天皇崩御による昭和改元は十二月二五日)、蒋介石の「北伐」が本格的に動き出した。支那南北の大内戦で、共産党の内戦煽動謀略も絡んでいる。我国としては、満洲権益の保全と在留邦人の安全確保に兵力を増強せざるを得ない。満洲は「生命線」だと認識する関東軍将校や満蒙に関心の深い政治家・活動家が、混乱が満洲に波及するのを恐れたのは当然だった。

 若槻内閣に代わって登場した田中義一首相は、一九二七=昭和二年六月中旬から九月まで華北の在留邦人保護のために山東半島に派兵した。この第一次山東出兵は、蒋介石軍の北上を抑えたが、この機に乗じて北方軍閥は南下の気勢を上げたので、南北両軍が接近して山東情勢は更に緊迫化した。支那の共産勢力はこれを好機会と捉えて、南北内戦の激化を工作し、また同時に民衆に対して「排日・侮日」気運を煽り立て、その混乱は支那各地に広く波及したのである。

 そこで、六月下旬、田中首相兼外相は、東方会議として知られる「満支鮮出先官憲連絡会議」を開催、支那対策を協議した。協議の主題は「蒋介石の《北伐》に如何に対処するか」、及び「満蒙における日本の特殊地位とその治安対策」であった。協議の結果は、七月七日に田中外相訓令=「対支政策綱領」として公表された。

 内容は、①支那の内乱・政争に際し、その政情の安定と秩序回復は「支那国民自ら之に当ること最善の方法」、我邦としては「一党一派に偏せず、専ら民意を尊重し、苟も各派間の離合集散」には干渉しない、②「満蒙、殊に東三省方面に対しては、国防上並国民的生存の関係上、重大なる利害関係を有するを以て、………同地方の平和維持・経済発展に依り、内外人安住の地たらしむることは接壌の隣邦として特に責務を感ぜざるを得ず。然り而して、満蒙南北を通じて均しく門戸開放・機会均等等の主義に依り内外人の経済的活動を促すことは、同地方の平和的開発を速やかならしむる所以にして、我既得権益の擁護乃至懸案の解決に関しても、亦右の方針に則り之を処理すべし」、③「万一、動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方に於ける我特殊の地位・権益に対する侵害起こる虞あるに於ては、其の何れの方面より来るを問わず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持せらるる様、機を逸せず、適当の措置に出づるの覚悟」だとの決意を表明したのである。

 かくして、我が方は山東半島派遣軍を撤収した。ところが、蒋介石は翌二八=昭和三年四月に再度の大規模な「北伐」を実施、山東方面の状況が再び険悪化した。そこで我が政府は第二次山東出兵を断行、遂に五月三日、日支両軍は済南で軍事衝突したのである(済南事件=さいなんじけん)。蒋介石政府は、日本の山東出兵と済南軍事衝突事件は国権侵害の侵略行為であると、国際連盟に提訴した(五月十日)。その一方で「北伐」を継続、北京に迫り、張作霖を急迫した。日本政府としては蒋介石の「北伐軍」が満洲に進軍することを真剣になって警戒せざるを得なくなった。

 五月十八日 政府は、支那南北両政府に対し、戦乱が満洲に波及する場合は、治安維持のために適当且有効なる措置を執るとの通告を発し、張作霖に東三省(満洲)帰還を勧告した。これは南北両政府の態度を硬化させ双方ともが我が政府の勧告に激しく反発・抗議した。また、米国務長官は、日本は支那に内政干渉するなとの声明を発した。済南軍事衝突を境に、支那の排外運動は、主なる攻撃目標を英国から日本に一転した。(産経新聞180419号)

 田中内閣の山東出兵は北支(華北)の治安の混乱を憂いて満洲(東三省)の特殊地位・権益の擁護と居留民保護のための出兵だった。だが、支那の複雑な内戦状況の中で、南北両軍の軍事行動は勢いを増す一方で、何とか華北に平穏をと願う我邦の行動は、却って南北双方の反日機運を高めることになり、実に不利な立場に追い込まれた。なお、田中内閣が山東出兵に踏み切った直後に、コミンテルンは日本共産党に天皇制打倒の「革命指令(二七年テーゼ)」を発していることの意味は大きい。

 なお、「田中上奏文」なる偽文書の問題がある。この田中義一の対支外交は幣原対支外交に比べれば強硬だが、その内容はこのように穏当なものであった。ところが、「田中上奏文」なる偽文書がこの時機にどこからもなく登場した。コミンテルンが作成して世界にばら撒いたとの説が有力だ。その内容が、一例としては既に他界している山県有朋が出てくる点など事実関係から大きく乖離している点、また文書の形式、言葉遣いから、当時から既に偽文書であることは知る人ぞ知る常識であった。だが、欧米世界では夙に有名になり注目され、米国にメディアは大々的に扱った。日本が大正末年ころから世界征服を構想していた証拠として何と東京裁判の証拠資料とされたのである。東方会議の内容を直視すれば、全く為にする偽装文書であることは明白だ。だが、日本の左翼は戦後これを日本侵略戦争の証拠資料として扱い、また共産支那政府はつい最近までこれが日本の大陸侵略の証拠資料だと言い張っていた。ソ連=コミンテルンの日本帝国攪乱工作は内外からヒタヒタと進展していたことを重視すべきである。

つづく

2006年06月19日

「『昭和の戦争』について」(五)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第二章 満洲事変への道


第四節 ロシア共産革命の東アジアへの波及――最大の脅威の出現


 一九一七=大正六年十一月、共産ロシア政権が成立した。その二年後の丁度欧州大戦が終結した一九一九=大正八年三月にモスクワに国際共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、通称コミンテルン)が設置された。世界各地の共産主義者を集めた世界共産革命指令本部であるが、その本質はソ連政府(クレムリン)の別働隊である。

 この年七月、ソ連政府は「支那に対する宣言(カラハン宣言)」を発して、民族自決の原理に基づき、帝政ロシアが支那から掠奪した領土・利権、不平等条約等々を放棄・撤廃すると宣言した(カラハンはソ連に外務人民副委員長)。翌年に同様の趣旨の第二次宣言が発表され、支那の上下は歓喜に沸き立ち、一九二四=大正十三年五月の蘇支国交樹立に結びついた。ソ連は、帝政ロシア時代の特殊権益や義和団事変賠償金を放棄した。だが、北満洲の権益、中東(東清)鉄道権益は以前のままだった。孰れにせよ、共産ロシアの派手な対支融和外交は、正にこの時期、我国と支那の間には「日華条約問題」「山東権益継承問題」が紛糾していたから、支那を大いに元気付けて、日本帝国主義及び帝国主義列強への激しい反抗運動を活気付かせた。

 なお、米国政府が「排日移民法」を制定したのは、二十四年五月である。また、支那問題をめぐり日米が利害対立の様相を深める情勢は、共産ロシアに好都合だったことを確認しておこう。共産ロシア政権が成立した直後にレーニンが構想した、『敵と敵を戦わせる』『帝国主義列強同士を噛み合わせる戦略』=「社会主義の勝利に至るまでの基本原則は、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これら諸国を互いに噛み合わすことである」(注・一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長会議)、及び『アジア迂回戦略』「最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒する」、がその基本戦略である。(注・カワカミ三二頁)。カラハン宣言は、その第一弾だったと言える。


第五節 ソ連=コミンテルンの東アジア攻勢と米国の東アジア介入

 一九二一=大正一〇年七月に支那共産党、翌年七月に日本共産党が結成された。何れも「コミンテルン(支那・日本)支部」である。何故かといえば、ソ連政府=コミンテルンの究極目標は、全世界の共産主義革命を完成することだ(三田村一九頁)。マルクスの共産主義思想に国境はない。万国の労働者は団結せよであり、国家と言う存在は資本主義時代までのもので、世界共産革命が達成される暁には地球上から国家は消滅すると御託宣している。だから、共産主義者は、共産革命の祖国=ソ同盟の有り難い指導の下に自分の生まれ育った祖国を解体・撲滅する運動に嬉々として邁進するのである。一九二〇年代早々から、ソ連・コミンテルンの支那共産革命謀略で大陸の内戦は拡大し混迷を深めたのである。

 他方、米国は本格的に東アジア(支那大陸)への介入(進出)を強化し、今や支那大陸では、ある勢力は公然・隠然とソ連=コミンテルンに指導され、またある勢力は米国の支援を得て、勢力を増大しようとの動き出した。こうして、支那大陸は米ソの介入で益々「不気味な伏魔殿」の様相を色濃くして行った。一九二〇年代は、正に満洲事変への道の出発点である。共産ロシアや米国の介入による東アジア情勢の深刻化が、我が国の大陸政策を困難にさせて行った最も重大な原因だったのである。(注・戦後の歴史学界は、この重大な事実を隠してきた)


第六節 孫文の左傾化と第一次国共合作(一九二三年十一月から一九二五年三月)

 さて、袁世凱に敗北した孫文は、一九一四=大正三年七月、日本に亡命、東京で「中華革命党」を結成した。だが、運動は失敗続きだった。ところが、一九一九=大正八年七月にカラハン宣言が支那人の気持ちを捉えた頃から孫文は、急速に左傾化する。勿論、ソ連=コミンテルンの誘いに乗ったのだ。一九二三=大正十二年一月に孫文・ヨッフェ(ソ連外交代表)共同宣言が発せられた。宣言は「支那には現在ソビエト制度を成功させる条件は存在しない。支那当面の最大の課題は、統一を完成し、完全な国家の独立を完成することであり、ソ連はこれを支援する」と謳っていた。共産ロシアは、民衆に高い人気の孫文を利用して支那共産革命を促進する腹だったのである。ソ連は、同年一〇月に孫文の政治顧問としてボロディンを送り込んだ。同月、「中華革命党」を改組して「支那国民党」とした。コミンテルンの強い影響下に国民党が成立したことは注目しなければならない。

 孫文は広東に政府を組織、一九二四=大正十三年正月の第一回国民党全国大会で「連ソ・容共・扶助工農」を基本政策に掲げて、国共合作(第一次)して支那民族統一運動を推進すると宣言した。(レーニン没→スターリンが権力継承、カワカミ『シナ大陸の真相』三三頁)。孫文はコミンテルン=共産勢力に取り込まれた形である。支那共産党員は革命顧問ボロディンらの指揮に従い、巧みに国民党の要職に侵入して行く。この年六月広東郊外に黄埔軍官学校が開校、総裁孫文、校長蒋介石、政治部主任周恩来、顧問ロシア人(コミンテルン派遣員)ガレン(ブリュッヘル将軍)と言う陣容で出発した。この学校は、国民党、共産党両方に多数の高級軍人を輩出した。

 なお、ソ連=コミンテルンの指導で、一九二六=大正十五〔昭和元〕年十一月、支那南部で反英闘争の猛威が荒れ狂った。その最中にブハーリンはモスクワで《コミンテルンは、支那共産革命の創設に努力を集中すべきである。支那革命はヨーロッパ、取り分け英国の資本主義に決定的な打撃を与えるための必要条件として不可欠である》との声明を発した(注)カワカミ三三頁。また、「一九二四=大正十三年の蘇支国交樹立後、早速ソ連北京大使館付陸軍武官の事務所にソ連軍事センターが組織された。その任務は支那の様々な政治・軍事団体に資金と武器の配分を監督することであった」(カワカミ三五頁)。

第七節 ソ連の満蒙工作

 それより先、一九二一=大正十年には、ソ連軍は白系ロシア人追撃を名目に外蒙古を侵略して「蒙古人民革命政府」を樹立、大正十三年には「蒙古人民共和国」という純然たる衛星国とした。孫文はこれを容認していた。ソ連はさらに、共産党満州支部に武装暴動蜂起を指令して、一九二四=大正十三年四月には、「全満暴動委員会」を組織させ、共産パルチザン(極左暴力革命集団)活動を推進し、その拠点を満州一帯に広げ、満州に作られた共産軍遊撃区が彼らの活動拠点である。反日活動を展開するパルチザン部隊は数十名を単位として絶えず移動して放火、略奪、暴行事件を頻発していった。

 張作霖の北京政府は、共産分子の跳梁跋扈に脅威を感じ一九二七=昭和二年四月、北京ソ連大使館を一斉捜索して秘密文書を押収した。それには支那共産革命推進の様々な工作、就中孫文に樹立された広東国民党政府を後援する旨が記されていた。なお、ソ連は、北京政府(張作霖)を攪乱する目的で、惑星的軍閥馮玉祥にも武器弾薬や軍資金を供与し「騎兵隊学校」を設立させた。黄埔軍官学校も同様だが、カミによればこの学校も、「ただ単に軍事的な目的のために学生を訓練することではなく、革命的・共産主義的思想を彼らの心に植えつけることであった」(三七頁)のである。

つづく

2006年06月18日

「『昭和の戦争』について」(四)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第二章 満洲事変への道


第一節 対華二十一箇条要求問題

 さて、欧州大戦の初期一九一五=大正四年一月十八日、日本政府(大隈重信内閣)は「対華二十一か条の要求」を民国政府(袁世凱)に提示した。戦後の歴史家らは日露戦勝以後、増上慢になった我国の政治・外交が強圧的要求を支那に突きつけて反日感情に火をつけ日支関係に取り返しのつかない汚点を残したと酷評する事件である。

 だが、歴史の事実は如何であったか。対華要求の目的は、第一に山東半島旧ドイツ権益の日本移管を問題、第二に日露講和条約でロシアから継承した旅順・大連の租借期限、南満洲鉄道経営権が八年後の一九二三(大正十二)年に期限切れなので、その延長交渉問題である、当然の外交対策だった。しかも、山東出兵は、英国の熱心な懇望、ドイツを追い出したらそこを日本に呉れようと言う甘言に応じたものであった。

 山東半島旧ドイツ権益継承問題における交渉過程で大きな問題が生じた。支那政府当局者は、主要項目を承諾した上で、支那民衆を納得させる為だから、是非とも「強い要求」や「最後通牒」を出してくれと我が方に要望した(外相加藤高明、駐支公使日置益)。英国の後押しも有った事だし、それまでドイツが問題なく山東半島を支配していたのだから、疑問も持たずに日本政府は、態々「強い要求」を付加し、五月七日「最後通牒」を発し、支那政府は九日「受諾」した。五月二五日、山東省に関する条約、南満洲および東部内蒙古に関する条約など二十一か条要求に基づく「日華条約並びに交換公文」が締結された。

 ところが、条約に調印しておきながら、そこは支那の領土だから返還せよと迫って来たのである。日本が「最後通牒」まで発して強要したと、民衆を煽り立てて反日機運を醸成し、また同時に欧米列国の同情を支那に向けさる工作にとりかかったのである。これを見抜けなかった政府・外務省の失態である。(注・東郷茂徳の回顧=『時代の一面』五頁。戦後の歴史を見る目のない歴史家たちは、わざわざ「日本の最後通牒に屈して」調印したとしている。例えば岩波日本史年表の表記)。日露戦後次第に対日姿勢を硬化させて来ていた米国は、「日華条約が支那の領土保全と門戸開放に違反すれば不承認の旨を日支両国に通知してきた。つまり、好機到来とばかりに日本非難、支那支援に出てきたのだった。

 こうして、支那政府は、日本は横暴だと民衆を煽って「反日侮日」「日貨排斥」運動を起し、欧米列強にも「反日宣伝工作」を展開、パリ講和会議でも支那代表は、旧ドイツ権益を大人しく返還せよと要求し大きな国際問題にした。そこにソ連のカラハン宣言(後述)が出たから堪らない。国際世論は支那に同情的で、日本は不当に過酷な要求を「日華条約」で支那に力で押し付けた印象を与えてしまう。支那は、有利な国際環境を作り出し、民衆の反日侮日感情を大いに煽った。そこで、我国は早めに譲歩して、山東権益を漸進的に還付する方針で臨んだのである。米国も日本の立場に一応の理解を示した。一九一七=大正六年十一月には、「支那に関する日米両国間交換公文(石井・ランシング協定)」が取り交わされた。領土的に近接する支那大陸においては日本が《特殊の利益》を有すると米国は認め、日米両国は支那の独立・門戸開放・機会均等を尊重すると約束したのである。


第二節 支那の「反日」攻勢と日本の忍耐

 「日華条約廃棄」「パリ講和条約調印拒否」の過激な叫び声は支那全土に拡大した。一九一九=大正八年五月四日、北京で発生した有名な五・四運動は、忽ち全国主要都市に波及し、『中華思想』から東夷と蔑んでいた新興日本への激しい嫉妬と憎悪、それに民族独立確立への願望は強烈であった。民族独立確立への熱望、それは我が方も良く理解する所であるが、我が国と支那の方法論には大きな懸隔があった。「以夷制夷」は支那民族の遺伝子(文明・文化)の中に強く深く埋め込まれている。我が国は国際関係においてもお人好しである、話せば分かる、「善隣友好」はわが遺伝子の中に組み込まれている。

 支那人の悲哀も憤慨も分らない訳ではないが、我が国は西洋列強の強欲な侵略の威圧に対抗する際、敵の論理の中に入っていって、敵の理解と支援を取り付ける自助努力を重ねて、この第一次世界大戦の時代までには有色人種の民族として始めて白人西洋列強と対等の付き合いが出来るまでに漕ぎ着けたのである。ペリー艦隊の襲来から凡そ七十年であった。他方、支那は一八四〇=天保十一年の阿片戦争以降、ここに至るまでの凡そ八十年間、唯我独尊的な『中華思想』を改めず、殆ど効果の上がる自助努力もせず、国内統一も達成できず、況や、共和制国家と称してはいても、近代的国民国家には程遠い状態に有りながら、先進列強に平等・対等の権利を与えよと要求しても、理不尽と言うものである。支那の行動は自分の頑固な無分別を棚に挙げて、真面な国々に対して対等平等の権利を認めよと言う、言わば駄々っ子の言い草にも等しいと言う可きであろう。

 国際政治は支那の我侭をそのまま許すほど甘くはない。果たせるかな、一九一九=大正八年六月調印のヴェルサイユ講和条約は、我邦の主張を認めた(第一五六条から第一五八条)。だが、支那人は横暴な自己主張を諦めないから、この問題は尾を引き、二年後に開催されるワシントン会議で再び重要な議題になる。一九二二=大正十一年十二月、結局、我国は、山東権益を略々全面支那に返還し、青島駐屯軍も完全撤退したのである。


第三節 ワシントン会議の歴史的意義

 一九二一=大正十年十一月から翌二二年二月まで開催されたワシントン会議は、簡単に言ってしまえば、東アジアで上昇気流に乗る小強国日本を抑えたいと焦る米国の為の国際会議だった。主要な条約は三つある。先ず、海軍軍縮条約(主力艦、米英日の五・五・三比率、十年間主力艦の建造停止)である。太平洋の対岸にある日本が海軍力を増強して米国の脅威にならないようにとの思惑がある。次に、太平洋問題に関する四カ国条約では太平洋の勢力範囲の現状維持であり軍縮条約を担保するもので、日英同盟は必要なくなったとの理屈で廃棄された。これも米国の思惑通りだった。第三は、支那に関する九カ国条約で、「支那の主権・独立・領土的ならびに行政的保全を尊重すること」「支那における門戸開放、機会均等の主義を一層有効に適用すること」が主旨であった。米国が日清戦争直後から主張し続けて来た『支那に関する門戸開放・機会均等の原則』を列国が承認したものとなり、米国の要望で五年前の石井=ランシング協定は存続理由が希薄になったとして廃棄された。要するに我が国は米国に理想主義的アジア政策に大幅に譲歩したのである。それは、後で見る全権大使幣原喜重郎のふやけた理想主義による譲歩であった。第一次大戦で米国が新しい覇権パワーになって来たという現実を、ワシントン会議は見せ付けた。

 要するに、米国は我侭な支那を哀れみ、理想主義的国際関係論を以て保護する姿勢を列国に有る程度認めさせることに成功したのである。米国は自分の御膝下の中南米、カリブ海諸島、ハワイ諸島、フィリピン諸島に対しては如何であったか、ここでは言うまい。いずれにせよ、米国にお節介的理想主義から出てきた九カ国条約で我が国は、山東半島における旧ドイツ権益を大部分放棄した。こうして、米国の主導で、我国は日英同盟を失い、支那問題に関しては、実に窮屈で頭の痛い問題を抱え込んだことになったのであった。(注)外交官石井菊次郎の評価。

つづく

2006年06月17日

「『昭和の戦争』について」 (三)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第一章 「昭和の戦争」前史


第五節 複雑な国際情勢の出現――一九一〇から三〇年まで

 さて、日露戦争後、我が国と諸外国との関係に注目すべき変化があった。その第一は、米国の対日姿勢の変化である。講和条約締結に斡旋の労を取った見返りとして、米国は満洲市場への参入を要求してきた。我が国はそれをヤンワリと拒否した。満洲問題はロシアと清国との関係も複雑で、米国の参入が満洲問題を更に困難にするのを懼れたためである。米国はこれに気分を害した。日本を仮想敵とした米国海軍の有名な「オレンジ計画」は一九〇六=明治三九年に策定開始された。

 一九〇八=明治四一年一〇月には、戦艦六隻の世界一周米国親善大艦隊《ホワイト・フリート》の横浜寄港がある。親善訪問とは謳われたが、明らかにガン・ボート・ポリシー=《砲艦外交》の発動であった。比較的好意的だった米国が、新興日本帝国の予想外の擡頭に対して今度は急速に警戒感を深め始めたのは皮肉な運命であった。ちなみに言えば、日本は基本的には「親米」的姿勢を変えていなかった。

 注目すべき第二は、日露協商の締結による日露協調関係の出現である。ロシア帝国は、満洲北部に退却して、日本との協調を望むようになる。ここに、東アジアでの勢力均衡を求める日露協商体制が登場した。だが、日露協調時代は、一九一七=大正六年にロシア革命でロマノフ王朝が滅亡するまでの、およそ十年間の寿命だった。

 注目すべき第三は、清王朝(北京政府)の対日強硬姿勢の出現である。清帝国がこの段階に至って南満洲の領有権と利権回収を要求し始めたのである。確かに、満洲は清国皇帝=愛新覚羅氏発祥の地で特別の地域だ。だが、清帝国は、満洲防衛の努力を長らく放置して、ロシアの満洲占領を容認していた。もし、我が国が国運と国力を賭けてロシアを北方に退けなければ、或いは日本が敗北していたならば、当時の国際情勢の流れから考えて、清国はロシアに丸ごと占領=植民地支配されるに至った可能性は高かった。だから、清国の主張は、自らの立場も責務も弁えず、我が国の必死の苦労を無神経に無視するに等しい遺憾な主張だった。ロシア帝国の南下の圧力が弱まった途端に、日本の奮闘努力を眼中に置かない支那の独善的な横暴が露見して来たのである。

 支那政府は、国際社会に「日本の貪欲な侵略」などと訴えて、同情を引き出そうと宣伝工作に取り掛かる。虚偽によるプロパガンダ攻勢に支那民族は長けているようである。満洲への進出を欲する米国が支那に同情する。日露戦争前とは一転して、東アジアに新たに日露提携・対・米支接近と言う構図が出現したのである。

 

第六節 更に深まる支那大陸の混迷状況

 
 さて、一九一一=明治四四年十月に辛亥革命が起こり、翌年一月、共和制を唱える中華民国が成立、清王朝は滅亡した。長らく日本有志の支援を受けて支那民族独立運動を続けていた孫文が臨時大総統に撰ばれたが、謀略家袁世凱(清王朝重臣、北洋軍閥首領李鴻章の後継者)に権力を奪取された。袁世凱は三月十日、臨時大総統就任後に首府を北京に移し、巧みに政局を操った。しかし、五年後の一九一六=大正五年、力量を過信して皇帝即位事件で躓き、失意の内に頓死した(六月六日)。支那全土は、忽ち軍閥割拠の混沌状況に陥り、内戦は一九二八=昭和三年十二月に蒋介石国民党が支那統一に略々成功するまで約一二年間続いた。

 この大混乱は、満洲にも波及し奉天軍閥張作霖が台頭、張は初め北京政府に服従したが、袁亡き後、北洋軍閥は安徽・直隷・奉天の三派に分裂、北京政権争奪戦を約十年間繰り返す。結局は一九二二年と二四年の奉直戦争で張作霖が勝利、一九二六=昭和一年に北京政権を掌握した。だが、この間の覇権争奪戦中、張の故郷満洲経営は杜撰を極め、匪賊・盗賊が満州の荒野を徘徊する情況になった。日露戦争後、ポーツマス条約に基づき日本が管轄した南満州鉄道及び付属地一帯は我が関東庁と関東軍司令部の尽力で秩序を保ち、多くの難民が流入したのである。


第七節 欧州大戦及びロシア革命の甚大な影響

 欧州大戦が、一九一四=大正三年七月から、五年間継続(一九一八=大正七年一〇月)した。凄惨な近代戦争でヨーロッパ諸国は勝者も敗者も甚大な打撃を蒙った。また大戦の最中、一九一七=大正六年三月、ロシア共産革命が起こりロマノフ王朝は滅亡した。シベリア出兵もこの大戦中にあり、米国の日本への不信感を深める要因の一つになる。

 ところで、戦場が遠方だった日本と米国は参戦したが経済成長をものにした。歴史教科書的説明では、大戦で日本は経済的に潤い、成金が時代の雰囲気を代表し、都市化・産業化が進み新思潮大正デモクラシーの高まり社会主義運動の成長などと国内動向の変化のみを強調する。確かに、ヨーロッパの変動が思想・経済・社会情勢に大きな影響を与えた。

 ロマノフ王朝の滅亡で日露協商関係は自動消滅した。そして、真に括目するべき事態は、国家の内と外から並び押し寄せてくる世界共産革命運動の不気味な波である。共産ロシア=クレムリンが発動するあの手この手の共産革命謀略工作こそは、これまでとは全く異質な日本帝国を滅亡へと誘う不気味な魔の手だったのである。我が国戦後の歴史研究者たちは、余りにもこの問題を軽視しすぎてきたと私は思うのである。

つづく

2006年06月16日

「『昭和の戦争』について」 (二)

「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第一章 「昭和の戦争」前史


第二節 明治政府の国家戦略

 元寇以来未曾有の国難到来、それは十九世紀当初から高まった西欧列国の脅威だった。それは寛政年間(一八世紀末葉)から始まっていたが、大きな山は一八五三=嘉永六年(凡そ百五十年前)、米国ペリー艦隊の来襲だ。米国政府は徳川幕府に『開国要求』を突きつけた。その目的は欧米列強の世界支配の論理を日本に飲み込ませることであり、それが拒絶されれば、軍事力に物を言わせて植民地支配への道を切り開くことであった。「開国要求」の方法が所謂『砲艦外交(ガンボート・ポリシー)』であったのは、そのことを如実に物語る。同じ年に、プチャーチン座上のロシア艦隊が長崎に襲来して『開国』を要求した。この時点から日本の近代史は本格的に始まる。わが国は欧米列強の侵略の脅威に直面したのであって、それにどのように対応していくかが幕末政治史の核心的課題になったのである。

 徳川幕府は、欧米列強の支配圏に参入することで、侵略の脅威を避ける道を選択した。一八五八=安政五年、日米通商条約締結である。この時点で我が国は不平等条約と言う重い足枷を嵌められて西洋列強の国際関係の枠組みの中に引きずり込まれたのである。この巨大な衝撃に耐え切れず徳川幕府は崩壊して一八六八=慶応四年に明治政府が登場する。欧米列強の東アジア侵略攻勢がなければ、近代日本の擡頭はありえなかった。つまり、内発的な動機から日本が近代世界に参入したのではない。徳川三百年の「泰平」は、我々が思っている以上に安定していて、対外政策は「鎖国」だったからである。
 
 さて、欧米列強の東アジア侵略への防衛的対応という課題を背負って誕生した明治政府の国家戦略を端的に言えば、二点ある。

 第一は、当然のことながら、日本民族の独立と安全の確保=「国権の確立」であった。「国権の確立」とは、先進西欧列強と対等並立できる強国に成ることで、「万国対峙」「万国並立」と表現された。当面の最大の懸案は「西欧的国民国家」の建設と「富国強兵」政策の推進と不平等条約改正事業だった。西洋列強が我が国を独立主権国家に相応しいと認知してくれない限り、「国権確立」は達成困難だったからである。そこで、「開国進取」の理念を基に近代西洋的国家・市民社会・産業社会の建設に全力を投入したのである。

 第二は、「東洋世界の平和と安定の確立」(「東亜〔支那〕の保全・東亜〔支那〕の覚醒」)であった。昭和時代には「東亜(アジア)の解放」と言われたが、要するに西洋列強=白人覇権勢力の圧迫から植民地支配の悲哀に陥り恐怖に慄く被抑圧諸民族=有色諸民族を解放することである。幕末に幕臣勝海舟は、その目的を目指す手段として「日支鮮三国同盟論」なる東アジア連合を提案していた。この構想は、明治政府の要人たちにも受け継がれ、日本外交の一潮流としなっていく。だが、外交は、我が国の意向や思惑だけでは動いてくれない。二十世紀前半の我が国を取り巻く国際関係は、正にその典型だったと言えよう。

 なお、明治政府は、凡そ二十有余年間、「西欧的国民国家」建設と「富国強兵」政策推進に涙ぐましい努力を重ねて、一八八九=明治二十二年には「大日本帝国憲法」を発布して、翌年からの帝国議会開設へと漕ぎ着けた。同時に産業社会の仕組・国民教育の機構・国民軍隊=陸海両軍もこの頃までにはその基礎構築を進展させていたのである。


第三節 日清戦争の歴史的意義

 日清戦争の歴史的意義は何か。欧米列強の東亜侵略に対抗するための国際環境の整備という側面が重要だ。当時清帝国は、ロシア帝国の南下行動に有効な対抗策を打ち出せないでいた。他方で、朝鮮半島に対しては旧来の中華体制的宗属関係を維持していた。清国は朝鮮国の宗主国である。朝鮮半島は支那のいわば植民地的存在だった。宗主国支那がロシア帝国に侵略されれば、属国朝鮮も一網打尽の餌食となろう。そうなっては、我が日本の安全保障は重大な危機に直面する。「中華思想」「中華体制」で東アジアから西欧列強の侵略を撃退するのは不可能である。余りにも独善的で全体を冷静・客観的に見る能力を欠いている。朝鮮王朝を清帝国の支配から離脱させて独立主権国家に育成し、日鮮提携して極東の安全保障を強化する、これが我が国の朝鮮政策であった。日清戦争は、朝鮮半島から清帝国を追い払って朝鮮王国を独立させると言う文脈の中で起きたのである。(注・大韓帝国、皇帝、独立門)。

 一八九五=明治二八年四月に下関講和条約で清国から遼東半島を割譲した。しかるに、露独仏の三国が、「東洋平和の為に」なら無いから清国に返還せよと強要して来た(三国干渉)。力関係を熟慮して我が国政府は、干渉を受け容れた(同年五月「遼東還付・臥薪嘗胆」)。ところが、お説教したロシアは、舌の根も乾かぬ内に清国から遼東半島(三一年六月、旅順・大連)を租借して強固な要塞を建設、また南満洲鉄道の敷設権を獲得して、満洲・蒙古と朝鮮半島への侵略政策に力を入れるに至った。シベリア鉄道の建設は間もなく完工を向かえる段階だった。朝鮮王朝の近代化改革を支援しようと日本が動いたその時、三国干渉で情勢急変、李朝は忽ち強いのは日本よりもロシア帝国だと擦り寄ったのである(朝鮮の「事大主義」)。日清戦争の成果は失われ、急転直下、朝鮮半島は更に危うい情勢に陥った。日露戦争の種は、こうしてロシアと朝鮮によって撒かれたといってよい。

第四節 日露戦争の世界史的意義

 日清戦争後、清国に対する西洋列強の侵略運動が加速した。そこで義和団の過激な攘夷運動が燃え盛り、義和団事変となる。清国皇帝は義和団の攘夷運動を公認した。義和団は北京の列国外交団や居留民殲滅戦を展開し、清王朝は日本を含む欧米列強に宣戦布告した。日本軍を主力とした連合国軍はこれを撃退し、「北京議定書」が成立した。この情勢の中でロシア帝国は満洲を略完全に占領して南下政策強行の姿勢を示した。ロシアの朝鮮・満洲・支那・蒙古への侵略の阻止こそが我が国が対露戦争に立ち上がった動機である。兵員大量輸送のためのシベリア鉄道も略完成していた。

 国力、軍事力の比で見れば日本の勝利はとても無理だと列国の軍事専門家筋は予想したが、わが陸海軍の勇猛果敢な奮闘で、一応の勝利となった。ポーツマス講和条約締結の際の苦労は日本の「善戦の末の辛勝」を如実に示している。英国と米国の支援を得た結果であった。いずれにせよ我が国は日露戦勝でロシアを満洲北部へ押し戻し、朝鮮を我が国の勢力圏に編入せしめた。明治政府の国家戦略の大きな前進だったのである。(注・日露兵力比)

 さて、日露戦勝の歴史的意義は、第一に、新興小強国として西欧列強の認知を獲得できたこと、第二に、ロシア帝国の露骨な支那・朝鮮・蒙古への南下を阻止したこと、第三に他の列強の形振り構わぬ支那分割に歯止めをかけたこと、第四に、白人覇権勢力に頭を抑えられ呻吟している有色諸民族に『民族解放』『国家独立』への大きな希望を与え、大いに激励することになったこと等であった。

 なお、不平等条約改正問題は「国権確立」問題の象徴だが、実に困難な外交課題だった。治外法権の解消は日清戦争直前の明治二十六年七月、関税自主権完全回復は、何と明治四十四年二月であった。欧米列強との対等・平等への道が如何に長く困難だったかを如実に物語っている。尚、明治三五年一月に日英同盟が成立し、英国が有色人種の国家と対等な同盟条約を結んだ最初である。

 一九一〇=明治四三年の「日韓併合」は、既に指摘しておいたように、外交交渉による日本への併合であって、侵略戦争で奪い取った植民地ではない。我が国が力関係で上だったから交渉を主導したのは当然であった。今でも、国際関係は力関係で大きく左右されているので不思議とするには当たらない。竹島を不法占領して恬として恥じない姿勢と比べれば、日韓併合条約締結過程は遥かに紳士的だったと言ってよい。歴史を直視しない現在の韓国政府は、勝手に決め込んだ歪曲史観から発する理不尽な怒りと不満で、「日帝三十六年の植民地支配」の清算などと国際法を眼中におかない妄言を吐いているが、当時の半島人の多くは日韓併合を大歓迎したのだ。李氏朝鮮王朝は、極端な独裁政治で民生の安定も図れず、況や自助努力で「独立主権国家」を形成する意欲も能力もなかった。朝鮮半島が「力の空白地帯」になることを日本は容認できなかった。ロシア帝国の朝鮮侵略意欲が目に見えていたからだ。

 なお、日韓併合以後は、日本は国家財政を朝鮮半島経営に割いた。また、近代化の基礎構築、教育水準の向上、社会基盤や環境の改善等に融資と助力を惜しまなかった。朝鮮半島から搾取するものは殆ど無く、逆に本土からの資金の持ち出しであり、朝鮮人の社会環境や生活向上に多大の成果を挙げたというのが歴史の事実であった。大東亜戦争敗北後の我が国の経済復興、高度成長の原因は、財政上の重荷だった朝鮮や台湾を切り離されたお蔭である。戦前、我が国は朝鮮・台湾・満洲に対し一視同仁、「内外(鮮)一体」の気持から外地の発展に大きな資金を回していた、その分が無くなったためである。「東亜=アジアの解放」の努力として日本と朝鮮・台湾・満洲問題は見るべきものなのである。

 若しこれをどうしても植民地支配と言いたいのであれば、実に立派な植民地支配である。英国のインド、アラブ地域支配、仏国のアルジェリア、モロッコ支配、スペインの中南米やオランダのインドネシア植民地支配、何れも実に虐殺も厭わす残虐で無慈悲な搾取と差別の支配であったが、それとは似て非なるものであった。然るに、韓国や北朝鮮は、『苛酷な植民地支配』だったと執拗に反省と謝罪を求める。また我が国のボケナスの保守政治家や左翼諸君は悪辣な植民地支配をしたと、謝罪と反省に余念が無い。その者たちは、先祖の偉業を侮蔑することに快感を覚える愚か者だ。また、朝鮮=韓国の人々は、日本をただ感情的に非難・攻撃する前に、右の事実や自分たちの先達の不見識と不甲斐なさに思いを致して反省すべきであろう。日本政府は事実を直視して毅然と対応すべきだ。

つづく

2006年06月15日

「『昭和の戦争』について」 (一)

 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
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「『昭和の戦争』について」
福地 惇

注記 : この文章は、平成18年4月17日に防衛庁・統合幕僚学校・高級幹部課程における講義題目「歴史観・国家観」の講義案である。講義時間の関係上、掲げたい史料や叙述を割愛した部分も多い。近日中に、完成稿を雑誌等へ発表する予定であることをお断りしておきます。


 

はじめに 歪曲された歴史観・国家観

 本講義の目的は、第一に「昭和の戦争」は「東京裁判」の起訴状と判決に言うような侵略戦争では全くはなく、「自存自衛」のための止む終えない受身の戦争だったこと、第二にそれが了解出来れば、現憲法体制は論理的に廃絶しなくてはならない虚偽の体制であると断言できることを論ずることであります。「昭和の戦争」の本質を語ることで、現在の国家の指導者は勿論、国民大多数が持つ「歴史観・国家観」が、その国家・国民の命運を大きく左右する程に重要であることを主張したいと思います。

 凡そ六十年前、米国占領軍政府(連合国軍最高司令部=GHQ)は、「平和憲法」の異名をとる「日本国憲法」と「日本は侵略戦争の罪を犯した戦争犯罪国家」だと断案した歴史観を日本国民に押し付けた。GHQが起草した憲法なので、「GHQ占領憲法」と呼び、極東国際軍事裁判(通称「東京裁判」)が断案した歴史観だから「東京裁判史観」と呼ぶことにします。 

 さて、GHQが占領憲法を押し付けた理由は尤もらしい装いを凝らしていた。先ず、「昭和の戦争」を日本軍国主義の侵略戦争だと定義づけ、一握りの軍国主義者が世界制服・アジア支配の戦略を「共同謀議」して支那大陸で凶暴・残虐な侵略戦争を展開し、支那だけでなくアジア諸民族に対して甚大な人的・物的損害を与えた。また、日本国民一般も軍国主義者が推進した無謀な戦争の犠牲者であった。それゆえに、平和と自由と民主主義を愛する「正義の味方」アメリカ合衆国は、日本軍国主義者の被害者を救済するため立ち上がり、それを懲らしめて、日本国民を解放したのだと言い包めた。

 この「東京裁判史観」を前提に、新日本は前非を悔いて二度と再びこのような侵略戦争の過ちを犯さないよう、自由と民主主義を基軸とする平和国家へ生まれ変わるのであるとの理屈を組み立てた。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」(憲法第九条)との証文までおしつけて、皇室制度と政治を切り離して元首の存在を曖昧にし、陸海両軍は廃絶されたのだった。

 絶大な権力を有した占領軍政府は、間接統治を有効な隠れ蓑にし、言論や教育の統制を強行し、敗北主義の心理に陥った日本人迎合者を巧妙に使嗾して、彼らの国益に適う国家へと我が国を改造したのである。それを推進するための日本人洗脳の武器が「東京裁判史観」であり、その歴史観に支えられる国家体制が「GHQ占領憲法体制」なのである。

 だが、この仕打ちは、明らかに「ハーグ陸戦法規」違反である。この国際法は、戦勝国と雖も敗戦国の国家体制・法体系を恣意的に「改造」するのは許されない、としている(注・一九〇七年「陸戦の法規慣例に関する条約」第四三条《〔占領地ノ法律ノ尊重〕国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ》)。同時に、我が国が受諾した降伏条件=「ポツダム宣言」にも違背している。(例えば、条件付き降伏なのにGHQは〔無条件降伏である〕と言い募った)。

 従って、米国占領軍の行為は、厳しく非難さるべき所業であったが、敗戦後の歴代政府は批判すらせず、大人しくその占領政策を承認し、場合に依っては尊重して講和条約に至ったのみならず、その路線で今日に至っているのである。国民の多くは「平和憲法」は世界に誇るべき憲法だと思い込まされ、「東京裁判史観」でご先祖達が悪戦苦闘したあの「昭和の戦争」は悪辣な戦争だったのだよと子供の頃から教えられて、祖国への愛着を薄めて半世紀以上をのうのうと過ごして来たのである。

 だが、冷徹に往時を回顧すれば、「東京裁判史観」は歴史の事実を歪曲し偽装した虚偽の歴史像なのである。そこで本論に入る前に、「昭和の戦争」を正しく見るための視点を提示しよう。次の四つの次元の相互関係に鋭く目配りしなくては、「昭和に戦争」の真実は見えて来ないのである。

 ①我らの祖国日本は、生真面目に国際法を遵守しようと努力したが、我が国を取り巻く国際政治は以下の事情の為に一向にそれを評価しなかった。

 ②支那大陸の混迷する大内戦状況が、ソ連や米国の介入を容易にさせたため、大陸の軍事・政治状況は極端に混乱し、我が国の大陸政策展開を困難にして翻弄した。

 ③ソ連=コミンテルンのアジア攪乱戦略=日本帝国主義攪乱戦略の目的は、日本と支那の軍事衝突を長引かせるところに有った。それ故に支那の内戦状況の激化に伴い、否応なしに日本軍は大陸の泥沼に引きずり込まれていった。
 
 ④米国の支那尊重・日本排撃方針は、支那情勢への間違った理解、あるいは共産革命幻想に発しており、日米関係を殊更に悪化させた。そのことは、ソ連=コミンテルンの「資本主義同士を噛み合わせる戦略」を効果的ならしめる大きな要因になった。


第一章 「昭和の戦争」前史

第一節 「十五年戦争」という歴史用語の陥穽(落し穴)

 周知のように、満洲事変から支那事変、大東亜戦争へと、「昭和の戦争」は日本の国策として首尾一貫したアジア・太平洋方面への侵略戦争だったとする知識が日本のみならず世界の常識になっている。第二次世界大戦は平和と民主主義を愛する正義の諸国=『連合国』と世界征服を目指す邪悪な全体主義『枢軸国』との激突であった、と『連合国』側はあの戦争の性格を概念規定した。

 だが、これは連合国側、特に米国とソ連とが、歴史の事実を歪曲して独善的に自己に有利な物語に仕立て上げた、いわば偽装された戦争物語に過ぎない。取り敢えず分りやすい反証を三つ挙げよう。

 第一に白人欧米列国は三、四百年もかけて本国を遠く離れた地球の裏側まで、侵略戦争を果敢に展開する植民地支配連合を形成していた。

 第二に、大日本帝国は、侵略戦争で獲得した植民地を持っていなかった。台湾は日清戦争の勝利によって獲得した領土であり、朝鮮半島は朝鮮王朝との外交交渉による条約で我国の領土に併合したのであり、満洲国は「五族協和」の理想を掲げて建国された独立国家だったのである。英国から独立した米国が英国の傀儡国家だと騒いでいる者を私は知らない。米墨戦争(一八四六―四八)でアメリカ合衆国がメキシコから割譲したテキサス州・カリフォルニア州・ニューメキシコ州を植民地支配だと騒いでいる者がいるのを知らない。台湾はカリフォルニア州となんら変ることのない戦争による領有関係の変更であった。

 日韓併合は、米国のハワイ併合より穏やかな併合だった。チェコとスロバキアが合併してチェコスロバキア(既に解体した国家となったが)に、西ドイツと東ドイツが合併してドイツとなったのと何の変哲も無い。満洲国は日本が支援して建国された独立主権国家である。ソ連は満洲建国より八年も以前に、完全な傀儡国家であるモンゴル人民共和国を作っていた。米国のフィリピン独立支援よりも穏当な形の独立支援だった。また、現在の隣国共産支那は、チベットや新疆ウイグル、満洲や内蒙古を軍事力で国土に編入しているし、尖閣列島をじわじわと自国領土に取り込もうとしているし、台湾を武力で領有しようと身構えている。共産支那は明らかに現役パリパリの侵略国家である。だが、戦前の大日本帝国が侵略国家だったと未だに騒ぎ立てる手合いは多いが、共産支那は侵略国家で怪しからんと騒ぐものは徐々に増えてはいるが未だに少数派であるのが現実である。

 第三に、日本帝国は、ナチス・ドイツやファシズム・イタリアと同一の全体主義の独裁体制の国ではなく、明白な立憲君主議会制国家だった。確かに、日独伊三国同盟を締結していた。大東亜戦争期に日本人の一部に「ファショ的雰囲気」は存在したたし、大戦争に遭遇したのだから当然「戦時体制」は敷かれた。しかし、明治憲法は大東亜戦争の敗北まで健在だったのである。軍国主義者の代表とされた東條英機は憲法に従って内閣首班・陸軍大臣を勤めて戦争を指導した。他方、『連合国』側には、超独裁主義者スターリンのソ連、典型的軍閥独裁者=蒋介石の中華民国が名を列ねている。ソ連には憲法は有ったがそれは空文に等しかった。蒋介石の中華民国はマトモナ憲法を持たず、公職に関する選挙制度も無かった。それ故、『連合国』の盟主米国に対して、お前の仲間は典型的独裁者だったのだから、お前も野蛮な「独裁体制の国」だったのだぞ、と言ってみよう。そう言われたアメリカ人が、顔色を変えて激怒するのは火を見るよりも明らかであろう。

 何れにせよ、問題の核心は、「昭和の戦争」が、東京裁判が断案した通りの「侵略戦争」ではなかった点が証明出来ればよいのである。では、「昭和の戦争」の真相は何だったのか。それを述べる前に、あの大戦争の性格をより良く理解する為に、先ずそこに至る前段階=前史を概観することから始めよう。

つづく

2006年06月14日

続・つくる会顛末記 (七)の2

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続・つくる会顛末記

 
(七)の2

 集団思考は右にも左にもあり、運動の形態をとり、ひょっとすると徐々に重なり合い、合体する可能性もあります。つまり、今、保守的右翼的勢力と考えられているひとびとが、いつの間にかはっきり自己確認をしない侭に、中共の謀略にあって、知らぬうちに中国との他者意識を失い、中国の国家利益に奉仕することを知らずにせっせとやりつづけるというような可能性です。アメリカの出方いかんで日本人は頭に血がのぼりすぐそうなります。

 右と左は別だと皆さんは思っていますが、戦後永い間左が強く、左への反発と反感をバネにして、いまの雑誌や新聞がつくられ、ワンパターンで推移していますので、左右のどちらの側にもある同じ質の集団思考、同じ型の固定観念の形成に気がつかないのです。

 右も左も、自分が自由に考えなくなる点で、思考の形態が同じタイプということです。なぜ毎月、オピニオン誌は反中国、反韓国、靖国、愛国を飽きもせずにくりかえすのでしょうか。いくら叫んでも、現実が動かないからです。疲れて倒れるまで言いつづけるしかないのでしょう。

 それではダメだ、基本を正さなければ現実は変わらない、たしかそういう思いから教科書運動が始まりました。ところが、その教科書運動が採択の壁にぶつかって無力をさらしました。今回の紛争は無力感と絶望感と無関係ではありません。

 ですが、分裂ができるということは路線闘争があるということであり、力とエネルギーがまだあるということなのです。左の勢力は結集する力すらありません。ですから、左を叩くことはもうほとんど意味を失っているのです。

 いつまでもオピニオン誌が左と右の対立思考にこだわっている不毛を克服すべきです。それは冷戦の後遺症にすぎません。思想闘争における本物と贋物との対立思考に取り替えられるべきです。

 愚かな左はまだ確かに残っている。しかし、それを標的にしている限り、自分も愚かになるだけです。オピニオン誌の編集者に申し上げたい。愚かな左を相手にせず、右の中の真贋闘争に集中することが、大衆の意識を向上させることにも役立つはずです。

 愚かな左を叩いている文章にはもう飽きた、という人は多いと思います。ほとんど同じ論調のくりかえしで、敵がまだいるからこの方が売れるというかもしれませんが、いつか必ず売れなくなります。その時期は近い。

 教科書問題はいま新しい路線闘争を求められているという意味です。採択の壁は左との戦いではなく、右の中の真贋闘争によって乗り越えられることでしょう。採択の目に見える成果が上らぬうちに、そういう新しい時代が近づいて来たのでした。

 他の政治思想のあらゆる部門において同じことが言えるように思います。黙して逆らわずでは駄目です。自分を危うくすることのない言論人は世界を動かすこともできません。世界を動かすことはまず世界を危うくすることから始まるのですから。

                       

「了」

2006年06月13日

続・つくる会顛末記 (七)の1

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続・つくる会顛末記

 
(七)の1

 「つくる会」の出来事を振り返って全体を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれませんが、なにか外からの力が働いたという印象は私だけでなく多くの人が抱いているでしょう。一つには旧「生長の家」系の圧力の介入があった、という推論を先に述べたわけですが、それは今までの仲間との癒着の油断であって、分り易いので目立っただけで、本質的な変化を引き起こしている原因ではないかもしれません。

 フジサンケイグループの影響力ということを言う人もいますが、これは影響を与えているというより、外から大きな影響をたえず受けている点で、「つくる会」と同じ位置にあるのであって、現代の世界の政治的謀略の対象としてつねに狙われている側にあります。

 「怪メール事件」の「怪文書2」は内容からみて間違いなく八木氏の手になるもの、もしくは宮崎氏・新田氏・渡辺氏との合作であって、それ以外には考えられませんが、「怪文書1」(党歴メール)は出所不明です。誰かが言っていましたが、公安なら「日本共産党」と正式に書くはずで、「日共」という単純化して書かれた点が中国人の手になるものらしい、という推論もあながち否定できません。勿論「怪文書1」も直接八木筋の手になるものとの可能性も否定できない侭です。

 要するに現代は何処からどんな力が働きかけてくるか予想がつかず、自民党総裁選を前にして靖国に並ぶ教科書問題のタームが政治的に小さいはずはないのです。「つくる会」は間違いなく、何の力かはまだ分りませんが、外からの幾つかの力の大きな作用をもろに浴びたのでした。こんなときに自分達が個人として、人間としてよほどしっかりしていなければ、本当にこなごなに打ち砕かれてしまいます。

 不用意に中国に出掛けて行って、若い事務員に会代表の立場で南京事件について現地の用意十分の学者と対話させた八木氏一行の軽率は、「つくる会」とは無関係であることを理事会で決し、「特別報告」が出されましたが、総会の名においてこれを世界に向けて宣言すべきです。ことに中国社会科学院に対話内容は会とは無関係である旨公文書で通報すべきです。何年か後に、どんなことで(内容では必ずしもなくその折の挨拶の表現のひとつで)中国側から利用されないとも限りません。

 今一番恐ろしいのは、政治家の力量不足を目の前にして、日本の内外で予想もつかない激変が起こることです。軍事紛争か金融問題か、それは分りませんが、あっという間に集団思考が先行し、ものを考えない大衆が主導権を握り、指導者なき羊の群が国際社会という狼虎の世界へほうり出され、国家的に二度と回復できない致命傷を負うことです。

 昨夏の小泉選挙を見て下さい。あの興奮のまゝで、もし日本が地域紛争にまきこまれたらどういうことになったでしょう。小泉は愚かな独裁者でした。任期が来て辞めるからみなホッとしていますが、紀子妃殿下ご懐妊がなければ、確実に「狂気の首相」は異常事態を出現させたはずです。

 そして、この国はいつでも、同じように違った条件で、同じような恐ろしい悲劇を惹き起こす可能性を常態として抱え、明日本当にとんでもないことが起こる不安を一日一日先延ばして誤魔化し、払い戻すべき借証文を質屋に入れて、高金利を払いつづけて生きているのです。

 これは70歳を過ぎた私が見ていて、死ぬに死ねない状況です。「新しい歴史教科書をつくる会」は理想を掲げて走りましたが、間に合わなかったのかもしれません。人間が育っていないのです。しかも、会の内部がそれをさらけ出しました。嗤うに嗤えない状況です。

つづく

2006年06月12日

続・つくる会顛末記 (六)の5

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続・つくる会顛末記

 
(六)の5

 じつは今のシステムも本当は壊れているのかもしれません。あと何年かは保守すれば何とか使えるということでしょう。システムはどんなシステムでも予想できないトラブルが考えられることは常識です。一番の問題はトラブル発生時の即応体制にあります。そのため平時からの情報監視体制が不可欠です。「つくる会」は「保守体制」がまったくコンピュートロニクス社に丸投げの状況で考慮がなかった。つまり宮崎氏があまりにも安易に考えてきたことが問題です。

 新田氏がブログで「トラブルがないではないか・・・・」と書いているそうですが、こういう指摘は本質ではないのです。いまだにファイルメーカーを基本にしているのですが、ファイルメーカーは専門ソフトであり、その技術者が市場にたくさんいていつでも対応可という状況なら心配もありませんが、すでにマイナーなソフトになってきているのが問題なのです。技術者も減る一方です。それだけに、保守契約は大事な問題でしたが、何度も言いますが、実際には本来の保守契約ではなかった・・・・・これこそが最大の問題です。

 エクセルやアクセスなどの、マイクロソフトの汎用製品でつくればそういう心配はなかったでしょう。ある人が言っていましたが、某団体(30万人)会員管理ソフトは、汎用ソフトを使用して、開発に100万もかかっていませんし、保守費用も年20万程度だということです。「つくる会」のケースは知る人が知ったなら常識外なのです。新田氏の指摘「いま問題がないのだから・・・・」は問題の「表層」であり、およそ学者が口にすることばではありません。

 コンピュータ問題の真相を糾すには、Mさんより前に退職した二人の女性オペレーターに本当に新しいソフトに従来の要望、無理な使い方を積み重ねて、長大な時間を要したのか、事情をお訊ねすべきでしょう。それが人件費の加算を生んだ原因だといわれているからです。

 しかしコンピュータ会社の担当役員は「つくる会」の会員で、しかも「つくる会」の仕事を負った損害が原因で重役の職を解かれていると聞きました。コンピュータ調査委員会では、これ以上の追求は慎むべきであろう、争って得られるものはなく、当会のなおざりな対応にも責任がある、と判断されました。そして相手が責任をとっている以上、「つくる会」側がこの件で責任を問われぬまゝはおかしい、という議論になりました。これはしごく当然ではないですか。

 責任をとって理事が辞任するのは簡単ですが、辞任すれば会がなくなってしまうので、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤、西尾の六人で100万円を罰金として会に支払い、謝罪の意志を表明することとし、宮崎事務局長は次長降格、給与10%3か月分カット、調査中なので当分の間出勤停止という裁定を会は自らに下したのでした。公明さを示すためにこの裁定を「つくる会」支部にも公表すべき、と言ったのは、八木氏と西尾であり、それに反対し、むしろ内々で辞職勧告とするよう慎重な道を選べ、と言ったのは藤岡氏でした。

 しかるに、新田氏らいわゆる四人組は、お前たちは宮崎に責任を押しつける手前、金を払ってごまかすという汚い手を使った、と居丈高に理事会で発言しました。私はこういうコンテクストの中で、こういう理窟を言い立てる人々とはとても席を同じくすることは出来ないと思って、それが辞任に至った直接の原因でした。

つづく

2006年06月11日

続・つくる会顛末記 (六)の4

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続・つくる会顛末記

 
(六)の4

 驚くべきことに、「総額1728万円、月額17万円(保守料)」はあっという間に値引きされ、「1000万円、11万円」と決定されました。こういうことがますます謎を深めます。どういう仕掛けになっているのでしょう。簡単に700万も値引きするなんてことは、どうしても私には分らない。

 「遠藤報告書」の平成15年1月22日~(18)から平成17年4月7日~(28)までを読んでいたゞくのが一番手っ取り早い。

遠藤報告書1
遠藤報告書2

 ソフト開発購入代価と保守契約込みで1000万円になってみんなよかった、よかったと安心して、保守契約が「玉虫色」であったことは当時は誰も気づいていませんでした。ついに今に至るまで、きちんとした保守契約は具体的に決まらないままできました。常識的に業界では考えられない業者の不誠実を目の当たりにし、富樫氏は将来に及ぶ器械不調を考慮に入れて、第三者の専門家を交えてあらためて保守契約をすべきと考え、再度理事会へ提言文書を提出しました。が、また種子島、宮崎の両氏にはばまれて、彼女の提言は無視されました。

 宮崎氏は、理事会承認をいいことに、女史の進言を無視して業者からの請求書もまだ受け取っていないうちに、ただの口約束で、購入代金の一部525万円の支払いをすませました。いつも支払っている小口の支払い口座に投げこむという杜撰さで、この話を聞いて調査委員会のメンバーもあいた口がふさがりませんでした。

 事務的に一連の契約書関係書類、保守契約書等がなんとか出揃ったのは、理事会の承認からなんと5ヶ月も経った後になってやっとという始末でした。

 最初の頃はコンピュータに不具合が発生しても、業者は相談に乗ってくれていたようですが、だんだん応対が悪くなり、オペレーターは日常業務に支障をきたすようになりました。Mさんは毎日のように起こる器械の異常をノートし、約1年の記録データを残しています。それでも業者が面倒を見てくれる間は良かったのですが、だんだん手抜きになり、ついには、平成17年11月頃に、業者側から翌年3月で保守契約を解消すると通告してきたのです。契約は「玉虫色」で、会社側は保守する義務は必ずしもないと考えていたからでしょう。

 担当オペレーターのMさんは、業者の対応に苦慮し、宮崎事務局長に何度も相談するも、事務局のこの担当のT氏が会社と会を往ったり来たりするだけで、容易にらちがあきません。ついには、自分の担当する職務に自信がもてなくなり、会を退職するに至りました。

 今、コンピュータは正常に動いているといわれていますが、果してバグが改善されているのか、データーが正常に作動しているのかは、詳しく調査してみなければ分りません。いま別の人により保守が開始されたので、何とか動いているのが実情です。一定の保守がなされれば瞞し瞞し使いつづけることはできるでしょうが、「保守契約」のなかった曖昧な無契約状態のまま打ち捨てて来た罪は消えていません。

 それに、最初のこの玉虫色の曖昧さ、保守契約の点だけでなく金銭的にもはっきりしない宙ぶらの状態をかたくなに封印し、死守し、「公認会計士」の口出しを威嚇をもって退けた種子島氏と宮崎氏の姿勢に、何故? 何があるの? という不審の思いを抱くのは私ばかりではないでしょう。当時私が口出ししようとしても露骨に不快な顔で拒絶されました。

 種子島氏は会長になるや、コンピュータは動いている、問題はなにもない、と待っていましたとばかりに一早く宣言しました。そしてFAX通信にそのような意味の一行を入れておけ、と、事務局員に命じて、急遽一文が挿入されました。

 動いていれば問題がないということにはなりません。いつ動かなくなるかもしれない、それに対する用意ができていないまゝに放置されていた責任が問われているのです。

 じつは「遠藤報告書」には注目すべき記述があります。平成14年2月会社はサラリーマンK氏のソフトを継承しての作成は困難と判断し、独自システムの構築を提案しますが、宮崎氏は従来の機能を維持することをくりかえし主張しました。

平成14(2002) この頃種子島副会長は事務局長に対し、①旧システムをベースせず、全く新しいシステムを構築する、②ユーザー(つくる会)側の要望を一本化し同事務局長が折衡の窓口になることを事務局長に指示(宮崎事務局長は「記憶にない」)。

 種子島氏は海外に行く前に①②を言い置いて行ったのに事実はその通りになっていなかったと後で主張しています。二人のうちどちらかが嘘をついていることは明かです。

 「遠藤報告書」の第一稿がほゞ出来たとき、それを藤岡氏が種子島氏に伝え、種子島氏は「経緯はその通りだ」と応じ、ただし自分はこう言い置いて海外に行ったのに宮崎氏が守らなかった、と平成17年10-11月頃に証言し、この①②が報告書につけ加えられた、というのが真相です。

 平成14年3月に試みに第一次納品がなされましたが、二人の女性オペレーターがファイルメーカー使用の従来の機能が反映しておらず、不満を表明し、相談の結果ファイルメーカーを使用した折衷案で行くことになったそうです。会社はファイルメーカーを使用したことがないので分らない、と言っていたそうですが、オペレーター側の要望に妥協したようです。

つづく

2006年06月09日

続・つくる会顛末記 (六)の3

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続・つくる会顛末記

 
(六)の3

 以下、富樫氏から最近私が聞き書きし、同時に重要な個所をご自分の筆でメモを書いてもらいましたので、両方を用いて叙述します。

 富樫氏は宮崎氏にいくら聞いても埒があきません。宮崎氏も「あなたがそんなに疑問があるなら、自分で業者に直接聞いてくれ」と言い、一緒に心配する風はない。つまり、宮崎氏はこの額にびっくりしていないのです。

 彼女は大変なことになったと考え、コンピュータ会社の業者に会う前にソフトに詳しい専門家の意見を聴取したいが、第三者に内情を知られるわけだから、田中英道会長(当時)に電話で知人のソフト専門家に調査を依頼してよいかと尋ねた処、「どうぞ、どんどんやって下さい」とのことで、はっきり覚悟ができて、小林図南(となみ)氏にたのみました。調査は1月21日に行われ、「システム環境報告書」と称され、1月27日の理事会に提出されています。どうかこれをクリックしてよく読んで下さい。1728万円を請求されたコンピュータソフトの能力に関する、第三者による査定、一人の専門家の判定です。

 平成15年1月17日、富樫氏は直接業者に会って質問をする場がセットされました。小林図南氏の報告書はこのとき間に合いませんでしたが、ともかく会社の担当者に面談したのです。なぜかその場に種子島氏が出て来ていました。

 以下富樫氏の文章です。

当日、種子島財務担当理事、宮崎事務局長も同席した。両名は、始終業者寄りの発言をし、ことごとく私の疑問を否定して、つくる会側の利益を代表するのではなく、まるで業者側の者であるかと錯覚するぐらい業者側の立場に立った発言であったので、私は、これまた驚愕の事態で、一体全体どうなっているのか一瞬わけがわからなくなった。

① 本来、契約条件は明確にして取引されるのが通常であるのにすべてが口約束ですすめられていることの異常性、
② この契約が相見積もりを取って選定し、決定したものでない随意契約で、しかも事務局の関係者に由来する契約であること、
③ つくる会にとっては相当な高額投資の案件であること、
④ 当初発注のSQLシステム仕様になっていないものが納入され、半素人が作成した従来のソフトに比して機能の向上が全くない同じものに1000万以上の投資額にのぼることをどのように解釈するべきか、
⑤ ①~⑤の疑問について宮崎事務局長、財務担当理事の種子島氏が全く私と見解を異にして、しかも私の疑問を種子島氏は、頭ごなしに業者の前で面罵したことにこの取引の不可解さが一層増した。


 それから面罵されたときどんな対話だったかを思い出して、富樫氏には以下の通り補足しています。よほど腹に据えかねたのだと思います。
 その時の応接室で業者と宮崎氏の前で種子島氏から言われたことは、以下のとおりです。

① 「あなたには会計のことは頼んでも、このようなことは頼んでいないので口出しするな。」
これに対して私は、このような投資に係わる契約は会の財産の変動を及ぼす事項であり、これは、まさしく会計領域に属しますと反論いたしました。

② 「ソフト開発というものは、当初予算よりオーバーするものであり、通常起こりうることだ。私がBMWの社長時代の10年程前に、当初3000万円の投資が5000万円になった契約をした経験がある。この金額が高いものではない。」と発言した。

③ 「財務担当の私に一番に相談すべきなのに、私の頭ごしに、田中会長、西尾名誉会長に相談するとはなにごとか。ビジネスの世界では、根回しというものがあることは、あなたは、知らないのか。女であってもそれくらいの常識は、知っているでしょう。」と言われてしまいました。

 今まで、種子島氏に相談しても、なにかと意見が違い私の進言を聞き入れてくれなかったので、直観的に、種子島財務担当理事をとうさず、田中会長、名誉会長に相談したことを不服として仰ったものと思います。

 日本の社会で「公認会計士」とは地位の高い、ビックな存在です。女性だからと思ってなめたのか、大変な侮辱です。彼女は企業その他で数多くの仕事をこなしていますが、「つくる会」ほどひどい扱いをした例はほかにないでしょう。

 1月27日に富樫氏は「新会員管理システム移行取引について」の文書を理事会に提出。小林図南氏の判定を添付しました。2月10日にも「同文書の理事会決定事項への提言」を出し、会計士としての道理ある正義の立場を貫こうとしました。

 しかし彼女は理事会には出席できません。代りに私がこの取引の異常性を訴えました。契約書もなにも揃っていなかった不始末、相見積りをとっていない努力不足、金額が高すぎること、契約は全面的に破棄すべきことを訴えました。私は二度の理事会で数字をあげ、書類をかざして叫んだのですが、そのつど会議室はシーンと静まり返って、なにも起こりません。

 種子島氏に全面委任、事務局長を今さら困らせることはできない、という沈黙で、静まりかえって誰もことばを発する人がいません。たゞ素頓狂な発言をとつぜんした人が一人いるのではっきり覚えています。

 高森氏が、「でも契約書も、請求書も、見積書もみんな後から追っかけて、富樫さんに作ってもらって、みんな間に合ったんでしょう。じゃあ、いいじゃないですか。」

 藤岡氏は財務の一件になるといつも完全に沈黙します。後で人から聞きましたが、「西尾氏がコンピュータのことで騒ぐのは、田中会長を困らせ、追い落とすための工作だ。」こんなことを言ったというのです。

 私が声を大にして叫んでもビクともしなかった会の空気、しめし合わせて私の質問を封じた壁のような抵抗――その背後に何があるのかいまだに私には分りません。

 読者の皆さんは、この「名誉会長」は我侭で、好きなように会を動かして来たといわれ、それを信じているようですが、コンピュータ問題に関する限り、てこでも動かぬもの、どうやっても開かない「開かずの扉」の前で私ははね返されました。誰が何を隠しているのか、私にはいまだになにも分りません。

 しかしこの謎がずーっとつづいていて、それがオペレーターのMさんを立往生させた平成16-17年のシステムの不具合の連発につながってくるのです。

つづく

2006年06月08日

続・つくる会顛末記 (六)の2

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続・つくる会顛末記

 
(六)の2

 コンピュータ関係の専門の会社に依頼したのですが、それが平成13年10月でした。私が1000万円以上かかると聞いたのが平成14年11月頃、会が正式に「総額1728万円、月額(17万円)保守料」の仮契約書を提示されたのが平成15年1月で、つまり依頼が開始されてから金額提示までに1年以上かかっております。

 その間にオペレーターが今まで使っていたファイルメーカーを踏まえた上で、今以上に使い易くレベルアップしてほしいといい、あゝだ、こうだと新しい注文をつけ、時間がかかり、会社側の人件費がかさみ、えらい金額になったというのです。それにしてもおかしい。

 ファイルメーカーを止めさせて完全に新しくするか、ファイルメーカーをその侭使用しつづけるか――二つに一つが常識のはずです。そのことをきちんと教えない会社側も悪い。こちらは素人の集団で、事務局長は何にも分らないのですから、オペレーターの要求に合わせていけば人件費が最後いくらになるとかきちんと予め言うべきです。

 事務局長も問うべきだし、計算を口頭で言い合うのではなく、計算書を交すべきです。大体、複数の企業に依頼して、相見積もりをとって安い方にきめるのが常識ではないですか。クライアントの責任者である宮崎氏は余りにトンチンカンでした。大工を入れて自宅を改造するときだって口頭の約束で工事をすすめるなんてことはありません。これから述べますが、相見積もりをとるチャンス、契約を止めて別の会社に乗り換えるチャンスは他に幾度もあったはずです。

 私が伊藤哲夫氏に、12月1日のあの電話のときですが、「宮崎さんは実務社会で生きた経験がない。奥様の実家が財産家で、自分の印鑑を捺して不動産を買ったりローン契約を結んだりした経験もない。コンピュータ問題でもろに欠点が露呈した。」という意味のことを言ったとき、彼はこういう言い方に激昂したのです。尊重すべき昔の同志が侮辱されたと思ったのでしょう。ですが、日本政策研究センターが同じ目に遭ったら、彼はそれでも尊重しつづけるのでしょうか。

 先日ある人がDELLのデスクトップを使えば、会員管理システムなんか10万円でお釣りがくると言っていました。それはともかく、上等のソフトでも100-300万円程度を越えることはないというのが常識で、そのことを発注前にしらせ、この会社は止めた方がいい、安いのがいくらもあると警告していた人がいるのです。それが会の経理を見ていた公認会計士富樫女史でした。

 平成13年11月にファイルメーカーとまったく別の新しいシステム、高度の内容を盛り込んだSQLシステムを構築する約束で、会社側は自社の見積りを提示しました。最初それが750-900万円で、富樫氏は高額投資になるので他社との相見積りを取ること、執行部ならびに種子島財務担当理事の承認を得ることを進言しました。

 「つくる会」事務局再建委員会の「会員管理システム問題にかかわる調査報告」(平成17.11.12)、遠藤浩一氏が努力なさったので俗にいう「遠藤報告書」によると、種子島氏は口頭でこれを了承、相見積りの件は無視したようです。宮崎氏はともかく慎重にと思い、友人に見積りの妥当性を問うと、「会社との契約であれば安いし、妥当」との回答を得たので、踏み切ったと言います。

 ある人が「普通こういうのは100万までという答えが返ってくると思いますが、1000万の発注をするのに相見積りを取らないでいいのか、安く上げようとする努力が見受けられないではないか」(ブログ Let's Blow! 毒吐き@てっく「作る会よ(元・現)いい加減にしろ!」参照)と言っていますが、宮崎氏が種子島氏に富樫氏の進言を伝えなかったとしても、実務家の種子島氏が相見積りを取るべきと自らここで立ち止まって考えべきではなかったですか。

 約1年半たって平成14年11月頃にソフトは完成し、納入されました。しかし約束していた高度なSQLシステム仕様ではなく、サラリーマンのK氏がサイドビジネスで作ったソフトとなんら機能的に変わらないものでした。富樫氏は経理の担当者として、契約書等の提示を求めましたが、一連の取引契約書類が一切なく、すべてが口頭で進められていたことを知り、唖然としました。そのときの代価提示類は、これまた口頭で1000万円程度と聞き、高額なので執行部の承認を求めるよう指示しました。

 私が富樫氏から「大変なことが起こっている」と伝え聞いたのは丁度この時期です。半素人のK氏がつくったのと機能的に大差ない代物がなにゆえにこんなに高額なのか、常識的に考えても納得がいかないので、彼女は早く契約書、見積書、請求書明細などを提出するように指示したのですが、とにかくなんにも揃っていません。

 年が明けて平成15年1月となり、仮契約書類が入手されましたが、「総額1728万円、月額17万円(保守料)」に富樫氏はびっくりし、「これはどうしたことか」と宮崎氏に問うたそうですが、彼は答えられない。

つづく

2006年06月07日

続・つくる会顛末記 (六)の1

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続・つくる会顛末記

 
(六)の1

 コンピュータ問題(つくる会会員管理システムの保守契約不備をめぐる問題)は、坂本多加雄氏のご死去の当時に端を発します。ご死去は平成14年(2002年)10月29日で、そのころ私は会の財政に疑問を持ちだしていて、11月26日の理事会に「会の財政への疑問」(B4四枚)を単独提出しました。私は普段は議事に参加しませんが、危機信号を発するのが名誉会長の仕事だと思ったからです。

 採択運動の年でもないのに、その年と同じように気前よく予算が組まれ、私の目から見て明らかに浪費ぎみなので、私は思い切って富樫信子公認会計士に事前に質問をぶつけて、自分の目で調べました。専門会計士の計算書は素人目に複雑でスッと頭に入りません。私は大づかみな数字が必要だったのです。

 会費を主体とする会の通常収入はいくらで、家賃・人件費・通信費・支部交付金・「史」発行費などの通常経費はいくらなのか。前年の採択運動に大体いくらかかったのか。臨時収入はどれくらいあったのか。そして前年度の繰越金を含めていまいくらあるのか、等です。

 私は大雑把な分り易い数字説明を求めました。その結果、通常収入は通常経費とほゞトントンで、従って会費収入は会を維持するだけで、運動費はそこから出てこないことが判明しました。つまり、会費収入だけではただなにもしないでじっと坐っていることしかできないのです。

 このことは会員数の減った今はもっと深刻なはずです。「つくる会」に残った理事諸氏はしっかり頭に入れておいて下さい。

 しかし種子島財務担当理事が、預金残高を見て、「まだ大丈夫だ。お金を貯めるのが会の目的ではない。運動に使わなければ意味がない」といって、採択の年でもないのに、通常収入の約半分もの運動費を予算に計上するので、みんな安心しきってお金を使っていました。しかし今言ったように運動費はもう新たな出所がないのです。私はこんな有様ではやがて行き詰まり、次の採択の年に運動費ゼロということになってしまいますよ、と警告し、会は財政破綻で潰れるかもしれない、と言い添えました。

 余談ですが、この年の年末に永田町星陵会館で「坂本多加雄先生を偲ぶ会」が行われ、関係者で会食し、終って二次会の坂本夫人もおられる席で、藤岡氏が何か思い詰めたような顔で、飛びかからんばかりの勢いで「西尾さんは破壊主義者だ!この会を潰そうとしている」と大声で言い出しました。勿論、酒に酔った放談の席です。そのときは八木さんが「破壊主義者はないでしょう。会を大切に思うから心配しておられるのであって、話は反対でしょう。」といなしてくれました。

 藤岡さんには「ジャイアンツは永遠です」の長嶋茂雄と同じく、「つくる会は永遠です」のテーゼに一寸でも抵触する言葉は禁句で、いつもおかしいくらい過剰反応します。子供っぽいとも言えますし、ほゝ笑ましいとも言えますね。

 閑話休題。会の財政資料を個人的に解説して下さった富樫監事が同じころ「先生、こんな事より、はるかに重大な財政問題が会には他にあるんですよ。」と教えてくれたのが、会員管理のコンピュータソフトの取り替えです。ろくな契約も結ばず、1700万円も請求され、おかしいと言って富樫氏がしきりに抗議と警告を重ねているという重大新事件です。

 財政を私が心配しているとき、いきなり1700万円という巨額に驚きました。この小っぽけな会の当時の預金残高の約三分の一でした。たった今、やがて財布の底がつくと心配しているのに、ほかでもない、まさにそのときこんな大きな額が流れ出してしまうというのですから、私が愕然とし、富樫女史から逐一事情を聴取したのはいうまでもありません。「先生、必ず理事会に持ち出して下さいね。」

 コンピュータは私の最も苦手の、手に負えない分野です。文学部出身者の多い、実務に乏しい当会の理事諸氏にとっても完全に未知の世界でした。つまり、彼らも私もみな無知です。宮崎事務局長も同様で、知らぬ世界のことゆえどうして良いか分らなかったという同情すべき一面があります。

 会は発足当初からK君という若いサラリーマンに委託し、ファイルメーカーのソフトを使用して、会員管理システムを作成してもらい、保守管理も委ね、毎月28万円を支払っていました。これが高いのか安いのかは私だけでなく、当時会にいた誰にも分りません。

 先述の藤岡氏のエピソードといい、K君の一件といい、お恥かしいことに会の関係者はことほどさように金のことには疎いのです。種子島氏はだから救世主でした。みなが彼に依頼し切ったのは当然ともいえます。

 問題はK君の素人芸はもうやめて、きちんとした会社に委託してシステム開発と保守を担当してもらおうと考えるようになって以来のことです。私には話してもどうせ分らないと思われていたらしく、事情は全然聞かされていませんでした。そして突然1700万円という数字を打ち明けられて、不安になったのです。

つづく

2006年06月06日

続・つくる会顛末記 (五)の3

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続・つくる会顛末記

 
(五)の3

 八木、藤岡両氏が椛島有三氏を訪問したのは12月14日です。私が得たのは藤岡氏からの間接情報です。氏の記述によると、椛島氏は「どうか『つくる会』の分裂だけは絶対避けてほしい」とくりかえし言っていたそうで、また同時に、「宮崎氏は人的ネットワークの中心なので断ち切らないでほしい」といい、つまり何とか雇っておいてくれの一点張りで、穏やかな言葉の背後に、強い意志が感じられたそうです。「『つくる会』を自分たちの支部みたいに思っている」という感想を藤岡氏は漏らしていました。

 じつは彼がそう思う根拠が訪問のわずか三日前、12月11日に起こっていました。これが椛島氏サイドからの圧力の結果なのか、伊藤氏のプッシュによるのかは分りませんが、八木氏が11日(日)夜、「処分はすべて凍結、宮崎氏を事務局長に戻し、来年3月までに鈴木氏に移行する。以上の線で収拾することで会長に一任してほしい」と各副会長への緊急通達を出し、執行部管理以来八木氏の命令で自宅待機させられていた宮崎氏を事務所に戻す突然の決定が打ち出されました。

 これに平仄を合わせるかのごとく、12月11日(月)に例の四理事抗議文が出され、一読して衝撃を受けました。しかしこの抗議文と伊藤氏、椛島氏との関係性などは、その時点では、いやそれからしばらくの間もまったく分らず、どこでどうつながっているかは迂闊にも後でだんだん気がつくようになったのでした。

 今思うと八木氏を突然動かしたのは、彼を若いときから育てて来た庇護役の伊藤哲夫氏ではなかったか。八木氏は繁く伊藤氏と電話を交していたからです。これは勿論、私の推理です。しかし他方、四人の抗議文は分りません。15日に宮崎氏は「俺の首を切れば全国の神社がつくる会支援から撤退する」と事務局員たちの前で豪語したと記録にあり、彼はとつぜん強気に転じているのです。

 このときも私がすぐに椛島氏と会談しておけば、事態は少し違ったかもしれません。しかし私はニュージーランド旅行中で、帰国は13日、私だけでなく他の人も年末で忙しく、心の余裕がありませんでした。椛島氏の方からも働きかけはなく、さしたる重大事と思っていなかったのでしょう。

 私はそれから一週間以内に、小堀桂一郎君に電話をして、事情説明をしています。彼は楽天的でした。「日本会議がつくる会を制約するなんてことはないよ。それは多分、若い頃の学生運動のよしみで、古い仲間を守ろうとしているだけだよ。」多分彼の言葉の言う通りでしょう。しかし古い仲間を守るということが道理を超えていて重大なのですから(公私混同になるので)、小堀君も引き入れて、椛島氏とあのとき三者会談を設定すべきでした。私は「名誉会長」としての義務を怠ったのですが、私もじつはさしたる重大事と思っていなかったからでした。

 四理事抗議文は内田智、新田均、勝岡寛次、松浦光修の四氏連名で出されて、すでに知られた〈コンピュータ問題の再調査は「東京裁判」のごとき茶番だ〉云々といった例の告発状めいた文章のことですが、私はいきなりこれを会議の席で見て、今まで例のないなにかが始まったと直観しました。

 会の中に会派が出来て、一つの要求が出されたのは初めてでした。西部公民グループは「つくる会」の外の勢力でした。『新しい公民教科書』は外の団体への委託でした。内部に一つの囲い込みの「意志」が成立すると、何でもかんでもその「意志」に振り回されてしまいます。これは厄介なことになったと正直このとき以来会の分裂を現実的なことと考えるようになりました。

 「会中の会」が生まれると、会はそれを力で排除しない限り、方向舵を失い、「会中の会」に支配されるか、さもなければ元の会が潰れるかもしくは自爆してしまわない限り、「会中の会」を振り払うことができないものです。イデオロギー集団とはそういうものだと本能的に分っていました。

 さて、今まで隣りにいた四人がにわかに異邦人に見えたときの感覚は、時間が経つうちにますますはっきりし、分裂にいたる事件の流れの果てに、最初の予感の正しかったことが裏づけられました。

 12月の後半から1月にかけて、何が背景にあるのかを事情通に調べてもらいました。私には二人の50歳代の、昭和40年代の保守系学生運動を知る人にご教示いたゞきました。小堀君の先の「学生運動のよしみ」という言葉がヒントになったのです。一人は福田恆存の、もう一人は三島由紀夫の比較的近い所にいた人から聞いたのです。

 そして旧「生長の家」系学生運動があの頃あって、転じて今、「日本青年協議会」や「日本政策研究センター」になっていること、四理事のうち三人と宮崎氏がその運動の参加者で、宮崎氏は三人の先輩格であることを知りました。昭和47-48年くらいのことで、彼らももう若い頃の運動を離れて久しく、元の古巣はなくなっているでしょう。

 政治運動は離合集散をくりかえしますので、小会派の名前や辿った歴史を概略人に教えられましたが、あまりに入り組んでいて、書けば必ず間違える仕組みですので、関心を持たないようにしています。

 「生長の家」という名も、谷口雅春という名も知っていましたが、私はあらゆる宗教の根は同じという万教帰一を説いた世界宗教というような妙な知識しかなく、政治運動もやっていたことは全然知りませんでした。60年安保騒動に反対する積極的役割を果したと後で聴きましたが、私の20代の思い出の中にこの名はありません。皇室尊崇を強く掲げた精神復古運動といわれているようです。

 そういえば、「つくる会」四人の「言い出しっぺ」の一人の高橋史朗氏が旧「生長の家」系でしたから、「つくる会」は最初から四分の一は谷口雅春の魂を抱えていたわけです。それはそれでいっこう構いません。様々な経歴と年齢の人々が集って一つになったのですから、会の内部でお互いに限界を守り、他を犯さずに生きる限り、外で他のどんな組織に属していようが、また過去に属していたとしても、なんら咎め立てするべき性格の問題ではありません。

 しかしながら、今度という今度は少し違うのではないか、と思いだしました。旧「生長の家」を母胎とする「日本青年協議会」、そしてそこを主軸とした神社本庁その他の数多くの宗教団体・政治団体を兼ねた「日本会議」という名の大きな、きわめて漠たる集合体があり、「つくる会」の地方組織の多くが人脈的にそこと重なっているように観察されます。入り混じってはっきり区別がつきません。それだけにかえって危いのです。

 どんな組織も、どんな団体も「独立」が大切なのです。精神の独立が大切で、これをいい加減にすると、精神活動は自由を失い、結局は衰弱していきます。

 協力関係にある限りは自由を失うことにはなりません。協力関係にあることと従属関係にあることとは微妙な一線で、はっきり区別がつかないケースが多く、あるとき甘い協力関係の中で、フト気がつくと自由を失っていることがままあります。人事権が失われていて他に介入されているケースはまさにそれに当るでしょう。しかも介入し侵犯する意識が大きい組織の側にないのが普通です。介入され侵犯された側だけが自由を失った痛みを感じるのです。

 今度のケースがそれでした。1月16日、私に対し「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会のはるか前すなわち12月初旬に、八木氏は旧「生長の家」系の理事たちと事務局長の側にすり寄っていて、会は事実上あのときすでに分裂していました。八木氏の行動のトータルは彼を育てた伊藤哲夫氏の背後からの強いプッシュがあってのことではなかったかと今私は推理しています。

 以上の道筋からいって、会を割って出た八木一派はもし新しい教科書の会を設立するなら、その歴史思想は当然、皇国史観と天皇親政と明治憲法復活をめざすよりラディカルに右傾化した方向に道を見出す以外に理のないことになりましょう。保守系の二つの歴史教科書が生れることは採択の場を活性化させ、悪いことではありません。「つくる会」の教科書はより中道と見なされ、採択にかえって有利になるでしょう。

 「自由と民主主義」を脅した小泉選挙の帰結として、「つくる会」の分裂が起こったことは特筆すべき点です。「つくる会」は戦前の体制を理想化し始めた近年の右傾化の価値観からやや距離を保つべきです。どこまでも「自由と民主主義」を小泉型の排他的ファナティシズムから守りつつ、従来の左翼路線をも克服する両睨み、両観念史観批判の方向に教育理念を見出していくべきでしょう。

 分裂は政治史の文脈からみて必然であったというべきなのかもしれません。

つづく

2006年06月05日

続・つくる会顛末記 (五)の2

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続・つくる会顛末記

 
(五)の2

 日本政策研究センターの協力者でもあった衛藤晟一氏や城内実氏にも「刺客」が送られたあの選挙で、伊藤哲夫氏は私と同様に怒って「許せない、小泉は許せない」と当初しきりに言っていました。私は「自由と民主主義」が本当に危ない、と思いました。9月11日の投票を経て、私が応援に行った四人のうち古川禎久、松原仁の両氏が当選、衛藤氏、城内氏が落選しました。

 当選した古川禎久氏――西郷隆盛のような立派な顔をした人物――について、伊藤さんが自民党に戻そうとしているのを聞いて、私は「平沼赳夫氏のように独立独行してほしい。さもないと今回、非自民の旗の下に古川氏に投票した有権者を裏切ることになるでしょう」と反対意見を述べ立てた覚えがあります。すると伊藤さんは「大政党に入っていないと何もできない。党人でないとお金も入らない」と現実論で反論しました。

 ここいらから私と伊藤氏の考え方に微妙な差が開き始めるようになります。私は今でも私の言った方が現実論だと思っています。なぜなら古川氏は、あるいはこのとき当選した自民党無所属は、ご承知のようにひとりも党に復帰することができなかったからです。断固別の新党をつくるなどすべきだったのではないですか。

 九段下会議は夏の選挙の間休んでいましたが、10月14日に再開、11月14日には世界のインテリジェンスの歴史、12月21日には人民日報の日本報道を実際に実物で読むという体験をしました。そしてこれが最後になりました。

 その席上、伊藤哲夫氏と私たちの間で小さな論争がありました。氏はいつの間にか小泉支持派に変わっていたのです。というより、安倍政権の実現に賭けてきた氏は(私もずっと安倍支持者でしたし、いまも別に反対者ではありませんが)、小泉=安倍一体化が進行するプロセスの中で、考えを一つにまとめることが難しくならざるを得ません。

 私は郵政民営化、竹中経済政策を支持する安倍氏では困りますが、防衛・憲法・教科書・靖国のラインでは安倍さんをよしとします。けれども現実の安倍氏は小泉首相と一体です。

 伊藤氏が「いろいろ小泉さんのことを人は言うけれども、ともかく靖国に行ってくれたじゃないですか」と仰言ったことばに、私は少し失望しました。私と伊藤氏とはそれまで、靖国に行く小泉の「動機」が問題だとずっと言っていたのではないですか。

 皇室問題が次第に緊迫していた当時、私は官房長官は首相に弓を引く場合もあるべし、との考えでしたが、伊藤氏は官房長官の難しい立場をしきりと弁解し擁護する姿勢をみせ、氏への私の失望は一段と深まりました。

 私は政権と言論は別だ、政権に対し是々非々で行くのが思想家のあるべき姿だ、と言ったことがあります。するとそのとき伊藤氏は「私は思想家ではない」と軽くいなしました。

 政治は現実に妥協します。それは仕方がない。言論はできるだけ具体的で、現実的であるべきですが、しかし、どうしても譲れない場合がある。むしろそういう場合のほうが多い。現実の政治に必ずしも添い兼ねる。

 さて、「つくる会」の展開ですが、秋も深まる頃から局面が変わります。コンピュータ問題が登場したのは、オペレーターのMさんが器械の不具合を10月21日に藤岡氏に訴えて以来です。コンピュータ問題は後で区別して書きます。また、浜田実氏の事務局次長への採用の一件がこれに絡み、執行部が10月28日に事務局再建委員会を創り、事務局を執行部管理とし、コンピュータ問題の調査を決定しました。しかしその後、各事務員から個別に別の建物で事情聴取をしたやり方が、共産党の「査問」と同じだとパッと悪口を外へ広げる者がいて、誤解を招くということがありました。

 私は傍で見ていて、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤の諸氏にコンピュータのときだけ私が加わった執行部の努力は、限られた時間の中で、並大抵の労苦ではなかったと思います。けれども、世間は誤解したがるものです。

 例えば伊藤哲夫氏は11月の九段下会議で会ったとき、「つくる会」執行部は検察まがいの訊問をしている、というようなことを言って、批判的になっていました。

 10月一時的に事務局は執行部管理となりましたが、これは八木氏が中心になって取り決め、実行した措置です。八木氏はマッカーサーがコーンパイプをくわえて乗りこむようなこと、と、執行部を占領軍になぞらえるような浮かれた発言をしていました。私は11月初旬のコンピュータ問題調査委員会(八木、遠藤、藤岡、西尾、富樫)にだけは参加しましたが、事務局の運営の内容は間接的にしか聴いていません。

 3年前のコンピュータの契約の不完全――これについて当時理を尽くして警告したのは富樫公認会計士と私だけでしたが――がこのときあらためて表に出て、宮崎事務局長の立場が悪くなったのは事実です。彼は外に能動的に働きかけることに弱くても、内に事務的に勤勉であることにおいて強い、というのが執行部のそのときまでの判断でしたが、「内に事務的に」も問題があったのではないか、と、遠藤、福田、工藤氏たちの副会長もあらためて疑問を抱くようになりました。けれども事務局長更迭は、今までの記述で明らかなように、コンピュータ問題の前に審議され、裁定されていたのでした。

 ですが、やはり、どうしても世間はごちゃまぜにして理解する。世間だけでなく執行部の外にいる理事たちもよく理解していない、という状況が次第に事柄を紛糾させていきます。

 そうした誤解や事実の歪曲があり悪い噂となって外へ広がった後のことですから、不運なのですが、伊藤哲夫氏と椛島有三氏と再び宮崎問題に関して私が接点を得たのは12月に入ってからでした。伊藤氏とは私が直接電話で、椛島氏とは間接情報です。

 12月1日藤岡、福田両副会長が政策センターに伊藤氏を訪問し、2時間事務局長更迭の必要を詳しく説明したそうですが、氏は最初こわばった表情で、笑顔が見えたのは2時間経ってからだといいます。宮崎氏の期待外れをいうと、「事務局長はそういう程度でいいのではないですか。」となかなか分ってもらえず、「よく分りました」と最後に言ったのは外交辞令で、納得していない風であった、とは後日聞いた福田逸氏の弁です。

 記録によると私はこの同じ日の夜、伊藤氏に電話をしています。

 迂闊に軽いことばで話しだし、激しい反撃をくらいました。昼間の空気をあまり知らなかったせいです。今までの永い付き合いの、九段下会議の同志であるとの心安立ての思いで語った、その言葉の調子がなぜか逆鱗に触れたのかもしれません。

 本当に思ってもいない予想外の反発でした。ご自身も後で、あんなに怒ったことはないと言っているのですからますます分りません。私が雇用解雇ではないのだ、というと「給与が問題ではないでしょう。名誉が問題なのでしょう」といわれ、たゞ吃驚し、約70分もつづく言葉の応酬に、傍の家族がハラハラ心配そうにしていました。

 私たち「つくる会」の関係者が宮崎氏を見ている視線とは見ている位置が違うのだ、ということに早く気がつけばいいのですが、私もそのときは腹を立て、何と分らず屋だと思うだけで打っちゃっておきました。もしも小泉選挙がなく、自民党への姿勢において私と伊藤氏との間に考えの開きが大きくなく、度々電話をし合っていた夏までのような仲であったなら、恐らく最初からこんな衝突にはならなかったでしょう。双方に鬱積した感情の澱りがすでにありました。

つづく

2006年06月04日

続・つくる会顛末記 (五)の1

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続・つくる会顛末記

 
(五)の1

 「つくる会」内紛劇はそれ自体小さな出来事ですが、平成17年(2005年)夏の郵政法案参議院否決による衆議院解散、小泉首相の劇場型選挙とその文化破壊的な帰結とは切り離せない関係にあるように私は考えています。

 いま『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』で展開した政治論をここで再論するつもりはありません。8月8日の衆議院解散、9月11日の総選挙という日付を思い出して下さい。

 8月12日杉並区で「つくる会」教科書採択、27日種子島副会長が事務局長更迭を執行部会で初めて提案、31日八木、藤岡、遠藤、西尾が浜松町会談で「事務総長案」を考える。9月1日扶桑社総括会議と理事会、9月17日採択活動者会議、この日の二次会終了後、八木、藤岡、西尾の三人で初めて宮崎氏に辞職の意向を打診する。9月25日「つくる会」定期総会。

 選挙とそれにつづく日本の政変の目を剥くドラマが進行する最中に、今思うと、もっと辛い、厄介なドラマがわれわれのすぐそばで開始され、進行していたことになります。

 あの選挙で「つくる会」と九段下会議でお世話になっていた保守系議員が相次いで反小泉に回り、周知の通り苦戦し、落選者も多数出ました。夏の日、戦後初めて私は「自由と民主主義」が危いと思いました。20年前に「民主主義への疑問」と書いて左翼大衆動員を批判していた私が、今「民主主義を守れ」と言い出したくなっている矛盾に、時代の変化のアイロニーを感じます。

 8月15日の靖国講演会で日本会議事務総長椛島有三氏に8月の解散への怒りを述べ、守りたい意中の6人の候補者の名(平沼赳夫、古屋圭司、森岡正宏、古川禎久、城内実、衛藤晟一)を挙げると、まさに二人はぴったり同じ名を考えていたということで、私の地方候補者応援演説(大分、宮崎、静岡)を日本会議が支援してくれる約束になりました。

 8月28日大分市に着くとそこに椛島氏がいて、宮崎県の都城まで一緒に旅をしました。そこで氏は講演が終ると夜行で大分へ戻り、私は翌日名古屋へ飛びました。こうして衛藤、古川、城内の三候補の応援演説を辛うじて果したのでした。

 これは私が求めて行った無償の講演でしたが、旅費と滞在費は日本会議が配慮してくれました。私は椛島氏とたっぷり談を愉しみました。私と氏、もしくは私と日本会議とは仲間なのです。ずーっと私はそう思って来て、仲間だから共通の目的に向かって、協力関係が築けると考えていました。

 日本政策研究センターの伊藤哲夫さんとも永い付き合いで、同じような仲間意識でした。「つくる会」の協力団体である「改善協」の運営委員長を伊藤さんは永年やって下さって、教科書問題に関してもいわば同志でした。

 それどころか平成16年2月に「国家解体阻止宣言」を発表し、われわれは「九段下会議」を建ち上げました。外交・防衛とジェンダー・教育問題との二つのテーマに分け、講師を呼んでレベルの高い勉強会をくりかえした揚句、どうしても政治の世界に訴えたいという思いから、志ある議員を呼んで、情報研究会を創りました。日本政治にインテリジェンスの考えを根づかせるためです。そこの議員連盟会長が衛藤晟一氏、事務局長が城内実氏でした。

 ここまで読んで読者のみなさんはわれわれの間を引き裂く地殻変動を起こしたものが何であったかお気づきになるでしょう。小泉選挙です。衛藤氏も城内氏も落選し、情報研究会も動かなくなりました。

 私は夏の候補者応援の旅(8月28日~29日)を終えて、帰ってみると「つくる会」では「事務局長問題」が起こっていました。8月に入ると、今回も採択戦はほゞ敗北と分かり、諦めと焦りと持って行き場のない怒りが渦巻いていました。案外ケロッとしていたのは宮崎氏でした。そのことが藤岡氏をまた苛立たせたのです。

 8月31日に浜松町で八木、藤岡、遠藤、西尾の四人が会談し、積極的能動的な事務局長を探すこと、富士通にいた濱田実氏は運動家としての活躍ぶりを見ているので候補に値するということ、それからじつは藤岡氏が私に、「日本会議の椛島さんに相談してみてはどうか。いい人を知っているのではないか」という提案をしたので、4日前に都城市で別れたばかりの椛島氏の顔を思い浮かべ、話し易いな、と思っていました。じつは当時はこんな空気だったのです。

 すると偶然日本会議から9月4日(土)に松原仁氏の五反田での応援講演会に西岡力氏と一緒に出て欲しいという依頼があり、そこで椛島氏と再会しました。西岡氏が先に帰った後二人きりになりました。私はいいチャンスと思い、氏に「大切な話なのでお人払いを」とお願いして、「30分ほど時間を下さい」と申し上げ、「つくる会」の現状を伝えました。

 事務局長更迭の一件を聴いて椛島氏が吃驚した表情をなさったのが印象的でした。しかし、余り余計なことを口にしない方なので、私の事情説明を聴く一方でした。私はこう申し上げました。

 「企業や労組などで活動してきた人がいいという意見も出ているのですが、なにも方針を決めているわけではなく、能動的積極的な人がほしいのです。宮崎さんはデスク業務はきちんとしているのですが、自分から運動全体の総合的なデザインを描き、具体的なアイデアを出し、攻めていくタイプではない。椛島さんはいろいろな運動家をたくさんご存知でしょう。どなたかいい人がいたら教えてほしい。いま企業にいる人で適任らしい人がひとり提案されているのですが、その人が本当に適任かどうかもまったく分りませんので」

 椛島さんはたゞ聞く一方で、質問もなく「そうですか、フーン」と唸るだけでした。そして、大分たってから「分りました。考慮させていたゞきます。」と応じました。「まだ私たちは何もきめていないのです。たゞ人捜しは早く始めないと間に合いませんから。本人には黙っていて下さい。」「はい、承知しました。」といって互いに別れました。

 私はそのとき椛島氏と宮崎氏とが旧い学生政治運動の仲間同志だなどとつゆ知らず、この二人はお互いに知り合いらしい、という程度の認識でした。そして、日本会議と私は仲間同志であり、椛島氏も「つくる会」に協力して下さる仲間である、というきわめて素朴な、心安だてな、警戒心のない意識で対応したのが現実でした。

 椛島氏との会談の一件はこれで終り、氏からその後提案はなされませんでした。9月末か10月初めのころに宮崎氏から興奮して、「二人の会談の事実を聞きました。衝撃でした」と怒りの口調で電話がかかってきたのを覚えています。椛島さんは本人に喋ってしまったようです。宮崎氏は自分の更迭に半信半疑でしたが、椛島西尾会談の存在を知って、動揺したようでした。

つづく

2006年06月03日

続・つくる会顛末記 (四)の2

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続・つくる会顛末記

 
(四)の2

 さて、平成13年の第一回採択戦が敗北に終って、平成17年の第二回採択戦の後とまったく同じように、事務局の改革が自己反省の第一に取り上げられた時期に、事務局長高森氏はあらためて仕事ぶりが問われることになります。

 第一回採択戦の敗北は第二回目よりも深刻ではなく、高森氏は「リベンジ」を宣言し、種子島氏も「自分は退くつもりだったが、この敗け方ではやめられなくなった」と言い、副会長の責任まで背負うことになりました。

 敗北の原因は(一)中韓の攻勢とそれに迎合する国内マスコミ、(二)地方教育委員会の事なかれ主義、この二つにあると要約されました。あのときは誰でもこの二つを口にしました。「拉致問題」が出現して情勢が変わるのはこの後です。再生の要は事務局であり、活動の原点は事務局長であるとはまだあまり明確に自覚されていませんでした。たゞ、事務局長は留守がちでは困るという声が圧倒的でした。

 けれども藤岡氏だけは事務局長のやる気、企画力、運動力が問題だと言い出していて、高森氏のやり方にいちいち疑問をぶつけるようになっていました。

 事務局の能率化を唱えている藤岡氏と高森氏の間は間もなく険悪になります。要するに藤岡氏は仕事をテキパキ合理的に推進することを事務局に求め、だらだら無方針で、非能率にやることが許せない性格なのです。他方、私は要するに放任派で、だらしなく、藤岡さんは責任感が強く、厳格だということです。宮崎氏に対したときとまったく同じ状況が生まれました。

 私は危いと見ました。高森氏は藤岡氏の攻勢を躱せないだろう。原因は大学の勤務その他と事務局の仕事とが両立しないことにあります。高森氏には時間の余裕がない。やはり両方は無理だ。事務局長は「専従」にしなければならない。多くの理事の提言でもありました。

 思い切って高森氏に話し掛け、当然不快の表情をなさりましたが、自分が専従になれないことも明らかで、あまり大きな抵抗も反対もなく、了承を得ました。彼は会全体のことを考える大人なのです。こうして、誰かいい人はいないか。毎日務めてくれる人はいないか、と見回していると、事務局にほとんど毎日アルバイトで来ている一人の真面目そうな人物の存在にあらためて気がついたのです。それが宮崎正治さんでした。

 「つくる会」には当時外国の教科書を研究する第二部会があって、じつに熱心な勉強会が展開していました。東中野修道さんもそこに名を列ねていました。私はアメリカとイタリアの教科書研究の発表の場に立合わせてもらったことがあります。その席上で宮崎さんとはかねて顔見知りでしたが、高橋史朗氏の友人だということ以外には何も聞いていませんでした。

 高橋史朗氏が宮崎正治氏の無職に心を煩わし、どうしたものかと悩んでいて、友情に篤い人だと感心し、高橋氏のために何とかしてあげたいという動機が当然私にもありました。一説では宮崎氏は本当に困っていて、高橋氏に肉体労働でもするしか他に手はない、と訴えていたとも聞いていて、深刻だと思いました。私が5年後の今日も彼の経済生活のことを気にかけ、種子島氏の乱暴な処断に反対していたのは、最初のこの一件があったからでした。

 こういうことは本当は書きたくないのですが、書かないと、あれだけ話題になった事務局長問題の真相を、そのバックグラウンドを含めて立体的にお知らせすることがどうしても出来ないので、止むを得ないのです。

 それに、毎日来てくれる人で、老人でなく、知識人でもある人、何よりも「つくる会」の運動を精神的に理解している人――ということになると、本当に人がいないのです。

 私は宮崎氏にお願いすることを自ら決断し、本人の了承を得て、新しい事務局長の任命を理事会に諮りました。

 以上の通り宮崎氏の選定に関しては、宮崎氏と会との両方の必要条件は合っていましたが、十分条件を満たしていたわけではありません。宮崎氏が運動家として有能であるかどうかは初めから考慮の外にありました。そんなことを考える余裕が会にも宮崎氏にも、双方にありませんでした。ある意味で行き当たりばったりで大急ぎで決めてしまったのです。そのことがどんな災いをもたらすか深く考えることがなかったのは、たとえ選択条件がいかに難しかろうと私のミスであり、私が組織運動などに無知な素人だったので、会員のみなさまには幾重にも謝罪しなければなりません。

 宮崎氏はたしかに読書人で、たゞの事務員ではありませんでした。性格が温順で、各理事に気配りがあり、私などは会の出張の一人旅で、バスの乗り継ぎひとつ迷わないように地元に連絡して下さるほど心憎いほど優しい人です。私の本もよく読んでいて、書名の相談にも乗ってくれました。もし私が会を「私物化」しているのであれば、名誉会長をつづけ、宮崎事務局長を守り、彼を私の「半・秘書」のようにする道がたしかに一つあったでしょう。私はそれほど彼から厚遇されていました。

 しかし私の精神は逆に動くのです。宮崎更迭の種子島提案があって以後、しばらく考え私は自分の選定のミスを総括的に反省しました。

 宮崎氏は近代社会の中で他人の釜のめしを食った経験がない人です。その半生を保守団体の知識人運動家として、今の言葉でいえばフリーターとして過して来ました。とかく目が伝統社会、神社の神主さんその他に向かい、企業や官庁が代表する近代社会に人脈もなければ、押さえ処も分らない人です。伝統社会も大切ですが、第二回採択戦はそこに力点を置きすぎて結局失敗したのではなかったのですか。

 それも大事だが、それのみではダメだ、と私も敗北後考えるようになっていて、種子島氏はこれを「事務局長のマンネリズム」という言葉で捉えていたわけです。

 けれども最初のうちは私もそんな風に明確な判断に立っていたわけではありません。じつは今日初めて公開しますが、9月4日という早い時期に、宮崎事務局長問題を真先に私が相談し、新しい人捜しを依頼した相手は、椛島有三日本会議事務総長、日本青年協議会元代表その人だったのです。

 次にこの重要な事実からお話しなくてはなりません。

2006年06月02日

続・つくる会顛末記 (四)の1

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続・つくる会顛末記

 
(四)の1

 高森明勅氏は学者として、知識人として、教科書執筆者として立派に生きてこられた方で、私は個人的にも敬愛の念を抱いています。

 会では唯一の貴重な古代史学者で、彼がいなければ教科書はできなかったし、『国民の歴史』その他の私の仕事にも協力して下さった私の恩人の一人です。

 最近、女系天皇を容認した数少い古代史学者の一人として、保守思想界の一部から非難を浴びているのは気の毒です。皇位継承をどう考えるかは人の自由です。ある人が、かつて私に女系を唱える高森氏は「つくる会」理事にふさわしくない、と語ったことがありますが、皇室問題でこうした一定の枠で他人を囲い込み、仲間社会から排除するような人を危険なファナティストというのです。

 大月隆寛氏が病気で行き詰って代りに高森氏が事務局長に選ばれたときの会代表は私でしたが、選抜したという記憶は私にありません。他に人がいなくて、みんなでがやがややっていて、ならばお前やれ、誰がやれ、という声掛け合いの中から自然に高森さんが適任者として浮かび上がったのだと思います。大月さんが選ばれたときも、そういう手順だったでしょう。理事の間は平等で、上意下達の会ではまったくありません。任意団体で、今どきそんなことが通用する会が何処にあるでしょう。

 ただ辞めてもらうとき、あるいは交替を指示するときには、厭なことばを口にするのですから、会代表の強い一声が必要です。

 高森氏は事務局長のかたわら一年かけて坂本多加雄氏と二人で教科書執筆の基礎稿をつくりました。二人は仲が良く、呼吸が合っていました。「つくる会」の講演やシンポジウムも例の歯切れのいい大きな声で、雄弁家を誇っていました。

 ではありますが、事務局長としてはどうかというと、他方でこれだけ数多くの仕事をこなしているのですから、いかんせん事務局にいる時間が少ない。それが不評を買いました。また前に種子島氏あてのメール(本稿(二)9月2日2:29AM)に述べたように、経理上有利であり過ぎるという批判が多数の事務系職員から出たのも事実です。

 事務局長が事務所にいない日が多いのは、その頃から会の活動が広がりだして、事務量も多くなったので、困惑と障害をもらすようになりました。いつからか明確に分りませんが、種子島理事が高森氏の欠席日に、週二日ていど代役を果してくれる約束が成立しました。

 さて、実業家種子島氏はどうして私たちの会に参加してくるようになったのかを語っておかねばなりません。種子島氏は日本BMWの社長も、フォードの相談役も務めあげ、自由の身でした。彼が早くから自分の後継者として育てあげ、世に送り出した人の中に、話題のダイエー会社に抜擢された林文子さんがいます。ビジネスの世界では種子島氏は有名です。自信家でもあります。

 彼は大会社のエスカレータに乗った官僚型実業家ではなく、アメリカでモーターバイクを単身で売りまくった「モーレツ社員」、高度成長期を築き上げた戦士の一人でした。アメリカ、ドイツと渡り歩き、今でも目を患って半眼がよく見えない苦労を越えて、世界を飛び歩いています。話もうまく、自分の人生を語った講演は惚れぼれするほど聴かせます。

 会社から離れて、「つくる会」の周辺で有能な英語力を生かして、南京事件関連の文書の翻訳を手伝ったりしているうちに、会のメンバーと親しくなりました。「つくる会」の理事は大半が文学部出身者で、およそ経営のセンスがありません。私が乞うて理事になってもらいました。ビジネスマンのセンスが会には必要だと考えたからです。

 彼の目に「つくる会」の世界はどんな風に映ったでしょう。詳しくは聞いていませんが、恐らく驚いて、揚句どう言っていいか分らない不審の思い、戸惑いの果ての判断ミスもやむを得ぬ困難の日々であったでありましょう。

 種子島氏は東大教養学部(駒場)時代の私の同級生でした。このことは周知と思いますが、私たちの共通の師に小池辰雄先生というドイツ語の先生がいて、この方が内村鑑三の無教会派キリスト教の流れをくむ伝道者であり、武蔵野市で「曠野の愛社」という修道の場を拓いていたことはまだ語られていません。

 Himmel(大空、天空)というドイツ語名詞がありますが、その形容詞himmlisch(大空の)を先生は一年生のわれわれに「天的」とお訳しになり、宗教的意味をこめて熱情的に語られたのでさっそく「天的先生」という綽名がつきました。それからGeist(精神)というのももう一つの綽名です。なにしろ初級文法が終るとすぐにゲーテ『ファウスト』をテキストに使い、宗教的講話が授業の半分を占めるので、このGeist、ガイストという音の響きが先生にぴったりで、私たちには忘れられない恩師、亡くなるまでお慕いしました。

 なぜこんな話をするのかというと、「キリストの幕屋」の創設者である手島郁夫師も内村鑑三の流れに棹さす無教会派で、小池辰雄先生とは生前深い交わりがあり、手島師がお亡くなりになる前に後事を託された由にて、幕屋はその後ずっと小池先生の信仰上のご指導を仰いでいたと聞いています。

 「つくる会」で「キリストの幕屋」と最初の接触を持った人は藤岡氏でした。幕屋の方からの接近で、『教科書が教えない歴史』の先生としてだと思います。そのあと私が小池先生の弟子だと聞いて私にも親愛感を抱いて下さるようになり、同じ弟子の種子島氏が聖書の集会に出席するようになって、さらに信頼が深まりました。

 種子島氏は「つくる会」の理事になって以後幕屋を通じ信仰に近づきました。私の蔵書の三分の二は何らかの意味で宗教に関係があるのですが、私自身は近代日本の知識人の宿命か、すべての宗教は相対化され、文化的知識欲の対象となるばかりで、今後のことは分りませんが、信仰への敷居を越えることはできそうにありません。ですが、もし仮りにキリスト教徒になるなら、プロテスタントは嫌い、カソリックはぎりぎり我慢できますが、多分そういう場合には無教会派を選ぶだろう、などと勝手に空想しています。

 種子島氏は週に二、三日ほど「つくる会」事務所につめて高森氏不在の日の事務局長代行をして下さるようになりました。高森氏が辞めて宮崎事務局長になってからもしばらく事務所には財務担当理事として顔を出していました。それだけに他の理事よりも事務局の実態についてよく知り、事務局長の良し悪し、指導の仕方、統率力、職員の働きぶり、部屋のムードの明暗などに対し敏感で、あまり口うるさい批判はしない人でしたが、じっと見るべき処は見ていたはずでした。

つづく
つづく

2006年06月01日

続・つくる会顛末記 (三)の2

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続・つくる会顛末記

 
(三)の2

 読者によく考えていたゞきたいのは、この会は財力もなく、「この指とまれ」が理事勧誘の原則でしたから、理事には名のある人でなってくれるなら誰でもよく、それでも手を上げてくれる人を捜すのが困難なほど世間から敬遠されていた団体であった事実です。最近コメント欄に、この度の内紛の原因は「『つくる会』が一部の人に保守論壇の登竜門になっているからだ」という指摘があって、私は隔世の感を抱きました。

 大月隆寛氏と私とはたしかにあまり折り合いが良くなかったことを告白します。彼は終始西部邁氏の方を向いていて、公民教科書の執筆を西部グループに一任するか否かの一件で、伊藤隆氏と組んで、私に一方的圧力をかけて来ました。旧版公民教科書の執筆者は西部氏のほか、佐伯啓思、杉村芳美、佐藤光、宮本光晴の諸氏(『発言者』グループ)に八木秀次氏が加わっていて、新版公民教科書にいま名を留めているのは八木氏ひとりです。

 西部氏は「つくる会」をバカにして理事会に出て来たことは一度もありません。私は公民教科書の責任者に田久保忠衛氏(当時まだ理事でない)か加藤寛氏かを想定していました。伊藤隆氏と大月事務局長が西部一辺倒で、それなら西部らが真面目に相談にのるかというと、全権委任するなら書いてやってもいい、という不逞な態度で、歴史執筆グループとの合同会議すら可能ではありませんでした。「西尾が頭下げて来たら書いてやろう」と頭目が言ったとか言わないとか、手下の一人から噂が流れ、私を怒らせました。

 今でも屈辱的シーンをありありと覚えています。伊藤、西部、大月の三氏が待ち構えている部屋に、私が単身で(この件で藤岡氏も坂本氏も知らん顔でした)、無条件で公民教科書を書いていたゞくことを承諾する書類にサインするために出向きました。サインしなければ自分は「つくる会」を辞めると伊藤隆氏が私を脅迫したからです。伊藤、西部という60年安保全学連くずれに何で私が頭を下げなければならないか。

 いうまでもなく教科書検定を将来に控えて、伊藤氏の辞任は打撃だからです。というのは文部省の教科書調査官の多くが伊藤氏の東大教授時代の弟子だからで、この方面で圧倒的影響力があるという「伝説」が広がっていました。大月事務局長は悪役三羽烏の一人として、私と彼らとの間を連絡する最も憎々しい役割を演じつづけました。

 あるとき大月氏が自分の読書歴を話してくれたことがあります。網野善彦以下、左翼の著作家ばかりで、私はびっくりして、「君がつくる会にいるのは理解できないなァ」と言ったのは確かで、彼はこの件をいつまでも根にもって、思想が悪いという理由で解任されたとあちこちに書いていますが、そうではないのです。大月氏は自律神経失調症で自宅療養となり(本人が公表)、数ヶ月事務局空位時代がつづきました。会の内外から不在は困るといわれ、ついに限界と見て、お辞めいただいたのが事実です。会はその間もきちんと給与を払いつづけましたが、理事会ではボランティア団体としては精一杯のことはやった、もう仕方がないのではないか、という声があがり、高森明勅理事に交替してもらうことになったのです。

 大月氏が解任の件を記述する際、病気で会に迷惑をかけたこと、病気が肉体の病ではないので事務局長の激職に療後の身が耐えられるか否かが判定できず、理事会でみんなが迷い、憂慮したことについていっさい言及しないのは片手落ちではないですか。

 伊藤隆氏は教科書の近現代史の監修と修正に参加し、夜遅くまで熱心にやって頂き、感謝しています。また、一年かけた故坂本氏の記述部分の不採用で、傷ついた坂本氏の心のケアに人一倍気を遣って、帰りの車に黙って誘い、言葉をかけて下さった様子を後姿から拝見していました。小林氏が漫画で坂本攻撃をやりそうな危ない場面で、私が三拝九拝して止めてもらったきわどい頃でしたが、伊藤氏の坂本氏への思いやりあるやさしいケアがあのときどんなに有難かったかは口では言い表せません。

 けれども公民教科書の西部選択は決して成功ではなかったと思います。それにいまあらためて思い出すのですが、いよいよ検定の日が来て、伊藤氏の睨みのきく弟子たちの一人である調査官に威圧を与えるお役目ありがとうとわれわれは期待ひとしおだったとき、伊藤氏は初日に顔を出しただけであと放置し、聞けば調査官の前で煙草をふかして注意を受け、弟子に威圧感はおろか尊敬の念もなく、結局扶桑社の社員ががんばって何とか切り抜けたと聞きました。

 「伊藤先生は期待外れでした」が私の受けた報告です。執筆者代表である私は調査官に顔を合わせる機会はありませんでした。伊藤氏が師の威厳で検定終了の最後まで見張ってきて下さる、その方が効果的である、という方針だったからですが、そうはならなくて、私はいったい何のために西部邁氏に対するあの屈辱の叩頭に耐えることに意味があったのでしょうか。

 勿論、伊藤氏の名前が奥付にあるだけで、広い大きな意味で文部省への信頼喚起の効果はあったといわれるので、「西部公民」の評判が良ければすべて帳消しですが、しかし、実際には複雑で、いろいろな思いが重って、そば屋の二階の忘年会で、伊藤氏も西部氏も出てこない席ですが、私が思わず滂沱と涙を流したことがあります。余りにも耐え難いことの多い一年だったのを思い出してでした。

 私が感情を怺え切れなくなったのは後にも先にもあの年の反省会の夜だけでした。

 さて、大月事務局長の解任のことですが、ご病気が原因であることはいま申した通りです。大月氏は「病み上がりにようやく立ち上がろうとしたところを後からいきなり斬りつけられた」と「つくる会」解任を語っていますが、彼はあれほど忠誠を尽くした西部氏から、突如として『発言者』連載の中止を告げられたのではなかったですか。「後からいきなり斬りつけられた」人をわざと間違えて、親分には言えない憂さ晴らしを私に向けているのではありませんか。

 こんな事件がありました。真冬の会合で西部氏が私の外套を間違えて着て帰ってしまいました。私は外套なしで帰り、レストランに置き去りにした西部氏の外套を大月氏は車でその日のうちに届けました。けれども、西部宅にあった私の外套を彼は私の家へ車で持って来てくれませんでした。私は二着外套を所持していたので、翌朝の氷点下以下の寒さを辛うじてしのげましたが、彼が誰に必死に扈従し、盲目になっていたかが分るエピソードです。私は自分の外套を彼の指定する場所に翌日取りに行ったのです。平成11年(1999年)の冬のことです。

 今度の紛争で「つくる会」に集った知識人の「非常識」が、まさかそんなこととみんなに首をひねらせましたが、私は何があってもあまり驚かなくなっていました。

つづく

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