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まくとぅ沖縄戦 6・23 慰霊の日<4>飢え苦しんだ「祖国浄化の戦士」「より弱い者犠牲に」 ―連載
20050624付 朝刊掲載

自分たちで園内に掘った避難壕(ごう)の前で、沖縄戦当時の厳しい生活を語る糸数宝善さん =沖縄県名護市のハンセン病療養所「愛楽園」
 十二日昼すぎ。居間に敷いた布団に横になっていた男性(87)は、か細い声で言った。「もう何も話すことはないよ」
 沖縄本島北部と橋でつながる屋我地(やがぢ)島の北端にある国立ハンセン病療養所「愛楽園」(名護市)。証言聞き取り員の辻央さん(27)=那覇市=が集合住宅に夫婦で暮らすこの男性宅を訪ねるのは三度目だ。傍らに座り、肩や腰をさすりながら、目線をさらに低くした。
 「きょうは沖縄戦のころの話を聞かせてもらおうと思ったけど、体調は良くないですか」
 男性は少し話し始めた。「米兵が松林からやってきた。だれかが身ぶりで、ここは療養所と伝えたら、陣地へ無線連絡し始めた…」
 九十年に及ぶ国の強制隔離政策の実態解明のため、愛楽園自治会は三年前、入所者の聞き取り調査を始めた。入所者たちも社会から受けた差別、偏見を、ようやく口にし始めた。ハンセン病療養所と沖縄戦。その実録は、時間との戦いでもあった。

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 沖縄戦で、当時の愛楽園入所者約九百人のうち、二百七十四人が犠牲になった。死因のほとんどは餓死やマラリア。激しい空爆で建物は壊滅したが、入所者は避難壕(ごう)に隠れ、砲撃による死者は一人だけだった。
 糸数宝善さん(82)は、戦火の愛楽園を詳細に記憶し、証言した数少ない一人になった。
 島にまだ橋が架かっていなかった一九三九年、十六歳で入所した。ハンセン病に有効な治療薬が国内にない時代。「社会と断絶でき、差別や偏見から解放された」。安住の地と思ったが、沖縄戦は押し寄せてきた。
 四四年、沖縄に陸軍第三二軍が守備軍として配置されると、患者は「祖国浄化の戦士」との宣伝で、周辺離島も含め沖縄本島全域から集められた。愛楽園の入所者は定員の二倍近くに膨れ上がった。
 内実は、兵士の感染が部隊の士気に影響しかねないとする軍作戦上の理由だった。「米軍と戦う前の最初の敵」(ある兵士の証言記録)。守備軍が徹底収容を率先した。「食事は急に減り、一日に小さなおにぎり一個になった」。糸数さんの最初の沖縄戦は、飢えとの戦いだった。

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 避難壕は、患者自らが掘るしかなかった。
 糸数さんは、つるはしを握り壕を掘り進んだ。石油ランプのすすで、毎日、鼻穴が真っ黒になった。病気のために感覚を失った左手の指を傷つけたのも分からず、力を入れ続けた。いつの間にか化のうし、薬もなく腐っていった。命を守るのと引き換えに、指の大部分を失った。
 空襲がひどくなると、壕生活になり、衛生状態と食糧事情はさらに厳しくなった。園外に出て野菜を採ってきて食いつないだ。しかし症状の重い患者は外に出られなかった。「やせ細っていき、かわいそうだった」
 より弱い者が犠牲になった。糸数さんの証言は、戦争の本質を鋭く突いていた。

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 約九万四千人の住民の犠牲が出た沖縄戦。その実相をあぶりだすため、聞き取り調査は地道に続けられてきた。日本軍による住民虐殺や壕追い出し、食料強奪…公的な戦史に書かれていない事実は、住民の証言で明らかになった。
 五月二十八日。市民団体「沖縄平和ネットワーク」のメンバーが月一回の壕調査のため、糸満市の住民避難壕の一つに入った。「証言を引き出すきっかけが、埋もれているかもしれない」
 「まくとぅ」を探そうと、メンバーたちは泥まみれだった。
 (那覇支局・吉田賢治)
 =おわり

 ▼まくとぅ 沖縄の方言で、「誠」「真実」の意味

 ハンセン病患者と「平和の礎(いしじ)」 沖縄には「愛楽園」と、宮古島に南静園(平良市)があり、沖縄戦で計約400人が犠牲になったとみられる。全戦没者名を刻銘する糸満市摩文仁の「平和の礎」には、差別や無理解から、遺族が申告をためらい、2003年まではほとんど刻銘されていなかった。その後、遺族に限られていた申告が刻銘条件拡大で団体にも認められるようになり、両園自治会の申告で120人が刻銘されている(今年6月現在)。