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【コラム】生徒を抽選で選ぶ誤った平等論(下)

 個人の成功が、家庭環境やそのほかの社会的な条件に左右されるというのは事実だ。だが、個人的な能力、実力の違いも決して無視することはできない。恵まれない条件の下で育った人でも、ほかの人より一生懸命勉強し、まじめな生活を送ることで、成功する人は少なくない。盧前大統領がまさにそうだ。とても貧しい家庭に生まれ育ったため、商業高校への進学を余儀なくされたが、苦学の末に司法試験に合格し、裁判官、そして弁護士になり、さらに国会議員を経て大統領の座にまで上りつめた。その一方で、ほかの人より恵まれた条件の下で育ちながらも、怠惰で不まじめな生活を送り、社会からドロップアウトする人も多々いる。

 だとすれば、個人の能力の違いを認めつつ、個人がその能力を最大限に発揮できるようにする社会と、すべてを育った環境や条件のせいにし、憎しみを植え付けていく社会のどちらがマシなのだろうか。もし、すべての人が生まれたときから同じ条件の下で育つようにできるのならば、何ら問題はないだろう。だが、そんな社会は実現不可能だ。そんな社会を実現するといって、私有財産を否定し、すべてを国家が左右した社会主義国は、すでに約20年前にすべて滅びている。

 個人の能力の差を認めるということは、競争やその結果が不平等であることを受け入れるということになる。だが、才能がなかったり、周辺の環境や条件が劣悪であるために競争から脱落したり、競争に加わることさえできなかった人たちのために、国家がさまざまな福祉施策や奨学制度を実施していくことで、正常な社会が実現するものだ。

 国際中学校の設立に反対する勢力、特に政治家たちが本来やるべきことは、そうした政策を自ら打ち出すことであり、政策を実行するよう政府に圧力をかけることであって、生徒を抽選で選抜するような荒唐無稽なやり方がまかり通る、誤った平等論で社会を揺さぶることではない。すべてを社会のせいにすれば、一時的な感情は抑えられるかもしれないが、個人の成長はもとより社会の発展も不可能になる。

キム・ナンギ記者(仁川地域取材本部長)

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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