江戸から約96里(約384キロメートル)、伊勢湾に注ぐ木曽三川の河口に位置することから古くから港町として栄え、慶長6(1601)年、42番目の宿場となる。同年に初代桑名藩主として入封した本多忠勝が大規模な築城と城下の整備を行い、宮宿とを結ぶ「七里の渡」の築港工事も完成させた。旅籠の数は、宮宿に次いで東海道で2番目に多かったという。
宿内人別 8848人(男4390人 女4458人)
宿内惣家数 2544軒(本陣2、脇本陣4、旅籠120)
[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]
その手はくわな(桑名)の焼きはまぐり
いまではあまり使われなくなったが、こうした掛け言葉が残っているほど、蛤(はまぐり)は桑名の名物だった。その理由は、木曽・長良(ながら)・揖斐(いび)のいわゆる木曽三川が合流して伊勢湾に注ぐ桑名の肥沃な土壌が蛤の成育に最適だったことによる。その地理的条件ゆえ、古くから桑名は、伊勢湾と濃尾地方の物資の集散地として、また海運の中継港として栄えた港町であった。すでに中世には「十楽(じゅうらく)の津」と呼ばれ、自由な通商が営まれていたという。
江戸期に入ると、徳川家康の東海道宿駅設置に伴い、桑名は江戸から42番目の宿場に制定され、宿場町としての機能も担うことになる。ただ、41番目の宿場である宮宿(名古屋市)とのあいだには、前述のように流域が広く、流れも急で深い木曽三川が横たわっていた。この不便を避けるため、両宿間に船が渡される。これが、歌川広重が保永堂版「東海道五拾三次」のなかで「桑名 七里渡口」として描いた「七里の渡(わたし)」である。ちなみに「七里の渡」という通称は、宮宿と桑名宿間の距離が七里(約28キロメートル)だったことによるが、じつは航路は満潮時と干潮時で異なり、時間も一定していなかった。いずれにせよ、3時間以上の長旅だったようだ。
この渡しは参勤交代の大名や商人だけでなく、伊勢神宮への参拝に向かう旅人も多く利用した。桑名は伊勢国の東の玄関口であり、広重の絵には見えないが、渡し口を上がったところには、伊勢神宮への参道を示す「伊勢国一の鳥居」もあった。街道最長の渡し船がある宿場町としてだけでなく、濃尾地方を代表する物資の集積地として、全国から崇敬を集める伊勢神宮への中継地として、桑名は大変なにぎわいを見せたわけである。江戸期の東海道では宮宿に次ぐ120軒もの旅籠が軒を連ね(天保14年の記録)、明治期に入っても金融街ができるほど栄えていたという。
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