日本聖公会中部教区・名古屋学生青年センター
学生運動から名古屋学生センターへの発展.3
塚田 理
日本聖公会学生運動の発足とその歩み

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3.名古屋学生センターの設立

(1)名古屋学生センター設立準備

 名古屋学生センターは、パウルス司祭を通して既に数年間にわたって中部教区とカナダ聖公会との問でその話し合いが進められて来たものであるが、私にはその経緯についてはよく知らない。ただ中部教区としては、学生センターの理念的構想を練る作業を進めながら、これを推進するためにカナダ聖公会からそのための指導者の派遣を依頼することになり、1955年にマッチ司祭が派遣されて日本語の勉強を始められた。

 当時、私自身は2年間の病欠の後、聖公会神学院に2年生として復学したばかりであったが、時折パウルス司祭に招集され、これまでもこの計画に参画して来られた当時の立教大学教授大須賀潔先生、また後には名古屋大学の当時経済学部助教授であった(後に経済学部長)細井卓先生を含めて、マッチ司祭夫妻と共に学生センターの将来について相談し、構想を練った。既に札幌に学生センターが設立されていたので、そこでの活動についても参考にしたが、札幌の学生センターはどちらかと言うと学生寮の寮生を中心とする大学関係者達のキリスト教に基づく共同生活と、センターを集会場として大学関係者を集めた各種の文化的事業(このような呼び方が適切であるかどうかについては、あるいは札幌の学生センター関係者に補足あるいは訂正して頂く必要があるかも知れない)を中心にしていたような印象を持った。私達としては、名古屋学生センターの場合には、一つには大学内のキリスト教学生運動を推進支援し、また併せてこのような学内運動の活動の担い手の養成に力を注ぐこと、ならびに学生を教会の中に呼び込むための入り口というよりも、教会と大学との出会いの場として媒介的な役割を果たすことを中心とするという考え方にまとまって行ったのである。この視点に立って、当初の考え方の中には学生寮の建設という考え方は全くなかった。以上のような基本的な学生センターの構想はその後学生センターの目的の趣旨説明の中で明確に述べられている。すなわち、

 第一に、大学はもともと教会自身の真理探求の営みの中から生まれてきたものであり、従って大学の本来の目的の完遂のために教会自らが関わる使命と責任があるとする自覚である。このことは、設立当初の『名古屋学生センターの目的』と題した趣旨説明の中で、「学生にキリストの福音を伝えるという教会の仕事は、学生の存在するところ常に行われてきた…」とし、更に「大学の目的は、国家の為に技術家を養成し、また就職の為の技術を修得させることではなく、教会と社会一般に対し真理の探究によって世の贖いの過程を発展させ、明瞭にして、且つ解釈することです。この目的は、教会の観点から、今に至るまで教育の真実の目的でなければなりません。」としていることによっても明かに見ることが出来る。

 第二には、その一方で、大学の現状はどうかという認識から来た問題提起、ないしは大学の現状に対する挑戦である。果たして今日の大学は上記のような大学の目的を果たそうとしているか、いやそれどころかそのような本来的目的についての自覚があるかどうかという問いである。同じく『名古屋学生センターの目的』では、大学の現状は「…教育の理念が失われ、あるいは分裂し、講義の筆記と記憶に終始する処には、真理の探究の為に生きる共同体の出現を期待することは出来ません。それ故に、我々は教育家達に対して教育の真の目的を告げるべき義務と責任があります。」そこで大学、教授団、学生達に対して次の質問を掲げている。

 「(1)大学教育の基本的理念は何か。(2)学生は何故大学へ行く必要があるか。(3)大学はいかなる理由で政府の統制から独立すべきか。(4)学生が、当然理論と共に社会生活にも導入すべき学生と教授との関係の正しい規準は何か。」

 第三に、このような問いに対して、学生センターを設立して我々自身も何らかの答える責任と義務を果たそうとするのが、学生センター設立の目的である。同じく、上記の趣旨説明では、「学生達は、刺激を与えられる創造的で自由な雰囲気の中で真理を求め、それを考えることが必要です。キリスト教信仰の教義を鵜呑みにするのではなく、それについて批判的な問いを発することが許され、論議する自由がなければなりません。…我々の目標は教育を受けている男女が、キリスト教信仰を自分自身で考え、理解し、適用するように訓練することにあります。」と述べている。

 このように、学生センターという活動の場を持っとしても、基本的な考え方は会員達はセンター内の活動に留まるのではなく、彼ら自身が「大学の中に、あるいは学生活動の中に出ていく」というのが基本的な活動目的と考えたわけである。

 以上の構想から、とにかく取敢ずスタッフの住居と何らかの集会場を出発点にして、「外に出て行く」ことを主眼に活動を始め、いずれ学生センターの場所の選定については最も重点を置く大学に近接した適地を探して建設することになり、取敢ずちょうど空き家となった昭和区山脇町の元宣教師館で一階を活動の場とし、二階にはマッチ司祭夫妻と仏とが居住するということになった。

 また、私自身は聖公会神学院の学生当時からこの構想の作成段階に参加して来たということでもあり、またマッチ司祭がようやく日本語の勉強を終えて初めてこの活動に従事することになるということから、マッチ司祭と私は共に主事として働くという結論となった。

 私は1957年3月聖公会神学院を卒業すると4月1日付けで中部教区の伝道師(聖職候補生)として名古屋に赴任し、いよいよマッチ司祭夫妻と共に具体的な活動計画を練ると共に、中部教区をはじめ名古屋市内の各教会の聖職者達にお願いして学生の信徒の名簿なども頂くなどした。

 他方、名古屋で以前からYWCAで活躍しておられた島田麗子さんを通して、名古屋近辺の特に学生YMCA関係の指導者達に紹介して頂いたり、またこれらの活動に私自身も参加させて頂くなどして種々なアドバイスや指導を得ながら、その後の学生センターとしての活動に何らかの方向を探すことに努めた。

(2)名古屋学生センターの設立

a.「目的」

 「名古屋学生センターは、日本聖公会中部教区の設立によるものであって、その目的は創造主なる神の究極的啓示は、神の子イエス・キリストを通してキリスト教会のうちに示され、且つ教会は主イエスヘの信仰によって結び合わされた人々の交わりの場であり、此の世界の贖いの唯一の手段はその交わりに委ねられているという確信の上に立って、学生の交わりを創造することにある。此処では、自由な雰囲気を保ち、研究、演習、討議、リクリエーション、祈祷に於て、キリスト教信仰が要請するところを見出された真理を個々の学生生活に適用するのみならず、大学生活全体に適用し、認識せしめんとするのである。前述の確信を抱く学生、もしくは此の交わりの中で、その確信の真実性を吟味せんと望む学生は、誰でも会員となることが出来る。」

 こうして、名古屋学生センターは山脇町の古い日本家屋を根拠地として、二人の主事のもとで活動を始めることになったが、実際のところ何から始めたらよいか、というよりもいかにして学生達と接触し、彼らに集まって貰えるか、ということが最初の課題であった。そして、そのためには、とにかくこのセンターの存在を人々に知ってもらう必要があった。そもそも裏通りの住宅地の真ん中で、しかも柳城幼稚園の敷地の中での日本家屋であったから建物による宣伝効果は全く期待できず、ただただ人と出会い、また活動を通して知ってもらうほかはなかったのである。

 主な大学の中には既に学生YMCAが活動していて、私達が参入することは本当のところ有難迷惑であって、当時の学生YMCAの藤森主事には大分警戒された。しかし、これも後に親しくなって見れば、お互いに懐かし思い出となったのである。

 言い遅れたが、私自身はまだ聖公会神学院を卒業したてであったこともあり、教会での勤務も必要であるとの教区の方針に従って、毎週定期の勤務として主日と水曜日には近隣の聖マタイ教会で勤務することと、晩祷には司式や説話などの当番に当たることが最低の義務とされた。同教会は主教座聖堂であったので黒瀬主教がおられたが、相沢誠四郎司祭が牧師で、佐藤裕司祭(当時は執事であったかも知れない)が副牧師、そしてこれにマッチ司祭、ならびに共に神学校出たての土井健雄伝道師と私とが加わったことになる。

 教会における私の主たる勤務は主日聖餐式でのサーバー、午後の青年会活動の援助、それに日曜日と水曜日に行われる晩祷の司式あるいは説教であった。日曜日はほぼ一日中教会の活動で忙殺され、しばしば昼食抜きの時もあった。確か日曜日の晩祷には、近くの柳城短期大学の女子学生の希望者10数人から20人位が出席していた。彼女達は当時夜間の外出は許可制で厳しく、集団による教会出席だけが許されていた。従って、毎週の晩祷の出席者は事実上ほぼ彼女達で占められ、これに何人かの信徒と他の教役者およびその家族達であった。

 さて、学生センターという看板を掲げたとはいえ、私には、山脇町でする仕事は勉強と様々な活動の準備であったが、相手にするはずの学生は一人もいなかったので、私は彼らと出会うために出て行くほかはなかった。私は取敢ず名古屋大学と名古屋工業大学を目標に定めて、とにかく大学構内を周り、学生達の動向や張り紙などを見ながら課外活動の様子などを調べ、時々通りすがりの学生に声をかけて学生生活の様子や課外活動への参加などを尋ねるなどして、話し合っている中にキリスト教への関心とか社会問題への関心に触れながら学生センターの活動の紹介などして、他の学生も誘って訪ねてくるように勧めた。

 このような勧誘活動は、生来内気な私にとっては相当な努力と勇気のいることであったが、とにかくそれを通して出会った中の数人はその後の学生センターの中核を担う人達になったことは、神様の導きであったとしか言いようがない感謝である。

 初期のセンターの活動にとって、もう一つ大きなカとなり、励ましとなったのは、柳城生達の参加であった。前述のように、当時は柳城生達の夜間外出や門限は厳しく、学生センターの活動の多くは夜間であったから、彼女達は学校の許可を得る必要があった。幸い、こちらの方は教会との関係もあって許可を得ることができた。僅か一人、二人の外部からの学生の参加であっても、有り難いことに、いつも柳城生達が賑やかに参加していたので、一見して何とか活動は盛んに進んでいるように見えた。

b.活動内容

 柳城生達の参加のお陰で、とにかく学生センターの活動が目に見える形で始めることができたことは、学生センターにとっても、そして何よりも私自身にとってこれ程有り難いことはなかった。記憶の方は定かではないが、恐らく5月頃から各研究会を始めたのではないかと思う。記録を見ると、毎週の定期研究会として、聖書研究会、社会思想研究会、文学研究会、キリスト教研究会、キリスト教と科学研究会が開かれ、週末にはフォーク・ダンスの会とか、ハイキングなども行なったりした。

 また、記録によれば5月21日には、島田麗子さんのお世話で、栄町のYWCAホールを会場にして当時国際キリスト教大学助教授武田清子氏を招いて、「現代人の思想と行動」という主題の講演会を開き、約400人の聴衆が集まった。この講演会の主催者名は名古屋学生センターとY.W.C.A.0(ゼロ)の会となっていた。これらの活動を思い出すと、当時の学生達は随分と真面目に勉強したものだと思う。今日このようなプログラムを組んで、果たして学生は集まってくれるだろうか。

 翌年の3月の半ばに、聖公会神学院で私と同級であった加納重郎司祭が彦根聖愛教会牧師をしていたので、琵琶湖畔の修養会と称して教会の会館を貸して頂いて、私達は数日間の修養会を開いた。この時、講師、スタッフ、学生を合わせて32名も集まったのは、最初の年としては大成功であったと言ってよいであろう。

 私が名古屋大学で最初に出会った学生で、この修養会に参加した成瀬氏による学生センター機関紙の記事によると、「“キリスト教美術"の講義を中に挟んで“信仰・学問・生活”の講義を2回にわたって聞き、二つのグループに分かれて討論し合った。名前は修養会と少々堅苦しい感があったが、内容は学生の日常生活に密接な繋がりがあるせいか、男性も女性もそれぞれ、なかなかの関心を示し、口角泡を飛ばすの一幕もあり、又、場所が堀を前に彦根城に面しており、自由時間(黄昏時)の城内散歩を満喫したり、室内ゲームその他に打ち興じたりして、楽しき青春時代(?)に懐かしき一ぺージを添え得たのではないだろうか。実に楽しかった。」と書かれている。

 こうして、瞬く間に私の名古屋学生センターの一年間は過ぎ去ったが、今から振り返ってみると、まさに暗中模索の中で、初対面の学生達や学生運動指導者達の交流に精神的に緊張を強いられた疲労感と共に、またプログラムの計画、その準備などの忙しさの中にも充実感のあった一年間であったと思う。この一年間でなにか出来たとすれば、結局その殆どは自分の学生時代の活動や経験が下敷きになっていて、それなりにプログラムを計画し、それを推進することが出来たが、また他方では私の限界というものもその中にあったと思う。私は、名古屋学生センター着任後一年にして聖公会神学院の助手として転任することになった。元々これは私が聖公会神学院の卒業時にあった話であったが、その当時は既に心はセンターの方にあったし、また自分の生涯の仕事は別の所にあると信じていた。従って、聖公会神学院への転任は必ずしも自分の本来の意図ではなかったが、結局以下に述べる理由と、これまで私の相談相手になって頂いた方々の強い勧めによって決断したのである。

 この転任は、当時のことを振り返って見れば、自分にとってはいわば苦渋の選択であった。今だから言えることだが、センターで働いている間、常日頃心の奥底で心苦しく思っていたことは、プログラムを作り、またそれを推進する上でどうしても自分が主導権を取る形になってしまったことである。つまり来日して余り間がなく、日本語もまだ必ずしも十分ではなかったマッチ夫妻をどちらかと言うと脇役に置いてしまう結果になったことである。マッチ夫妻にとっては、私が、働いている間、種々不愉快、あるいは不満足に思われたことが多々あったことと思う。これには今も自己反省と共に、自責の念が消えない。私がかねてから自分の天職とも考えていた名古屋学生センターを僅か一年間で離れる決断を下すことになったのも、そのことの責任を自覚したことが決定的な理由であった。幸い、私の後任として島田麗子さんが就任され、マッチ夫妻と共にその職責を果たし、名コンビとして名古屋学生センターの一層の発展に寄与されたことを見ても、私としては自分の決断は正しかったと今も考えている。

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