旧街道と並行して、川口樋門から南大手橋にいたる東側約500メートルにわたって現存する桑名城築城当時の石垣。積石の状態は野面はぎ、打込みはぎの2つの技法による乱積で、市の文化財に指定されている。
七里の渡の船は、揖斐川河口で帆を下し、そこからは広重の絵のように櫓(やぐら)をこいで渡し口まで進んだ。そして、その姿を睥睨(へいげい)するかのようにそびえていたのが桑名城である。これは、慶長6(1601)年に入封した初代桑名藩主にして徳川四天王のひとり、本多忠勝が修復・築城したもので、広重の絵のなかにもその一角に建てられていた蟠龍(ばんりゅう)櫓が見える。現在の桑名市街の基本的な街並みは、この城を中心に本多忠勝が行った「慶長の町割」にもとづいており、当時つくられた四重の堀は今も残されている。桑名は城下町としての顔も持っていたわけだ。
昭和34(1959)年の伊勢湾台風後、渡し場跡と街道のあいだに堤防ができたため、広重が描いた光景は見る影もなくなっていたが、近年になって蟠龍櫓が復元され、かなり似た構図を望めるようになった。伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられた大鳥居も残っている。
渡し場跡の西に並んで建っているのが、大塚本陣跡である船津屋と駿河屋脇本陣跡の山月。ともにいまは料亭となっているが、船津屋は泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台、「湊屋」のモデル。これを戯曲化した久保田万太郎の、「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」の句碑が店前に立っている。
東海道は渡し場跡から南へ。かつては舟会所や高札場が並び、焼き蛤を売る茶屋もたくさんあったのだろうが、いまはひっそりとしたたたずまい。その東に並行して伸びているのが桑名城の堀。揖斐川に面した川口樋門から南大手橋まで、全長500メートルにわたって創建当時の城壁が現存している。ちなみに北大手橋を渡れば、現在は九華公園になっている桑名城跡だ。
東海道を、八間通りを越えてしばらく行くと、大きな青銅製の鳥居が見えてくる。桑名の総鎮守である春日神社の鳥居で、寛文7(1667)年に第7代藩主・松平定重が造らせた。鋳物業でも知られる桑名のシンボルでもあり、往時の繁栄ぶりを今に伝えている。
さて、東海道はその先の突き当たりで右折して桑名市博物館角の交差点を横断。最初のT字路を左折して、よつや通りへと入る。吉津屋見附跡や現在は渡し跡に移された鍛冶町常夜燈跡を過ぎ、そのまま進んで国道1号を越えると、古い町並みが続く地区に出る。このあたりが、かつては旅人が茶店でくつろいだ矢田立場(たてば)の跡である。当時をしのばせる、馬をつなぐ鉄環や連子格子の家が残っているほか、復元された火の見櫓も立っていた。
ここを左折し、やはり古い家々が並ぶ安永立場跡を過ぎて桑名市郊外の町屋川土手にたどり着いたのは、もう日がとっぷりと暮れた夕刻。手前にある常夜燈にほのかな明かりが灯っている。その明かりを見たとき、昔の旅人が感じたであろう安堵感を少し共有できた気がした。
6300円(税込)
江戸期は松ぼっくりを炭がわりに使った焼き蛤がポピュラーだったようだが、「日の出」の「はまぐり鍋」は、特製の出汁でさっとゆでていただくシンプルな一品。「貝のうまみがこぼれ出てしまう焼き蛤よりも蛤本来のおいしさを味わえる」と店主が語るだけあり、遠く大阪、東京よりも来店があるほどの人気だとか。漁獲量の激減により今では地元でも手に入れるのが難しくなった桑名の蛤にこだわる同店ならではの料理となっている。コースには焼き蛤や蛤天ぷらも付いており、特に最後にいただくぞうすいは絶品。落ち着いた座敷でいただく店内の雰囲気もまた格別だ。
住所:三重県桑名市川口町19
電話:0594-22-0657
営業時間:12:00〜15:00、17:00〜22:00(要予約)
定休日:不定休
文:藤田 健児
写真:熊切 大輔
(更新日:2006年11月09日)
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