2008年11月の日記
2008.11.01.
初めてもつ鍋を食べた時の不定期連載。
アーバンラマは工房都市として知られている。
資産家と労働者の街でもある――自衛のための軍備を持つ、唯一の都市という特徴もある。王都に最も近く、そして王都に対して最も露骨に自治を宣言した都市でもある。
港を備えているのは、大陸の主立った都市はどれも同じだ。キムラック、マスマテュリアと南北の両方に難所があり、また中央部はフェンリルの森に隔てられるというキエサルヒマの地形では、海路がなければ各都市の行き来はままならない。陸上では数週間から数か月かかる移送を、海路は数日で行う。
海からの風は、船のない閑散とした港をそのまま通り抜けた。港に船がない理由はただひとつ――半年前から出払っているためだ。そして恐らく、そのすべての船がもどっては来ないだろう。
一見、その風に吹き飛ばされそうにも見える小柄な女が、長い髪を吹き上げられ、その間だけ目を閉じた。
再びまぶたを開けたそいつの瞳に、険しくもないがその逆もない、冷ややかなきらめきが一瞬宿るのが見えた。転がるガラス玉が光明を通り過ぎるように、しばし含んではすぐ消える、そんな光だったが。
「海なんて、見るたびに思うわね」
コートのポケットから手を出して、顔にかかった髪を払う。
「こっちからじゃ絶対に手がとどかないとこに居座って、いいご身分だって」
「そこに手をとどかせようってんだ。どっちが傲慢か分かったもんじゃない」
こいつはその女を横目で見やって、告げた――顔まで向けなかったのは手元の書類を読んでいたからだ。
2008.11.02.
STEVE CARELL の文字を見て、なんでかスティーブンセガールを思い浮かべてしまい、出てくるわけはないのにそれでも微妙に警戒してしまった時の不定期連載。
そいつはこの街の資産階級のひとりだ。最も有力な資産家ではないが、今日では、アーバンラマで最も有名な資産家ではある。アーバンラマの総力を挙げた第二次新大陸開拓事業の総監督として。
相変わらずの仏頂面で、そいつはつぶやいた。
「でも、いいご身分よ」
実のところ、そいつの言うことのほうが正しいのかもしれない、とは思っていた。結局は手などとどかないかもしれないのだから。
潮風が戯れに、報告書に目を通すのを邪魔する。もとより読まずとも想像のつく内容ではあった。それでも確認してそいつに返す。
「議会の三分の一か」
「ええ」
相当に危険な数字ではあるはずだが、そいつは冷静に続ける。
「魔術士同盟と連絡を取り、キムラックを解放して、王都包囲を提案するべきだと言い出してる。今のところ議案に名乗りをあげているのは三分の一だけれど、実際の決議ではもっと増えるでしょうね」
「どうして?」
「決議は来月。来月までに魔術士同盟がもう一手、騎士軍を不利に追い込めば勝ち目が増える。このタイミングでタフレムに荷担するのは、一番リスクがなく旨味があるのは否定できない」
「その場合、開拓計画に影響は?」
こいつが訊ねると、やはりそいつは他人事のような口調で答えてきた。
「スポンサーが手を引けば、なにもかも終わり」
「対策は?」
「議会工作はしているけれど、問題は、こちらに大義名分がないこと。『戦争は悪い。だから反対』じゃ説得力がね――開拓が侵略にならないって道義的な根拠もないし、安全面でも参戦よりましかどうか分からない」
そう言ってそいつは髪をかき上げた――そいつは自覚がないようだが、煙草を止めてから加わった癖のひとつだ。手持ちぶさたなのだろう。
2008.11.03.
髪を切るのって自分はなにもしないで座ってるだけなのにものすごく面倒くさく感じてしまうのはなんでなんだろう時の不定期連載。
港には船がないが、人出はごった返していた。
港湾の倉庫にはひっきりなしに荷が出入りしている。開拓の物資を集めているのだ。船に積み込む内訳と順番が――すっかり混乱した計画書によって――変更されるたび、倉庫内の整理は一からやり直しになる。
人の流れをしばらく眺めてから、こいつは口を開いた。
「魔術士同盟の脅威を強調するか」
「脅威?」
「大敵のキムラックと、貴族連盟が同時に力を失えば、魔術士同盟はこの島の覇権を握る。参戦は検討してもいいが、その後のことを考えれば、なんらかのアドバンテージを確保しておかないとアーバンラマは自治を奪われかねない。開拓計画は外交のカードになり得る――こんなとこだろ」
そいつが、ワインを転がすような顔つきで黙り込む。話を吟味しているのだろう。やがて、うなずいてみせた。
「いいでしょ。参戦反対派の議員に話を流してみる」
アーバンラマの議会は、資本家らの代理戦争の場でもある。というより、そうでしかないとも言える。資本家は自らが議席に就くことなく議会に影響力を行使する。無論、あまり健全な状態とも言い難いが――皮肉なことに実用的ではある。
そいつは嘆息した。
「今週はこれで全部潰れそうね……あんたは?」
肩を竦めて、こいつは告げた。
「変わらないさ。どこも満遍なく遅れてる」
そいつはぽつりとつぶやいてみせた。
「遅れてるだけじゃないわね」
そんな愚痴のようなことをそいつが言うのは珍しい。
こいつは、苦笑した。
「ああ。計画自体、穴だらけだ」
そいつは特に取り合わず、手を振って話を掃き捨てた。ボスとしては使い走りの愚痴に付き合う必要はないということだろう。
2008.11.04.
岩隈!岩隈!な時の不定期連載。
「まあそんなところね。呼び出す時には遣いを寄越して。ひとまず屋敷にもどるから」
と、くるりと背を向けて――しかし立ち去りかけてから、やり残したことを思い出したようにまた振り向くと、すすすと近寄ってくる。
こいつがじとりと見ている前で、そいつは急に相好を崩して身体をくねらせた。
「だって、おうちでマイリトルスイートパンプキンが待ってるもの」
「それ聞くと、なにを言えばいいのか分からなくなるんだ。頼むから子供は野菜以外の呼び名で呼んでくれ」
懇願するが、そいつは知ったことでもない風で、仏頂面にもどった。
「あんたも見に来る?」
「さんざん見せられた」
「また見に来る?」
「見ない、と遠回しに言ってるんだ」
「変ね……見ないなんて」
ぶつぶつ言いながらも、ようやく去っていく。
こいつはしばらく額を押さえていたものの、潮風はひとまず偏頭痛を拭う程度には心地よかった。もう少し浸っていたくはあったのだが、実際のところ、そうしている暇がないのも本当ではある。
目を凝らして、港湾倉庫に人影を探す。
見つけてから、こいつは歩き出した。荷車を押す人混みをすり抜け、数が合う合わないで口論している輪の真ん中を突っ切っていく。掴み合いが始まっている最中をまるでなにもないようにこいつが通り抜けていくのを見て、みな一瞬きょとんとしたようだったが、後ろ手に手を振ってやると適当に納得したのかまた諍いを再開した。
一ブロックほど行って、港湾警備隊の制服とすれ違う。乱闘を制すべく、警笛がかき鳴らされるのを背後に聞きながら、こいつはようやく目当ての人物に声をかけた。
だが明らかに、そいつもまたそれどころではなかったようだ――厳つい荷役に取り囲まれ、頭を抱えてわめき散らしている。
2008.11.05.
わりとダル!ダル!でもあるのだけど、なんだか疲れてるみたいで困る時の不定期連載。
「だっかっらっ! そのことはもーこの前決着ついたでしょぉ!? 積み込みはエイブラハムが先! ええ、もう不公平でもなんでも順番決めないとどうにもなんないでしょ――え? 帳簿が改ざんされてるって、またそれ荷物のほうが数え間違えてんじゃないの? 横流し? 調査中。裁判? 毎週何千件も同じような案件を法廷に持ち込んだって、結果なんて変わりゃしないって――」
ひとりまたひとりと順番に怒鳴っていくのだが、その間にもひっきりなしに誰それが問題を持ち込み、荷役の人数も一向に減ろうとしない。
「奥さんが浮気!? あのね、そんなことわたしに言いつけてどうしようってゆーの。ああ、そっちの人、さっきの質問なんだったっけ。ええと、そうね。え、労災? あのね、酔っぱらって喧嘩した分なんて補償できるわけないでしょ!」
押し寄せる苦情にすっかり混乱しながら答えている。というより、答えながらどんどん混乱している。
周囲の男たちにぐるぐると対応しながら、そいつの声は次第に甲高く支離滅裂になっていった。
「だからあんにゃごぼれあっちがろくすっぽりえんて明日からどうにくきェーーーーキェーーー!」
最終的に、気味悪がって逃げ出した荷役らの背中に靴を投げつけてから、そいつはぜぇはぁと息をついて汗を拭った。髪も崩れてボロボロになっている。
「えーと」
こいつは、改めて声をかけた。
「もういいか?」
「オッケェ」
あまり無事とも言い難いしゃがれ声で、そいつが親指を立てる。
「なんの用?」
投げた靴を拾いに片足で跳ねていくそいつに、こいつは答えた。
「訓練の成績表、お前んとこに回ってるんだろ?」
「ああ、あれね。こっち。オフィス」
奇声のおかげでよほど喉がおかしいのか、言葉も途切れ途切れだった。
2008.11.06.
一昨日に栗ご飯食べたいと思いついて昨日栗ご飯を食べ、昨日天丼を食べたいと思いついて今日天丼を食べた、そんな生活。時の不定期連載。
歩き出したそいつの後についていきながら、こいつはあたりの喧噪に目をやった。
「しかし、相変わらずだなここは」
「まったくよ。警備主任なんていって、すっかり苦情受付係だし」
「その分だと、評価は芳しくなかったか?」
「まあね。最低でも二週間は訓練延長ってことになると思う」
くたびれきった仕草でかぶりを振る。
そいつのオフィスは、港湾警備隊詰め所を間借りしている。
そいつの立場は複雑といえば複雑だ。派遣警察を退職したそいつは、現在、姉が総監督を務める開拓事業委員会の警備主任として雇われている。ただ現状、部下といえるものはない。港湾警備隊を丸ごと借り受けてなんとか体裁を保っているものの、そいつらは開拓には参加しないし、船にも乗り込まない契約だ。
最終的に、警備隊は開拓民から編成しないとならない。そのためにキムラック難民から人員を選抜して訓練を続けている――その評価を、関係者が回覧しているわけだ。
鐘が鳴った。
騒いでいた港湾スタッフが、いったん動きを止める――鐘を鳴らしているのは物見櫓の見張り役だ。それが示しているのは、船の接近。
こいつも足を止めて、遠く水平線を見やった。あいつの言葉が脳裏をよぎる。実際の水平線よりは遙かに近い場所に、白い帆が見えた。蒸気貨物船の巨体は波間にあっても安定している。
確か、機関を使わず帆の実験航海だったはずだ。二十四時間の航路を廻って、どうやら無事にもどってきたらしい。なにごともなければ一時間ほどで入港するだろう。
2008.11.07.
台所でコーラをこぼしたおかげで妙に爽やかな香りだぜチクショウな時の不定期連載。
外洋船の建造もまた、日程を大幅にずれ込んだ――が、計画全体としてみればマシな部類だ。試験も滞りなく終わりつつある。幸運なことではあるが、要因としては釈然としない。つまりは、思ってもみない形で人材に恵まれたわけだが。
「なんであいつが船長なんだ」
ぼやくと、そいつもまた船を見やった。今さらなにをと呆れ顔になって言ってくる。
「だって、候補者十二人の誰よりも航海に詳しいんだもの。なんでか知らないけど」
外洋航海については、古文書を紐解いて得た知識を試すしかない。伝承によれば、人間種族は三百年前に外界からキエサルヒマへと漂着したのだ。
そして今、その逆を試そうとしている。
開拓の第一陣は、キエサルヒマ沿岸を行き来することしか考えられていない輸送船で旅立っていった。被害も少なくなかったはずだ。というより、全滅していないという確証などまったくない。開拓民を置いて折り返しもどってくるはずだった船が一隻も帰還していないため、状況は甚だ不明だった。今のところ難破の兆候が見られないという以上の情報もない。
こいつはしばし目を凝らした。船はアーバンラマの技術と資産を大量につぎ込んだものだが、あいつの言う『いいご身分』の遙か水平線に比べれば、いかにもちっぽけで頼りない。船は数百人を乗せて外洋を目指し、新大陸とキエサルヒマの間を、耐えられる限り往復することが見込まれている。
そいつに礼をする警備隊員に会釈を返しながら、詰め所に入っていく。そいつのオフィスは二階にあった。ここには何度か来ているが、来るたびに様子が違う――先週にはなかった紙箱が部屋いっぱい、天井まで積み上げられているのを見上げて、こいつは訊ねた。
「なんだこれ」
ぐったりと、そいつがうめく。
「あんた、自分の用事覚えてないの?」