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(new) おっす! 名前: ますこみ代表 [2008/11/04,17:33:17] No.1935 返信
久しぶりにカキコ
今日は毎○が世界にむけてどんな情報を発信し続けていたかをを紹介。
余りにも面白いので、みんなに紹介しましょう!

恐ろしいですね〜、怖いですね〜
これがスクール事件ねつ造に飽きたらずに日本までねつ造して売り上げ
稼ごうとする毎○の本性、特に日本の受験生は母親にフェOOOをしてもらうのがあたりまえと世界に発信なんていかしてるぜ!

他にもこりゃ楽しい日本の真実(歪曲紹介)をしてくれています。

皆さん是非見てやってください!

http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/33.html#id_51ea5975

さすが○日!

次は○日か?
>> (new) 昇進 名前: ますこみ代表 [2008/11/04,18:14:00] No.1936
http://www.mainichi.co.jp/home.htmlでこんな事書いているけれど、
関わった奴らみんな社内で昇進しているんだよね〜

サンデー○日でねつ造しまくりしたやつらも無事出世しているようだし、
ねつ造命!の毎○はどれだけねつ造できたかが昇進する基準のようだ! 



誤解が解けて新たな疑問があります 名前: ルンルン [2008/10/31,09:03:45] No.1910 返信
初めまして。
匿名で失礼します。(本名で書く意義が見当たらないことも有りまして)

戸塚校長の論文を読ませていただきました。
仏教について、サルトルの空虚さは大変共感しました。
確かに優れた思想を持つ人だと見受けられますが、
では何故ヨットという危険な方法をチョイスしたのか。

単に戸塚校長がヨットが得意というだけ?

野球なら死者は出なかったのでは?
>> 下のスレッドで 名前: ルンルン [2008/10/31,09:50:26] No.1911
ナジャさんが全て話してくれてますね
>> 無題 名前: ルンルン [2008/10/31,10:35:37] No.1913
なんらかの不良行為があるとして相談してくる親が本当に真実を話しているとでも思っているのですか?
大麻を栽培している事が子供にバレた。是非そちらで事故死させて欲しい。慰謝料はがっぷり貰います。

こんな奴らのターゲットになっているだけでしょう。
現在の生徒数が少ないのも基準を厳しくしたらそうなったと。

今までの拉致
無実の罪での監禁、拷問は無かったのですか?
>> 門戸 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/31,17:25:56] No.1914
ルンルンさんへ

とりあえず私の方から返信させて頂きます。

拉致監禁に関しては、裁判の判決からすればそういったことになります。
しかし判決での拉致監禁はあくまでもそれが傷害致死という結論にもっていく為のものでしかなく。 

例えるならウインドの訓練中にコーチが海上を双眼鏡を使って生徒の安全を確認していても。
結果として事故が発生し、それを誰かが訴えて有罪前提で裁判をすれば監禁ということになります。 
わかりにくいですかね・・・もうすこし分かりやすくしましょう。
高裁判決の考え方を簡単な例にして今の学校教育現場に当てはめてみれば次のようになります。
先生の言うことをまったく聞かずに勝手なことをする生徒達がいて、当たり前ですが先生はその生徒を排除できませんから引率して修学旅行につれていき、当然に先生はその子達に気を配りがちになります。
その中の1人が万引きして、たまたま先生がそれを見つけて追いかけ、その子が道路に飛び出して事故に遭って亡くなったという場合。
親が先生を殺人として訴え、亡くなった子達の仲間が、“先生がずっと目で追っていた”と言えば、確実に監禁罪となることになりました。 本人の意志とは別に目で追っていたら監禁罪、このお粗末な判決が高裁判決です。
この判決以降、あちらこちらで先生が訴えられてほとんど敗訴する原因と言って良い大本を名古屋高裁はつくってくれたわけです。
この判決のおかげでこの国の全ての先生は何か有れば暴行、何か有れば傷害ということになり、それを脅しに使う親に怯えながら指導をしなければならないことになったわけですが、今の学校教育現場荒廃のすべての原因は、この判決に有ると言っても過言ではないと私個人は思っています。
先生方が悪いわけではなりのですね。

拉致に関しても上記と全く中身は同様です、結果を有罪にするために使われたものですから、多分に矛盾を含んでいます。

次に
>親が精神疾患であるケース、精神疾患であるケースを全く想定していませんね。
>話にならない。

二度と同じ悲劇を繰り返さない、その為に今の戸塚ヨットスクールは精神疾患として通院した子供は一切受け入れていません。
その為に、普通の子が学校に行かないというだけで、病院で精神疾患にされてしまった子、実際に軽度な精神疾患をもっていても訓練で現実に適応できるまでになれる子。
そうした子達を受け入れることはできなくなっています。

>ジャさんの言う拉致もあったのでしょう。
ナジャさんの言うところの拉致は、犯罪目的のために行われるものを、「ヨットスクールも同じ事をしていたんだ!」と強引にもってきたものでしかなく、こうした言葉の使い方自体を肯定することはできません。

さらに自分の一方的な考えを受け入れさせるために、拉致という言葉に人権を絡ませて書いておりましたが、人を殺すことも権利というに至り、私もそれ以上の返信をする気が失せました。
このように自分の考えを他人に受け入れさせる手段として、始めから相手を犯罪者とみなす方法をもしスクールが受け入れること有れば、コーチ達も同じ事をして子供たちを教育しているということになります。
戸塚ヨットスクールは子供たちに自分で考える力を付けさせるところであり、脅迫して洗脳するところではありません。
ゆえにナジャさんのようなやり方は絶対に受け入れられないわけです。

>塚ヨットスクールに入れるぞ
これは私の若いときも親に言われたことがあります(笑)、懐かしいですね。


>相談してくる親が本当に真実を話しているとでも思っているのですか?
スクールは親の相談で子供を受け入れます、しかし問題がなければすぐに卒業となります。
そうした子はスクールにいる必要がないからです。


>大麻を栽培している事が子供にバレた。是非そちらで事故死させて欲しい。
>慰謝料はがっぷり貰います。
>こんな奴らのターゲットになっているだけでしょう。

残念ですが、現実にこうした親が以前はいました。

>現在の生徒数が少ないのも基準を厳しくしたらそうなったと。
まさにその通りです。


>今までの拉致
>無実の罪での監禁、拷問は無かったのですか?

無実の罪で生徒を監禁、拷問をしたことはありません、ただ、冒頭に書いたように始めから犯罪という形で強引に持っていけば、いかなる事もそうした表現になります。

そうでないからこそ戸塚ヨットスクールは多くの方に合宿生活を送る姿や訓練を見て頂きたいと常に門戸を開けています。
申し込めばいつでも実際のに来て頂いて生活を見ることが出来ます。
マスコミのねつ造ではなく、事実を見て頂きたいのですね。



なぜ謝罪する? 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/28,18:46:13] No.1891 返信
服装、態度で22人不合格=成績は圏内−神奈川県立高
10月28日17時9分配信 時事通信


 神奈川県教育委員会は28日、県立神田高校(平塚市)で2004、05、07年度に行われた入学試験で、内申書、学力試験、面接の総合的な成績順位は合格圏内に入っていたのに、願書受け付け時の服装、態度などが悪く入学後の生徒指導が困難と判断した受験者22人を、選考基準に従わず不合格にしていたと発表した。
 県教委は、受験者、保護者の希望があれば入学させることも検討する。
 記者会見で渕野辰雄校長は、「先生方の生徒指導の負担軽減とまじめな子をとっていきたいという思いだけだった。大変申し訳なく思っている」と陳謝した。 

Yahooのニュースからですが、人は何かをなすときに目的をもって行動せねばならないはず。 それは行動を始めた瞬間から始まる物であり、たとえそれが願書提出であったとしてもです。
その時だけ姿かたちを繕えば、あとはどうにでもなると考えることを認めるような真似は、社会が礼を欠いた行動を子供たちに教えることと同一であって、義務教育ではない高校側が拒絶するは別段おかしな事では無いはず。
そう私は考えるわけですが・・・  間違っていますでしょうかね?
>> 疑念の余地さえないと思います。 名前: たかとよし [2008/10/28,19:42:24] No.1893
yahoo配信ニュースの中には特定のメディアからの報道(時事通信など)は読者からのコメントを書き込む事が出来ます。
また、そのコメントに「そう思う」という賛同のボタンがあり、そのコメントに点数が付きます。
ザッとその記事のコメントを全て読んできましたが、ほぼ全てのコメントが卒業生相原君の父さんの意見と酷似し、
さらにはその酷似した見解が高く評価されています。
コメント欄だけが世の中ではありませんが、割と世の中の多くの人達は正常な判断が出来るようです。
>> 謝罪の理由は単純かも 名前: エディ [2008/10/29,22:55:04] No.1896
学校も一種の商売なので、仕方が無いのかなぁ・・・。

教育現場サイドで正しい判断はしたが、学校運営者には不都合だったのでしょう。
管理人様はご存知ですが、わたしは某学校を出ました。
歴史と伝統、それらの精神を叩き込まれる学校。
そして実績を誇る学校です。
そんな学校で、同じことがありました。
親は了承し、生徒は入学しませんでした。
教育方針に誇りがあればこその当然の結果だったと思います。
>> 悪く言わなくていいのでは? 名前: ISHI [2008/10/30,22:01:54] No.1899
願書受け付け時の服装、態度などが悪ければ不合格なのは当然で謝罪は必要ない、
合格にしたら礼を欠いた行動を子供たちに教えることと同一であるという意味でしょうか?

もしそうならそれは個々の考え方であって悪く言わなくてもいいのではと思います。
>> 陳謝するべきではなかったと、わたしも思います。 名前: エディ [2008/10/30,23:44:34] No.1903
悪くなんて誰も言っていないのでは?

教育現場サイドでは、入学後の生徒指導が困難と判断したというだけのことで、
経営者の意見が後から出てきてオジャンになったという現実の報告だと思いますが。
経営者が後になって陳謝したって、無意味だと思います。
無理に入学させても進級もできないのが現実でしょう、そういった我がままって。
個々の考え方なんて、どうでもいいんですよ。
ルールやマナー以前の問題ですから、世間知らずは潰れるべきです。


写真 名前: 動画サーバー管理人 [2008/10/27,04:19:39] No.1882 返信
今年の夏に行われた沖縄合宿、及び木崎湖キャンプの写真を父兄向け動画にアップしました。

総数400枚近くあります。
写真のクオリティは落としておりませんので重いですが、ダウンロードしてフォトショップなどで綺麗な写真にできる品質としてあります。

ふたつのイベントに参加された生徒(卒業生含む)父兄の方で、閲覧希望の方は戸塚ヨットスクールまでお問い合わせ下さい。


今後の勉強のため、教えてください。 名前: エディ [2008/10/23,00:31:49] No.1785 返信
わたしからの質問です。

「脳幹論」
を否定できる方限定でお答えください。
脳幹論を否定できますか?できるなら、教えてください。


「脳幹論」
を否定している論文を読んだことがありません。
参考にしたいので、もしその存在があるなら、教えてください。

>> 存在は致しますが 名前: 現役教師Tと申します。 [2008/10/23,01:24:23] No.1789
エディ様がご所望のようなので探して参りました。
http://ameblo.jp/madscientist/entry-10019694208.html
他にも複数ございました。

しかし私が発見できたものは、上記サイトと同様に解剖学的な脳幹の定義との差異や石原都知事の誤解を招く発言に端を発したものでした。

なぜ戸塚先生が「脳幹」という言葉にこだわったのかまでは存じませんが、ご自身で見出した理論に既存の言葉(脳幹)を使用したため、その点だけを否定されているようです。

しかしそれ以外でも脳幹論を否定することは可能です。
残念ながら脳幹論に統計学的根拠はなく、その定義も結果からのみ考察された非科学的理論ではあります。
プロセス主義へと移行したい教育論者たちにとっては、魅力のない使い古された理論なのかも知れません。
もしかするとその点から否定する論文もあるかも知れません。
ですが脳幹論の実践結果も事実であり否定はできません。
でも正しいかと問われると、私は持論を展開するつもりはございませんし教育者として正誤の判断は法にゆだねますので、戸塚先生は間違いを犯したとしか言えません。

ペスタロッチやコメニウスが現代の教育における諸問題を想定できたか分かりませんが、学問としての教育と実際の教室とでは依然として大きな隔たりが存在します。
実験的でも効果のあるものにすがりたいと考える教師は、きっとたくさんいるはずです。

話がそれますが、反復学習の件に関するご返答ありがとうございました。
(個人を非難する方々の書き込みに紛れて削除されてしまったようですが。)
そこまで反復学習を追求できれば、動機付けやメタ認知といった現代教育において最善とされる理論をも超越できると思います。
改めてエディ様の発言に感心させられました。
>> 貴重な情報です。掲示ありがとうございます。 名前: エディ [2008/10/23,23:49:15] No.1844
佐和さんに、ここをご紹介いただき、議論したいですね。

>戸塚先生は間違いを犯したとしか言えません。
#それは、事件のことですよね?
「脳幹論」については、事件後にレポートされたと判断しているんですが、
違うのでしょうか?

先生は、偉大な記録を作り、スクールを始め、
運用しているうちに発見したのが「脳幹論」なのではないでしょうか。
既存の論文とは意義が違うような気がします。

海を、ハイスピードで駆け抜けた先生ならではの、
生命存続の危機感があったはずです。
その危機感は、どこから来たのか?
と考え、それは生命に直結する原始的な脳の部分の機能であったと、
考えたのではないでしょうか?
正直、先生ですら、海は怖かったと思います。
なぜ怖かったのか?「死ぬから」だと思うんですよ。
死なないために最大限努力し、成し得た結果を分析してみたら、
そこには「生存」への執念、つまり「本能」が、見出せたんじゃないのか?
って思っています。


学ばない自由について 名前: ISHI [2008/10/14,17:30:44] No.1619 返信
学ばない自由を持たせるのを批判するのはどうしてですか?
「成績が低くたっていいじゃないか。学校の勉強ができなくても生きていけるさ」というのを批判しているのでしょうか?

統計によると7割以上の親が小学生になるまで英才教育を受けさせているようで学ばない自由を唱えている人は少数派でしょう。
>> 無題 名前: エディ [2008/10/14,21:38:11] No.1620
学ばない自由ですか。
確かに、憲法においては認められて当然な気はしますが、
それ以前に、日本人としての三大義務に反すると思います。
三大義務に明文化されてはいませんが、
積極的に学び、結果として高額納税するのが義務となっていますよね。
(その賛否はここでは論じません)

憲法こそが基本になるとはいえ、それは理想論であり、
義務を真っ当してこその憲法でもあるとも言えるかも(?)しれませんよね。

学ばない自由はあったとしても、現実には即さないと思います。

以上は、ほぼ思いつきで書きました。
今後のわたしの勉強のためにも、様々なご意見をお伺いしたいです。
どうかよろしくお願いいたします。
>> 無題 名前: ISHI [2008/10/30,22:26:46] No.1900
学ぶことを他者が強制されない自由という意味で言いました。
やはり学びたいことだけ学ぶのは悪く言いますか?
>> 悪くは言いませんが 名前: エディ [2008/10/30,23:48:52] No.1904
小学校での教育を受けるのも義務なんですよ。
いい、とか、悪い、というレベルじゃないんですね。
つまり、学びたいことだけを学ぶのは不可能ということですね。


拉致 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/09,19:31:48] No.1554 返信
長いので二回に分けて、書き込みします。
今日は前半です。


ナジャさん
書き込みありがとうございます、卒業生相原君の父と申します。
体罰と暴力の違いですが、外見的な面から見れば有形力の行使としてどちらとも区別はつきません。 これはまず間違いありません。
それを起きた事実と関連付けるために、体罰を原因とし(外見は同じですから)、本来有るはずのない基準を、死亡という事実と無理やり関連させて線引きすれば有罪となります。
勘違いしないでいただきたいのは、高裁判決そのものは“体罰を原因”として死亡事故になった等とは一言も言っていません。
この辺を一部マスコミの垂れ流すいい加減な情報に気をつけてくれと私達は言っているわけです。
ではどういった方向で結論を出したのかというなら、スクールの行った指導は体罰の領域を超えた暴力であった認定することによって、体罰そのものに関しては民法に定められた懲戒権の一つとしての存在と意味、有効性を、国ははっきりと肯定したわけです。
まずそれを勘違いなさらないようにお願いします。
裁判は、起きた事実をどう判断するかにより結果がいくらでも変わるきわめて不安定なものであり、スクール裁判においてはスクールの指導を体罰ではなく暴力とするために死亡事故そのものを関連付ける事で暴力だった線引きをし、あとは過失として判決をだすのか、殺人として出すのか? ヨットスクール事件においての裁判所判断はたったそれだけのことでしかありません。
注意:なくなられた生徒の尊厳は別のはなしになります。
まずそれ(国は体罰そのものをきちんと認めているのだという事)をしっかりと頭に入れておいてください。
さて、冒頭に書いたように外見だけではまったく同じに見えるが故に「どう違うのか?」ということが多くの論争になるわけですが、とりあえずこれを簡単に記そうとするなら、やはり”行使する側の心のあり方が違いを生み出す”という言い方以外にはないわですが。
そもそもどこまでが暴力、どこまでが体罰という正確な基準はなく、また他人が分け隔ての基準を作る事はおろか測ることはさらに不可能です。
そこで”もう少し分かりやすくならないだろうか?”と、工夫して現そうとすると「子供利益のために行う暴行を体罰とし子供の利益の為に行わない暴行を暴力という」
という表現になってくるわけですが、正直なところ、そうであり、又そうでない、というのが答えかと思います。
というのは、体罰がその子の誤りを正す目的で行使されたとしても、答えを出すのは常に行使された子供の側であり、仮に、その時点ではとうてい受け入れられない“暴力”だと捕らえていたとしても、後にその意味を理解できる程に精神成長をなした後には“自分にとって利益であった”と理解することは別段珍しい事でなく、またそれは有る程度年齢のいった大人であれば、理屈ぬきで分かり得るものではないかと思います。
何故そうなのか?というのなら、“人”そのものは自分の目で見て、触れて、感じ、学んだことの範囲内でしか思考を展開できず、当然にその範囲内でしか答えを導き出せない生き物である事から来ています。
すなわち“蓄積された”経験と学習を基にして結論を出す(過程において他者の助言があれば、それは学習の範囲に入ります)のが人間、という事です。
さてそうした同じ人間でありなから存在する大人と子供の差は、経験と学習の差そのものであり、人間性の差でもある。
それは生きてきた歳月の違いがもたらすもので、当然のことながら、生きた時間が長いほど絶対的に得られた情報量も多く、一つの事に関してめぐらす思考も豊かで充実しています。
この差が有るからこそ子供を育てていく過程でその子のどこに過ちがあるかを判断させ、叱ることが出来るわけです。
もう少し話を進めましょう、ここまでは叱ることの出来る理由となるものを書きましたが、それではなぜ人は叱るのか?という疑問を晴らさなければならなくなります。
ナジャさんはこれについて深く考えた事があるでしょうか?
実は、これが人そのものが厳しい自然界を生き残って文明を発展させてきた事と大いに関係が有るのですね。
また平和な社会をつくり安らかな生活がおくれるようになったのもすべてこのおかげです。
さて、先に書いた叱るですが、もし叱る事が不必要なものであるなら、その行為そのものが存在しない、すなわち子供はおろか、誰に過ちをみてもまったく何も感じなくなってしまう・・・
注意:叱るのもっとも強い現われが体罰です。
必要だからこそそれが起こるわけですが、その必要はどこからくるのかといえば愛が生み出しています。
愛は誰しもが持ちえるもので、またこれは人間が事を成すためのエネルギーであり、力でもある。
だから様々な形をとりながら大きな力となってこの世全体を動かしているわけですが、一人の人間という器にまで縮小して考えるなら、恋愛からはじまって、子供をそだて、成長させていく為の長い年月を継続させていくことができる物でもあるわけです。
さて人間は、これを強烈に意識し始める時、まるでスタートラインの様な時期が人生の中にあります、それが強烈な愛を意識し求めるようになる思春期であり、これは第二次性徴期とピッたりと重なっています。
折りしも女の子は生理が始まり、男の子は夢精をみて、生殖能力が備わるわけです。
それまでは注がれる愛という形を大いに求めますが、けして積極的なものではありません。
それでは何故に愛を強烈に意識して強く求めるようになる年齢と、生殖能力が活動を開始するのがほぼ同時期になっているのかですが、お分かりでしょうか?
 答えはとても簡単です。
愛というものがただの種族保存本能でしかなく、ゆえに種族を後に残せる身体的な能力が備わった時点でスイッチが入るように働き出すように出来ているからなのですね。
種族保存という本能があるからこそ恋をし、性行動が起き、子供がさずかり、自然に子供を育てている(極端な例でもありますが戦争も全てこの種族保存本能の生み出す人の行動の一つです)、あくまでも一つの動物でしかない人間の自然な姿そのものです。
種族保存は本能ですから、そのエネルギーのほとんどは子孫を正しい方向へ進ませるために使われる。
子供時代は注がれる愛により愛に関して学習しを得ながら基礎を創りあげ、思春期を境に外部へ愛を注ぐように変化するわけです。
*故に反抗期は注がれる愛と注ぐ愛の切り替えの期間であり、行ったり来たりを繰り返すためにきわめて不安定になる。 極当たり前でおかしなことではありません。
さて、切り替わった大人の愛、すなわち注ぐ愛は、種族繁栄の為だけに存在し、これは地球上にそんざいする動物全てに共通した目的、すなわちより強く、より多くを目標として子孫を育てます。
実は叱るという行為の原動力はこの愛、すなわち種族保存本能がもたらしているものであり、故によりよき子孫を残すために注がれるのは当然なわけで、それをスムーズに行うために社会が学校を造ち、勉強させようとするのも、安定した環境を整えようとするのもすべてここに原点があるわけです。
さて、冒頭に書いたように、人は経験と学習で得られた情報の範囲のみで思考する生き物です、
子供は人間であるのは紛れもない事実ですが、人間であるが故に人生をあるけば必ず何かにつきあたり、そして考えます、しかしその考えは先にも書いたように、その子が突き当たるまでの間に持ちえた経験と学習で考える以外には方法はなく、故に考え方も幼く、まちがいも実に多い。
ゆえに大人ははるかに膨大な経験と学習をもって、子供を導くわけですが。
子供はロボットではなくて感情をもった存在であるが故に、大人の導きを拒絶してまったく見当違いの方向へと走り出そうとする事は多々あります。
簡単な例を一つあげてみたいと思います。
子供の不足している経験と学習は、時として自身の目を曇らせ、耳を塞ぐ方向で働き、またそうして行動した結果起きた事実を認めようとしない時があります、
いうなれば自分は正しいとして行動した結果が、その思いとまったく異なる結論になったことを解っていながら、認めようとしない行動をする事があります。
こうした子供の行動はどこにでも、いくらでも、小学校、中学校、果ては高校でもあることで、
これを逃げと私達はいうのですが、
もちろんそのままで良いはず等なく、にごった目と塞いだ耳では、“認めること”から始まる多くの学習、すなわち善悪判断をはじめとする、社会性や人間性が育ちませんから、
その際に大人から発動されるものが教育、そして叱るはその中の一つであり、そのもっとも強いのが体罰という行動なのです。
ちなみに、上記の逃げは他人に責任をなすりつけて自分を退避させる行動そのものであり、これを幼いころにきちんと学ばせてもらえなかった人間が起こす犯罪が毎日メディアを賑わしています
逮捕された彼らが一番初めに語る言葉を良く聴いてみてください、気持ちの悪いほど「こうなったのは全て誰々のせいだ!」という点で共通していますから。
さて、子供(弱者)に対して大人(強者)が力を行使するわけですから、当然にその力は正しい方向で使われねばならず、それは大人にとっても子供にとっても権利です。
日本で乱用されているこの権利という言葉ですが、語源となった言葉はRIGHT(正しい)という言葉です。
権利についてろくに教えていない日本の社会では“権利は何かに基づいて自分の考えを主張するものとして捉えしまっています”しかし、権利はそれが正しいかどうかを単に主張できるだけのことであり、当然に正しいとして受け入れてくれる相手もあれば、拒絶する相手もいます。
権利は個人から社会へ主張できるものでもありますが、まずはその上に社会全体の公益としての権利というものがあり、それが個人の権利を制限する事は当たり前です。
簡単に例を示せば治安等がそれそのものであり、自由だ権利だを主張して、だからとてそれが本来の意味RIGHT(正しい)に沿うものかどうかを十分に吟味せず行動もしくは主張すれば、当然に制限を受けるのはあたりまえであって、故に個人の権利と社会全体の利益としての権利の調整はまず個人が自分の主張する権利が正しいかどうかをきちんと吟味して行われなければならないわけです。
故に拉致したかどうか?ということで、そうした行動をする権利があるかというなら。
その子だけという狭い範囲で物事を考えるのではなくて、その子を取り巻く多くの権利、
をそれぞれつき合わせて何が正しい(権利)なのかを考える思考なくば、
それは自分の思考を他人に押し付けるわがままでしなないわけです。
失明するほどめちゃめちゃ顔を殴られた親が、どうやってその子を説得して戸塚ヨットスクールに自分から進んでいくようにしむけられるのか?
権利という言葉を放つなら、まず具体的で有効な説得方法をここで明かていただき、子供と親の両方の権利を保護してもらわねばなりません。
子供の権利を守るのだといいながら、それでは毎日のように殴られる親の権利をなおざりにしておいて、その理由は「子供がかわいそうだから!」というのでは、どこに権利のもつ本来の意味、すなわち“人として正しい”がどこにあるのだというのでしょうか?
権利の意味をまともに教えなかったこの国は、権利=自分の思いを主張する事。
自由=自分勝手な好き勝手ができる事
になってしまいました。
ナジャさんはどうお考えでしょうか?

>> 卒業生相原君の父 さんへ 名前: ナジャ [2008/10/09,22:17:51] No.1556
卒業生相原君の父さん、はじめまして。

おっしゃる通り、体罰と暴力の違いの基準は難しいと思います。
わたしは体罰の是非ではなく戸塚ヨットの体罰の是非について話をしています。脳幹論や教育論等の学問的な話ではなく、わたしの話すことはすべて戸塚ヨットの行ったことに限定して話させていただいています。ですから、わたしは脳幹論も体罰もそのもの自体としては否定するつもりはありません。

体罰に関してですが、子どもの利益になるかどうかは一つの基準にはなると思います。しかし、その方法も基準になると思います。例えば、犬をけしかけたり電気ショックを与えたり、性的行為を強制する等は結果が生徒の利益になるものであったとしても公共性に耐えうるものではないとわたしは考えますがどうでしょうか。平手打ちではなく、拳骨で殴打する、足蹴にする等の行為は体罰ではなく暴力であるとわたしは考えています。なぜならば、それらの行為によって怪我や死亡等の危険性があることが予測されるか、もしくはそうした恐怖感を子どもに与えるからです。旧日本軍では新兵教育としてこれを体罰と呼ばず鉄拳制裁と呼びました。戸塚ヨットでそのような体罰が行われていたとするならば、生徒の利益に関係なくやはりそれは暴力ではないかとわたしは思います。このように考えなければ親による子供への虐待も、「しつけ」だと解釈することも可能になってしまいます。将来的に子どもの利益になるのかどうかを判断するまで虐待を放置することはできません。また、体罰が直接の原因でショック死したわけではないとは思いますが、体罰を行わずして死亡した子どもは自発的な訓練をするものであったのかどうか、です。体罰によって子どもが訓練を強制されていたとすれば、やはり生徒の死に対する体罰の影響を無視するわけにはいきません。

懲戒権に関しては懲戒権そのものではなく、なぜ法的な権限のない戸塚ヨットがその懲戒権を子どもに対して行使する権利があると言えるのか、ということを考えていただきたいと思うのです。これは拉致の問題にも繋がります。以下、この問題について意見を言わせていただきます。

おそらく、戸塚ヨットが拉致まがいの行為をするのには、それなりの事情があってのことだと思います。暴力をふるう子どもにふるわれる親。家族だけなら良いが、家族以外の人に暴力を行えば警察が介入することになり、家族もまた責任を問われ、肩身の狭い思いをするでしょう。そのような子どもが自らカウンセラーの治療を受けるとは考えられないことだと思います。わたしはこのことを承知した上で戸塚ヨットによる拉致まがいの行為について話しています。

まず、戸塚ヨットにはその家族の不幸に介入しなければならないという義務はありません。その家族が崩壊すれば戸塚ヨットに大きな害が降りかかるということもありません。その家族が悲惨な状態であったとしても、何故に公共施設ではなく会社組織である戸塚ヨットが拉致をする権利を有するのか、ということなのです。

「権利という言葉を放つなら、まず具体的で有効な説得方法をここで明かていただき、子供と親の両方の権利を保護してもらわねばなりません。」

戸塚ヨットは子供の利益のための組織であって親の利益のための組織ではないはずです。また警察組織でもありません。「子どもを救いたい」とおっしゃる以上は親の権利を理由には子どもの権利の制限である拉致を正当化することは立場上できないはずです。また、「有効な説得方法」とのことですが、わたしは、なぜ戸塚ヨットスクールが説得しなければいけないのか、ということを申しあげているのです。

わたしが申し上げていることは責任の問題なのです。事故にしろ事件にしろ、問題が起こった時には戸塚校長では責任が取りきれないということを申し上げているのです。戸塚校長及び戸塚ヨットがどれだけ反省しても服役しても謝罪をしても、マスコミや世間が騒ぎおさまりがつかないのは戸塚校長及び戸塚ヨットではこの問題の責任が取れないということなのです。人間は自己の責任の範囲内において権利を有するのであり、責任のとれない事柄においては権利を有しません。











>> 拉致 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/10,03:31:38] No.1557
返信頂きましたことへの返答は今しばらくお待ち下さい。
他にやらねばならないことがあり、多少気長に待って頂けると
助かります。

とりあえず前半の続きだけはまとめましたので、記載しておきます。

>次に戸塚ヨット事件の場合は結果としては生徒は死亡してしまったため
>体罰は生徒の利益にはならなかった

と有りますが、これは死亡したから体罰は生徒の利益にならなかったこうした語らいは、関連性があるようで関連性はありません。
同時に事件以降、今日に至るまで体罰がスクールの生徒達に多くの恩恵をもたらして来たことは、当時も今も変わりありません。
亡くなられた二人と体罰の結果だけを短絡的に結び付けて結論をいそがれる方が余りにも多くおられますが、
それは二人に限定して考える場合と、その二人を除いて考える二つの考え方があり、私は
この二人がもし今も元気で生きていれば、今頃受けた体罰の意味をきっと理解していただろうと思っています。
事件その物について校長先生はこう言います、体罰の行使方法と量について明らかに自分達に誤りがあったとです。
私は現実にこの言葉を生で何度も聴いています。
多くの人達が思っているのとは全く逆に、戸塚ヨットスクールは自分達の犯した間違いを始めからきちんと認めているのですね。
ではなぜ長い年月にわたって争いとなったのか?
ということになるわけですが、遺族と検察が出してきたのは
“スクールは始めから殺す為に我が子を受け入れた”
と主張したことにあり、殺人を楽しんでいる集団だとして提訴してきたわけです。
そしてそれを正当化するために使われた道具が体罰であり、証拠が死亡事件という展開の仕方でした。 
そのため死亡原因を暴力とすることは、スクールが殺そうとしていたことを関連つけるためにどうしても無ければならなかったものですが、
名古屋高等裁判所の裁判記録の中に一つおかしな記載があります。
なくなられた一人の生徒の死亡原因となった問題となった太ももの出血量。
それに関する鑑定結果の部分がすべて理由もなく全て削られているということ、
裁判ではこれが直接死因となったかどうかが長い期間争われ、それについては専門の
医学鑑定人の書類が提出され、本来ならその詳しい記述と資料が抜け落ちてはならないはずの
ものがすっぽり消えてしまっている・・・・
同時に裁判では最後までそれが死亡の原因となったかに関して明確にされていません。
私にはこうした摩訶不思議な事がこの国の裁判所で事が行われている事そのもののほうが問題ではないかと思います

当時、校長先生には幼い二人のお子さんがいて、それぞれのコーチ達は結婚していましたし、子供のいる人もいた。
しかし校長先生をはじめとしたコーチ達は、一方的な捏造報道により家庭を崩壊させられ失ったわけです。
「はじめから殺すつもりだった!」この言葉を校長先生はじめ誰が受け入れられるでしょうか?
スクールは昔も今もこういっています、もし裁判の中身が過失失致死をめぐる物なら、なんら争う事もなく刑に服していたとです。


最後に体罰はある意味諸刃の剣でもあります、というのは、行使された側にとって、その受けた経験は強烈に残り、しかしながらそれを理解するための未来はそこから始まるのであり、
体罰は、それを受けるまでは経験し得ないものでもあるからです。
人間と犬猫といった動物との決定的な違いは、人であるがゆえに本能的に備えられている社会を形成しようとする本能にもとずく、消化能力の素晴らしさにあり。
それは単にそれが痛みとして感じられることから敵とみなす様な単純思考を超えたもので、それは本能がもたらす「理解を試みる心」であって、これが人間らしさであり、豊かな感情を作り出しています。
大人の体罰は子供からすれば社会と重なって見えます。
孤独が好きだという人はいますが、消して自分を社会の外に追いやろうとはしません。
人はいくら社会を拒もうと試みたとしても出来るものではなく、拒んでいるように見える姿の中に、実は自分の居場所と社会的存在、そして確認をつねに求めているものなのですね。
これは引きこもりの事もたちの苦しみもそうで、彼らの苦しみは、人の持つ本能との戦いの苦しみでもあるわけですから、その苦痛は生半可なものでは有りません。
友達とけんかした、恋人とけんかした、上司とけんかした等など、さまざまないさかいは
生きているならいくらでも経験するものですが。
このときに感じる苦しさはなんなのか? それを深く考えた事があるでしょうか?
一見相手の事だけでもたらされているように思いがちですが、実は相手を通して自分と社会とのすれ違いと重なりつつ存在するものであり、自分にもたらされたそれは社会における自分の居場所の安定性に危機感を覚えるもので、もし自分の感情の高ぶりとそれにより吐き出した言葉なり行動があるなら、それによって社会という存在に及ぼす影響を恐れているというのが、一見表に現れてこない心の内には存在しているのです。
二者間だけの事に思えて、その実、人は自分と社会をしっかりと見ているのですね、いうなれば本能が不安を覚える、それが仲直りしようと試みたり、認められようと努力したりという行動となってあわられる。
これは体罰にも同様の影響を及ぼしており、
体罰は行使した側、行使された側の二者関係だけに留まる物と考えている人がかなりいますが、
現実はそうしたものではなく、行使された側は、上記の社会本能を基にして、自分と相手、自分と自分を取り囲むあらゆる存在、自分の過去において得てきた経験と学習の全てを行使して
“思考させる”ものなのです。
ここで始めに戻りますが、子供は経験と学習の積み重ねにより成長していきます。
人間という動物のもつ種族保存本能という自然のもたらした摂理、それのもっとも突端にある体罰は、動物の正解ではほぼ人間だけに存在する物です。
理由は極簡単、それが有ったとてそこから十分に学ぶことのできる能力を備えているという事、しかしそれを学ばずに大人になることがどれほど危険なことであるか。
お解りになられるかと思います。
>> 気長に待ちます 名前: なじゃ [2008/10/10,19:43:23] No.1558
気長に待ちますので、ゆっくり考えていただければと思います。よろしくお願いします。
>> 親権 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/11,05:35:43] No.1566
ナジャさんへ
何とかまとめることができましたので掲載します。

まず、
>わたしが申し上げていることは責任の問題なのです。
>事故にしろ事件にしろ、問題が起こった時には戸塚校長では
>責任が取りきれないということを申し上げているのです。

「責任の取れない事に権利を有さない」ということですから、そこに権利の語源である“正しい”という言葉を当てはめてみると、責任の取れない事は正しくないという事になります。

そうなると、海難事故が起きる可能性があるから船の建造をやめよう、飛行機は落ちるから飛ばさないほうがいい、自動車は事故を起こすから乗るな。
という事になり、人が亡くなったから、可能性があるから、責任をとれないじゃないかと、だから全部なくしてしまえばよい。

そういったことになります。

ただ、私?の思うところの責任で考えるなら、海難事故がおきるから気象技術を発展させ、沈まない船をめざし、飛行機は何重もの安全装置を施して事故の可能性を限りなく0に近づける、自動車は車の設計からはじまりインフラを整備し、なにより安全教育を徹底する。

進歩と発展をまず第一に考えるわけです。

歴史を紐解いてみるなら、これは何も私だけに限定された事ではなくて、人間が文明をここまで発達させてきた原動力である責任のとり方と完全に一致しています。

これこれしたら責任を取りきれないと人はいいます、ところが人の歴史はとりきれない事の発生と繰り返しだらけであり、そのたびに人は「どうして?」、「何故?」をそこから学び、よりよき社会と文明をここまで創りあげてきた。
いうなれば、“それが人間としての能力”でもあるわけです。

過去に大きな事故を起こしたスクールが、なぜに現在も子供達を立ち直らせ続けているのか?ということを考えるなら、この人間が繰り返してきた歴史に反するものではなく。
偉大なる先人達が歩んできた道のりと同じ事をしているわけで、それは事の重大性と責任を認識すること、そしてそれを原動力として優れた教育方法を探究し続ける姿というかたちで責任という物を取ろうとしています。

ちなみにこうしたスクールの姿は、長い年月を通して多くの人たちに認められ、過去に批判一辺倒だったメールや電話は消失し、現在捜すほうが難しいほど支援する声の中に埋もれています。

もっとも、たまたまスクール事件を知り、情報を捏造だらけのマスコミ報道から得て、にわか知識と正義感気取りで文句をいってくるものは時折居ますが・・・

それがまず一点目、

次に

>例えば、犬をけしかけたり電気ショックを与えたり、
>性的行為を強制する等は結果が生徒の利益になるものであった
>としても公共性に耐えうるものではないとわたしは考えますが
>どうでしょうか。

はい、これは体罰ではなく完全な暴力です。
というか、これを体罰と書いているナジャさんそのものの体罰に関する考え方が私にはよく分からないのですが、
あえて言えるとするなら、こうした事を平気で行なえる人間性その物がすでに異常であり、異常なものを持ってきてスクールと関連つけられながら語られても、こちらとしてはなんら答えようがありません。
もっと違う例をお願いします。

>平手打ちではなく、拳骨で殴打する、足蹴にする等の行為は
>体罰ではなく暴力であるとわたしは考えています。

これについては後ほど詳しく。


>・・・恐怖感をあたえる・・・・
体罰行為そのものは恐怖をその特徴の一つとして始めから持ち得るもので、本来分離して考えることは本来出来ないはずです。

また、行使は、身体に対する有効力ですから、必ずなにがしかの痕は残るし、怪我をすることもあります。
そもそもそれが体罰のはずなのですが・・・

>旧日本軍では新兵教育としてこれを体罰と呼ばず鉄拳制裁と呼び
>ました。
>戸塚ヨットでそのような体罰が行われていたとするならば、
>生徒の利益に関係なくやはりそれは暴力ではないかとわたしは
>思います。

旧日本軍の行っていた物は体罰ではなく鉄拳制裁、すなわち、必要な目的のために行使されたようですが、これはその目的遂行のために、すでに有る人格の上に目的意識を植え付ける為に行われたわけです。
体罰の目的である、人の心そのものを育てるという目的とはまったく違います。
同じ器に載せて話せる物ではありません。

以上が2点目

さらに
>戸塚ヨットは子供の利益のための組織であって親の利益のための組織ではないはずです。>また警察組織でもありません。「子どもを救いたい」とおっしゃる以上は親の権利を理由>には子どもの権利の制限である拉致を正当化することは立場上できないはずです。また、>「有効な説得方法」とのことですが、わたしは、なぜ戸塚ヨットスクールが説得しなけ>ればいけないのか、ということを申しあげているのです。

警察組織と書かれておりますので、一応問題を持つ子供たちをとりまく行政組織を簡単に上げておきます。

代表的なものは次のとおり、

まず警察組織ですが、これは治安の維持を最大の目的としており、本来であれば民事である家庭の教育とはまったく関係ありません。
ただ、問題を起こす子供達と接している事が多いために、相談窓口というものを設けてはいますが、そこで人格育成に関して指導することは許されていません。
あくまでも彼らの職務範囲に留まる物です。
マスコミが何か事件のあるために警察をつるし物にしていますが、彼らの勤勉な働きのおかげでこの国はいまだすばらしい治安を誇っており、
感謝こそされど、マスコミの捏造と利益のために攻撃されるいわれはありません。

児童相談所は虐待をはじめとして、弱者である子供を取り巻くあらゆる弊害から子供達を切り離して保護することがその最大の目的です、教育ではありません。
彼らは法律の制限を厳しく受けながらも懸命に仕事をしています。
多くの人たちが知りえないところで、モンスターペアレントの比ではない異常な親に立ち向かい、あるときは地道に説得し、それ以外に様々な相談をうけたりと、常に子供達の未来の為に戦っているわけです。
ここも何かあればすぐにマスコミがつるし上げて、面白おかしく攻撃をしていますが、私からすれば「がんばってください」と言われこそすれ、つるし上げられるいわれ等ありません。

学校は、子供たち全体の利益(結果的に社会の利益)の為に存在するものであり、教育における全般的な相談をはじめとして全ての子供達に未来の可能性をもたらす場所であり。
本来の使命である学習の相談を超える、家庭問題はすべて教員個人的の責任をもって受け付けてはくれているのが現実です。
学校組織は家庭内にまで立ち入ってはならず、また許されてもいません。
そうした中で心をもつ多くの先生が自らの心で多くの時間を生徒の為に費やしている事は珍しくありません。
これも上の二つと同様にマスコミのおもちゃではありません。

いちおう代表的なものを3つほど上げましたが、そのいずれも本来家庭で行われる教育という面に置ける介入は認められていません。

家庭で親がどうすることも出来なくなった問題を相談する場所というものが、現在の日本には無いわけです。

おそらく公然と行っているのは戸塚ヨットスクールくらいのものだと思います。

さてそんなヨットスクールは、まず子供の利益の為にあり(同時に社会利益としても存在しています)、子供たちの持つ?権利にヨットスクールが制限をかけることがなぜ可能かというなら、親権の委譲が有るからです。

まず親権(親の子供や社会に対する法的権利)は 具体化する形で身上監護権 および 財産管理権のふたつに分かれて存在しています。

スクールはこのうち身上監護権を親から全面的に委譲いただくことで、親と同等の立場に立ち、子供達にとってはもう一つのお父さん・お母さんとして子供達の生活から訓練の一切合財を見ているわけです。

上記の事は親の権利の一つとして違法ではありませんし、その行為に対して他人は意見を述べる事は可能ですが、なんらかの権利主張をする事は一切できません。

というのは、親権のうちで、特に人格育成に関することは多分に排他的であり、それを制限できるのは、国が国家利益として発動する法の定めた条件に合致する必要とそれ相応の手続きを踏まねばなりません。
また発動は私ではおこなえず、公でなければいけません。

ナジャさんがすでに私が書いた事をきちんと読んでいただけているのなら、社会というものが、種族保存の本能をもとにして形作られているという話は記憶にあるかと思います。

種族保存本能はまず具体的な言葉になり、そして文章という形に整えられ、それがさらに細分化することで平和な暮らし(権利の具体化)をもたらしてくれているわけですが。

それの最も象徴的で顕著なものは法であり、その中でも一番解りやすい形として国民の三大義務として、納税、教育、勤労があります。
これは義務でありながら、その本質は個々の国民の権利を守るためにもちえる、個々が集う集合体の共通意思の存続に欠かせない権利ということでもあります。

教育は、誰しも持ちえる種族保存の本能の一つの形でありながら、何故にここで教育を受けさせる義務として唄っているのかですが、権利として文言にするとそれが社会より上に立ってしまうために、義務という形をとることで親が子を育て教育する権利そのものを幅広く明確化しているわけです。

それでは社会(国自体)は何もしないのか?というなら、けしてそのような事は無く、学校制度を充実させ、全ての子供達に対して未来の可能性を与えは育むこと、すなわち、外的環境を整え、社会全体の利益(権利)から見て必要な経験と学習をつませる事は行いますが。
逆に言うならその範囲だけに留まり、家庭の教育その物に対しては親権というものを保護し、最低限必要な場合だけに限定して家庭に介入するに留まっています。

ゆえに親は国が認めた親権(権利)の元に、子供の人間性(人格)そのものを成長させる権利そのものを持っているのですね。
子供の権利を必要に応じて制限する事も含んだ全てが親に任されているわけです。

社会としての制限を例としてあげるならまず成人という概念がありますが、それでは家庭で起こる制限の代表的例みたいなものはないのか?というなら、20歳までは財産管理権を持たないというのがあります。

これは家庭という範囲を超えた外部との財産やり取りを未熟な子供に任せる行為は、他者の権利を侵す可能性が多分に存在するからであり。
なぜなら過ちを犯すのが子供であるからこそ、財産管理権を親に集約させたわけです。

またこれと似たようなものに、窃盗や傷害等の刑法犯罪も親告罪としている事があり、子供が起こす過ちに対する国家の介入を出来るだけ防ぎ、親から子への正当なる教育によって解決することを望み、またこれは同時に、家庭内で親がおこなう可能性のある体罰が違法とならない様ここでも保護しているのです。 

すなわち教育に関しては親が必要と認める子供の自由や権利の剥奪、制限が社会的利益と合致するからであり。
いまだ経験と学習がおぼつかない子供を親の親権と社会的観点からの干渉範囲においてうまく整合させ、調整をはかっているわけです。

社会は、子供が未熟であるほど権利に様々な制限をかけますが、それを年齢の上昇とともに備わってくる人格を信頼しつつ徐々に解き放ち、やがて大人として迎え入れながら制限を解除するように出来ているのですね。

さて、そうして社会が権利として認めている親の親権ですが、体罰という部分にスポットを当ててみるなら、民法における懲戒権として親が実行することを改めて認めています。
その限度というものは“人として許される範囲”であれば、平手打ち、殴打、足で蹴る事も体罰としてみとめられており、別段それを行ったからといっておかしなことではありません。

故に親権を委譲されているスクールが同等の事をしたとしても、それが人として許される範囲であるなら、親と全く同等であり、そこに違法性の入る隙間はありません。

勘違いしている人が多いのですが、学校教育法における体罰制限を一般家庭や戸塚ヨットスクールに当てはめようとするものが居ますが、11条はあくまでも国の施設として原則禁止にしているだけであり、しかしながら教育現場で許される体罰の程度そのものは時代と共に暫時変動をつづけている、きわめて不安定なものです。

こうした教育上必要であるからこそ子供の権利が制限される事に関し、どこにも問題はないのですね。

あと拉致ということですが、過去においてスクールが生徒を家庭まで迎えに行く事は確かにありました。
それについては逮捕監禁という高裁判断があったために現在はそれを行っておりません。
今は全て親のほうで様々な工夫をしてスクールまで連れてきているのが現状です。

よって現在のスクールは拉致とは無縁であり、外部から現在もまだ行っているものとして何かを言われる事は、無いものを基にして話されている事と同様で有り。

お答えの仕様がありません。

さて、私からの質問ですが、自身の勉強という事もありナジャさんが繰り返し使われている子供の権利とはどのようなものを言うのか、できるだけ詳しくできるなら例を具体的に上げてお話いただけると嬉しく思います。

最後に、
>「有効な説得方法」とのことですが、わたしは、なぜ戸塚ヨットスクール
>が説得しなければいけないのか、ということを申しあげているのです。

という部分ですが、説得するのはスクールではなくて、親が子供に対してということです。
親の親権に基づく教育権の正当行使を、さらによりよい物にするために参考意見として伺っております。
拉致という事をいわれておりますので、ぜひ子供の権利とあわせて、すばらしい方法の提示を頂かねばなりません。
これは冒頭に書いたスクールとしての責任の取り方の一つとしてよりよき教育を目指すための大切な学習になります。
少しでも早く引きこもりで苦しむ子供たちを助け出し、人を殴ったり窃盗を繰り返したりする非行の子達その物と、被害を受ける側を守らねばなりませんし、人間形成にとって一番大事な期間を損耗する不登校の子そのものを学校へ戻さねばなりません。

今ではなく、子供たちの未来と素晴らしい人生を歩む権利を何より大切と考える、それが戸塚ヨットスクールですから。
>> 権利 名前: なじゃ [2008/10/11,20:09:18] No.1581
レスありがとうございます。

拝読させていただきましたが、わたしの考えが上手く伝わっていないように思いもどかしさを感じます。わたしの文にも誤解を与えてしまうところがあるかもしれませんので補足を加えながら返信させていただきます。

「そうなると、海難事故が起きる可能性があるから船の建造をやめよう、飛行機は落ちるから飛ばさないほうがいい、自動車は事故を起こすから乗るな。
という事になり、人が亡くなったから、可能性があるから、責任をとれないじゃないかと、だから全部なくしてしまえばよい。」

前回の投稿でわたしは体罰ではなく「戸塚ヨットの体罰」に限定して持論を述べていると言ったことを踏まえて再考していただければと思います。わたしは戸塚ヨットの体罰に問題があったからと言って体罰一般を無くすべきと言っているわけではないのです。また戸塚ヨットの体罰に問題があったからと言って体罰行う全ての機関を無くすべきと言っているのではないのです。事件の当事者である戸塚ヨットが責任をとれば良いのだと思います。しかし、責任はとれません。故に「戸塚ヨットは責任をとれない行為をした故に戸塚ヨットの行為は正しくなかった」と言えるのだと思います。

2点目に関しては、なんとも言えませんので、「これについては後ほど詳しく。」とおっしゃられるたで、それを待って返答させていただこうと思います。

「あと拉致ということですが、過去においてスクールが生徒を家庭まで迎えに行く事は確かにありました。それについては逮捕監禁という高裁判断があったために現在はそれを行っておりません。今は全て親のほうで様々な工夫をしてスクールまで連れてきているのが現状です。」

少し詳しくお尋ねしたいと思います。文章を読む限りでは拉致に関して倫理的な問題があったという自覚から現在拉致行為をやめているのではなく、高裁による法的権力によって致し方なく拉致行為をやめた、と受け取れるのですがどうでしょうか。「身上委譲権」のご意見を読ませていただく限りでは、拉致行為を是としているような印象を持つのですが。ここのところの明確な説明をいただいた上で、再考させていただこうと思います。「拉致」という言葉は大変、不快な言葉であるとは思いますが、他に適当な言葉が思い当たらないためご容赦ください。

「さて、私からの質問ですが、自身の勉強という事もありナジャさんが繰り返し使われている子供の権利とはどのようなものを言うのか、できるだけ詳しくできるなら例を具体的に上げてお話いただけると嬉しく思います。」

rightとは正しさ・人権等の意味を持っています。正義を実行する行為を保障することが人権という意味でしょうか。では正義とは何か?という話になりますが、これは神や仏等の超越した存在持ってこない限り語ることのできないものであると考えています。「種の保存」は正義であるのかどうか。戸塚校長の著書を読みますと、「人類の目的は種の保存であるが、種の保存がなんの目的でなされるのかは分からない」という一文があったような記憶があります。思想的な話になってしまいますが、目的とは実体として存在するのではなく、人間の判断によるものです。事象には目的はなく、人間のみがその事象に対して目的があるかのように感じてしまうだけなのです。種の保存は目的ではなく、適者生存の結果であるとわたしは考えています。したがって、その結果に過ぎないものを目的であると判断するのは人間特有の錯覚であると考えています。このことから、わたしは正しさはそれ自体としては存在しないと考えます。しかしながら、我々は通常、これは正しく、あれは間違っているという倫理観を持っています。それは、我々人間が社会的動物であり、その社会との関係性によって善悪の倫理が形成されるからなのです。このように考えなければ、「正しさ」は独りよがりの正しさになると思います。仮に譲歩して「正しさ」なるものが存在したとして、正しさは正しいというそれだけの理由によってその正しさの実践までも正当化しても良いものなのか、疑問に思います。戸塚ヨットもまた社会の一員です。自ら思う正しさの実践の支柱は「正しさ」であってはならず、社会の一定の合意があって初めて成り立つものであると思います。

では、権利とは何か?ということですが、「例えば自分を害そうとする者に対しては防衛しても良い」こと、これが根本的な権利であり人権です。他国が侵略してこれば自国は軍隊を持って抵抗する権利を持っており、自分を殺害しようとする者に対してはその者を殺害する権利を持っています。それは正しさという基準では計ることのできない人間の本能であると思います。戸塚ヨットが主張する「正しさ」を理由にした権利とは、強者が弱者に対して行使する上記の根本権利の歪曲であり拡大解釈であると考えます。故に、戸塚ヨットは子どもを拉致する権利を有さない、強制的に訓練させる権利を有さないと申し上げています。もし、それでも戸塚ヨットは子どもを拉致する権利を有するとおっしゃるならば、複数で拉致に来た戸塚ヨットのコーチに対し刃物を持って抵抗する権利を子どもは有する、と言わざるを得ません。












>> 無題 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/11,21:39:22] No.1587
ナジャさんへ

>前回の投稿でわたしは体罰ではなく「戸塚ヨットの体罰」に限定して
>持論を述べていると言ったことを踏まえて再考していただければと思
>います。


この辺りは私もナジャさんの個人的な考えとして理解しております。


>責任はとれません。故に「戸塚ヨットは責任をとれない行為をした故に
>戸塚ヨットの行為は正しくなかった」と言えるのだと思います。


これも上記と同様に個人的意見として了解しました。


>高裁による法的権力によって致し方なく拉致行為をやめた、と受け取れ
>るのですがどうでしょうか。


その通りです。


>「身上委譲権」のご意見を読ませていただく限りでは、


身の上委譲権という物は存在しません、あくまでも親権の委譲ということです。
身の上委譲権は人を物と同様にあつかうことになり、こうした表現は日本語としてはなはだおかしな表現となります。
どこかにこうした表現が有るのも知れませんが、スクールには無関係です。

>拉致行為を是としているような印象を持つのですが。ここのところの明
>確な説明をいただいた上で、再考させていただこうと思います。
>「拉致」という言葉は大変、不快な言葉であるとは思いますが、
>他に適当な言葉が思い当たらないためご容赦ください。


拉致という行為は、そこに何らの正当性のかけらはありません、本来この言葉に返信することは、スクールへ入校させる為の一連の行動を拉致と側が認めるようなものですから、
本来なら返答はしたくありません。
ただ、それでは何ら応答にはなりませんので、そのまま飲み込んで返信をしています。
できれば、他の言葉を選んで頂けるとたすかります。


>>「さて、私からの質問ですが、自身の勉強という事もありナジャさんが繰り返し使わ>>れている子供の権利とはどのようなものを言うのか、できるだけ詳しくできるなら例>>を具体的に上げてお話いただけると嬉しく思います。」

>rightとは正しさ・人権等の意味を持っています。正義を実行する行為
>を保障することが人権という意味でしょうか。


違います、正義を実行するのではなく、正義であるかを権利行使する側が常に考え、それが自分の経験や学習により導き出された結論をもとに主張できるだけのことです。
ゆえに正しくなければ認められません。

さらに人権はヒューマンライトすなわち権利に対して、人間として正しいということであり、権利は上記の通りで広義、人権は人という存在に限定した範囲に置いて同じく主張可能なものでしかありません。


>では正義とは何か?という話になりますが、これは神や仏等の超越した
>存在持ってこない限り語ることのできないものであると考えています。


正義とは人間が実行可能なものであり、神や仏などのように象徴的な物とは何らなじむものではありません。
ゆえに社会のあり方や時代により刻々と変化し続ける物であり、社会を平穏かつ安定した状態に保つための力(思考)となるものです。


>「種の保存」は正義であるのかどうか。戸塚校長の著書を読みますと、>「人類の目的は種>の保存であるが、種の保存がなんの目的でなされる
>のかは分からない」という一文があ>ったような記憶があります。


種の保存ではなく種族保存本能です、戸塚校長の書籍、“本能の力”の中ではそれについて明確にかかれています。
人を始め全ての生き物は、本能を基本として生きており、故に自然がもたらした物である
がゆえに正しいということです。


>思想的な話になってしまいますが、目的とは実体として存在するのでは
>なく、人間の判>断によるものです。事象には目的はなく、人間のみが
>その事象に対して目的があるかのように感じてしまうだけなのです。
>種の保存は目的ではなく、適者生存の結果であるとわたしは考えていま
>す。


種の保存という話であれば、その通りです。


>したがって、その結果に過ぎないものを目的であると判断するのは人間
>特有の錯覚であると考えています。


種族保存本能は目的ではありません、あくまでも事実であり。
事実をもとに人間は生きているということです。


>目的ではなく、このことから、わたしは正しさはそれ自体としては存在
>しないと考えます。しかしながら、我々は通常、これは正しく、あれは
>間違っているという倫理観を持っています。それは、我々人間が社会的
>動物であり、その社会との関係性によって善悪
>の倫理が形成されるからなのです。このように考えなければ、「正し
>さは独りよがりの正しさになると思います。


正しさは考えるもので、故に人によりそれぞれ異なります。
ただし、人の心の基本となる部分はすべて本能ですから、それに違う物は、人間の歴史と生存競争で生きてきた存在自体を否定することになるために誤りであるといえるわけです。
倫理観は種族保存の本能が作り上げた社会の共通意識であり、
それはやはり本能が基礎をなしています。


>仮に譲歩して「正しさ」なるものが存在したとして、正しさは正しいと
>いうそれだけの理由によってその正しさの実践までも正当化しても良い
>ものなのか、疑問に思います。


正しさは、正しいが故にただしいわけで、正当化ではなく正しいのです。


>戸塚ヨットもまた社会の一員です。自ら思う正しさの実践の支柱は「正
>しさ」であってはならず、社会の一定の合意があって初めて成り立つも>のであると思います。


スクールの存在は子供たちの明るい未来と素晴らしき人生のためにあります、一定の社会的合意はすでにうけており、故に今日にいたっても多くの支援者と供にそんざいしており,又十分になりたっております。



>では、権利とは何か?ということですが、「例えば自分を害そうとする>者に対しては防衛しても良い」こと、これが根本的な権利であり人権で>す。


まったく違います。
殺害は生存そのものを脅かすことであり、始めから排除し無くさねばならないもので、
正しさを主張する以前の問題です。


>権利は、他国が侵略してこれば自国は軍隊を持って抵抗する権利を持っ>ており、自分を殺害しようとする者に対してはその者を殺害する権利を
>持っています。それは正しさという基準では計ることのできない人間の>本能であると思います。

これも違います、侵略は主権にたいする侵害ですから抵抗するのは当然の事であり、権利という言葉にはなじみません。


>戸塚ヨットが主張する「正しさ」を理由にした権利とは、強者が弱者に>対して行使する上記の根本権利の歪曲であり拡大解釈であると考えま
>す。


これまでナジャさんが書いて頂いたものは、まったく見当違いかつ誤りの多い物で、それを元にして「戸塚ヨットは子どもを拉致する権利を有さない、強制的に訓練させる権利を有さないと申し上げています。」
といわれても、こちらとしてはこれに対して返答する言葉がありません。


>もし、それでも戸塚ヨットは子どもを拉致する権利を有するとおっしゃ>るならば、複数で拉致に来た戸塚ヨットのコーチに対し刃物を持って抵>抗する権利を子どもは有する、と言わざるを得ません。


権利はこれまで何度も話してきたとおり、正しさが無ければなりません。
刃物を振り回す行為は、いくら子供とてそれが相手の生命に重大な影響をもたらすことは容易にわかるものです。
この振り回す行動を取る事が人としての問題であるが故に親はスクールに託して来るわけです。
しかしナジャさんの考えでは、こうした社会的に何ら認められてない事を返信文の中に”権利”として明確に表記されており。

そうなるとナジャさんの権利とは殺人を犯すことも権利ということになります。
私もこれまで返答をしてきましたが、権利に対してそうした考え方をしている人間に対して返信をすることはいかがな物であろうか?と疑問を抱かざるを得ません。

これは論議以前の問題であって、この掲示板の管理人さんがどう判断するかわかりませんが、以前、自殺を明確に肯定した人間をここから排除した前例があることから、おそらく同じ対処がされる可能性があるかと思いますので、あらかじめお伝えしておきます。





>> 無題 名前: なじゃ [2008/10/11,23:01:41] No.1590
そうなるとナジャさんの権利とは殺人を犯すことも権利ということになります。私もこれまで返答をしてきましたが、権利に対してそうした考え方をしている人間に対して返信をすることはいかがな物であろうか?と疑問を抱かざるを得ません。これは論議以前の問題であって、この掲示板の管理人さんがどう判断するかわかりませんが、以前、自殺を明確に肯定した人間をここから排除した前例があることから、おそらく同じ対処がされる可能性があるかと思いますので、あらかじめお伝えしておきます。

残念ですがそのようなご感想をお持ちならば、ここで議論を終えたいと思います。ありがとうございました。
>> 無題 名前: KTT [2008/10/31,00:51:56] No.1905
長い文章は読む気なくす。
もっともらしい事をべらべらと言っているがそれが実践出来てなかったから
結局相原少年もスクール行きになってしまった訳で。

自分に出来なかった事を今更他人に押し付けるな。
>> 無題 名前: ISHI [2008/10/31,03:03:29] No.1906
押し付けてはいけない理由はそれだけですか?
もっと他の理由で押し付けてはいけないというならわかりますが、
それだけの理由で押し付けがいけないというのには納得いきません。
>> ここのQ&Aを読みましたが 名前: ルンルン [2008/10/31,10:24:22] No.1912
親が精神疾患であるケース、精神疾患であるケースを全く想定していませんね。
話にならない。
ナジャさんの言う拉致もあったのでしょう。
『戸塚ヨットスクールに入れるぞ』
と脅されて育ったのは私だけではないはず。


削除方法
◆管理人: 削除対象の左欄をチェック(複数指定可)、専用パスワードを下欄に入力し、「削除」を押す
◆投稿者: 投稿に用いたパソコンでアクセスし、自分の記事の左欄をチェック、そのまま「削除」を押す(パスワード不要!!)

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